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「2019年女性小説賞」受賞、バラク・オバマ、ビル・ゲイツ、オプラ・ウィンフリー絶賛の『結婚という物語』試し読み

3月22日、「2019年女性小説賞」を受賞、バラク・オバマ氏、ビル・ゲイツ氏、オプラ・ウィンフリー氏が推薦し、世界累計100万部を突破した『結婚という物語』タヤリ・ジョーンズ[著]、加藤洋子[訳])を刊行します。

鋭い時代感覚と洗練された文体、立体的な人物描写を通して、現代の「生」を見事に捉える小説家、タヤリ・ジョーンズ。今回彼女の最新作であり代表作となった『結婚という物語』の試し読みを公開します。

お楽しみください!

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【3月22日発売】
『結婚という物語』(原題:“AN AMERICAN MARRIAGE” )
タヤリ・ジョーンズ[著]
加藤洋子[訳]



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あなたの身に起きたからといって、
あなたのものとはいえない。
あなたが引き受けるのは半分だけ。
あなたのものではない。あなただけのものではない。
─クラウディア・ランキン


第一部 橋の音楽

ロイ


 世の中には二種類の人間がいる。家を出る人間と、出ない人間だ。ぼくは前者で、そのことを誇らしく思っている。妻のセレスチャルに言わせると、ぼくの本質はカントリーボーイだそうだが、そういう言い方は好きではない。そもそもぼくは田舎育ちではないし、ルイジアナ州イーロは小さくても町だ。〝カントリー〟と聞いて思い浮かべるのは、穀物栽培や牧草ロールや乳搾りだろう。ぼくは生まれてから一度だって綿を摘んだことがない。父は摘んでいたけど。馬にも山羊にも豚にも触ったことがないし、触りたいとも思わない。セレスチャルは笑って言う。なにもあなたを農民だって言ったわけじゃないわ、カントリーって言っただけ。セレスチャルはアトランタ生まれだから、彼女だってカントリーと言えないこともない。だが、本人は〝南部女性〟だと言い張る。南部の上流階級の女性を指す〝サザン・ベル〟と混同しやすいが、それとは違う。そんな彼女がどういうわけか〝ジョージア・ピーチ〟という愛称は気に入っており、ぼくもそれなら異存はない。とまあそういうことだ。
 セレスチャルは自分のことを、いわゆるコスモポリタンだと思っている。間違いではない。でも、彼女が毎晩寝に帰るのは子供のころから住んでいる家だ。それにひきかえぼくは高校を卒業して七十一時間後にはバスに飛び乗っていた。もっと早く家を出たかったけど、コンチネンタル=トレイルウェーズは毎日イーロを通るわけではない。郵便配達が卒業証書の入った筒を母に届けたころには、ぼくはモアハウス・カレッジの寮に入っていた。〝第一世代奨学金〟を受けて大学に入った生徒のための特別プログラムに参加するためだ。大学の卒業生を親に持つ連中よりも二カ月半早く招集され、新しい状況に馴染んで教育の基礎を詰め込まれる。二十三人の若い黒人男子が、スパイク・リー監督の『スクール・デイズ』やシドニー・ポワチエ主演の『いつも心に太陽を』を繰り返し見せられる図を想像して欲しい。それで理解してもらえるかどうか。ただし、啓蒙活動が悪いと言ってるんじゃない。
 生まれてこのかた、ぼくはいろんな支援プログラム──五歳のときにはヘッド・スタート計画〔恵まれない地域の就学前児童を支援する連邦政府の教育福祉事業〕、それ以降もずっと政府の教育プログラムTRIO──の世話になってきた。ぼくにいつか子供ができたら、その子たちはきっと補助輪なしの自転車で人生を走り抜けるだろうが、支援プログラムの功績は認めるべきだと思う。
 ぼくはアトランタで人生のルールを学んだ。呑み込みは早かった。誰にも馬鹿とは言わせない。故郷とは着陸する場所ではない。離陸する場所だ。家族を選べないのと同じで、故郷も選べない。ポーカーの手札は五枚だ。そのうち三枚は交換できるけど、残りの二枚は取っておく。その二枚が家族と故郷だ。
 イーロを悪く言うつもりはない。生まれ育つのにもっとひどい土地はあるだろうし、それは世の中を俯瞰して見ればよくわかる。イーロはルイジアナ州にある。多くのチャンスに恵まれている州ではないが、アメリカの一部だ。黒人でやる気があるなら、合衆国はもっとも適した国だろう。ただし、ぼくの家は貧しくなかった。そこのところは、はっきりさせておかないと。父は昼間バックス・スポーツ用品店で働いたうえに、夜はなんでも屋をやっていたし、母は定食屋の厨房で長時間働いていた。ぼくを養うために身を粉にして働いたわけだけど、なにも窓もポットもないあばら家に住んでいたわけじゃない。念のために言えば、うちには窓もポットもあった。
 ぼくと母のオリーヴと父のビッグ・ロイの三人家族は、治安のよい界隈で堅牢なレンガ造りの家に住んでいた。ぼくは自分の部屋を持っていて、ビッグ・ロイが建て増ししてくれたので専用のバスルームもあった。靴が小さくなれば間を置かずに大きいのを買ってもらえた。奨学金で大学に行ったけど、両親も出すべき金はちゃんと出してくれた。
 でも、正直に言うと、余裕はなかった。子供時代をサンドイッチに喩えると、パンのあいだから肉がはみ出してはいなかった。必要な物は揃っていても、それ以上ではなかった。「それ以下でもないでしょ」母ならそう言うだろう。そして、甘酸っぱいハグをしてくれるだろう。
 アトランタに着いたとき、ぼくの人生はいまからはじまるんだと思った──おびただしい数のまっさらな紙が待ち受けているのだと。それに世間ではこう言われている。〝モアハウスの学生はつねにペンを持っている〟あれから十年、ぼくは人生の〝スイートスポット〟にいた。「出身はどちら?」と尋ねられれば迷わず「ジ・A!」と答える。通称で答えるほどこの都会に馴染んでいたんだ。家族のことを尋ねられれば、セレスチャルの話をする。
 正式に結婚してから一年半、ぼくたちは幸せだった。少なくともぼくは幸せだった。ほかの人が夢見るような幸せとは違っていたかもしれないけど。夫がベッドの中でもノートパソコンを手放さない仕事人間で、妻はティファニーの宝石を夢見るような、アトランタの裕福な黒人夫婦ではなかった。ぼくは若くて野心的で上昇志向だった。セレスチャルはアーティストで情熱的でゴージャスだった。ぼくたちはロマンス映画『ラブ・ジョーンズ』の主人公をもっと大人にしたみたいな二人だった。なにが言いたいかって? ぼくは昔から流れ星みたいに輝きを放つ子に弱かったってこと。上っ面の付き合いじゃなくて、深い話ができる相手。セレスチャルと出会う前に付き合っていたのがそういう子で、生粋のアトランタ娘だった。見た目はまともなんだけど、アーバン・リーグ〔黒人や少数民族の社会的・経済的地位向上を目的とする民間団体〕の祭典でぼくに銃を向けたんだ! グリップにピンク色の貝殻がはめ込まれた銀の二二口径がいまも目に焼き付いて離れない。ステーキとポテトグラタンを味わっていたテーブルの下で、彼女はバッグに忍ばせたピストルをちらつかせ、黒人弁護士会の女とあたしと二股かけてるんでしょ、わかってるんだから、と言った。どう言い訳すればいい? ぼくは怖くなった。それから、なんだそうか、と思った。ぶっ飛んだことを粋にやるのがアトランタ娘だって。惚れた弱みと言われようとも。でも、ここでプロポーズすべきか、警察を呼ぶべきかぼくにはわからなかった。夜が明ける前にぼくたちは別れたんだけど、決めたのは彼女のほうだった。
〝ピストル・ガール〟と別れた後、しばらく女の子とは付き合わなかった。人並みに新聞を読むから、結婚市場で黒人男性が不足しているという噂は知っていた。でも、そんな吉報がぼくの私生活に影響をおよぼすまでにはいたらなかった。気になる子はみんな決まった相手がいた。
 競争相手がいるほうが、恋愛に弾みがつくのだろうけど、〝ピストル・ガール〟に振られたことは、毛ダニにたかられたような不快感を残した。それでぼくはほんの数日イーロに戻り、ビッグ・ロイとおしゃべりした。人生を達観しているふうなところのある父で、たとえば、人が現れる前からそこにいて、人が去った後もずっと同じリクライニング・チェアに座っているような人と言ったらいいだろうか。いつも変わらずそこにいてくれる。
「ピストルを振り回すような女とは付き合わないことだ」
 ぼくが言いたかったのは、ピストルの持つストリートっぽさと祭典のきらびやかさのギャップがすごかったということだ。そのうえ……。「彼女にとってはおふざけだったんだよ、父さん」
 ビッグ・ロイはうなずき、ビールの泡をすすった。「それが彼女のおふざけなら、ほんとうにキレたときはどうなるんだ?」
 台所で母が声をあげた。まるで通訳を介して会話するみたいに。「彼女がいま誰と付き合ってるのか、尋ねてみて。おかしな子みたいだけど、意外にまともなのかもしれない。控えの選手がいないのに、リトル・ロイを袖にする女はいないでしょう」
 ビッグ・ロイが尋ねる。「彼女はいま誰と付き合ってるのか、母さんが知りたがってる」まるでぼくたちはほかの言語でしゃべっているみたいだった。
「弁護士。ペリー・メイスンみたいのじゃなくて。契約弁護士。ほら、事務手続き専門の」
「おまえだって事務屋なんじゃないのか?」と、ビッグ・ロイ。
「まったく違うよ。ぼくは営業マン、それも臨時雇い。だいいち、ぼくの目標は事務屋じゃない。いまの仕事だって腰掛けだからね」
「そうか」と、ビッグ・ロイ。
 母は台所であいかわらずの批評家気取りだ。「その子に言ってやってちょうだい。肌の色の薄い娘とは付き合わないことよって。傷つくのはいつだってこっちなんだから。地元にもいい子はいるでしょ。高望みしないで、身の丈に合った子を選びなさいって言ってやって」
 ビッグ・ロイが言いかける。「母さんが言うには──」ぼくは急いで遮った。
「聞こえてるよ。それに、彼女の肌の色が薄かったなんて誰も言ってないだろ」
 むろん肌の色は薄かった。肌の色について母はうるさかった。
 縞模様の布巾で手を拭きながら、母が台所から出てきた。「そんなに怒らなくっていいじゃない。おまえの生活に首を突っ込む気はないんだから」
 母のお眼鏡にかなう女の子なんてどこにもいやしない。母親ってのは指図したがるものなんだ。友だちはみな、「あんたの櫛を平気で使えないような子はうちに連れてこないで」と、母親から釘をさされたそうだ。アフリカ系アメリカ人向けの月刊誌〈エボニー〉でも姉妹誌の〈ジェット〉でも、稼ぎのいい黒人男は白人女と付き合いたがると断言している。ぼくは〝ブラウン〟専門だけど、同じブラウンでも濃淡があるから、ぼくがどんな色合いの肌の子を選ぶか、母は気が気ではないのだろう。
