『ジミー・ペイジの真実』【試し読み】
『ジミー・ペイジの真実』
クリス・セイルヴィッチ [著]/奥田 祐士 [訳]
(以下、本文より抜粋)
まえがき
序 章
第1章 サリーのスパニッシュ・ギター
第2章 ネルソン・ストームからセッション・プレイヤーに
第3章 シー・ジャスト・サティスファイズ
第4章 ベックス・ボレロ
第5章 欲望
第6章 「1000ドルぽっちのためにオレを殺すつもりか?」
第7章 「鉛の飛行船みたいに」
第8章 アメリカからの引き合い
第9章 〈胸いっぱいの愛を〉
第10章 《レッド・ツェッペリンⅡ》
第11章 「汝の思うところを為せ」
第12章 大いなる獣666
第13章 輝けるものすべてが
第14章 ZOSOの伝説
第15章 天使の街
第16章 王様(キング)とジミー・ペイジ
第17章 コカインの夜と幽霊屋敷
第18章 亡命中の事故
第19章 ケネス・アンガーの呪い
第20章 直接対決
第21章 交戦規則
第22章 ボンゾ最後の戦い
第23章 隠者
第24章 中年のギター神
第25章 魔法使いの弟子
第26章 不死鳥の飛翔
謝辞
参考文献
まえがき
1975年2月のある肌寒い夜、ジミー・ペイジは黒いキャデラックのリムジンで、デヴィッド・ボウイが借りていたマンハッタン20丁目の家に向かった。レッド・ツェッペリンのリーダーとボウイは、ペイジがボウイの初期のレコード数作でプレイした60年代なかば以来の知り合いだった。
このふたりにはまた、ロリ・マティックスを通じたつながりもあった。ツェッペリン陣営では少なからぬ懸念の種となっていた、ロスアンジェルスに暮らすペイジの未成年の愛人である。彼女の存在は世界最大のバンドが、罪に問われる可能性を示唆していた。ほとんど知る者はいなかったが、マティックスの処女をまだほんの14歳のときに奪ったのは、ほかならぬボウイだった。
2人のスーパースターはミック・ジャガーを介して旧交をあたため、その流れでボウイはペイジを自宅に招待した。彼はガールフレンドのアヴァ・チェリーと3人で、もっぱらコカインのラインと赤ワインを楽しむ一夜をすごすつもりでいた。
〝気のふれた男優(クラックド・アクター)〟期の渦中にいたボウイは、噂(うわさ)によるとミルクとコカイン以外なにも口にせず、狂気の淵(ふち)に立たされていた。彼は1960年代末にその哲学の一端に触れたアレイスター・クロウリーの著作をむさぼるように読み、ペイジのオーラが強化され、岩のような硬度でパワーを轟(とどろ)かせているのは、クロウリーに関するこのギタリストの知識のおかげに違いないと信じていた。
だが魅了されると同時に、ボウイはペイジをいちじるしく警戒していた。映画作家ケネス・アンガーの傑作オカルト映画『ルシファー・ライジング(Lucifer Rising)』のために、ペイジが手がけるサウンドトラックの進展具合──あるいは停滞具合──に関する短いやりとりはあったものの、会話は概して弾まなかった。強力なオーラを育むための手立てをボウイがいくら聞きだそうとしても、決して答えが得られることはなく、ペイジはただ謎めいた笑みを浮かべるだけだった。
「自分には宇宙を支配する力があると信じているような感じだった」とボウイの所属事務所、メインマンのスタッフだったトニー・ゼネッタは著書の『スターダスト(Stardust)』〔*未訳〕に書いている。加えてペイジはボウイが自分の頭脳をピッキングし、魔法使いの技を解き明かそうとしていることを痛いほど意識していた。
ボウイが部屋を出ていたとき、ペイジは誤って赤ワインをサテンのクッションにこぼしてしまう。シンガーがもどってくると、ペイジは部屋にいなかったアヴァ・チェリーにその罪を着せようとした。
すでにゲストの不可解な態度にいら立っていたボウイは、あからさまな噓をついたペイジに「帰ってもらおうか」と告げた。
それでもペイジはただ、ボウイに笑みを向けるだけだった。ボウイは開いていた窓を指さし、怒気をはらんだ声で言った。「窓から出ていったらどうだ?」
ペイジは得体の知れない引きつった笑みを浮かべたまま、座った姿勢を崩さず、ボウイの向こう側を見つめていた。だがついにレッド・ツェッペリンのリーダーは無言で立ちあがり、正面玄関を出て、背後のドアを荒々しく閉じた。
ボウイはおびえていた。彼はすぐさま、この家を悪魔払いするように命じた。もともと繊細なところにドラッグでなおのこと神経過敏になっていたボウイは、「あの家はクロウリーの使徒たちが地獄から直接召喚した、邪悪なデーモンたちに蹂躙(じゅうりん)されてしまった」と信じていた。
その後、あるパーティーでペイジと顔を合わせたとき、ボウイはそそくさとその場を退散した。
序章
レッド・ツェッペリンの警備担当、ジョン・ビンドンは、オークランド・コロシアムの楽屋用トレーラーで舞台係のジム・マツォーキスを床に叩(たた)きつけた。ロンドン裏社会の住人で、たまに俳優の仕事をしていたビンドンは、噂によるとある男の睾丸(こうがん)を嚙(か)みちぎったことがあり、この出来事の翌年には別の男を刺殺した嫌疑をかけられるならず者だった。そのビンドンが今、こぶしと足でマツォーキスをいいようになぶっていたのだ。だがマツォーキスが本心から危険を感じたのは、ビンドンが舞台係の目をえぐりだそうとしたときだった。
この日、1977年7月23日土曜日は、ほぼ最初から不穏な空気が漂っていた。ツェッペリンのメンバーとスタッフの多くは、あたかも4月1日にはじまった全51本のツアー中に消費してきた大量のドラッグにすべてを委ねてしまったかのごとく、つねに怒気をはらんでいるように見えた。
ジミー・ペイジは後日、あの日起こったことは、興味本位でオカルトに手を出していた彼に対する、因果応報的な懲罰だったという見方を筆者の前で否定する。「自分たちが特に……邪悪な真似(まね)をしているとは思わなかった」と彼はその2年後に語っていた。
なによりも皮肉だったのは、その日、オークランド・コロシアムで起こったレッド・ツェッペリンの運命とキャリアを激変させる出来事が、ビル・グレアムのお膝元でくり広げられていたことだ。グレアムのフィルモア・ウェストは、ペイジが以前所属していたヤードバーズが高い人気を誇り、グレアムがニューヨークでオープンしたフィルモア・イーストともども、初期のレッド・ツェッペリンが大々的なブレイクを果たしたライヴ会場だった。ビル・グレアムとレッド・ツェッペリンのマネージャー、ピーター・グラントのあいだには利害の錯綜(さくそう)があり、それまでは双方にとって都合のいい結果が出ていたものの、実際にはいつ破局を迎えても不思議のない関係だった。グレアムはアメリカでもっとも有力な音楽プロモーター。その一方でグラントは、アメリカにおけるマネージャーとプロモーターの関係を、しばしば手荒な手段を用いて一新させていた。だがどれだけグラントが人をおびえさせようと、グレアムも気性の荒さでは負けていなかった。
その前夜、デイ・オン・ザ・グリーンと銘打たれた6万5000人を動員するイヴェントの興行を受け持つグレアムは、レッド・ツェッペリンが宿泊していたサンフランシスコ・ヒルトンに呼びだされ、ギャラの前払い金として2万5000ドルのキャッシュを要求された。スイートに足を踏み入れたとき、グレアムはカウボーイ・ハットをかぶった地元の売人の存在に気づいた。彼は瞬時にその金の使い道を理解した。
