不安
小学校時代は散々なものだ。成績は悪く、授業もろくに聞かない。教室の外で唯一無二の親友と騒々しく遊んでばかりだった。別の組の先生から注意を受けるほどの迷惑ぶりが目立っていた。
保健室用の日常点検の記録表を掃除用具入れの上に隠す。あるクラスメートの男子が学習机の上に乗り、優位に立ちたがる様子を見て苛立ちを隠せず、机を倒してケガをさせる。問題行動は至るところで起こしていた。
通信簿では「落ち着きのない子」と書かれていた。それ以上の出来事についてはあまり記憶にない。
一方で、家庭では母からよく過干渉な言動を受けていた。
「ああしなさい。こうしなさい。あれはやっちゃダメ。これもやっちゃダメ。」とよく聞かされた。再三にわたり言われ続けた挙句、いつしか自分の頭で物事を考えることが苦手な人間になった。
当時の母は感情的になりやすいタイプだった。抑えきれない気持ちを抱え込んでいたのだ。日常生活でも子育てでも息が詰まるほどの辛さがあったのだろうか。
母をそうさせてしまったのは、祖母の影響に違いない。いつ頃からなのか分からないが、祖母は人との距離を取りたがる性分である。
普段は上品な言葉遣いと社交的な振る舞いで来客を迎えるホスピタリティ精神のあふれる人柄だ。その一面は母も賞賛していた。だが、祖母の内心は森の中に現れた湖のそばで一人ポツンと立っているほどの淋しい一面が隠せない。常に不安がつきまとう。物事を消極的に考える癖が強い。
その遠因はおそらく太平洋戦争下の体験に裏付けられているのではないかと思い始めた。太平洋戦争では破壊と殲滅を繰り返した。日米開戦に至っては米国の圧倒的な軍事力を前にして止める術がなく、帝国陸軍と政府が一体となって戦略無き戦いを続けた。結果として、1945年に日本は敗戦に至った。あの戦争で310万人もの殉死者を出したことは誰しも歴史を学んでいれば分かるだろう。
終戦後、日本の国土は焼け野原と化し、日本軍兵士たちの血だらけとなった亡骸をたくさん目の当たりにした祖母は、実に悲哀に満ちたものだった。日本は戦後復興に尽力しようと奮闘するが、復活に至るまで一般市民は窮乏生活を余儀なくされた。食料や飲料水の確保に苦労を重ねてきた人々が大半を占めていた。祖母も戦後の真っ只中で貧窮に屈していたかどうかは分からない。あの頃の暗雲が漂う時代の感覚が忘れがたいのだろうか。
殉死者の遺体を運び込む姿を見て、血みどろの惨劇を目撃した祖母は強い憤りと嘆きと悲しみをこらえきれなかった。
この戦争体験が祖母の人格形成や価値観に影響を及ぼしたのだろうか。祖母に内在する心配性・人間不信が芽生え、強烈な社会不安を抱えることになった。「どうせ人間は邪な心を持った者が多い。」という考えを頑なに手放さなかった。もっとも、それは虚妄の世界観だというのに。交流関係においては家族以外に親密な関係を築かなかったのか。ご近所付き合いが希薄だったのか。私には分からない。その後、祖母は通信会社に勤める祖父と結婚した。二人の間で二人の子宝に恵まれた。そのうちの一人が母であり、彼女の下で私が生まれた。
祖母は老境を迎えても、心配性が解消されることがなかった。保守的な性格になり、内憂のペシミスト(悲観主義者)と呼ばれるほど悲壮感が漂うような表情を浮かべるようになった。次第に認知機能が低下していき、心配事が増えるにつれて母に何度も電話をかけることがあった。母以外に頼れる人がいなかったのだろうか。その度に母は祖母の言動に頭を悩ませてきた。しまいには堪忍袋の緒が切れてしまい、親族と相談した上で高齢者施設への入居に至ることになる。もはや手に負えなくなった。苦渋の決断だった。祖母が高齢者施設で他の入居者と交流を深めれば幸せな時間を過ごせるのではないか。母はそう感じていた。我が家はようやく心の平静さを取り戻したのである。
この出来事は特段不思議なことではない。誰しも通る道になるだろう。だが、祖母の教訓から学んだことは顔を広く持ち、豊かな交友関係を持つこと。過去を捨てて未来を見据えて明るく生きることを心掛ける。それしか寄る年波を「老い」返せないのである。
祖母は我が家の前で戦争体験を引き合いに出しつつ、平和な社会が恒久不変であり続けることを強く主張していた。「戦争だけは絶対にやってはいけない!」祖母の目には悲しみと怒りが交錯していた。私は「でも、安倍政権は不戦の誓いを立てることを約束してくれるのかね?」と言った。「今日の中東情勢が悪化の一途を辿れば、やがて第三次世界大戦が起こる!」とたたみかけた。祖母は歯を食いしばりながら顔を左右に振って拒絶した。隣で聞いていた父は眉毛を八の字にして、「起こらないよ〜。余計に不安を煽るな!」と怒られた。母は何も言わず、苦々しい表情をしていた。
祖母は自らの戦争体験を振り返る度に、死への恐怖を心の底から感じていた。もし母が何らかの事故に巻き込まれたり病気に罹患したりすれば、途端にあの世へ逝ってしまうのではないか。命より大切な愛娘の存在を早くに失ってしまう。それが母に対する心配事でしかない。命を奪い合う惨状を目に焼きついてから、「死」というものが常につきまとうくらい恐れているのかもしれない。だが、母がこの世にいなければ、私もこの世に存在しない。