 母はセレスチャルのことを気に入るだろうと、ふつうは思う。だって、二人は親戚でとおるぐらいよく似ているんだ。二人とも、ぼくがはじめて夢中になったテレビドラマ『グッド・タイムズ』のテルマみたいな、爽やか美人だ。セレスチャルはたしかに母のお眼鏡にかないはしたけど、母からすれば別世界の人間──高級ブランドのドレスを着たプリンセスだ。ビッグ・ロイはといえば、セレスチャルにすっかり惚れ込み、ぼくが彼女と結婚しなかったら、自分がプロポーズしていただろう。これがまた母にはおもしろくない。
「お母さんに気に入られる方法はたったひとつ」セレスチャルが前に言ったことがある。
「その方法って?」
「子作り」彼女はため息まじりに言った。「お母さんったら、会うたびにわたしをジロジロ眺め回すのよ。頭のてっぺんから爪先まで。わたしが彼女の孫を人質に取ってお腹に隠していないか調べてるのよ」
「そんな大げさな」そうは言いながらも、いかにも母が考えそうなことだと思った。結婚して一年が経ち、そろそろつぎの世代を作ってもいいかな、とぼくは思った。ただし、ぼくらの時代に合った決まり事を設けて。
 ぼくたちの親の世代の育て方が間違っていたと言うつもりはないけど、時代は変わっているのだから、子供の育て方も変わってしかるべきだ。たとえば、綿摘みをやった苦労話を子供に聞かせたりはしない。ぼくの両親は実際の綿摘みの話や、若いころの重労働について年中話していた。白人はそういう重労働を喩えて〝溝を掘る〟と言うが、黒人の場合は〝綿を摘む〟と言う。いまのぼくらがあるのは、誰かが死んだおかげだなんて、子供に説教するつもりはなかった。ぼくの息子、ロイ三世には映画館で『スター・ウォーズ』やなんかを観るのにまわりを気にして欲しくないし、ポップコーンを食べながら座って映画を観る権利を得るために、命を犠牲にして闘った人たちがいたという事実に思いを馳せて欲しくもない。そういうことはあまり考えなくていい。そのためには、子育てのやり方を正しく理解する必要がある。「黒人は白人の二倍頑張ってようやく半人前にしか見られない」というようなことをけっして口にしない、とセレスチャルは約束してくれている。「たとえそれが事実だとしても」彼女は言った。「五歳の子に言うことじゃないものね」
 セレスチャルは女としてすばらしくバランスがとれている。ボタンダウンのシャツを着るエリートキャリアウーマンタイプではないけど、育ちの良さが内側から滲み出て、エナメルの靴みたいに輝いている。アーティストだから弾けたところがあっても、けっしてクレージーな方向には向かわない。つまり、バッグにピンクのピストルを忍ばせていたりしない。でも、情熱はたっぷりだ。自分の好きなようにやるのが好きで、それは外見にも表れている。父親を超える百七十五センチの長身だ。背の高さは運任せだけど、彼女の場合は自分の意志でそうなった感じがする。ワイルドでボリュームのある髪のせいで、並ぶとぼくよりわずかに背が高い。彼女が針仕事の天才だと知らなくても、とってもユニークな人間だとわかるだろう。一部の人には──この場合の〝一部の人〟はぼくの母親──わからないみたいだけど、いずれにしたって彼女はいい母親になるに違いない。
 ぼくたちの子供──息子でも娘でも──には、〝未来〟という名をつけようと、彼女に言ってみたい気は少なからずある。
 ぼくの一存で決められるなら、ハネムーンで子作り列車に乗っていただろう。海に張り出したガラス張りの床の小屋に寝転ぶ二人を想像して欲しい。そんな構造の小屋があるなんて知らなかったけど、セレスチャルがパンフレットを見せてくれたときには、そんなの当たり前だってふりをした。〝死ぬまでにやりたいことリスト〟にも入ってるって言ってね。そんなわけで、ぼくらは海の上でリラックスして、めくるめくひとときを過ごした。結婚式から一日以上が経っていた。なにせバリ島までファーストクラスで二十三時間もかかったんだから。結婚式当日のセレスチャルは、彼女が作る赤ん坊人形みたいにめかし込んでいた。髪をバレリーナがやるようなお団子に結って、メイクのせいで頬はバラ色だった。通路をぼくに向かって漂うようにやってくる彼女は、かたわらを歩く父親ともどもクスクス笑っていた。まるでこんなのただのリハーサルにすぎないって感じでね。ぼくのほうは、心臓発作を四度に脳卒中まで起こしそうなほど緊張していたけど、彼女がぼくを見あげ唇をキスの形にすぼませるのを見たとたん、冗談の意味がわかった。彼女はぼくに知らせたかったんだ。すべては──彼女のウェディングドレスの裾を掲げ持つ少女たちも、ぼくのモーニングコートも、ポケットの中の指輪でさえ──ただのショーにすぎないってことを。彼女の瞳の煌めきと、ぼくらの体内を駆け巡る血潮だけは嘘偽りのないものだった。
 バリ島では、艶やかな髪はとっくにほどけて、彼女は一九七〇年代の〈ジェット〉誌で出てきたアフロヘアをワサワサ揺らし、身にまとっているのはボディグリッターだけだった。
「さあ、子供を作ろうか」
 彼女は笑った。「それって、わたしにお願いしてるの?」
「真面目に言ってるんだ」
「いまはまだだめよ、ダディ」彼女が言った。「でも、じきにね」
 紙婚式、つまり結婚一周年に、ぼくは紙に書いた。〝前に言ったじきにって、いまとか?〟
 彼女は紙を裏返して返事を記した。〝きのうでもよかったのよ。お医者さんに行ったら、準備は整っているって〟
 でも、べつの紙がそれを邪魔した──ぼくの名刺だ。カスケード・ロードにあるカジュアルな店ビューティフル・レストランで結婚一周年を祝い、ぼくらは帰宅した。洒落た店ではないけど、彼女にプロポーズした店だった。彼女は言った。「いいわ、でも、指輪はちゃんとしまっておいて、盗まれる前に」結婚記念日にこの店を再訪し、ショートリブとマカロニ・アンド・チーズとコーン・プディングで祝った。デザートはうちに帰ってからだ。ぼくたちが無事に一周年を迎えるまでの三百六十五日間、冷凍庫で眠っていたウェディング・ケーキ二切れ、それがデザートだった。よせばいいのにぼくは財布を開き、そこにいつも入れている彼女の写真を取り出して見せた。保護ケースから写真を取り出したときに、名刺も一緒に出てアマレット・ケーキの横にふんわりと落ちた。名刺の裏には紫のインクで女の名前と電話番号が書かれていた。それだけでも最悪なのに、セレスチャルは三桁の数字にも気づいた。ホテルのルームナンバーだとピンときたらしい。
「どうってことないんだ」まぎれもない事実なんだから、ぼくが女好きなことは。女の子とじゃれ合うのは楽しいし、ゾクゾクする。たとえば大学時代に、電話番号を集めて喜んでいたけど、九十九・九九七パーセントはその場かぎりで終わった。いまもゾクゾクするかどうか試してみたかっただけ。誰も傷つかない、だろ?
「ちゃんと説明して」セレスチャルが言った。
「その子がぼくのポケットにそいつを滑り込ませたんだ」
「あなたの名刺をどうやったら滑り込ませられるわけ?」セレスチャルは怒っていた。それでぼくは一瞬でその気になった。カチッと音がしてレンジに火がついたような。
「その子が名刺をくれって言ったんだ。他意はないと思った」
 セレスチャルは立ち上がり、ケーキが載った皿を取り上げ、ゴミ箱に捨てた。結婚祝いの陶器の皿もろとも。つぎにピンクシャンパンが注がれたフルートグラスを取り上げ、テキーラを呑むみたいにグイッと呷った。ぼくの手からグラスを取り上げるとそれも呷り、長い脚のグラス二脚をゴミ箱に捨てた。グラスが割れ、鈴みたいな音をたてた。
「あなたって最低」彼女は言った。
「だけど、いまぼくはどこにいる?」ぼくは言った。「きみのそばだ。ぼくたちのうちにいる。毎晩、きみの枕に頭を載せているじゃないか」
「よりによって結婚記念日に」いまや彼女の怒りは融けて悲しみに変わった。キッチンチェアに腰をおろす。「浮気したいなら、どうしてわたしと結婚したの?」
 浮気するためには結婚しなきゃならないけど、その点を指摘するのはやめておいた。代わりに事実を言った。「その子に電話もしてないんだ」彼女と並んで座った。「愛してる」その言葉は魔法のお守りだ。「一周年おめでとう」
 彼女がキスをさせてくれたのはよい兆候だ。唇はピンクシャンパンの味がした。二人で裸になると、彼女はぼくの耳を思い切り噛んだ。「あなたって、ほんと、嘘つき」それからぼくの側のナイトスタンドに手を伸ばし、輝くフォイルの包みを取った。「さあ、つけて」
 ぼくたちの結婚は危機に瀕している、と言う人間がまわりにいることはわかっている。閉じたドアの向こうで、ベッドカバーの下で、夜と朝のあいだで、なにが繰り広げられているかまるで知らないくせに、よくもあれこれ言えるものだ。ぼくたちの関係の目撃者として、いや、当事者として言わせてもらうと、真相はまったく逆だ。つまり、たった紙切れ一枚で、ぼくは彼女を怒らせることができるし、たったコンドーム一個で、彼女はぼくを動揺させられるってことだ。
 そう、ぼくたちは夫婦だけど、まだ若いし、相手に夢中だ。結婚して一年経っても、愛の炎は熱く燃え盛っている。
 ようするにこういうことだ。二年目に突入した〝結婚シーズン2〟は挑戦のし甲斐がある。歴史的黒人大学を舞台にした青春コメディ『ア・ディファレント・ワールド』の成長した姿がぼくたちだ。登場人物のホイットリーもドウェーンも大人になったということ。ただし、セレスチャルとぼくは、ハリウッドの予想をはるかに超えている。彼女は才能に溢れ、ぼくは彼女のマネージャーでありミューズ。なにも素っ裸で横たわるぼくを、彼女が描いているとかそういうのではない。ぼくはふつうに生活していて、彼女はそれを眺めている。婚約していたころに、彼女はガラス彫刻のコンクールで優勝した。遠くから見るとビー玉みたいだけど、近くに寄ると、見る角度によって彫り込まれたぼくの横顔が見える。それに五千ドルの値をつけた人がいたのに、彼女は手放さなかった。結婚が危機に瀕していたら、手放していただろう。
 ぼくたちは持ちつ持たれつの間柄なんだ。あの当時、亭主がしっかり働いているので、女房は働かなくてすむことを、〝女房を家に落ち着かせる〟という言い方をした。母を家に落ち着かせることが父の夢だったが、なかなかそうもいかなかった。父に倣って、というより自分の見栄のために、ぼくはしゃかりきに働いた。セレスチャルが落ち着いて、いちばんの趣味である人形作りに専念できるように。ぼくを繊細なタッチで描いたビー玉は美術館に展示されるような作品だったけど、人形はふつうの人たちに受けるものだ。ぼくがイメージしていたのは、大量販売されるぬいぐるみ人形だった。棚に並べておける人形、ぎゅっと抱き締めても大丈夫な人形。特注の一点物や芸術作品のような人形を作りたければ作ればいい。平気で何万ドルもの値がつくから。でも、ふつうの人形を作ったらきっと有名になれる、とぼくは彼女に言った。けっきょく、ぼくは正しかった。
 橋の下の流れと一緒ですべて過ぎたことだ。甘酸っぱい思い出ですらない。それでも、公正を期すためにすべてを語るべきだと思う。ぼくたちの結婚は一年ちょっとしかつづかなかったけど、よい一年だった。彼女だってそれに異存はないはずだ。

