残念な青春
高校の頃は無味乾燥な時代を送っていた。
学校ではあまり目立たず、ただ大人しくしているだけの生徒だった。
幼い頃に抱えた心の傷から立ち直れず、どうしようもない孤独感に苛まれていた。勉学にもスポーツにも全くやる気が出せずにいた。
死霊に取りつかれたように、茫然自失で何事に対しても興味を示さない鬱々とした気分に浸っている自分がいた。
学校での成績はどうか。相変わらずの低調ぶりだった。特に国語の成績が悪く、担任の先生から「できるだけ多くの本を読み、国語力をつけてもらいたい。」という期末考査の内容が伝えられた。
私には「何のために本を読むのか」が分からなかった。本を読んだだけで国語力が身につくものなのか。そんな疑問が頭をもたげていた。国語力を身につけようとしても、読解力の基礎の土台がしっかりしていなければ意味はない。
会話でも言葉が思うように出てこない。言葉の意味が分からず、話の内容についていけない。これらの悩みが自分自身の課題として残っていた。
語彙は少なく、先生や友人に自分の気持ちをどう伝えていけばいいか、四苦八苦していた。「結局、何が言いたいのかわからない。」と言われることもしばしばあった。間違った言葉の使い方をして、相手を困惑させることもあった。
高校時代に読んだ本といえば駅前の書店で購入した東野圭吾氏の『レイクサイド』というミステリー小説を読んだくらいだ。それ以外は教科書や学習参考書を読む程度しかなく、読書経験が希薄だった。毎朝の読書時間(朝読)の時は校内の図書館から本を借りて読んでいたが、全く効果が出ていない。読み進めるうちに途中で眠くなってしまうくらいだ。だから、自分は他人より能力が劣っているのではないか。次第にマイナス思考が強くなっていったのだ。
友人は少なかったものの、何人かは作ることができた。しかし、その中の一人の男が妙に変だった。Oという男だ。
Oは身長180cmくらいの背丈の高い人で、眼鏡をかけたあっさりした顔つきだ。秋葉原にいるオタクのように、水色のチェックのシャツとチノパンが似合いそうな雰囲気を漂わせる男である。
忘れもしない下校途中のある日。通勤列車に乗ったとき、Oはなぜか私にじゃれついてきた。
Oは何の断りもなく、私の肩に顎をつけて頬に近づけ、接吻をしかけてきたのだ。
座席の前にいた男女のカップルがニヤニヤしながら私たちを見ていた。「あいつらはホモか…」と思われたそうだ。顔が赤くなり、目も下を向くしかなかった。羞恥心を感じた瞬間だった。
どうもOは両親のしつけが厳しかったせいか、十分に甘えられなかったようだ。よほど複雑な家庭環境だったかもしれない。親子関係において健全な愛情がうまく育むことが思春期の成長に欠かせないはずなのに。
私以上に「幼児性」という病に苛まれていた。不愉快だった。Oから幼稚園児のような振る舞いをされてしまい、途方に暮れていた。
そんな風に見られると、ますます人との距離を置きたくなってしまう。どうにも充実した青春を送れないなんて。なんと残念なことだっただろうか…
高校生活が終わりに差し掛かり、そろそろ進路を考える時期に近づいてきた。受験シーズンを迎える頃までは自分が将来何をしたいか、全く想定できずにいた。
しかし、カナダでの生活経験、インターナショナルでの学生生活の頃からぼんやりと英語に興味を示していた。
英語に関してさらに専門的な内容を深めていきたいとの思いに至った。大学に行けば何か目標にすべきことが見つかるのではないか。そう考えた矢先に、私は受験に向けて通塾していた東京都内の予備校のチューターに相談した。充実した英語教育の環境を整えた大学をいくつか紹介していただいた。
学業成績と培ってきた学力を考慮し、自分の実力に合致する大学を選択しようと判断した。
AO入試は受けず、センター試験と11校の大学一般入試を受験し、都内のある私立大学に合格した。
無事に卒業式を迎えた頃、会場の体育館ではケツメイシの曲「さくら」が流れていた。この曲を聞いたとき、私は暗澹たる気持ちにならざるを得ない。残念な青春の日々を残して高校を去ることになるとは…