開演の20分前にようやく姿を見せたペイジは、明らかにドラッグ──その時点ではもっぱらヘロインだった──で正体を失い、グレアムはステージとは見当違いの方向にふらふら歩いていく彼を、なすすべもなく見つめていた。側近のひとりがそれに気づき、ペイジを正しいコースに向かわせた。出番の途中で四つんばいになったビンドンがステージにあらわれ、ペイジのブーツをなめはじめた。
異常なまでに太ったピーター・グラントがゼイゼイ息を切らしながらステージに上がろうとしているのを見て、ステージ・スタッフのジム・ダウニーが、傾斜がきつくて大変ですねと同情の声をかけた。するとグラントにつきそっていたビンドンがダウニーに殴りかかり、彼はコンクリートの柱に叩きつけられて気を失った。
「なにがあった?オレがいったいなにをしたって言うんだ?」と息を吹き返した犠牲者は問いかけた。明らかにダウニーは、結果的に最後となるレッド・ツェッペリンの全米ツアーに際し、マネジメント・サイドが出した傲慢きわまりないお触れを知らなかった──最初に話しかけられない限り、グループのメンバー、あるいはグラントと話すことはまかりならん(グループの飛行機に同乗したジャーナリストのスティーヴン・ローゼンは、このことを痛いほど思い知らされる。普段は温厚なベーシストのジョン・ポール・ジョーンズに激しくののしられ、インタヴューのテープを全部よこせと要求されてしまったのだ──その数年前にツェッペリンをジェフ・ベック・グループと比較したローゼンが、あまり好意的とは言えない評価を下していたことへの意趣返しとして。それはこのツアーの支配的な雰囲気を象徴する出来事だった)。
「レッド・ツェッペリンで気に食わなかったのは、連中が力ずくでこっちを抑えこもうとしたことだ」と後年、グレアムは書いている。「連中がプロモーターを脅しつけて好条件を引きだしたという話は、ほかの街からしょっちゅう伝わってきた。最後の1セントまで搾りとられ……連中の警備のひどさについても、いろいろと聞かされていた」
だが彼を待ち受けていたのは、そのはるか上を行く事態だった。コンサートの中盤、ペイジのアコースティック・セットの最中に、マツォーキスは楽屋用のトレーラーのドアから木製の名札を取りはずしている子どもに気づいた。翌日のコンサートでも、再度使用する名札である。そこには前座を務めるジューダス・プリーストとリック・デリンジャーの名前も記されていた。マツォーキスはその子どもに、元にもどせと命じた。だが子どもは持って行くと言って聞かない。やむなくマツォーキスは名札を奪い取り──その際に彼は子どもの後頭部を平手で打ったと言われているが、本人は一貫して否定している──保管しておくために、倉庫用のトレーラーに持って行こうとした。マツォーキスは知らなかったが、この子どもはピーター・グラントの11歳になる息子、ウォーレン・グラントだった。
数分後、まだ倉庫用のトレーラーにいたマツォーキスに、レッド・ツェッペリンのドラマー、ジョン・ボーナム──ペイジのアコースティック・セットのあいだはなにもすることがなかった──が、外の小さな階段の下から声をかけた。ピーター・グラントも一緒だった。
「わたしの子どもにああいう口をきくことは許さん」とグラントは、トレーラーの戸口に立っていたマツォーキスに告げた。筋肉と酒太りでふくれあがったボーナムは、グラントの警備担当よろしく、じっとその隣に立っていた。するとグラントはネチネチとした口調で、次第にことを荒立てはじめた。「わたしの子どもにああいう口をきくことは許さん。誰だろうとだ。なんならおまえをクビにしてやろうか」グラントはこの伝でしゃべりつづけ、「子どもを痛めつけた」マツォーキスを責め立てた。「あの子は殴られたと言っていたぞ」
階段をのぼったボーナムに股間を蹴りあげられ、舞台係はトレーラーの中に倒れこんだ。なおも攻めかかろうとするドラマーを2人の警備員が押し止め、逃げろとマツォーキスに大声で呼びかけた。彼は裏口から外に逃げた。
この一件を知らされたとき、グレアムは自分のトレーラーにいたグラントに会いに行った。彼は20分にわたって熱弁をふるい、マツォーキスを弁護したが、グラントはいっさい自分の考えをあらためようとしなかった。「おたくの人間がうちの人間に手を出したんだ。わたしの息子に。こんなことがあっていいのか? どういう人間を雇っているんだ? あんたにはえらく失望したぞ」
「問題の男と話をさせろ」とグラントはくり返し要求し、あげくはただこの問題を引き起こした「男」に会って「和解したい」だけだと言いだしたため、グレアムはしぶしぶながら、マネージャーの要求に応じることにした。
別のトレーラーにいるマツォーキスのところに向かいながら、グレアムはグラントの両脇を、2人の男が固めていることに気づいた。その片割れはビンドンだった。
グレアムがグラントをマツォーキスに紹介すると、レッド・ツェッペリンのマネージャーは舞台係につかみかかり、指輪だらけのこぶしで顔面を殴りつけた。マツォーキスは椅子にへたりこみ、グレアムがグラントに飛びかかると、警備担当の1人がこのプロモーターを抱えあげて、階段の下に放りだした。男はトレーラーのドアを閉じ、その前に立ちはだかった。
トレーラーの中で、ビンドンはマツォーキスをはがいじめにし、グラントは彼をいたぶりはじめた。顔を何度となく殴りつけて歯を1本へし折り、金的を蹴りあげた。
助けを求めて叫ぶマツォーキスは、どうにかビンドンのいましめを解き、トレーラーの奧に逃げこんだ。だがビンドンはそんな彼に跳びかかり、目を狙ってきた。アドレナリンの力を借りてマツォーキスは身をよじり、ドアに向かった。
立ちはだかる警備担当の男をよそに、トレーラーを脱出したマツォーキスは、楽屋用のエリアを逃げまわった。
その間に金属のパイプで武装したツアー・マネージャーのリチャード・コールは、執拗(しつよう)にトレーラーの中に入ろうとしていた。だがビル・グレアムの参謀役を兄弟で務めるボブ・バルソッティに阻止され、コールは彼につかみかかった。その日、コールがずっとドラッグをやっているのを見ていたバルソッティは、彼が錯乱しているのに気づいて駆けだした。駐車場に誘いだされ、いいように引きずりまわされたコールは、そこで完全にグロッキーになった。
その時点でグレアムの警備担当数名は、車のトランクに隠してあった〝ハジキ〟を取りに行っていたが、ヴェテランの楽屋スタッフのひとりが、翌日にもレッド・ツェッペリンのライヴがあることを、あらためて関係者全員に思いださせた。もしバンドがあらわれなかったら、6万5000人の観客が暴動を起こすのは目に見えている。それでもグレアムのスタッフのあいだには、明日こそツェッペリンと彼らのチームに〝一発〟食らわせてやるという合意ができあがっていた。プロモーターもこの考えに同意し、もし翌日レッド・ツェッペリンとその仲間たちに〝ひと泡吹かせる〟ことができなかった場合は、次の公演地であるニューオーリンズに配下の人間を25人送りこみ、そこでリヴェンジを果たすという案を出した。
その晩、グレアムは退院したマツォーキスをかくまっていた自宅で、レッド・ツェッペリンの弁護士から電話を受けた。弁護士は〝ささいな口論〟のせいでレッド・ツェッペリンが訴えられることのないように、マツォーキスが免責の書類に署名することを求めた──その書状を受け取れないと、レッド・ツェッペリンは翌日「プレイすることが困難になる」だろう。