 レイバー・デイの週末に、隕石がぼくらの人生を直撃した。ぼくらはイーロに両親を訪ねた。車で行ったのはぼくがドライブ好きだったからだ。飛行機は仕事の延長みたいな気になる。あのころ、ぼくは教科書販売会社の営業マンで、数学の教科書担当だった。ぼく自身は十二の桁の掛け算が限界だったのに。でも、売り込み方を知っていたから営業成績はよかった。その一週間前に、ぼくは母校から大口の契約を取り付けたばかりで、ジョージア州立大学にも売り込みをかけているところだった。一気に重役とまでいかなくたって、かなりの額のボーナスが見込めるから、新居を買う話をはじめようかと思っていた。そのころ住んでいたのは、静かな通りにある頑丈な造りのランチハウスで、二人で住むのになんの不足もなかった。ただし、セレスチャルの両親からの結婚プレゼントだったのだ。彼女が子供時代を過ごした家を、両親から譲り受けた。一人娘だからもらって当然だけど、彼女の家であることに変わりはない。白人がよくやるような、子供への援助、アメリカの流儀だ。でも、ぼくは、自分の帽子を自分の名前が付いた帽子掛けに掛けたかった。
 イーロに向かう州間高速道路10号線を走っていたとき、ぼくの脳裏をよぎっていたのはそんな思いで、でも、それで気分が削がれたわけではなかった。結婚記念日の諍いはおさまり、ぼくらの生活は元のリズムに戻っていた。ホンダのファミリーカー、アコードのステレオからは、オールドスクール・ヒップホップが流れていた。
 六時間ほど走って六十三番出口を降りる。二車線のハイウェイを走るころからセレスチャルに変化が見られた。肩を少しそびやかし、髪の毛先を口に咥える。
「どうかしたの」ぼくは尋ね、史上最高のヒップホップアルバムの音量をさげた。
「心配なだけ」
「なにが?」
「ストーブをつけっぱなしで外出したかもしれないときの気分、わかる?」
 ぼくはステレオの音量をあげた。ドンドンとズシンズシンのあいだぐらいまで。「きみのアンドレに電話したらいい」
 セレスチャルはシートベルトをいじくった。首を擦る感じが嫌だ、というふうに。「あなたの両親と会うときは、いつもこう。ようするに、自意識過剰」
「ぼくの両親と?」オリーヴとビッグ・ロイぐらい気さくな人間はいない。それにひきかえセレスチャルの両親は、とてもじゃないが親しみやすいとは言えない。父親は上背がリンゴ三個分ぐらいしかなくて、奴隷制度廃止論者のフレデリック・ダグラス張りのフサフサのアフロヘアを横分けにしている──それになんといっても天才的な発明家だ。母親は教育者だが、教師とか校長とかではなく、教育制度全般を統括する副教育長だ。父親のほうが、十二、三年前、オレンジジュースの分離を防ぐ合成物を発明して大儲けしたことは話したかな? 彼は特許をミニッツメイドに売り、以来、札束風呂に浸かって札をばら撒く生活をしてきた。彼女の母親と父親──厄介なのはそっちだろう。彼らに比べたら、オリーヴとビッグ・ロイなんてちょろいもんだ。「うちの両親はきみを愛してるよ」ぼくは言った。
「二人が愛してるのはあなたよ」
「で、ぼくはきみを愛してる。だから二人はきみを愛してる。算数の基本」
 セレスチャルは、痩せた松の木が風に揺れる窓外に目を向けた。「なんだか嫌な予感がするのよ、ロイ。引き返しましょう」
 妻はなんでも大げさに考えすぎる。それでも、彼女の言葉が引きつるのをぼくは聴き取った。恐怖としか言いようのないもののせいで。
「どうしたの?」
「わからない。でも、引き返しましょう」
「母さんにどう言えばいい? いまごろは夕食作りに全力投球してる」
「わたしがごねてるって言えば」と、セレスチャル。「悪いのは全部わたしだって」
 いまにして思えば、ホラー映画を観るようなものだ。登場人物たちが危険な兆候をあっさり無視するのを、やきもきしながら観ている感じ。幽霊の声が「出て行け」と言ったら、さっさと出るべきなんだ。でも、現実には、自分が恐ろしい映画の中にいることがわかっていない。妻は感情的になりすぎると思っている。きっと妊娠しているせいだと内心で願うのは、妻の不安を封じ込めて扉の鍵を捨ててしまうのに、赤ん坊が必要だからだ。

 母は玄関ポーチでぼくらを待ち構えていた。かつらが大好きな人で、そのときつけていたのは桃ジャム色のそれだった。ぼくは庭に車を入れ、父のクライスラーのすぐ後ろに停めてギアをパーキングにし、ドアを開け、階段を一段飛ばしに駆け上がり、母を抱き留めた。華奢な人だから軽々と抱き上げると、木琴みたいな響きのいい笑い声をあげた。
「リトル・ロイ」母が言う。「お帰り」
 母をポーチにおろして振り返ったが、そこには静寂があるばかりだった。だから、階段をまた一段飛ばしで駆けおり、車のドアを開けると、セレスチャルが腕を伸ばしてきた。彼女が車を降りるのに手を貸すあいだ、母が目をくるっと回す音が聞こえた。断じて聞こえた。
「三角関係ってやつさ」男二人で腰を据えてコニャックをすすりながら、父は言った。母は台所で忙しく立ち働き、セレスチャルは着替えをしていた。「おれは運がよかった」と、父。「おまえの母さんと出会ったときには、どっちも身軽なもんだった。おれの両親はとっくに亡くなっていたし、あいつの両親はオクラホマにいて、娘なんていないもんと見切りをつけていた」
「うまくいってくれるといいけど」ぼくは父に言った。「セレスチャルは人見知りなところがあるから」
「おまえの母さんはドリス・デイじゃないしな」父がうなずき、どっちも面倒な女に惚れたことに乾杯した。
「子供ができればすんなりいきそうだよね」ぼくは言う。
「だな。孫は野獣の心だって蕩かすからな」
「野獣って誰のこと?」母が台所から出てきて父の膝に座った。恋する乙女みたいに。
 べつの戸口からセレスチャルが入ってきた。さっぱりして愛らしく、タンジェリンの匂いがした。リクライニングチェアはぼくが占領し、ソファーでは両親がいちゃついているので、彼女が座る場所がなかった。だから、ぼくは自分の膝をトントンと叩いた。彼女は勇敢にもぼくの膝に腰をおろしたけど、はたから見れば、一九五二年ごろにダブルデートしているぎこちないカップルみたいだったろう。
 母があらたまって尋ねた。「セレスチャル、あなた、有名なんですってね」
「え?」セレスチャルが立ち上がろうともがくので、ぼくは腰を抱いて押さえた。
「雑誌に出たんでしょ。どうして言ってくれなかったの。ブームになってるそうじゃない」
 セレスチャルはもじもじした。「同窓会の会報に載っただけですよ」
「雑誌でしょ」母はコーヒー・テーブルの下から雑誌を取り出し、端を折ってあるページを開いた。かのジャズ歌手ジョセフィン・ベーカーを模したぬいぐるみ人形を抱くセレスチャルが載っているページだ。太い文字ででかでかと〝期待のアーティスト〟とある。
「ぼくが送ったんだ。だってさ、ほら、自慢の奥さんだから」
「あなたの人形に五千ドル払う人がいるって、ほんとなの?」母が口をすぼめ、目を細めた。
「たまたまですよ」セレスチャルの言葉をぼくは遮った。
「ほんとさ。ぼくは彼女のマネージャーだからね。女房の作品を値切るような真似は誰にもさせない」
「ぬいぐるみ人形に五千ドルですって?」母が雑誌で扇ぐと、桃ジャム色の毛が逆立った。「神さまが白人をお創りになったのは、そのためだったのね」
 父はクスクス笑い、セレスチャルはぼくの膝から自由になろうと、仰向けのカブトムシみたいにもがいた。「その写真じゃ人形のよさはわかりっこないわ」彼女が言う。まるで駄々をこねる子供だ。「ヘッドドレスはビーズ刺繍で──」
「五千ドルあればビーズをさぞいっぱい買えるでしょうね」母が言った。
 セレスチャルがこっちを見るので、なんとか取りなそうとぼくは言った。「母さん、責めるべきは彼女じゃなくて、世の中の仕組みのほうだろ」相手が女の場合、まずいことを言うとてきめんに場の空気が悪くなる。それは女が空気中のイオンの配列を変えるせいで、男は呼吸できなくなる。
「世の中の仕組みは関係ないわ、アートには」セレスチャルの視線はリビングルームの壁に飾られたアフリカ調の版画に向かった。「つまり、ほんもののアートには」
 ここで父が如才なさを発揮する。「実物をこの目で見られるといいんだがね」
「車に積んであるよ」ぼくは言った。「取ってくる」

