進路を前にして
大学院1年目を過ごしていた私は授業についていくのが精一杯だった。
思うようにプレゼンテーションの準備が進まない。他の在校生との議論になかなか入っていけない。当然のことだ。在校生の大多数は教員志望であり、英語教育に関する理論と実践を徹底的に鍛錬された学生ばかりである。
私など箸にも棒にも掛からぬものだ。
当時の私は、授業中でも研究室内でも不躾な態度を取っていた。その果てに、他の院生との喧嘩に発展したことも少なからずあった。
一体なぜなのか。きっと私の「自我」が強かったからかもしれない。プライドが高く、人に頼ってはいけないという意識がやたら強かった。
「自分の頭で考えなくては成長できない。」「自分の無知蒙昧を相手に晒すのはご法度だ。」意固地を張りながら、研究室内の机で一人ポツンと悩みながらも研究に没頭していた。
研究の進み具合は遅く、なかなか前へ踏み出せずにいた。1年目の終わり頃にようやく時間が取れるようになり、指導教官のもとで、マンツーマンの研究指導が始まった。
指導教官は、授業以外の時間帯でいつでも相談できるように、研究室を開放してくれた。
研究テーマは中学生を対象とした英語表現力の習得度についてインプット理論とアウトプット理論を用いて比較調査を行うという内容だ。人が外国語を学ぶときには本や映画などの教材を使用してインプットをし、人に内容を喋るというアウトプットを繰り返せば学習することができる。日本人の学生が英語力を高めるにあたって、インプットとアウトプットを繰り返せばどれくらい伸びていくかを明確にすることが研究目的なのだ。
私は対象学年を決めていなかったため、指導教官が中学校教諭時代に集めた統計データを用いて調べればよいとのアドバイスを受けた。確かに日本人が英語を学び始めるのは中学生からになる。この時期は英語学習の基礎固めを行うのに打ってつけであろう。小学生から英語を始めればよいという議論が教育界で展開されていたようだが、母語を育てないで英語がうまく話せるようになるわけでないとの批判も相次いでいた。だから中学生の方が合理的だという趣旨があったのだろう。
指導教官の助言に納得し、対象学年を中学生に絞って研究を進めていた。方法論も教えて頂いたおかげで、必要な文献資料を収集したり言語にまつわる統計データを調べたりすることが容易にできた。
しかし、研究の進め方について理解できない点が多く、どう進めていけばよいのか。しばし考えてあぐねていた。我慢しきれず途中で投げだして、別の話題に移そうとするなど指導教官を当惑させることがあった。双方で苛立ちを隠せず、衝突もあった。しかし、何とかうまくやってのけた。研究は順調に進み、やりがいも手応えもあった。
しかし、私にはその後の未来のスケッチを描くことができず、途方に暮れていた。研究は続けたいけれども、大学を出て生計の糧を得なくてはいけない。はじめから研究職のポストに空きが無いから、産業の場に身を投じるしか手立てが思いつかなかった。
大学院2年目(2012年)の5月頃から、研究と並行して就職活動を再開した。
ある大手の語学系出版社の入社試験に挑んだ。書類選考は通ったが、一次試験の非言語問題(数学)に躓いてしまい、落選となった。
その後も数十社の会社に応募してみたものの、やはり門前払いだった。
やはり社会との分厚い「壁」に阻まれた。
2年生の冬を迎えた頃、そろそろ研究の仕上げに入らなくてはならない。夜通しで毎日修士論文の執筆に取り組んでいた。
私の研究ではデータを扱う資料を大量に作らなければならない。そのため随分骨の折れる作業だった。その仕事が出来上がるのは2012年12月の終わりになっていた。
後は正月頃から書き溜めていた研究記録も含めて論文の構成を練り、一気に書き上げた。指導教官と学部生時代の恩師のK先生に、原稿の赤ペンチェックを入れてもらった。書き直して、最後の仕上げに結論を述べて、ようやくゴーサインを貰った。
完成した論文を授業運営課の事務局に提出し、無事に終了した。達成感はあった。満足度の高いものであり、私にとっての宝物となった。
その後の修士論文の発表会でプレゼンテーションを行った。緊張感のある場だ。果たしてうまく話せるかどうか。震えが止まらないくらいの心境に立たされた。
プレゼン終了後に質疑応答があった。何だかぎこちない。それでもやり通せねばならない。しどろもどろでありながらも、自分の考えをしっかりと答えるように努めた。
結果、合格を果たした。無事に大学院の修了資格を得たのだ。
肝心の進路先はというと、3月ぎりぎりまで就活をしたものの、自分の居場所を見つけることができなかった。
恩師や指導教官から『人前で話す力・他者とのコミュニケーション能力に自信がついているから心配する必要がない。』と評価をして頂いたにもかかわらず、企業の採用基準はすこぶる厳しかった。現実はそれほど甘くなかった。
こうして、私の研究生活はピリオドを打つことになった。