グレアムは署名に同意した。彼は自分の弁護士から、脅迫による同意には法的な拘束力がないと聞かされていた。さらにグレアムには計画があった。オークランドで日曜日のコンサートを終えたあとも、レッド・ツェッペリンがさらにひと晩サンフランシスコに泊まることを知っていた彼は地方検事と話をつけ、月曜の朝に罪人どもを逮捕させる手はずを整えた。
日曜のコンサートでは、グレアムのスタッフ全員がレッド・ツェッペリンに対する敵意をあらわにし、バンドとその関係者を誰彼かまわずにらみつけた。ペイジはコンサートの大半を座ったままプレイし、彼とジョーンズはどちらも退屈そうにしていた。しかしロバート・プラントはすばらしい歌を聞かせ、ときおりグレアムのほうを見て同情的な言葉を口にした。ブートレッグを聞くと、これは前日よりもはるかに内容のいいライヴだったことがわかる。その理由のひとつは、ツェッペリンがドラッグ抜きでステージに登場したことだった。それでもこれは緊張をはらむライヴで、観客の多くは酔っぱらい、やたらと騒ぎ立てていた。前日、会場で殺人事件が起きたという噂も駆けめぐっていた。
翌日、ボーナム、グラント、ビンドン、コールはサンフランシスコ・ヒルトンで逮捕され、うしろ手に手錠をかけられて、港をへだてたオークランドに護送された。彼らはそこで3時間、監房に入れられた。もしこの事件が刑事裁判になれば、関係者は全員国外退去になり、かなりの可能性でアメリカでは、もう二度と仕事ができなくなってしまう。これは金銭的にもゆゆしい問題だった。
ボーナムには暴行の容疑が1件かけられ、グラントも同様だった。コールとビンドンはどちらも2件、暴行の容疑をかけられた。彼らの逮捕とオークランド・コロシアムでの事件に関するニュースは世界中で報道された。最終的に彼らはそれぞれの容疑について、250ドルを支払って保釈された。
ホテルでの逮捕劇が進められていたとき、ジョーンズは裏口からヒルトンを脱出しようとしていた。家族と一緒にキャンピングカーに乗りこんだ彼は、サンフランシスコを出てオレゴン州とワシントン州に向かった。ニューオーリンズのルイジアナ・スーパードームでおこなわれる次の公演前に、そこで休暇をすごす予定になっていたのだ。彼は公演当日の7月30日に、バンドと合流するつもりでいた。
「わたしの考えでは、この不祥事を黙認していたほかのメンバーたちも、全員が100パーセント同罪だった」とピーター・バルソッティは語っている。「それにあんな目に遭わされたのは、わたしたちだけじゃない。たまたまわたしたちが最後だっただけだ。泣き寝入りせずに声を上げたのは、わたしたちだけだった。実際に調べてみると、あのツアーではこの国のいたるところで、似たような事件が起こっていた。ズタボロにされたホテルの部屋。ズタボロにされたレストラン。ペンシルヴェニアのあるレストランでは、文字通り2万ドルにおよぶ損害を与えていた。まさしく狼藉(ろうぜき)だ。連中はウェイターやレストランの人間を肉体的に痛めつけ、そのあと金でケリをつけていた。
連中はコンサートのあとも、おとなしくしていなかった。いわゆる〝客席からいい女を見つくろってこい〟ってやつだ。傾斜路のそばで、あの連中が女を呼んでいるところを見たことがある。あんな気持ちになったのは、あの時がはじめてだった。まるであの娘たちが、生贄にされているような感じがしたんだ。わたしは娘たちの肩をつかんで、『悪いことは言わないから行くのはよせ』と言ってやりたかった。わたしだって決して品行方正な男じゃない。だがあの娘たちのことが心配でたまらなかった」
通常なら考えられない話だが、事態はさらに悪化した。7月26日、ニューオーリンズのロイヤル・オーリンズ・ホテルに到着したプラントのもとに、イギリスにいる妻から電話が入った。彼女は夫に、5歳になる息子のカラックが重体に陥り、病院に運ばれたことを伝えた。
少ししてまた彼女から電話があった。カラックが死亡したという。
激しいショックを受けたプラントはイギリスに飛んで帰った。11回目となるレッド・ツェッペリンの全米ツアーは、それっきり全日程がキャンセルされた。
カラックの葬儀には、ボーナムとコールも参列した。だがそこにペイジの姿はなかった。代わりに彼はカイロに飛び、贅(ぜい)を凝らしたメナ・ハウス・ホテルでピラミッドに取り囲まれていた。ジョーンズはジョーンズでそのまま家族との休暇を再開させ、グラントもやはりアメリカに居残った。プラントはこのことを、しっかりと記憶に留(とど)めた。
7月26日に、グレアムはツェッペリンのマネージャーから電話を受けた。「あんたはさぞかしご機嫌だろうな」グラントは聞き取りにくい声で言った。
「いったいなんの話だ?」とグレアムは訊(き)いた。
「ロバート・プラントの息子が今日死んだんだ、おまえさんのおかげでな」
それはジミー・ペイジのレッド・ツェッペリン・プロジェクトがおかしくなってしまった理由をすべて言いあらわしたような、不条理なコメントだった。
カラック・プラントの死は、嫌でも《聖なる館(House of Holy)》のジャケットで小山を登るブロンドの裸児(はだかご)たち、とりわけ生贄(いけにえ)のように高く差しあげられる子どものイメージを連想させた。それはきっと、帰国便の機内で悲しみに打ちひしがれるロバート・プラントの脳裏をよぎったものでもあったはずだ。
オークランドの事件とシンガーの息子の死は、1968年のレッド・ツェッペリン結成以来、世界的に成功した英国人ロック・スターの役割を、誰よりもみごとに演じきっていたジミー・ペイジの派手な──そして間違いなく傲慢さが招いた──転落を象徴する出来事だった。
「ジミー・ペイジは偽善にまみれた1950年代の英国で育ち、3つのコードに救いを見いだした」と友人のマイケル・デ・バレスは語っている。「レッド・ツェッペリンが巨大化していたあの時期、田舎を狂ったように疾走する馬車の燃料が、ヘロインだったのは間違いない。それは避けようのないことだった」
レッド・ツェッペリンの神秘性は、そのほぼすべてがペイジという尽きせぬ謎を通じて打ち立てられてきたものだ。やがては弟子のプラントも、成長とともにグループ内で別種のリーダーシップを発揮しはじめる。ツェッペリンの複雑なビートは、すばらしく詩的で趣のある歌詞と並び、ほぼ10年間にわたってポピュラー文化の支配的なサウンドトラックとなっていた。だが音楽はあくまでも部分的な要素でしかない。もしペイジが形のないロックンロールのイメージを完全に把握していなかったとしたら──たとえば完璧なスタイルでリムジンを降りるにはどうすればいいか?──レッド・ツェッペリンがロックンロールの神々の神殿にその座を約束されることもなかったはずなのだ。
最初から──まつげをパチパチさせる少年聖歌隊員のような顔で写った、最初の宣材写真から──ペイジは絶対的な自信と傲慢な支配欲、そしてその陰には邪悪ななにかが潜んでいることをうかがわせる、かすかな笑みを浮かべていた。1968年に、銀行強盗ご用達(ようたし)の車と呼ばれていたジャガー・マークⅡ3・8のボンネットに腰かけるレッド・ツェッペリンのメンバー4人を撮った、ごく初期の写真がある。ペイジは当時の流行だったダブルのオーヴァーコートをまとい、襟を小粋に立てている。カールした黒髪の合間からカメラをにらみ、自信と落ち着きを匂わせている。こうしたイメージは、アトランティック・レコードが配布した最初の公式な宣材写真にも受け継がれた──山羊座(やぎざ)ならではの支配力を存分に発揮して、ほかのメンバー3人を従えるペイジ。弦をあやつる彼の手は、ミッドランド州出身の青二才2人、ドラマーのジョン・ボーナムとプラントの肩に置かれている。プラントはさながら、ヘッドライトに捕らえられたファウヌスのようだ。