 やわらかな毛布にくるまれた人形は、乳飲み子そのものだ。セレスチャルのこういうところがよくわからない。母親になることを恐れているくせに、布で作った創作物に対しては、過保護な母親そのものになる。大量販売するようになったら、そういう態度はあらためるべきだと、ぼくは内心で思っている。〝お人形さん〟という商標で、ぼくがいま抱いているようなアート作品の何分の一かの値段で売りに出すんだ。手早くたくさん作って売って、人気が出たら大量生産に切り替える。この人形みたいにカシミアの毛布にいちいちくるんではいられない。でも、これは大目に見る。感謝祭のころに出産予定の部下に贈るため、アトランタ市長が注文してくれた人形なんだから。
 ぼくが毛布を開くと、母は現れた人形の顔を見てハッと息を呑んだ。セレスチャルに小さくウィンクすると、空気中のイオンを再配列してくれたらしく、ぼくはまた呼吸できるようになった。
「おまえに瓜ふたつ」母がぼくから人形を抱き取り、頭に手を添えた。
「彼の写真を参考にしました」と、セレスチャル。「ロイはインスピレーションの源なの」
「それでぼくと結婚したんだ」ぼくは冗談を飛ばした。
「それだけが理由じゃないけど」
 母が言葉を失った魔法の瞬間。母の視線は腕の中の塊に釘付けで、父が肩越しに覗き込んでいる。
「髪にはオーストラリアの水晶を使ってるんです」セレスチャルが興奮して言う。「向きを変えて光を当ててみて」
 母がそうすると、しごく平凡な電球の光を受けて、頭の黒いビーズがキラキラと輝いた。「まるで光輪みたい」母が言う。「自分たちの子供を持ったらわかるわよ。天使そのものだから」
 母はソファーのクッションの上に人形を横たえた。人形に救われるなんて、というか、自分の赤ん坊のころの写真に救われるなんて、不思議な感じだ。魔法の鏡を覗き込んでいるようだ。ぼくは母の中に十六歳の彼女を見た。幼すぎて、春のように儚げな母親。「あたしがこの子を買っちゃだめかしら?」
「だめだよ、母さん」ぼくの胸は誇らしさで張り裂けそうだった。「これは特注品でね、一万ドルで引き受けた。ここまで高級なのじゃなくてよければ、このぼくが承りますよ」
「お生憎さま」母はまるで死衣をかぶせるように人形に毛布をかぶせた。「あたしが人形を持ってどうするのよ。こんな年寄りが」
「どうぞ、差し上げますよ」と、セレスチャル。
 セレスチャルが〝アーノルド坊やそっくり〟と呼ぶ表情を、ぼくは彼女に向けた。今月末に納品すると契約書に書いてある。締め切り厳守だ。契約書は三通作成され公証された正式なものだ。輸送費込みの運送人渡し条件は付いていない。
 セレスチャルはぼくの方を見もしないで言った。「もうひとつ作ればいいから」
 母が言う。「いいえ、そんな手間はかけさせられないわよ。あまりにもリトル・ロイに似てたから、それだけ」
 人形を取り上げようと手を伸ばしたが、母はまだ人形に手を置いたままだし、セレスチャルのせいで事態はますますややこしくなった。作品を褒められると彼女は見境がなくなる。本格的に商売に乗り出すなら、そのあたりのこともよく話し合う必要があった。
「差し上げます」セレスチャルが言う。この人形を作るのに三カ月かかったというのに。「市長の分はべつに作りますから」
 今度は母が空気中のイオンを掻き混ぜる番だ。
「まあ、市長のなの。それはごめんなさいね!」母が人形をぼくに差し出す。「あたしが汚してしまわないうちに、車にしまっておいて。一万ドルの請求書を送ってこられちゃたまらない」
「そんなつもりありません」セレスチャルが困りきってぼくを見た。
「母さん」
「オリーヴ」と、ビッグ・ロイ。
「ミセス・ハミルトン」これはセレスチャルだ。
「さあ、食事にしましょ」母が言った。「サツマイモの煮っ転がしとカラシナのベーコン炒めを食べる食欲が残ってるといいけど」

 ぼくらは夕食を食べた。黙り込みはしなかったけれど、会話は弾まなかった。母は怒りに我を忘れてアイスティーを台無しにした。蔗糖のほんのりした甘さを期待したぼくは、塩辛さにむせた。その直後に、壁に掛かっていたぼくの高校の卒業証書が落下し、額のガラスにひびが入った。前兆? たぶん。でも、災いが降ってくるなんて考えもしなかった。女二人の板挟みになって、それどころじゃなかったんだ。こういう場合にどう振舞うべきかわかっていた。どちらにもいい顔をするとろくなことにならない。でも、相手は母とセレスチャルだから、ぼくの体は真っ二つだ。母はぼくを産み、ここまでに育て上げてくれた。でも、セレスチャルはこれからの人生への入り口、つぎの段階に通じる輝くドアだ。
 デザートはぼくの大好物の〝どんと来い〟ケーキだったけれど、一万ドル人形を巡る闘いのせいで、食欲は失せていた。それでも、シナモンが渦巻くケーキをお代わりまでした。南部女の料理を断れば、状況は悪くなるいっぽうだ。ぼくは腹をすかせた子供みたいに食べた。セレスチャルもだ。精製糖は口にしないと誓い合っているのに。
 テーブルの上が片付くと、父が言った。「荷物を運び込んだらどうだ?」
「いや、父さん」軽く言った。「パイニー・ウッズに部屋を取ってるんだ」
「自分の家があるのに、あんなごみ溜めに泊まろうっていうの?」母が言う。
「そもそもの始まりの場所に、セレスチャルを連れていってやりたいんだ」
「だからって、わざわざ泊まらなくても」
 だからこそそうしたかったんだ。いくらでも話を盛る両親のいない場所で、ぼくの物語をセレスチャルに聞かせたかった。結婚して一年以上が経ったんだから、どんな人間と結婚したのか彼女には知る資格がある。
「あなたの考えなの?」母がセレスチャルに尋ねた。
「いいえ、まさか。わたしはここに泊まりたいです」
「ぼくの考えだよ」ぼくは言った。もっともホテルに泊まることにして、セレスチャルはほっとしたみたいだ。正式に結婚した二人ではあるけれど、どっちの親の家でも寝泊まりするのは落ち着かない気がして嫌なの、とかなんとか言っていた。前にここに来たとき、彼女は『大草原の小さな家』に出てくるようなナイトガウンを着ていた。いつもは素っ裸で寝る人が。
「でも、部屋の支度はできてるのよ」母が言い、唐突にセレスチャルの方に手を伸ばした。女二人が見つめ合う。男同士はけっしてこんなふうに見つめ合わない。その瞬間、家の中に二人だけになった。
「ロイ」セレスチャルがぼくに振り向いた。不思議なことに怯えている。「あなたはどう思うの?」
「あすの朝、戻ってくるから、母さん」ぼくは母にキスした。「蜂蜜がけビスケットを食べにね」

