迷走する進路
結果として、就活は散々なものだった。
初めは旅行業界を中心に会社を訪問してきた。
理由は人間にとって旅行が娯楽として親しみやすい分野であり、海外での営業・添乗業務など仕事の幅を広く積んでいくことができると考えたからだ。
だが、いざ説明会でライバルとなる参加者たちの話を聞いていると、豊富な旅行経験をもとに「旅」について熱く語る人がいた。複数の外国語を使いこなす人もいた。強敵揃いの面々に、私は尻込みしてしまった。「旅行業界では自分の経験が浅すぎて勝ち目がない。」と断念したのである。
それ以降、業界の視野を広げて手当たり次第に応募した。専門商社、翻訳会社、鉄道、英会話スクールなどを回った。でも、なかなか見つらなかった。面接までこぎつけた会社も複数あった。しかし、落選という結果に下を向くしかなかった。
全ての要因は、私自身の口下手、舌足らずの説明、要約力のなさ、そして極度の緊張だった。
ある学校法人の職員採用試験で第一次の集団面接に臨んだ。その時の面接官の表情が今でも覚えている
面接官は鋭い眼光で腕組みをしながらこちらの姿を見て、話をじっくりと聞いていた。彼の表情は応募者に対し強靭な精神力を持つ人を求めているような気がしていた。私は緊張のあまり、頓珍漢な回答をしてしまった。面接官ははてなマークを頭に浮かべながらこちらを見ていた。
他の応募者を含めた集団面接だったため、不穏な空気が漂った。はかり知れない恐怖感を持ち、私は思わず体が固くなってしまった。何を話しているか分からない状態だった。面接官とのやり取りがちぐはぐになり、きちんと話すことができなかった。学校職員という仕事がどういう内容かを理解していなかったかもしれない。そして、学校側が求める理想の職員像と自分のやりたいことが一致していなかったのだろう。
結果、面接試験は落選となる。私は心の中でこのようにつぶやいた。
そう思わざるを得なかった。まさに海に沈みゆく難破船のごとく、ただ落ち込むしかない。
見かねた母はコミュニケーション上の問題があるのではないかと思い、東京都内の精神科病院に一緒に行くことになった。まず言語発達に関する検査とテストを受けた。その結果、精神科医から「言葉の意味をしっかり理解していない。習得に相当の時間がかかっていますね。」と告げられた。
正式な診断名はつけなかったものの、精神的なショックを受けた。
「呂律が回らない私には何か先天的な障害があるのではないか。」
そう思った。次第に悩むようになった。
その後、私は別の精神科のデイケアサービスに参加することになった。母は私が「発達障害」の疑いがあるのではないかと考えたからだ。
デイケアの参加者は皆、ASD(自閉症スペクトラム障害)やADHD(注意欠陥多動性障害)を持っている。それでも、彼らは人間関係やコミュニケーションを円滑に進めるため、日々努力を続けていた。
私はサークルに参加し、コミュニケーションのトレーニングを受けていた。でも、「どこか違うな。」と思っていた。人とのコミュニケーション上ではそれほど酷いものではなかった。他人から意地悪なことをされても、きっぱりと拒否する。相手の意見を聞いて、的確な答えもできるのだ。
では、就活や人間関係でうまくいかないのは一体なぜなのか。私には明確な答えが掴めずにいた。
確かに母の言う通り、これまでの言動を振り返ってみると、「空気が読めない」「融通が効かない」「周りの人との協調性がない」といったことが明白だったのではないか。
就職先が決まらずに困った時、私は家族にこう言った。
両親に笑われた。続けて母とこのようなやり取りをしていた。
発達障害に関係しているわけではない。自閉症でもない。となると、いったい私にどんな問題があるのか。心底悩んだ。
大学4年の半ばになり、卒業が近づいてきた時だ。自分の居場所が見つからずにいた私は恩師のK先生に相談した。
その頃に在学中に英語教材づくりに関心を持っていた私は、そのノウハウを勉強したいと思い立った。K先生のアドバイスをもとに英語教育の根本を知らなくてはいけないと思い、通学先の大学院への進学を選択した。
加えて、研究テーマを決める必要があったため、私はK先生から英語教育のプロである指導教官を一人紹介して頂いた。
その指導教官と面談し、研究テーマと方法を十分に話し合った末、言語の習得度に関する研究をテーマに取り組むことにした。
入試を受け、面接で口頭試問を受けました。やや緊張気味になりながらも、私が話すべきこと・取り組むべきことを明確に答え、無事に合格した。
大学の卒業論文もギリギリだったものの、無事に書き終え、提出した。卒業の資格を得た。
大学の卒業間近に迫り、卒業式に参加するための準備をしていた頃、突然あの大地震に遭遇した。
2011年3月11日、東日本大震災が発生したのである。