彼らの外見──とりわけペイジの──は、チャールズⅠ世麾下(きか)の騎士たち、なかでも清教徒革命で戦死する2人のティーンエイジャーを描いたアンソニー・ヴァン・ダイクの1638年の作品『ジョン・ステュアート卿(きよう)と弟バーナード・ステュアート卿(Lord John Stuart and His Brother, Lord Bernard Stuart)』を思わせる。
6フィートに半インチ足らず、いつも官能的なヴェルヴェットとセクシーなフリルつきのシャツをまとい、下あごにはしばしばうっすらとしたひげ、そしてつねにアンドロギュノス的な異質感のオーラを発散していたペイジは、多くの女性たちの目に──そして多くの男性たちの目にも──みだらなセックスの権化のように映っていた。このイメージは、聴衆の鼓膜を強打する20分のギター・ソロともども──〈幻惑されて(Dazed and Confused)〉で彼が用いるヴァイオリンの弓は、明らかに観客をあやつる魔法使いの杖(つえ)を兼ねていた──彼のアートに欠かせない要素だった。
しかもこれは手はじめでしかない。このロマンティックなダンディーは、お堀のある城で暮らしている。ジミー・ペイジは見たところ、絶えずタチの悪いドラッグをやっていながら──史上最大のUKロック・スター杯では、ただの着外でしかないキース・リチャーズと異なり──絶対に逮捕されない……すくなくともレッド・ツェッペリンが終わるまでのあいだは。さらに彼はひとつの音楽ジャンル──ヘヴィ・メタル!──をまるごと生みだした男と目されているが、実のところ彼のグループはこの音楽にほとんど関与していない。彼の真の目的は、英米のフォークの伝統を、ハード・ロックのガレージ・バンド的な感覚と融合させることだった。
その孤高ぶりで名高い彼は、さながらロックンロール界のハワード・ヒューズだ。しかしジミー・ペイジのイメージ自体、多くの面で、デヴィッド・ボウイのあまたあるペルソナに負けず劣らず、構築されたものだった。念のために──あまり深刻に考えすぎることのないように──指摘しておくと、彼自身のペルソナを分析した場合、そこにあらわれるのは往々にして、スクリーミング・ロード・サッチの高級芸術ヴァージョンに毛が生えたようなものでしかない。この配管工上がりのロックンロール・ショウマンがリリースした魅力的なまでにキッチュなショック・ロックのレコードには、ペイジもセッション・ギタリストとして参加していた。
「1960年代にわたしが仕事をした連中はみんな、ロックンロールをショウビジネスの一部だと思っていた」とロッド・スチュアートのいたショットガン・エキスプレスや、1969年4月にサンフランシスコでレッド・ツェッペリンの前座を務めたブライアン・オーガーズ・トリニティのベーシストだったデイヴ・アンブローズは語っている。その後A&Rマンに転身したアンブローズは、セックス・ピストルズ、デュラン・デュラン、ペット・ショップ・ボーイズらの人気アーティストと契約を結んだ男だった。
ペイジの浪費──宮殿のごとき住居、自分では運転できない(試験にパスできなかった)ヴィンテージ・カー、レアなギターの厖大(ぼうだい)なコレクション──の数々は、その多くが世界の富裕層や影響力のある層から尊敬や支持を取りつけ、人々に自分の存在を意識させ、すでにとことん謎めいていた人物像をさらに謎めかせ、たとえ世界のどの街にいようと、自分をVIPの地位に留めることを目的としていたように思える。
だが同時にこの男は、本来は手を出すべきではないとわかっていたものを手に入れた上で、体制に舌を出す反逆児だった。レッド・ツェッペリンの場合、そこにはつねに自分たちは断固として〝アンダーグラウンド〟だという意識があり、バンドはそのほぼ全キャリアを通じて、その役割を完璧に、堂々と演じつづけた。TVにはほとんど出演せず、自国では1枚もシングルをリリースしなかったツェッペリンは、ごく初期の時代から、独自のアウトサイダー的な立ち位置を確保していた。ある意味『ローリングストーン』──のちにペイジが忌み嫌うようになる雑誌──に掲載された、彼らのファースト・アルバムを酷評するジョン・メンデルスゾーンのレコード評は、かえって好都合だったのかもしれない。レッド・ツェッペリンの成功に拍車をかける、〝オレたち対あいつら〟的な態度のきっかけをつくってくれたからだ。
彼らの神話が無残に打ち砕かれる1977年ともなると、レッド・ツェッペリンは肥大化したロックの象徴──新たなパンク・ロック・ムーヴメントの全面的な敵と見なされてしまうのだが、デビューした1968年当時の彼らは、どんなパンクにも負けないぐらい反体制的だった。
「誰もが不思議に思っているのは、なぜ彼は新しい音楽をつくらないのか? ということだ」とマイケル・デ・バレスは語っている。「じゃあ逆に訊くが、なぜそうする必要がある? ジミー・ペイジは彼自身が芸術品だ。パフォーマンス・アーティストだし、自分のレガシーのキュレーションで忙しくしている。アレイスター・クロウリーをローディーにしていた男がほかにいるか? そしてそれは功を奏した。レッド・ツェッペリンはバンドじゃない。連中はカルトだったんだ。
レッド・ツェッペリンは安っぽいアメリカの街の駐車場でたむろするぐらいしか能のない少年、ローリング・ストーンズのあからさまなデカダンスはピンと来ない少年たちを一堂に集めた。代わりにレッド・ツェッペリンがそいつらの信仰対象になったわけだ。バンドは不満を抱く行き場のない連中のよりどころとなって、少年たちを団結させた。そしてそいつらはグループの幻想世界とそのテーマを受け止め、それをもとに独自のグループ像を思い描いていったんだ」
世界はまさしくそうした存在を待っていた。〈悪魔を憐(あわ)れむ歌(Sympathy for the Devil)〉(1968年)を書いていたころ、ローリング・ストーンズのミック・ジャガーとキース・リチャーズはカリフォルニアの映画作家にしてオカルティストのケネス・アンガーと親交を結んでいたが、翌年のオルタモントでの悲劇を機に──あたかもこうした分野では、彼らがライト級でしかないことをはっきり証明するかのように──すっぱりと縁を切った。代わりに高まる一方だったオカルトに対する一般の関心にサウンドトラックを提供したのは、長年、意識や現実の変容に学問的な興味を抱いていたペイジ率いるレッド・ツェッペリンだった。1972年に『タイム』誌は、〝サタンの帰還〟と銘打った巻頭特集を組んだ。シンプルに『オカルト(Occult)』と題するコリン・ウィルソンの画期的な大著が刊行されたのは、1971年のことだった。より大衆的なレヴェルでは、1970年にスタートした分冊シリーズの『人、神話、魔術(Man, Myth and Magic)』〔*未訳〕が、世界の秘密をわかりやすい文章で解説し、新たに目覚めた、第三の目を持つ人々の胸を躍らせた。分冊シリーズの通例に従い、『人、神話、魔術』は、オースティン・オスマン・スパーの描く悪魔的なキャラクターを用いたTV-CMで大々的に宣伝された。スパーはアレイスター・クロウリーと親しく、〝イギリス最高の無名画家〟と称されることもあった男である。ペイジはスパー作品の世界的なコレクターとなった。