 母の家を去るのにいったいどれぐらいの時間がかかった? 振り返ってじゃあねと別れればいいのに、ぼく以外の全員がポケットに重しを入れているみたいだった。ようやく玄関を出るときになって、父が毛布にくるんだ人形をセレスチャルに渡した。父はぎこちなく人形を抱いていた。それがただの物体なのか生きているのか、決めかねるといった様子で。
「空気を吸わせてやって」母が毛布をめくると、オレンジ色の夕日が光輪を煌めかせた。
「差し上げますから、どうぞ」セレスチャルが言う。「ほんとうに」
「市長のために作ったんでしょ」と、母。「あたしにはべつなのを作ってちょうだい」
「それより、ほんものの赤ん坊」父が言い、両手で妊婦の迫り出したお腹をさする真似をした。ぼくらをこの家に繋ぎとめる厄介な呪縛を、父の笑い声が解いてくれて、ぼくらは家を出ることができた。
 車に乗り込むとセレスチャルの気持ちがほぐれた。ハイウェイに乗るころには、彼女を縛っていた呪いが解けたのか、刺々しさも消えていた。膝のあいだに顔を埋めるようにして、耳を隠すように編んだ三つ編みをせっせとほどき、髪をふくらませ、顔をあげたときにはいつもの彼女に戻っていた。てんでの方向に伸び広がった髪、いたずらっぽい笑顔。「居心地が悪いったらなかった」
「だね」と、ぼく。「どうしてああなるのか、まるっきりわからない」
「赤ちゃんよ。孫を待望すると、まともな親だって正気を失う」
「きみの両親は違うだろ」なにしろ彼女の両親は、アイスボックスパイと同じぐらい冷たい。
「あら、うちの両親だって同じよ。自分たちの言いなりにしようとする。みんなセラピーを受けるべき」
「でも、ぼくらはげんに子作りに励んでる。両親も孫を欲しがったからといって、事情は変わらないだろ? 共通の思いがあるっていいことなんじゃないかな?」
 ホテルに向かう途中、吊り橋を渡る前に、ぼくは車を路肩に寄せた。地図には仰々しくアルドリッジ・リバーと記されているけど、実際には小川に毛が生えたほどの川に架かる吊り橋だ。
「いまどんな靴を履いてる?」
「ウェッジヒールの靴」セレスチャルは怪訝な顔をした。
「それで歩ける?」
 彼女は困惑しているようだ。水玉のリボンとコルクでできた建造物みたいな靴だから。「フラットシューズじゃ、あなたのお母さんに位負けするでしょ」
「心配しないで、そんなに歩かなくてすむ」やわらかな土手をおりるぼくのあとから、セレスチャルがヨチヨチ歩きでついてきた。「首につかまって」ぼくは言い、花嫁にするみたいに彼女を抱きあげ、残りの道を歩いた。彼女はぼくの首に顔を押し当ててため息をついた。口に出して言うつもりはないけど、彼女より強いと感じるのが好きだ。文字どおり力で圧倒できる気がして。彼女も口には出さないけど、内心では喜んでいるのだ。川岸に着くと、やわらかな土の上に彼女をおろした。「重くなったんじゃないか。ほんとに妊娠してないの?」
「その冗談、笑えるわ」セレスチャルがぼくを見る。「ささやかな流れなのに、御大層な橋が架かってるのね」
 ぼくは地面に腰をおろし、橋を支える金属の柱にもたれかかった。家の庭の大きなヒッコリーの木にもたれかかるつもりで。脚を開いてあいだの空間をトントンと叩く。セレスチャルがそこに座ったので、その胸の前で腕を交差させ、首の付け根に顎を休めた。澄んだ流れだ。川床の滑らかな岩を削るように流れ、たそがれがさざ波を銀色に染める。妻はラベンダーとココナツケーキの匂いがした。
「ダムができて水量が減る前は、土曜になると父さんと一緒に釣り糸と餌を持ってここに来た。父親とはなんだと訊かれればこう答える。ボローニャサンドイッチとグレープソーダ」彼女はぼくの真剣さに気づかず、クスクス笑った。頭上の金属メッシュの橋桁の上を車が通過し、メッシュを吹き抜ける風が音楽を奏でる。瓶の口をそっと吹いたときの音だ。「たくさんの車が通過すると、ひとつの歌になる」
 ぼくらはそこに座り、橋の歌を聞こうと車を待ち構えている。ぼくらの結婚はよいものだった。美化された思い出ではない。
「ジョージア」彼女を愛称で呼んだ。「ぼくの家族はきみが考えるより複雑なんだ。母さんは……」先をつづけることはできなかった。
「いいのよ」セレスチャルが言う。「気にしてないわ。彼女はあなたを愛している、それだけのこと」
 セレスチャルが振り返ったので、ぼくらはティーンエイジャーみたいなキスをし、橋の下でいちゃついた。すばらしい気分だった。大人にはなったけど、まだ若い。結婚はしたけど、落ち着いてはいない。縛られてはいても、自由だ。

 母の言うことは大げさだった。パイニー・ウッズは〝モーテル6〟と同じレベルで、客観的に見ても星ひとつ半は取れるけど、町にたったひとつのホテルだから星ひとつ上乗せだ。大昔、高校の卒業記念ダンスパーティーの後で、女の子をここに連れ込んだ。童貞ってやつとおさらばしたくて。ホテルの部屋代とスパークリングワインとほかにもロマンティックな道具立てを揃える費用を稼ごうと、スーパーで食料品の袋詰めをしゃかりきにやった。おまけに途中でコインランドリーに寄って両替をした。ベッドマッサージャーのマジック・フィンガーズを作動させるためだ。その晩は珍騒動のオンパレードだった。ベッドマッサージャーは二十五セント硬貨六枚入れてようやく動き出したものの、芝刈り機並みの大騒音を発した。しかも、相手の女の子は、植民地時代みたいな張り骨で膨らませたスカートを穿いており、ぼくがもっとお近づきになろうと顔を突っ込んだとたん、張り骨の一撃を鼻に食らった。
 ホテルにチェックインして部屋に落ち着いてから、ぼくはセレスチャルにこの話をした。笑い話で終わると思っていたら、彼女が言った。「こっちに来て」それからぼくの頭を胸に押し付けた。相手の女の子がやったのとまったく同じことを。
「キャンプしてるみたいだね」ぼくは言った。
「というより海外留学」
 鏡越しに彼女と見つめ合いながら、ぼくは言った。「ぼくはこのホテルで生まれかけたんだ。母さんはここで働いていた。清掃の仕事」その当時、パイニー・ウッズ・インはレベルズ・ルーストという名で、どの部屋も清潔だけど南部連合旗が飾られていた。バスタブをゴシゴシ洗っているときに陣痛がきて、でも、南部連合旗の下で子供に人生をはじめさせるわけにはいかない、と母は意志を固めた。だから膝をきつく閉じて頑張った。モーテルのオーナーは、装飾のセンスはいまいちでもまっとうな人間だったから、五十キロ離れたアレグザンドリアまで車で送ってくれた。一九六九年四月四日、キング牧師が暗殺されてからちょうど一年後、人種差別をしない産院でぼくは人生最初の夜を過ごした。母はそのことを自慢にしている。
「ビッグ・ロイはどこにいたの?」セレスチャルが尋ねた。浮かんで当然の疑問だ。
 ぼくたちがここにいる理由がそれなんだから、どうして答えに詰まったりしたのだろう。そう質問するように仕向けておきながら、いざ尋ねられると、ぼくは岩みたいに黙り込んでしまった。
「仕事だったの?」
 セレスチャルはベッドに座って、市長の人形に追加のビーズを縫い込んでいたけど、ぼくが黙り込んだせいで気が逸れた。糸を噛み切って手を止め、振り返った。「どうかしたの?」
