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就活塾に通う、そして・・・
印刷工場で重労働に携わる日々を送っていた頃、私はある就活塾の塾長に出会った。
就活中の妹から紹介されたのだ。自分のキャリアについて相談に乗るという話である。
心境はかなり複雑極まりない。不安定な状況を何とか脱したい。」ともがく私と「人や社会とのコミュニケーションで失敗するのが嫌だ。」と社会的責任から逃れようとする私。その板挟みに苛まれていた。でも、状況を変えるためには会って話を聞くしかない。そう考えて、誘いを受けた。
休日を利用して、東京都内の新宿(当時)にある小型ビルの一角に構えるオフィスを訪問した。玄関窓口を通って中へ入ると、いかにも意識の高い就活生が企業で働くために、ビジネススキルやプレゼンテーションの技法など様々な活動に取り組み、奮闘している姿を目のあたりにした。
私は塾長と行動を共にするチーフのような方との面談に望んだ。就活市場の現状と年齢やキャリア設計について話し合った。しかしながら、企業は既卒生への就活に対して、依然として冷厳な評価を下しているという現実に直面していた。分かり切ったことだ。
社会に出る前に、再びビジネスの基本や自分の軸(方向性)について塾長やスタッフ、現役のビジネスパーソン、企業経営者と話し合う機会を幾度も得た。正直に言うと、どのような話だったかは思い出せずにいる。
人間に対するアレルギー反応に苛まれた私には、前を向く気持ちになれなかった。自分の身に危険が迫ってくることを極度に恐れたからだ。明確なキャリアビジョンがなく、思い描くべき理想像もない。ただ働く居場所が欲しいという一言に尽きたのだ。
「人間的にも社会的にも滑稽な私に居場所があるものだろうか・・・」
そんな疑問が浮かんでいた。やがて、私は派遣スタッフとして1年半を過ごした印刷工場を退職した。塾長からIT業界へ就職することを勧められたため、プログラミングの技術を磨くための勉強時間を確保したかったからだ。
その頃はいよいよテクノロジーの時代に移ろうとしていた。今後、既存の仕事の大半がAIロボットによって代替されることになる。企業も役所もAIやDXなどのITビジネスを拡充し、産業競争力の強化をはかろうとしていた。そのためにはプログラミングの知識を学び、ITリテラシーの能力を向上させるとともに、AI時代に備えなければならない。そんな厳しい時代に差し迫っていた。
でも、なかなかIT技術が身につかず。肌が合わなかったからだ。たいしてパソコンが好きなわけでなく、勉強すら身が入らない。IT系の就職カレッジや若年者向けの就職支援プログラムに参加し、実践付きでプログラミングに取り組んだ。しかし、全く歯が立たない。他の参加者はハイスピードでスイスイとこなしていくのを見て、実力の差を思い知らされた。
結局、プログラミングは辞めてしまった。もはや何をやってもモチベーションが上がらなくなってしまったからだ。そんな私の様子を見て、塾長は啞然とした。当然のことだ。他の人間よりも能力が劣っているからである。
帰宅後、母にこう言った。
「もう僕には能力がない。頭が悪い。どうすることもできない。」
嘆く私に母はしかめっ面で話してきた。
「あんた、どうすんのよ!?」
「能力がない…」
「他にもできることがあるじゃない?」
「頭が悪い…」
「塾長にこれだけお世話になったのに、今までの努力を水の泡にする気なの!?」
「だから能力がない…」
「それじゃあ、どこにもいけないじゃないの。つまらないじゃん。ああ、本当につまらなくないの!?」
そして、しまいに私はこう言い放った。
「人生なんてつまらなくたっていい…」
社会的に認知されない私にとっては悲痛な想いしかない。企業が能力主義を前提にした競争を行う以上、競争意識の高い人材を確保しなくてはいけない。たとえ応募者がどのような家庭環境に育ったとしても、企業にとっては何の関係もない。能力がある人材しか仕事を任せられない。企業の人事部が人材獲得の際にもビジネスで結果を出し、利益をもたらさなくてならない。それがビジネスの掟だからだ。
人生なんてつまらなくたっていい…。私はこの言葉を母のせいにしようとしていた。仕事なんてつまらなくていい。趣味はなくていい。友達もいなくていい。ただ働いてさえいればいい。そういう意味で「人生なんてつまらなくたっていい。」と母が言ったのだと決めつけて、他人のせいにしていた。今思えば、自分がいかに低劣な人間だったことか。
自分の否定的な思考や悲観主義の立場、そして他人への不平不満を口にする態度。これはかつて母方の祖母とそっくりではないか。下衆の勘繰りとしかいいようがない。祖母は家庭生活の権力を握り、逆らうことすら許されない父親のもとで育ったのだから。好きなように生きる術がなかったからかもしれない。私も祖母も「人生なんてつまらなくたっていい」という顔をして、物事を悲観的に捉えてばかりいたと思う。部屋に戻った私はただうつむいていた。
その後、就活塾の塾長や両親との様々な叱咤激励を受けた。実家から追い出されて、オフィスに宿泊しながら就活を続けていた。まずは就職して生計を立てることが先決だからだ。
すでに派遣時代で得た貯金は底をつきた。徐々にお金が減っていくことに苦心していた。社会に見放され、家族にもそっぽを向かれた私は自分の無能ぶりを恥じるようになった。そう思われても仕方がないと思い、歯を食いしばって続けていた。日雇い労働を紹介するサイトに登録し、生計を立てつつ、オフィスでの寝泊まりを続けていた。
そして、私はようやく暗闇のトンネルを抜け出す時が来た。
就活塾長の知人が運営する求人サイトを紹介して頂き、複数の企業に応募した。他にも自分で転職サイトで探して応募した企業にも果敢に挑戦して、受け続けた。
その結果、4社から内定を得た。その中で埼玉県内の精密微細加工会社に入社した。30歳を前にようやく定職を得たのだ。引っ越し先も決まり、住居を確保できた。引っ越し代は親戚から費用を工面してもらった。(その後、勤め先で貯めた引っ越し代を親戚に返金した。)
「もうあの頃の私には戻りたくない。」
そう堅く決心したのである。
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