そのころになるとレッド・ツェッペリンの存在そのものが、禍々(まがまが)しいものになっていた。たとえば1979年に『NME』紙で、ペイジにかなり切りこんだ内容のインタヴューをしたとき、筆者は先輩の編集者から、反動が怖くないのかと質問された。この本を執筆していることを知り合いに話したときも、似たような反応があった。「ジミー・ペイジ? 黒魔術か?」
何年かは──10年ほど──これがペイジの一般的なイメージだった。むろん時はすべてを癒す。となると21世紀の最初の10年間が終わるころ、本人も70代に入ったペイジが汚名をそそぎ、あらゆるクラシック・ロックのスターの中で、もっとも愛され、もっとも敬われる存在となっていたのも、さほど驚くようなことではない。
この男がほぼ独力で、ギター・ヒーローという概念を現代文化の中に打ち立てたことを思えば、そうした名誉挽回(めいよばんかい)も十分ありだろう。「エリック・クラプトンはどうなんだ?」と訊かれるかもしれない。その答えはノーだ。クラプトンの道のりは、あまりに多岐に渡りすぎている。ペイジがギター・ヒーローの王冠に値するのは、思わずハッとしてしまう、邪悪なまでに魅力的な外見に支えられながら、レッド・ツェッペリン号に乗って築きあげてきた業績の特異さがあればこそなのだ。ギター・ヒーロー? むしろ、ギター・ゴッドと言うべきだろう。
並はずれた経歴を誇る彼だけに、この上なく暗鬱なエリアに足を踏み入れたこともあった──だが彼を突き動かしてきたのはつねに、自分のアートに対する探求心だった。ペイジが自身の創造力を解き放つために用いた手段の中には、おいそれとは認められないものもあるかもしれない。また見栄っぱりで、傲慢で、狂信的で、権力欲が強く、私生活では自堕落な男という印象を、どうしても受けてしまう向きもあるかもしれない──言うまでもなくそれは、逆にファンの崇拝心を大いにかき立ててもいた。しかし彼に対する非難の多くは、あまたいる敵の捏造(ねつぞう)、あるいは少なくとも誇張だった可能性もある──とはいえ時代が時代だけに、その多くはただの神がかったざれ言にすぎなかった。
間違いなくペイジは、彼の時代の産物だった──野心的で、世間に通じた、快楽を愛する男。だが悪魔的な邪悪さのカリカチュアは、大部分が念入りにつくられた神話だ。むろん当人がおもしろがって、拍車をかけていた面もある。クロウリーの屋敷、ボレスキン・ハウスに設けられた最初の教会の信徒たちが焼死するまでの経緯を真面目くさった口調で語ることで、ペイジは自分自身を、悪霊じみた奇人集団とのあいだにひと筋縄では行かないつながりを持つ、形而上学(けいじじようがく)的にハードで、宇宙的にタフなマザーファッカーとして位置づけた。それはもちろん、影響を受けやすい女性たちの気を惹(ひ)く格好の手段でもあった。星を見てあげようと言って女の子を自室に連れこみ、そのままいただいてしまう大学生〝占星術師〟の変種である。
ペイジは一時、メンバーにアイルランド人詩人のW・B・イェイツやクロウリーを擁する19世紀末のオカルティスト集団、黄金の夜明け団に心酔していた。だがクロウリーは──当然のように──自分の詩才がイェイツに勝ると考え、最終的にはこのアイルランド人と決裂してしまう。
「黄金の夜明けの魔術は、クロウリーのそれと同様、いわゆる〝想像した神の姿〟と大きな関わりを持っている」とゲイリー・ラックマンはクロウリーの評伝に書いている。「それは自分自身を包みこむ神の姿を思い描くことで、魔術師が、呼びだしたいと願うある特定の神になったと想像することだ」ただしペイジの場合、呼びだしたいと願うその〝特定の神〟は、おそらく本人以外に考えられなかった──ロック神、ジミー・ペイジ。
そしてこのスタンスは、ステージでの立ち居ふるまいをふくめ、彼という存在の全側面に行き渡っていた。
「表面的に見ると、ペイジのライヴ・パフォーマンスは、自発性と妙(たえ)なる技、そして汗臭い奔放さをむねとする、典型的なロック・ミュージシャンのそれに思える」とアメリカの文化コメンテイター、エリク・デイヴィスは書いている。「だがペイジはギター・ヒーローの像に、新奇な要素をつけ加える……神秘性という要素を。そのためたとえ1万人のファンの前で、性的な欲求不満を訴える曲をプレイしていようと、そしてその衣裳(いしよう)をZosoといういたずら書きで飾っていようと、彼はつねに、こっちの知らないなにかを知っているという打ち出しを忘れない。われわれがそのパフォーマンスを消費するヒーローと、つねに隠されている、文字通りオカルト的な、カーテンの陰の賢者のあいだにはギャップが存在するのだ。こうした神秘性が、ペイジをオジー・オズボーンよりもはるかに不気味な存在たらしめている。オジーはなにも隠していない──たぶん彼が『マンスターズ(The Munsters)』をパクっていること以外は」
ペイジの人格を偏りなく分析すれば、讃嘆(さんたん)すべき特質と、唾棄すべき特質の両方が明らかにされるだろう。だがその倫理的な欠点が強調されるあまり、彼の鋭敏な創造力は、ときとして軽視されるきらいがあった。さらにその派手で放縦なライフスタイルは、同年代のロック・スターたちのそれと、さほど変わるところのないものだった──たとえばデヴィッド・ボウイ、ミック・ジャガー、あるいはロッド・スチュアートのような。
だがペイジと破壊行為の関わりは古く、まだごく幼いうちから、ホテル壊し屋の稼業に入る準備を進めていた。エプソムのデインツリー・ロードに建つ、彼が通っていた中等学校の裏には、戦争時代の防空壕(ぼうくうごう)が残されていた。仲間の生徒たちは何度かその破壊をこころみていたが、最終的に成功を収めたのは、14歳のジミー・ペイジだった。
そもそものきっかけは、上級生のひとりが硫酸ナトリウム、除草剤、そして粉砂糖を混ぜ合わせて、ミニチュアの爆弾をいくつか製造したことだった──都市型テロの事例と言うよりも、リッチマル・クロンプトンの「ジャスト・ウィリアム」もの〔*いたずら者の少年たちが活躍する児童文学シリーズ〕に出てきそうな筋書きである。一部は校庭で爆発したものの、その罪はつねに、隣接する公営住宅団地の不良少年たちに着せられていた。
だがそこから、この兵器開発競争はエスカレートしはじめる。別の少年がパイプ爆弾をつくり、防空壕の中に設置した。だがいざ火をつけてみると、爆弾のヒューズが燃えるスピードはおそろしくのろく、20分たってもまだ、ほとんど進展は見られなかった。するとひとりの少年が、解決法を提案した。彼は当時人気があった模型飛行機用のモーター、ジェテックスからヒューズを取り、少年たちはそれをパイプ爆弾に取りつけた。
「だが誰も、そこに火をつける勇気はなかった」とペイジの友人、ロッド・ワイアットは回想している。「するとジミーが『じゃあぼくがやるよ』と言ったんだ。あいつは防空壕の入口に向かい、それからすぐに駆けだしてきた。と、ちょうどそのタイミングで爆弾が爆発して──ドッカーン! ドゴーン! ジミーはけたけた笑いながら、校庭に駆けこんできた。