 口を動かすばかりで言葉が出ない。この物語をはじめるのにここはふさわしい場所ではなかった。ぼくの物語は誕生とともにはじまったけど、物語そのものがはじまるのはもっと前だ。
「ロイ、どうしたの? なんで黙ってるの?」
「ビッグ・ロイはほんとうの父親じゃない」このことだけは誰にも言わないと母に約束していた。
「なんですって?」
「実の父じゃないってこと」
「でも、名前をもらってるじゃない」
「赤ん坊のぼくを彼が自分の息子にしたんだ」
 ぼくはベッドから出て、飲み物を二人分作った──ウォッカを缶ジュースで割ったものだ。カップの中身を指で掻き混ぜながら、どうしても彼女と目を合わせられなかった。たとえ鏡越しでも。
 セレスチャルが言う。「いつごろから知っていたの?」
「幼稚園に入る前に二人が話してくれた。イーロは狭い町だから、幼稚園の庭で赤の他人から聞かされるよりもって思ったんだ」
「いま話してくれているのは同じ理由で? わたしが町で小耳に挟むよりもって?」
「違う。ぼくの秘密のすべてをきみに知って欲しいから」ぼくはベッドに戻り、薄いプラスチックのカップを彼女に手渡した。「乾杯」
 彼女はぼくの情けない乾杯に応じず、傷だらけのナイトスタンドにカップを置くと、市長の人形に慎重にビーズを縫い込みはじめた。「ロイ、あなたってどうしてそうなの? 結婚して一年以上経つのよ、なのにどうしてもっと前に打ち明けてくれなかったの?」
 きつい言葉を浴びせられ、泣かれるものと覚悟した。そうなることを期待していたのかもしれない。でも、セレスチャルは目をあげて頭を振っただけだった。息を吸い込み、吐き出した。
「ロイ、わざとやってるんでしょ」
「なに? なんのこと?」
「家族を作ろうって言って、わたしのことを、いちばん近い人間だって言って、そうしておいてこんな爆弾を落とすんだもの」
「爆弾じゃない。それでなにが変わるっていうんだ?」反語的な言い回しをしたけど、ほんとうの答えを切望していた。なにも変わらない、と彼女に言って欲しかった。家系図は入り乱れていても、あなたはあなたよ、と言って欲しかった。
「いまにはじまったことじゃない。財布に電話番号を隠していたり、結婚指輪をいつもしていなかったり。それでこれだもの。ひとつ乗り越えたかと思うと、またつぎでしょ。あなたのことがよくわかっていなかったら、結婚生活も赤ちゃんも、なにもかもぶち壊そうとしてるんじゃないかって疑うところよ」なにもかもぼくが悪いみたいな言い草だ。タンゴは一人で踊れると思っているみたいな。
 ぼくは怒っても声を荒らげない。かえって声が低くなる。耳で聞くというより骨で聞くというほど低くなる。「きみは本気でそうなっていいと思ってるのか? きみが待ち望んでいる結果ってそれなの? ほんとうに問題なのはそこだ。実の父親が誰なのかわからないとぼくが言ったら、きみはぼくらの関係を考え直そうとするのか? いいか、ぼくが打ち明けなかったのは、ぼくらには関係ないことだからだ」
「あなた、おかしいわよ」筋の入った鏡の中の彼女の顔は、ものすごく冴えていて、怒っていた。
「だから言いたくなかったんだよ。これだもの。正確な遺伝子情報がわからないかぎり、ぼくという人間を理解できないときみは思っている。そんなの中流階級の人間のたわごとだ」
「問題なのは、あなたが打ち明けてくれなかったこと。実の父親が誰かわからないなんてことは、どうだっていいの」
「実の父親が誰かわからないなんて言ってないぞ。うちの母親をなんだと思ってるんだ? お腹の子の父親が誰かもわからないような女だって? ほんとにそんなこと思ってるのか、セレスチャル? 本気で?」
「問題をすり替えないでよ。アラスカ州並みに大きい秘密を隠してたのはあなたなのよ」
「だったら言ってやろうじゃないか。ぼくの実の父親はオサニエル・ジェンキンズだ。知っているのはそれだけ。さあこれできみはすべてを知ったことになる。それがアラスカ大の秘密だって? せいぜいコネチカット、いや、ロードアイランド程度だ」
「はぐらかさないで」彼女が言った。
「なあ。少しは同情したらどうだ。母さんは十七歳にもなってなかった。うまいように利用された。相手は大人だったんだ」
「わたしはあなたとわたしのことを話してるの。わたしたちは結婚してるの。夫婦なの。その人の名前がなんだろうとどうでもいいわ。あなたのお母さんがどういう……」
 ぼくは振り返り、鏡という媒体を通さずに彼女を見て、不安になった。目をなかば閉じて、口を引き結んで、なにか言おうとしている。なにを言うつもりにしても聞きたくないと、ぼくは反射的に思った。
「十一月十七日」彼女が考えをまとめる前に、ぼくは言った。
 カップルには合言葉がある。たとえば激しいセックスを一時中断したいときの合言葉。ぼくらの場合、激しい言葉の応酬を一時中断したいときにそれを使う。どちらかが「十一月十七日」と言ったら、初デート記念日なんだけど、十五分間会話を中断しなければならない。ぼくのほうで引き金を引いたのは、もし彼女が母のことであとひと言でも口にしたら、どっちかが取り返しのつかない言葉を言うことになるとわかったからだ。
 セレスチャルは両手をあげた。「いいわ。十五分」
 ぼくは立ち上がり、プラスチックのアイスバケットを手にした。「氷を入れてくる」
 十五分は気分転換にちょうどいい時間だ。ぼくが部屋を出たとたん、セレスチャルはアンドレに電話をかけた。二人はまだお座りもできない赤ん坊のころにベビーサークルで出会ったから、兄妹のように仲がいい。ぼくは大学でアンドレと知り合い、彼を通してセレスチャルを知った。
 彼女がアンドレに怒りをぶちまけるあいだ、ぼくは二階にあがってアイスバケットを製氷機にセットし、レバーを引いた。角氷が間を開けながら出てきた。待っているあいだに母ぐらいの年ごろの女性と出会った。体格のよい、しわだらけの親切そうな顔つきの女性だった。片腕を吊り包帯で吊っている。「肩の筋を痛めてね」女性は言い、運転が大変だとこぼした。でも、ヒューストンで孫が待っており、いいほうの腕で抱いてやるつもりだそうだ。ぼくは母親仕込みの紳士ぶりを発揮し、彼女のアイスバケットを二〇六号室まで運んであげた。怪我のせいで窓の開け閉めにも苦労すると言うから、窓を開けてつっかえ棒の代わりに聖書を挟んだ。まだ七分あったのでバスルームに行き、水道屋の真似事もした。ナイヤガラの滝みたいな水の流れを調節したのだ。部屋を出しな、ドアノブが緩いので、ぼくが出た後ちゃんと鍵がかかったかどうか確認するよう注意しておいた。彼女が礼を言うので、敬語を使って応えた。八時四十八分になっていた。どうして知っているかと言うと、妻のもとに戻るのにいい時間かどうか腕時計を見たからだ。
 ドアをノックしたのは八時五十三分だった。セレスチャルはウォッカを缶ジュースで割ったカクテルを作り直して待っていた。ぼくが持ち帰ったアイスバケットに素手を突っ込み、それぞれのカップに角氷を三つずつ加えた。氷が融け込むようにカップを振ってから、美しい腕をぼくの方に伸ばした。
 ぼくが幸せな時間を過ごしたのは、あの夜が最後になった。