本来ならば森田療法などの精神療法やポジティブ心理学の知見に基づいたコーチングを取り入れ、戦争におけるトラウマから解放し、心の回復に努めればよかった。だが、「病人扱い」を嫌う祖母を説得して連れて行くことに父母も骨が折れるとし、断念するしかなかった。
私の心配性や悲観的な思考は祖母から母、そして息子である私へと伝染したのかもしれない。ペシミズムを捨て去りたいという気持ちはあった。だが、染みついた心の癖はなかなか治らない。内在する心の葛藤をどうにか解消したいという思いを抱きながらも、どうにもできない自分を腹立たしく思った。
祖母は日常生活でも社会に対しても強烈な不安を意識しすぎているためなのか、後に生まれた母を育てる時にも影響を及ぼした。
「娘には二度とこんな貧しい思いをさせたくない!」という思いがやたらに強かったからだろう。
ケガをしないよう、失敗をしないよう、病で倒れぬよう、大事に育てようとしたのだろう。その偏屈な愛情であるが故に、かえって母が祖母に対する反発心を招いた。リスク回避の傾向が強かった祖母は、母の進路について話す時も、高収入の男性と結婚して家庭に入るのが幸せな生き方だと頑なに信じていた。封建的な男尊女卑社会の環境で育ち、権力主義者の父親に対しても逆らうことが出来なかったことが影響したのだろう。
まるでキューピーのような扱い方をしていた。つぶらな瞳にまんまるな顔。首から足の先まで裸一貫。それが祖母の母に対する面影である。単に弱々しい存在としか見ていない。私も母も返す言葉がなかった。我が家にとっては「いつまで子供扱いするんだ!」とため息をつくばかりだった。祖母が母をいたわる気持ちは充分に理解できるが、成熟した大人になれば冷静な目で社会を見ることができる。余計な不安を持つと、心は萎縮してしまうからだ。
「よい子にしていなさい。危ない橋を渡るのはおよしなさい。高望みをするもんじゃありません。」
それらの言葉を聞いた母は次第に神経が擦り減っていった。「どうしてお母さんはいつも私のことをわかってくれないの!?」と、はらわたが煮えくり返る思いでいっぱいだった。祖母の悲観主義的な思考に基づく言動によって母は冒険心や好奇心を育むことなく、幼少期や青春時代に他人の目が入らないところで鬱々とした状態のまま過ごしていた。
母は私に「学校での成績はあまり振るわなかった。落ちこぼれだった。」と言っていた。だが、私の考えはそうではない。母は元々、絵を描くことが好きだった。だから何らかのかたちで絵画や美術に貢献できるようなことを後押ししてくれればよかったのではないか。もちろん、母は絵で食べていくことが困難になると理解していた。祖母は母の個性的な一面にいち早く気づき、少しでも夢に向かっていけるような言葉がけをしてもよかったのではないかと思う。もはや母の若かりし頃の夢は幻に終わった。
しかし、母は子育てがひと段落し、祖母の呪縛から解放され自由を得た後に、絵画描写を再び始めたのである。私は母の描いた絵を見たことがある。母が描いていたのはフランスのパリの街に着想を得た街角の風景画だった。青空の下で鐘の塔が建立した街角の賑やかな通り。いかにもベルが鳴り響くような平穏な日常を想起させる。母はそれまでに抱え込んでいた途端の苦しみを絵を描くことで解き放たれたいと切に願っていたのかもしれない。
私も「よい子にしていなさい。」とよく言われたものだ。逆に背くようになると、常々文句を言い続けていたようだ。悲しい気持ちにならざるを得まい。やはり弱い存在なのだと思い続けていたのだ。まだ生まれてまもない孫に向けて「かわいい。かわいい。」とあやしてくれたのはありがたいことだ。大事に思う気持ちは母と同様に変わらない。だが、後年成長した私の姿を見れば、無様な放蕩息子」になるとは夢にも思わなかったことだろう。その話はまた後にしよう。
子供扱いをする祖母のもとで育った母は、私に対しても同じようなことをしてきた。子育てに不安を抱えており、祖母から受けた「呪い」を引きずるかのように、ひきつった表情で私と接していた。途轍もなく悲哀に満ちていた。深い悲しみを涙とともに流したり、半狂乱のように怒り出したりと喜怒哀楽の激しい日常を送っていた。そんな母に慰めの言葉をかけ、心の平静さを保とうと手を差し伸べたのは父だった。
父も母をなだめてあげるのに一苦労だった。
それでも、結婚後の生活において両親の仲はとても良好な関係を保っていた。母が人一倍の努力をしたのだろう。過去に起きた夫婦喧嘩の経験は一、二度しかない。家族旅行を楽しむ。料理を手伝ったりして協力し合う。それくらいに仲むつまじいものである。
父母は、互いに「心のオアシス」となり得た存在なのだ。
対照的に、私は結局自分に自信を持つことができずにいた。次第に心の拠り所を失っていた。
しかし、そのような言われようを無抵抗に受け入れてしまった以上、自己責任だと痛感せざるを得ない。どうにもできなくなってしまったことに、ただ忸怩たる思いがあるばかりだった。