この一件を思いだしたとき、わたしはこう考えた。あれはなにかの予兆だったのか? あいつが史上最高にけたたましいロックンロール・バンドの一員になることを、予言していたんだろうか? 『ぼくがジェットエンジンに点火しよう。ぼくだったら大丈夫だ』と口にする、紳士然とした若いギタリスト。レッド・ツェッペリンにはうってつけのイメージじゃないか」
第1章 サリーのスパニッシュ・ギター
1944年1月9日の午前4時に、ロンドン郊外の最西端に位置するミドルセックス州ヘストンで生まれたジェイムズ・パトリック・ペイジは、工場で人事を担当する、やはりジェイムズという名前の父親と、病院の事務員を務める母親、パトリシアの息子だった。未来のスーパースター・ミュージシャンの名前は、1941年4月22日にエプソム登記所で結婚した両親の名前を合体させたものだ。
ロック・スター神話の伝えるところによると、ジミー・ペイジはオカルト的、神秘的なイメージをたっぷり漂わせる〝満月の夜〟に生まれたことになっている。だがこれは厳密に言うと正しくない。実際には満月になる1944年1月10日の31時間前に生まれているからだ。赤ん坊と母親が、出産時に上昇宮の蟹座が放つ満月のパワフルなエネルギーを感じていた可能性はあるものの、地球唯一の天然衛星はまだ、そのピークに達していなかった。ペイジはやがて、占星術の学徒となる。占星術のチャートによると、彼の月は陰鬱な蟹座、太陽はかたくななまでに野心的な山羊座に位置し、上昇宮の蠍座──スコピオ・ライジング──が、パワフルな性的能力と、人生の理解しがたい側面に対する関心を暗示していた。
このひとりっ子──5歳で学校に入るまで、彼はほとんどほかの子どもを知らなかった──はつねに我流で通し、強固な自己達成感、さらには宿命感すらにじませていた。とはいえ我流には多くの場合、かたくなで、融通のきかないところがある。「幼いころ、ああやってひとりですごしたことが、たぶん、ぼくという人間の成り立ちに大きく関係していたと思う」と彼はのちに語っている。「ひとりでいてもぜんぜん気にならない。むしろ、安心感を与えてくれる」
彼が生まれたヘストンは、J・G・バラード的な郊外の匿名性を如実に感じさせる場所だ。闇が生じかねない部分は、メッシュのカーテンでしっかり覆われている。ヘストンは3マイルと離れていないヒースロー空港に向かう飛行経路の真下に位置し、今では着陸するジェット機の逆噴射音に、絶えず悩まされつづけている。ペイジ一家がまず、4マイルほど離れたフェルサムに居を移したのも、この騒音公害のはじまりが原因だった。だがあいにくと飛行機の騒音はよりいっそう激しく、彼らは1952年に再度、南西に10マイルほど離れたサリー州エプソムのマイルズ・ロード34番地に引っ越した(1965年にペイジは、エリック・クラプトンとともに〈マイルズ・ロード(Miles Road)〉と題する曲をレコーディングする)。
8歳のジミー・ペイジはエプソム・カウンティ・パウンド・レーン初等学校に編入し、11歳で隣接するウェスト・イーウェルのデインツリー・ロードにあるイーウェル・カウンティ中等学校に進学した。ペイジが3年生だった1958年に校長に就任したレン・ブラッドベリは、元マンチェスター・ユナイテッドのサッカー選手で、この学校に赴任したのは、以前のチームがミュンヘンでの航空事故でメンバーの多くを失ったわずか数か月後のことだった(ブラッドベリはその何年もあとに、マンチェスター・ユナイテッドのグラウンドに来賓として迎えられ、キャプテンのロイ・キーン、そしてライアン・リグスとともに写真に収まっている)。ペイジは有名人と間近に接し──そうした人物も一般人とさして違いがないことを知った。
マイルズ・ロード34番地で、ペイジはどうやら前の住人が残していったとおぼしいスパニッシュ・ギターを発見した。そのギターはそれまでに演奏されたことがあったのだろうか? おそらくなかったに違いない。1950年代にはスパニッシュ・ギターを置物として家に飾るのが、洗練された暮らしの証だった。「誰もそれがあそこにある理由を知らないみたいだった」と彼は『サンデイ・タイムズ』紙に語っている。「何週間もうちの居間に、置きっぱなしになっていた。ぼくも興味がなかったし。そんなとき、たまたま聞いた何枚かのレコードに夢中になってね、そのひとつがエルヴィスの〈ベイビー・レッツ・プレイ・ハウス(Baby Let's Play House)〉だった。ぼくはこの曲を弾きたくなった。それがどういう音楽なのか知りたくなった。それである男に簡単なコードを教わり、そこからすべてがはじまったんだ」
その「ある男」は、ロッド・ワイアットという名前だった。スパニッシュ・ギターに魅せられたペイジは、同時にこの楽器をどう弾けばいいのかと戸惑っていた。中等学校の昼休みに、彼は2学年上のワイアットと行き合う。ワイアットは自分のアコースティック・ギターで、ロニー・ドネガンのヒット曲〈ロック・アイランド・ライン(Rock Island Line)〉を弾いているところだった。少年に問いかけを受けたワイアットは、スパニッシュ・ギターを学校に持ってきたら、チューニングのやり方を教えてやると答えた。それをきっかけにこの2人は、固い友情で結ばれた。
「友だちのピート・カルヴァートとわたしは、土曜の午後になるとジミーの家に行って、何時間もギターをかき鳴らしていた」とワイアットは語る。「ジミーの家に行くと、おふくろさんに『今はだめ。あの子、練習中なの』と言われることもあったな。ある日ふと、自分には才能があると気づいたあいつは練習の鬼になり、ときには1日に6、7時間練習していた。腕を磨かなきゃ、と言ってたっけ。そして結局、なんでもござれの完璧なギタリストになった。練習がすべての鍵なんだ」
イギリスでは1955年のクリスマス5日前にリリースされたエルヴィス・プレスリーの〈ベイビー・レッツ・プレイ・ハウス〉にペイジが夢中になった真の理由は、1954年から58年にかけてプレスリーのギタリストを務めたスコッティ・ムーアのギター・プレイだった。1954年7月5日、ムーアはベーシストのビル・ブラック、そしてエルヴィス本人とともに、ブルースマンのアーサー・クルーダップの手になる〈ザッツ・オールライト(That's All Right)〉を、ブルースとカントリー・ミュージックが入り交じったヴァージョンに変貌させ、ロックンロールの基盤のひとつを生みだしていた。
「アコースティックからエレクトリック・ギターに移り変わるまでの時代、ぼくに大きな影響を与えたのはスコッティ・ムーアだった。エルヴィスがサンに残した初期のレコーディング、そしてその後のRCAのレコーディングでも聞ける彼の特徴的なギター・プレイは、もうとにかくすごかった。ああいう、曲を形づくるタイプのプレイが、50年代に、音楽に対するエレキギター的なアプローチの重要性をぼくに教えてくれたんだ」とペイジは語っている。
〈ベイビー・レッツ・プレイ・ハウス〉でスコッティ・ムーアがプレイしたのは、磨きのかかったロカビリーのリズムだった。20年が過ぎてもなお、この曲に対するペイジの愛情は消えずに残っていた──レッド・ツェッペリンの映画『狂熱のライヴ(The Song Remains the Same)』で披露される〈胸いっぱいの愛を(Whole Lotta Love)〉のライヴ・ヴァージョンが9分目に入ると、彼はいきなりムーアのフレーズをそっくりなぞりはじめる。だがこれはまだ遠い未来の話だった。12歳のペイジは懸命にムーアのパートを学び、コピーしていた。このまったく新しい音楽形態の事例として、これ以上純粋で、これ以上完璧なものはありえなかったはずだ。それは彼がのちに歩む人生の、理想的な入門編でもあった。彼は連日ギターを持って、デインツリー・ロードの学校に向かった。