セレスチャル


 記憶はおかしな生き物、気まぐれなキュレーターだ。いまもあの晩のことを考える。もっとも、以前ほど頻繁にではなくなった。つねに後ろを振り返りながらの生活は、長つづきしない。思い出さないようにしているのではない。誰がなんと言おうと。思い出さないことが悪いことだとも思わない。
 白日夢の中では何度もパイニー・ウッズを訪れているけれど、べつに自分を正当化しているのではない。アレサ・フランクリンが歌っているように。〝女も人間……男と同じ、血肉の通った人間〟それ以上でも、それ以下でもない。
 あの晩、よりによって彼の両親のことで大喧嘩するなんて、悔いが残る。結婚前にはもっとひどい喧嘩もしたけれど、それは愛を弄んでいたからで、いわば主導権争いだった。パイニー・ウッズで、わたしたちは家族の過去を巡って言い争った。不毛な闘いだ。なにかを察知したらしく、ロイは〝十一月十七日〟を持ち出して時間を止めた。彼がアイスバケットを手に部屋を出てくれたので、ほっとした。
 アンドレに電話をすると、呼び出し音三つでつながり、彼はいつものように穏やかに、丁寧にわたしを説き伏せた。「ロイをそんなに責めるな」彼は言った。「あいつが正直に話そうとするたびにきみがカッとなっていたら、あいつは嘘を吐くようになる。きみがそう仕向けることになるんだ」
「でも」まだ降参する気になれなかった。「彼がいつだって──」
「ぼくの言うとおりだと、きみはわかってる」アンドレは嫌味なところがまったくない。「でも、きみにもわかっていないことがある。ぼくは今夜、若いレディをもてなしてるところなんだ」
「ごめんなさい」彼が幸せでわたしも嬉しい。
「ジゴロにだって淋しい時はある」
 電話を切ってもわたしはニヤニヤしていた。
 ロイがアイスバケットを手に戸口に現れ、バラの花束を差し出すみたいに腕を伸ばしてきたときも、わたしはまだほほえんでいた。そのころには、わたしの怒りは手つかずのコーヒーみたいに冷めていたのだ。
「ジョージア、ごめん」彼は言い、わたしの手から飲み物を受け取った。「ずっと言いたくても言い出せなかったんだ。ぼくの気持ち、考えてみてくれよ。きみには完璧な家族がいる。きみの父親は億万長者だ」
「昔はそうじゃなかったわよ」一週間に一度は言っている気がした。オレンジジュースの溶液をミニッツメイドに売るまで、うちはキャスケード・ハイツのどこにでもいる家族だった。黒人以外のアメリカ人が〝中の中〟と呼び、黒人は〝中の上〟と呼ぶ階級。メイドはいない。娘を私立校には入れられない。信託財産もない。ふた親が揃っていて、どっちも学位を二つずつ持っていて、ちゃんとした仕事に就いている。
「だけど、ぼくたちが知り合ったときには、きみは金持ちの娘だった」
「百万ドルぐらいじゃ大富豪にはなれないわよ。ほんものの金持ちは自分でお金を稼ぐ必要がない」
「リッチ=リッチだろうが、成金だろうが、黒人富豪だろうが──どんな種類の金持ちだって、ぼくから見たら金持ちだ。きみのお父さんの豪邸に突然押しかけて、ぼくは実の父親に会ったことがありません、なんてぜったいに言えない」
 ロイが一歩近づいてきて、わたしも彼の方へと動いた。
「豪邸じゃないわよ」やさしく言った。「前にも言ったけど、父は小作人の息子よ。それもアラバマの小作人の」
 こういう話をするといつも落ち着かなくなった。結婚して一年以上になるのだから、緊張を孕んだやりとりに慣れてもいいころなのに。結婚前、母から注意されたことがあった。ロイとあなたは住む世界が違うのよ、と。わたしたちは〝一緒にくびきにかけられた二頭の牛〟だと言って、つねに彼を安心させなければならないわよ、と。母の言い回しがおもしろかったので、一緒に犂を引くのよ、と冗談めかしてロイに話したところ、彼はニコリともしなかった。
「セレスチャル、きみのお父さんは収穫を誰とも分け合っていないだろ。きみのお母さんはどう? 母さんが十代で身ごもり道端に置き去りにされたことを、きみのお母さんに知られたくなかった。母親がそんなふうに見られるのは嫌だからね」
 わたしは二人の距離を詰め、両手を彼の頭に置いて頭蓋骨のカーブをなぞった。「ねえ」彼の耳元で言う。「うちは典型的なホームドラマの黒人版じゃない。そんな無邪気な存在じゃないわ。母は父の二番目の奥さんだって、知ってるでしょ」
「それって衝撃の事実なのかな?」
「あなたは詳しいことまで知らないから」わたしは息を吸い込み、早口でまくしたてた。そうしないと、両親のことを大げさに考えすぎるから。「父が離婚する前から両親は付き合ってたの」
「別居してたんだろ……それとも?」
「つまりね、母は父の愛人だったってこと。長い関係だった。三年ぐらいつづいたみたい。母が裁判所でジューンブライドになったのは、教会で式を挙げさせてもらえなかったから」そのときの写真を見たことがある。母はオフホワイトのスーツにベール付きの縁なし帽をかぶっていた。父は若くて、緊張していた。二人の笑顔から窺えるのは混じりけのない愛情だけだった。わたしの姿はどこにもないが、実は一緒に写っていたのだ。黄色い菊のブーケの陰に隠れて。
「へえ」ロイが小さく口笛を吹いた。「まったく、ミスター・Dも隅に置けないなあ。まさかグローリアが──」
「母のことをあれこれ言わないで。わたしの家族のことに口出ししないで。わたしもあなたの家族のことに口出ししないから」
「ぼくはグローリアになんの恨みもないし、きみだってオリーヴになんの恨みもない、そうだよね?」
「父は恨まれても仕方ない。丸まる一カ月も付き合ってようやく、父は結婚していることを打ち明けたんだもの」
 母からこの話を聞いたのは、わたしが十八の時だった。泥沼の恋愛関係を解消するためハワード大学を退学したころだ。段ボールに荷物を詰めるのを手伝ってくれながら、母は言った。「愛はまともな判断の妨げになるけど、結果的にそれでよかったってこともある。出会ったころ、お父さんには家庭があったのよ。あなた、知ってた?」母がそこまで打ち明けてくれたのは、わたしを大人同士の会話ができる相手と認めてくれたからだ。互いに秘密は守ると暗黙の了解ができた瞬間だった。以来、わたしは母の信頼を裏切ったことはない。
「一カ月ならまだそれほど長い付き合いじゃないだろ。別れようと思えばできたはずだ」ロイが言った。「彼女が望めばね」
「母は望まなかったのよ。そのころには、撤回できないほど父を愛していたんですって」ロイにこう告げたとき、わたしは母が人前でしゃべるときの口調、朗読のクラスでやらされるような歯切れのいい口調を真似ていた。実際に打ち明け話をしてくれたときの、頼りないしゃべり方ではなく。
「なんだって?」と、ロイ。「撤回できない? 保証期間の三十日が過ぎたから、返品できない品物みたいに?」
「いまにして思うと、父が打ち明けてくれなくてよかったって母は言ってたわ。奥さんがいると知っていたら、そもそも付き合ってなかったって。けっきょく、父が運命の人だったわけだから」
「なんだかわかる気がする」ロイはわたしの手を口元に持っていった。「いまがよければ、それまでの紆余曲折はどうでもいい」
「そうかしら。それまでの道のりだって大事よ。母ならそう言うわ。父が母のためを思って嘘をついたとしてもね。わたしだったら、騙されてよかったなんてぜったいに思わない」
「そりゃそうだ。でも、べつの見方をしてみようよ。もしきみのお父さんが既婚者だってことを隠さなかったら、きみはいまここにいないだろ。それで、もしきみがここにいないとしたら、ぼくはどこでどうしていた?」
「それでも気に入らないわ。わたしたちは互いに誠実でありたい。わたしたちの子供には親の秘密を受け継がせたくない」
 ロイが拳を突きあげた。「いまなんて言ったかわかってる?」
「なに?」
「〝わたしたちの子供〟って言ったんだよ」
「ロイ、ふざけないでよ。わたしが言おうとしていることを、真面目に聞いて」
「取り消そうとしたって無駄だよ。きみは〝わたしたちの子供〟ってたしかに言ったんだ」
「ロイ、わたしは本気で言ってるのよ。秘密はだめ、いい? ほかに隠し事があるのなら、言ってちょうだい」
「ないよ」
 こうしてわたしたちは仲直りした。これまでと同じように。そんな歌があったっけ。スタイリスティックスが歌っていた。〝別れてはくっついて、そんなことの繰り返し〟まさかそれがわたしたちの定番になるとは、誰が想像するだろう? 責め合っては許し合う、そんなふうにして年を重ねていくことになると? あのころ、永遠とは何かわかっていなかった。いまだってわかっていない。でも、パイニー・ウッズで過ごしたあの夜、わたしたちの結婚生活は細い糸で編まれたタペストリーだと思っていた。もろくても、修繕できると。ほつれるたびに絹糸で繕って、美しいけれどほころびやすいタペストリー。
 即席のカクテルでほろ酔い気分になり、小さなベッドに入った。ベッドカバーは誰が使ったかわからないから蹴り落とし、向かい合って横たわり、彼の眉を指でなぞりながら両親のことを思った。ロイの両親のことも。彼らの結婚は、あか抜けないけれど丈夫な布から作られている。袋にする黄麻布をグレーの撚糸で縛ったような。あの晩、ホテルの部屋で、ロイとわたしは優越感に浸り、二人の愛を編んで楽しんでいた。思い出すと恥ずかしくて顔が火照る。たとえそれが夢にすぎなかったとしても。
 あのときは気づかなかったけれど、なにかが起きると肉体は予感していたのだ。不意に涙ぐんだのはそのせいだろう。そのときは、気まぐれな感情のせいだと思った。生地屋で生地を見て歩いているとき、それとも料理しているとき──ロイのがに股歩きや、泥棒と格闘して前歯を折ったことを思い出し──不意に涙ぐむことがよくあったから。どこにいようと、思い出にトントンと肩を叩かれると、数滴の涙にして流してやり、アレルギーのせいとか、まつげが目に入ったとか言い訳する。イーロでのあの夜、涙が溢れ喉が詰まったのは情熱のなせる業だと思った。なにかの予兆だなんて思わなかった。
 旅行を計画したときには彼の実家に泊まるつもりでいたので、荷物にランジェリーを入れていなかった。脱がせっこゲームを白いスリップでやらなくちゃいけなくて、ロイは笑いながら愛していると言った。声を詰まらせたのは、わたしと同様、彼もなにかの予兆を感じていたからだろう。わたしたちは愚かで若かったから、欲望のせいと決めつけた。欲望ならあり余るほどあったから。
 わたしたちは疲れているけれど満ち足りて気怠い気分に浸り、のんきに未来を信じていた。彼と並んで枕にもたれ、その日の香りを吸い込んだ──川の泥の匂い、ホテルの石鹸のムスクの香り、彼の匂い、彼のしるしとなる独特の匂い、それにわたし自身の匂い。それらがシーツの繊維に染み込んでひとつの香りを作っていた。彼にもたれて閉じたまぶたにキスする。わたしは運がいいと思いながら。独身女性たちを見ていると、このご時世で結婚相手が見つかった自分は恵まれていると思う、そういう類の運の良さではない。世の中には望ましくない男ばかり──役立たずにゲイ、刑務所行きに白人女と結婚したがる男等々──で、〝まともな〟黒人男はめったにいないのだから、結婚できるだけまし、と雑誌が特集を組んで騒ぎ立てる類の運の良さでもない。たしかにそういった面でもわたしは幸運だったけれど、その人の匂いを好ましく思えるという点で、わたしはロイと結婚して幸せだと思った。昔ながらの考え方と言われるかもしれないが。
 予感がしていたから、それとも予感がしていなかったからこそ、あの夜、あれほど激しく愛し合ったのだろうか? あれは未来からの警告、舌がないのに狂おしく鳴る鐘の音? 用をなさぬ鐘がなんとか起こした風のせいで、わたしは手を伸ばし床からスリップを拾い上げ、身にまとったのだろうか? そのかすかな警報のせいで、ロイは寝返りを打ち、その重い腕でわたしを抱き寄せたのだろうか? 彼はモゴモゴとなにかつぶやいたが、目を覚ましはしなかった。
 子供が欲しかった? あの夜、わたしはベッドに横になったまま、やる気に満ちた細胞が分裂し、さらに分裂し、ついにわたしが誰かの母親になり、ロイが誰かの父親になり、ビッグ・ロイとオリーヴが、わたしの両親が誰かの祖父母となるのを予感していたのだろうか? 自分の体の中でなにが起きているのだろうと思いはしたが、自分がなにを望んでいるのかわからなかった。いたって健全な女がいたって健全な男と結婚したとき、母親になるかどうかは自由に決められるの? 大学時代、わたしは識字協会で十代の母親にボランティアで読み書きを教えていたことがあった。大変な仕事なうえ、若い女たちが修了証書を手にできないことが往々にしてあり、落胆させられた。エスプレッソとクロワッサンを前に、上司がわたしに言った。「子供を産んで黒色人種を救ってくれ!」顔は笑っていたけれど冗談を言っているのではなかった。「ここに来るような女の子たちが子供を産んで、きみみたいな娘が恋も知らずに子供も産まなかったら、ぼくらの民族はどうなる?」自分の務めは果たします、とわたしは考えなしに約束した。
 なにも母親になりたくないと言っているのではない。なりたいと言っているのでもない。小切手の有効期限はかならずくると言っているのだ。
 ロイが満足しきって眠る横で、わたしは怯えながら目を閉じた。眠りに落ちる前に、ドアが蹴破られた。それが事実だったが、報告書には、フロントの係が鍵を渡し、ドアは礼儀正しく開かれた、と記載されていた。でも、事実がなんになる? ロイの母親より六歳上の二〇六号室の女が、ちゃんと閉まらないドアが心配で眠りが浅かった、と証言していたとき、夫はわたしたちの部屋で眠っていたことをわたしは憶えている。女は被害妄想だと自分に言い聞かせたが、心配で眠るに眠れなかったそうだ。そして真夜中前に男がノブを回した。回せば開くことを知っていたのだ。暗かったが男はロイだと、製氷機の前で出会った男だとわかった。妻と喧嘩した、と男は言っていた。男の弱音にほだされるのは悪い癖だが、二度と騙されない。ロイは頭がよくて、証拠を残さないやり方をテレビで観て学んだのだろうが、あたしの記憶まで消せはしない、と女は証言した。
 でも、彼女はわたしの記憶を消せない。ロイはひと晩中わたしと一緒だった。彼女は自分を傷つけた男がどういう人間か知らないが、わたしは自分と結婚した男がどういう人間かわかっている。

 わたしはロイ・オサニエル・ハミルトンと結婚した。ロイとは大学時代に知り合った。すぐに付き合いがはじまったわけではない。彼は十九歳にしてすでにプレイボーイを自任していて、わたしは男性と遊びで付き合うタイプではない。首都ワシントンのハワード大学で悲惨な一年を過ごした後、アトランタの私立女子大スペルマン・カレッジに転入していた。大学進学でせっかく家を出たのにこのざまだ。スペルマンの卒業生である母は、わたしに心機一転、生涯の友を見つけて欲しかったようだが、わたしは幼馴染のアンドレがいてくれればよかった。生後三カ月のとき、キッチンのシンクで一緒に沐浴させられて以来の仲だ。
 わたしをロイに紹介してくれたのはアンドレだった。それも意図してそうしたわけではない。二人はキャンパスのはずれの学生寮、サーマン・ホールで隣同士だった。わたしは夜になるとアンドレの部屋に入り浸っていた。誰も信じてくれなかったが、断じてプラトニックな関係だった。彼はベッドカバーの上で、わたしは毛布にくるまって眠った。いまさらなんの意味もないけれど、アンドレとわたしはいつもそうだった。
 ロイに正式に紹介される前から、セックスの最中に彼のフルネームをつぶやく吐息混じりの声が壁越しに隣りの部屋から聞こえていた。ロイ。オサニエル。ハミルトン。
 アンドレが言った。「彼がそう言わせているんだと思う?」
 わたしは鼻を鳴らした。「オサニエルって?」
「どう考えても自発的な叫びとは思えない」
 隣りの部屋のツインベッドが壁を打つたび、わたしたちはクスクス笑った。「相手の子が勝手にこしらえたんだと思うな」
「そうかな」アンドレが言う。「皆が皆、同じ名前を思いつかないだろう」
 ロイと顔を合わせたのはそれから一カ月後だった。
 そのときもアンドレの部屋にいて、洗濯するのに小銭を貸してくれ、とロイが朝の十時に訪ねてきたのだ。慌てている様子だった。ノックもせずに入ってきた。
「あ、失礼しました」ロイは意外なものを見たという口調で言った。
「妹だよ」と、アンドレ。
「兄妹ごっこ?」ロイが二人の関係を探るように言った。
「わたしが誰だか知りたいのなら、わたしに尋ねたら」きっとだらしない女に見えただろう。アンドレの栗色と白のTシャツを着て、髪をサテンのボンネットに突っ込んでいたのだから。それでも言わずにいられなかった。
「わかった。きみは誰なんだ?」
「セレスチャル・ダヴェンポート」
「ぼくはロイ・ハミルトン」
「ロイ・オサニエル・ハミルトンでしょ。壁の向こうからそう聞こえたわ」
 それから、彼とわたしは見つめ合い、この先どんな物語が紡がれるのか手がかりを掴もうとしていた。ようやく彼が目をそらし、アンドレに二十五セント貸してくれと頼んだ。わたしはうつ伏せになって膝を曲げ、足首を交差させた。
「きみ、おもしろいね」ロイが言った。
 彼が出て行くと、アンドレが言う。「お人好しでまぬけな田舎者ってあれ、ポーズだから」
「わかってる」わたしは言った。ロイは危険な感じがした。ハワード大学で懲りたから、危険な男とは関わりたくなかった。
 まだ機が熟していなかったのだろう。それから四年経ち、大学時代がアルバムの中の思い出、べつの時代になるまで、ロイ・オサニエル・ハミルトンのことは口にせず、考えもしなかった。二人の道が交わったのは、ロイが変わったからではなかった。わたしの考えが変化して、あのころ危険だと思っていたことに〝現実〟のレッテルを貼り、底知れぬ魅力を感じるようになっていたからだ。
 でも、現実ってなに? 互いに抱いたときめきのない第一印象? それとも、よりによってニューヨークで再会を果たしたわたしたちの日常? 結婚して〝現実となった〟事柄? 片田舎の検事が、ロイには逃亡の危険があると言い放った日のこと? 検察の主張はこうだ。彼はたしかにルイジアナ州の生まれだが、現住所はアトランタだから保釈の対象にはならない。この決定を聞いて、ロイは辛辣に笑った。「つまり故郷は関係ないって?」
 わたしたちの弁護士、家族ぐるみの友人だが高額の弁護士費用はふつうに請求してくる弁護士は、夫を失うことにはならないと約束してくれた。弁護士のバンクスおじさんは即座に異議を申し立てた。それなのに、ロイは裁判がはじまるまでの百日間を拘置所で過ごした。最初の一カ月、わたしはルイジアナに留まり、義理の両親の家で寝泊まりした。あの夜、この家に泊まってさえいたら、こんな目に遭わずにすんだのだ。わたしは縫物をしながら待った。アンドレに電話した。両親に電話した。市長に人形を送ったとき、頑丈な段ボールの蓋に封をする気になれなかった。ビッグ・ロイが代わりにやってくれたのだが、その晩、テープを引き裂く夢にうなされ、それが幾晩もつづいた。
「望むような結果が得られなかったら」裁判の前日、ロイが言った。「ぼくを待たなくていい。人形作りをつづけるなりなんなり、したいことをやってくれ」
「無罪になるに決まってるわ。あなたはやってないんだもの」
「ずっと考えていたんだ。ぼくのために人生を無駄にしてくれなんて、とても言えない」彼の言葉も眼差しもべつのことを言っていた。口ではノーと言っても、うなずく首がイエスと言っている人みたいに。
「誰も人生を棒に振ったりしないわ」
 あのころは自信があった。そう信じていた。

 アンドレが出廷してくれた。わたしたちの結婚式の証人になってくれた彼が、裁判でも性格証人を引き受けてくれた。アンドレに頼まれて、わたしは四年のあいだ伸ばしていた彼のドレッドヘアをハサミで切った。わたしたちの結婚式で反抗の象徴だった髪が、切り落とされると重力に抗えず、襟足に向かって落ちていった。切り終わると、彼はあとに残った不揃いのカールに指を走らせた。

 翌日、できるだけ善良に見える服を着て、法廷に立った。両親も、ロイの両親も来ていた。オリーヴは教会用の服をまとい、並んで座るビッグ・ロイは貧しいけれど誠実な人に見えた。アンドレと同様、父も身繕いをしており、それではじめて優雅な母と〝一緒にくびきにかけられた二頭の牛〟に見えた。ロイはというと、明らかにわたしたちと同類に見えた。背広のカットとか、上等な革靴にかかるズボンの裾のカーブだけではない。ひげをきれいに剃った顔や目を見れば、彼が無実で不安がっており、裁判にかけられることに慣れていないことは一目瞭然だった。
 郡拘置所に勾留され、ロイは痩せていた。少年らしさの残る頬の丸みは消え、あいまいだった顎の線がくっきりした。不思議なことに、痩せたせいで憔悴したというより精悍に見えた。これから仕事に行く男ではなく、裁判にかけられる男という現実を唯一物語っていたのが哀れな指だった。噛まれつづけた爪は肉に埋まり、その肉も表皮を噛み取られていた。夫が傷つけたのは自分の両手だけだった。

 おそらく信じてもらえないだろうと、わたしにはわかっていた。実際、十二人の陪審員の誰一人わたしの言葉を信じなかった。証人席に立ってわたしは言った。ロイが二〇六号室の女性に乱暴できるはずがありません、わたしと一緒にいたのですから。わたしはマジック・フィンガーズが動かなかったこと、テレビの砂嵐の出た画面で観た映画のことを話した。検事は夫婦喧嘩のことを突いてきた。動揺したわたしはロイを見て、それから両方の母に目をやった。バンクスが異議を唱えたので、検事の質問に答えずにすんだけれど、口ごもったせいで、新婚生活でわたしがよからぬ隠し事をしていたような印象を与えてしまった。証人席を離れるときにすでに、自分が彼を不利な立場に立たせたことを自覚していた。わたしの証言は説得力がなかったのだろう。芝居っ気が足りなかった。よそ者感を醸しすぎた。でも、ほかにどうすればよかったの? バンクスおじさんは事前の打ち合わせで言った。「理路整然とした物言いは求められない。感情に訴えないと。ありのままに、ハートで語るんだ。検事になにを訊かれようと、陪審員にわかってもらうべきは、きみがどうして彼と結婚したかだ」
 せいいっぱいやったけれど、人前で〝きちんと話す〟こと以外にどう振舞えばいいのかわからなかった。わたしの作った作品を持ってくればよかったと思った。ロイをイメージした〝変化する男〟シリーズ──大理石の彫刻、人形、それに水彩画数点。そしてこう言うのだ。「これがわたしから見た彼の姿です。美しくありませんか? やさしそうでしょう?」でも、わたしにあるのは言葉だけで、空気と同じぐらい軽く薄っぺらだった。アンドレの隣りの席に戻ったわたしを、黒人女性の陪審員ですら見ていなかった。
 きっとテレビの見すぎなのだろう。科学者が出廷してDNA鑑定について述べてくれると期待していた。最後の最後になって、ハンサムな刑事二人が法廷に飛び込んできて、検事になにやら耳打ちするのを待っていた。そうして、この裁判が大きな間違い、大変な誤解だとみなが納得するのだ。みんなが動揺しつつもほっと胸を撫でおろす。法廷を出るときは夫と一緒だと信じて疑わなかった。家に戻って落ち着いたら、アメリカでは黒人男性はけっして安心できないと人々に訴えるつもりだった。
 ロイに言い渡されたのは懲役十二年の刑だった。出所するころ、彼もわたしも四十三歳になっている。そんな年齢の自分を想像もできない。十二年は永遠に等しいと、ロイにもわかったのだろう。被告席で彼は泣き崩れた。膝がガクッと折れて椅子にへたり込んだ。判事は言葉を切り、立って聞くように、とロイに促した。彼は立ち上がり泣いた。赤ん坊のようにではなく、唯一大人の男ができる泣き方、足元から伝わって胴体を震わせ、ついに口元までせり上がってくる慟哭だった。リトルリーグで挫折したときも、十代で胸が張り裂けたときも、前の年になにかで心が傷ついたときにも流さなかった涙が、積もりつもってついに溢れ出てしまった、そう思わせる慟哭だった。
 ロイが泣き叫ぶあいだ、わたしの指は顎の下の擦り切れた皮膚をまさぐっていた。わたしの記憶によれば彼らがドアを蹴破って入ってきたとき、ほかの人々の記憶にはドアはプラスチックの鍵によって開けられたと刻まれているけれど、とにかくドアが開くと、わたしたちはベッドから引き摺り出された。彼らはロイを駐車場まで引き摺っていき、後を追ったわたしは白いスリップ姿で彼にしがみついた。誰かがわたしを地面に叩きつけ、顎が舗装を打った。スリップはめくれ上がり、わたしのすべてがそこにいる人すべての目に晒されるなか、わたしの歯がやわらかな下唇にめり込んだ。かたわらにいるロイがなにか言っているのはぼんやりとわかったけれど、その声はわたしの耳に届かなかった。どれぐらいの時間そこに倒れていたのだろう。ふたつの墓みたいに並んで。夫。妻。神が結び付けた二人を、誰も引き離すことはできない。

続きは本書でお楽しみください。


An American Marriage
by Tayari Jones
Copyright © 2018 by Tayari Jones

Epigraph by Claudia Rankine from Citizen: An American Lyric,
copyright © 2014 by Claudia Rankine.
Used by permission of Graywolf Press. All rights reserved.

Published by arrangement with Algonquin Books of Chapel Hill,
a division of Workman Publishing Company, Inc., New York,
through Japan UNI Agency, Inc., Tokyo

Published by K.K. HarperCollins Japan, 2021

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