「子ども時代、ぼくのまわりにはあまりギタリストがいなかった」と彼は2003年にアメリカのナショナル・パブリック・ラジオで語っている。「でも学校にひとり、最初のコードを教えてくれたギタリストがいて、ぼくはそこからスタートした。退屈だったので、ギターはひとりでレコードを聞きながら覚えた。つまり、すごく個人的な行為だったわけだ」
だが彼は少年聖歌隊の隊員として、一見するとまったく別の生活も送っていた。毎週日曜日になると、サープリスとカソックを身にまとい、エプソンの聖バルナバ英国教会で聖歌をうたっていたのだ。2010年に刊行された写真中心の自伝を見ると、いの一番に掲載されているのは、このモードの彼の画像だ──これは明らかに皮肉だろう。ジミー・ペイジの人生にはよくあることだが、彼が聖歌隊に加入した動機は、冷徹なリアリズムに根ざしていた。
「当時はなかなかロックンロールを聞くチャンスがなかった」と彼は2010年に、『サンデイ・タイムズ』紙で語っている。「映画『暴力教室(Blackboard Jungle)』の主題歌だった〈ロック・アラウンド・ザ・クロック(Rock Around the Clock)〉を聞いた連中が映画館で暴動騒ぎを起こしたせいで、当局筋がこの手の音楽を全部閉めだしてしまったんだ。となるとあとはラジオのチューニングを合わせるか、この手の音楽が聞けそうな場所に行くしかない。するとたまたま青少年クラブに行けば、エルヴィスやジェリー・リー・ルイスやリッキー・ネルソンのレコードが聞けることがわかって──でもそのためには教会に通うか、聖歌隊のメンバーになるしかなかった」
ペイジにはひとりっ子の特徴が数多く見られた。本に埋もれ、パターン通りに、海外の切手を集めていた。だがマイルズ・ロードでスパニッシュ・ギターを発見して以来、彼は日に日に、この楽器の習得に没頭しはじめた。「聖バルナバの聖歌隊長は、ぼくがよくコーラスの練習にギターを持参し、オルガンに合わせてチューニングしてもいいですか、と訊いていたのを覚えていた」と彼は語っている。
エプソムにはペイジ・モーターズという、人目を惹く車のショウルームがあった。そのオーナーはペイジの一族だとされ、かくいう筆者もそう書いたことがある。だがこれはまったくの誤りだ。父方の彼の親族はノーサンプトンシャー州グリムスベリーの出身で、祖父は植物(プラント)の世話をする養樹園主だった(彼なりにプラントを相手取ることになるペイジはきっと、そこにちょっとしたアイロニーを感じていたはずだ)。父方にはアイルランド人の血が流れていた。
ペイジの家がある34番地から見て、通りの突き当たりにあるマイルズ・ロード122番地には、デイヴィッド・ウィリアムズというペイジと同年齢の少年が住んでいた。ウィリアムズによると、エプソムの西側に位置するマイルズ・ロードは、誰がどう見ても貧しい人々の暮らす区域だった。東側にはロンドンに通勤する、裕福な人々の豪邸が建ち並んでいる。ペイジ家の裏手には、20マイルと離れていない首都にそうした人々を運ぶ線路が走っていた。つくりはウィリアムズの家とほぼ同一で、1階には居間と食堂、2階には寝室が2つあった。1階には、台所の向こうに屋外のトイレがある。ペイジの家もふくめ、こうした家の大半はこの設備を本格的な浴室に改装するのだが、そこが質素な家だったのは、否定のしようがない事実だ。
ペイジの父親は近隣のチェシントンにあるプラスティック塗料工場で人事担当として働き、母親は地元の診療所で事務員をしていた。ロック・スターのジミー・ペイジは、一分の隙もない〝BBC英語〟──一般に広く認められた発音は、当時、そう呼ばれていた──をあやつるようになるのだが、育ちはせいぜいが中流階級の下といったところで、ほぼ労働者階級に近かった。
マイルズ・ロードにはもうひとり、ピーター・ニールという親しい友人が暮らしていた。ペイジ、ピーター・ニールとデイヴィッド・ウィリアムズはしょっちゅうおたがいの家でたむろしていたが、いつしか邪魔者の兄弟姉妹がいないペイジの家が、一番のたまり場になっていた。彼にはまた、両方の親がいるという利点があった──ただし彼の母親と父親の関係は、緊張をはらんでいたというワイアットの証言もある。ウィリアムズはわずか13歳で、実の母親を亡くしていた。「最初のうち、ジムの音楽活動をあと押ししていたのは、間違いなく彼の母親だろう。彼女は小柄な黒髪の女性で、とても強烈な個性の持ち主だった。いたずらっぽく目を輝かせて、ユーモアの感覚も最高だった。ぜんぜん悪気のない感じでぼくをからかい、でもぼくがいくら居間でジムとダラダラしていても、絶対に文句を言わなかった。彼女はたぶん、ぼくの母親を知っていたんじゃないかな。だからぼくの新しい境遇に、同情してくれたんだと思う。当時は気づかなかったけど、今なら彼女の優しさと度量の広さがよくわかる。なにしろぼくは彼女の家に、ほとんど居着いているようなものだったからね」
1956年にドイツから雑音まじりで届く米軍放送網のラジオ番組で、ロックンロール的な感性を持つ黒人詩人、チャック・ベリーの作品を聞いたウィリアムズは、〈メイベリーン(Maybellene)〉〈サーティ・デイズ(Thirty Days (To Come Back Home))〉〈ウィー・ウィー・アワーズ(Wee Wee Hours)〉〈トゥゲザー(ウィル・オールウェイズ・ビー)(Together (We Will Always Be))〉の4曲を収録したイギリス盤のEPを入手した。彼とペイジはこのレコードをくり返しかけつづけ、ペイジはとりわけ〈メイベリーン〉と恋愛に自動車同士の階級闘争をからめたその歌詞、そして〈サーティ・デイズ〉に心を奪われた。
ペイジがすぐさま買いこみはじめた機材からは、このひとりっ子が少し甘やかされていたのではないかという印象を受ける──少なくとも、ラッキーだったのは間違いない。友人たちの中で、最初にオープンリールのテープレコーダーを手に入れたのは彼だった。じきに新しいモデルに買い換えた彼は、古いほうをウィリアムズに売り、ラジオからこつこつ録音した曲のテープを貸した。
好みのうるさい──とりあえず、当人たちの気持ちの上では──この少年たちが認めていたのは、ほんのひとにぎりのアーティストだけだった。エルヴィス・プレスリー、ジーン・ヴィンセント、リトル・リチャード、チャック・ベリー、そしてジェリー・リー・ルイス──13歳の娘と結婚したエキセントリックでワイルドなジェリー・リーこそ、ペイジの一番のお気に入りだった。ほどなくしてエディー・コクランも、この殿堂に迎えられた。
彼らは地元の映画館に何度も足を運んでは、『女はそれを我慢できない(The Girl Can't Help It)』のような映画を見た。リトル・リチャード、ファッツ・ドミノ、エディー・コクラン、ジュリー・ロンドン、プラターズらをフィーチャーした1956年の小傑作である。この年にはもっと凡庸な『ロック・ロック・ロック(Rock, Rock, Rock!)』〔*未公開〕も公開されている。こちらのハイライトはチャック・ベリーが演奏する〈ユー・キャント・キャッチ・ミー(You Can't Catch Me)〉で、エナメルのように輝くポンパドールと冷やかしているような薄笑いは、エルヴィスが必死に真似ようとしていた黒人のヒモめいた表情を、その顔にしっかり定着させていた。1960年のある土曜日の午後、ペイジとウィリアムズはヒッチハイクで50マイル離れたボグナー・レジスに向かい、傑作映画『真夏の日のジャズ(Jazz on a Summer's Day)』の中で1曲だけ演奏を披露するチャック・ベリーを見た。
エプソムのハイ通りにある電化製品店、ロジャーズのレコード・コーナーで、3人の少年たちはカウンター係の女の子にコナをかけた。彼女と仲良くなったおかげで、彼らはレコード会社のリリース予定表を見ることができた。少年たちはその中から、自分たちの興味を惹く名前を探しだした。「フランキー・アヴァロンやボビー・ライデルよりも、スクリーミン・ジェイ・ホーキンスやビッグ・〝T〟・タイラーが優先されたのは言うまでもない」とウィリアムズは回想している。「それに曲のタイトルも、キツめの曲を探すいい手がかりになった。〈白いスポーツコート(A White Sport Coat (and a Pink Carnation))〉なんておぞましいタイトルの曲より、〈出入り(Rumble)〉や〈オレはお前に呪いをかけた(I Put a Spell on You)〉や〈Voodoo Voodoo〉といった曲のほうがどう考えても胸が躍ったし、期待もできたからね、そうだろ?」
やがてスペインのアコースティック楽器では限界があることに気づいたペイジは、夏休みのあいだに何週間か牛乳配達のアルバイトをして、ヘフナー・プレジデント・アコースティック・ギターを買う資金を貯めた。「ホロウボディのアコースティックで、簡単なピックアップがついていた」とウィリアムズは語っている。「でもそれをすごく小さなアンプにつなぐと、思わずあっと言ってしまうような音が出た。土曜の朝、あいつの家に呼びだされ、最初にあのギターを見せられたときのことはよく覚えている。ジムはまるでマタタビをもらった猫だった。ピートとぼくも弾かせてもらったけれど、そのころにはもう、こっち方面でいくらがんばっても、ジムの才能ややる気や成長ぶりには敵わないのがわかっていた」
ヘフナー・プレジデントを手に入れたジムに、両親はギター教師のレッスンを受けさせた。だがとにかく最新のヒット曲が弾きたかった彼にとって、楽譜を読む勉強は苦痛でしかなく、じきにペイジはレッスンを放棄し、代わりに耳でコピーすることを選んだ。ただしのちには自分の辛抱が足りなかったことを認め、1960年代のなかばにようやく、楽譜の読み方を習得している。
ペイジにアプローチを受けたとき、ワイアットが弾いていた〈ロック・アイランド・ライン〉は、1956年にロニー・ドネガンが大西洋の両岸でトップ10入りさせたヒット曲だ──イギリスだけでも売り上げ枚数は、100万枚を超えていた。これは偉大なブルースマン、レッドベリーの作品のカヴァーで、スキッフル・ブームの旗頭となった。
ロックンロールから派生した、高価な楽器を必要としない、イギリス特有の草の根的なムーヴメントだったスキッフルは、ギターのほかに手製の〝ありもの〟の楽器で演奏された。ケン・コリアーズ・ジャズメンのメンバーだったドネガンは、トラディショナル・ジャズをプレイするコリアーのステージの幕間に、ギター、洗濯板(ウオツシユボード)、茶箱(テイー・チエスト)ベースによる演奏を披露していた。1957年、初の〝若者〟向け番組『シックス-ファイヴ・スペシャル(Six-Five Special)』をスタートさせたBBCは、その主題歌にスキッフルを使った。このブームは驚異的なスピードでイギリス全土を席巻し、推定では少なくとも3万人──実際にはその倍近かったと思われる──の若者たちが、この音楽をプレイしていた。スキッフル・グループが雨後のタケノコのように全国で誕生し、ビートルズの母体となるジョン・レノンのクォリーメンも、やはりそうしたグループのひとつだった。
ペイジもこうした時代の流れに乗ってスキッフルのグループを結成し、両親の許しを得て、自宅でリハーサルを開始した。実のところこの〝グループ〟は、気の合った友だちの集まりに毛が生えたようなものでしかなく、メンバーたちはこの新たにはじまったブームについて、なけなしの知識を交換していた。だがどうやらこのグループは、それなりに幸運に恵まれていたようだ。ペイジがまだほんの13歳だった1957年、はじめてのオーディションに合格したザ・ジェイムズ・ペイジ・スキッフル・グループは、日曜の夕方に放送されるBBC-TVの子ども番組『オール・ユア・オウン(All Your Own)』に出演するチャンスを得た。司会は41歳の人気スター、ハウ・ウェルドン(11年後にウェルドンはBBC-TVの代表取締役となる)。グループが出演したのは、〝風変わりな趣味〟を紹介するコーナーだった。では彼らはどうやって、出演のチャンスをつかんだのだろう? 伝説によると、それはもっぱら偶然のなせるわざだった──番組がスキッフルのグループを探していたとき、たまたまエプソムから通勤していたスタッフのひとりが、ペイジのやっているバンドを思いだしたというわけだ。だがつねに息子のあと押しをしていた母親が、息子のグループを推薦する手紙を番組宛てに出したという説もある。
残念ながらザ・ジェイムズ・ペイジ・スキッフル・グループのメンバー構成は、長年のあいだにほぼわからなくなっている。TV出演に際しては、デイヴィッド・ハッセル、あるいはハウスゴーという名前の少年が参加していた。彼の家族は車を持っていただけでなく、父親はフルセットのドラムを所有し、それをデイヴィッドは懸命に叩いていた。
番組の収録予定日だった学校の休みに、ペイジとウィリアムズはBBCのスタジオがあるロンドン行きの列車に乗った。ペイジの母親がウィリアムズの父親に、電話で息子さんを録画につきそわせてやってほしいと頼んでいたのだ。「エレキギターだけでもあいつには重すぎるぐらいだったから、小さな鉛の箱みたいなアンプまで持って行くのは、とうてい無理な相談だった」
午後4時ごろ、マスコミを相手にアルコールつきの昼食をすませてきたばかりのハウ・ウェルドンがあらわれ、「で、あのクソがきどもはどこだ?」と問いかけた。
髪の毛をロックンローラー風のセンターロールリーゼントに固め、シャツの襟をセーターのクルーネックからピンと立てたペイジ──ヘフナー・プレジデント・ギターのほうが、むしろ彼より大きく見えた──は、音楽仲間たちを率いて〈ママ・ドント・ウォント・トゥ・スキッフル・エニイモア(Mama Don't Want to Skiffle Anymore)〉と〈イン・ゼム・オールド・コットンフィールズ・バック・ホーム(In Them Old Cottonfields Back Home)〉の2曲を演奏した(ペイジはほかに、ビル・ドゲットの〈ホンキー・トンク(Honky Tonk)〉をカヴァーする準備も進めていたが、実際にプレイするつもりはなかった。そうすると自分がうたわなければならないからだ)。演奏を終えると、彼はウェルドンのインタヴューを受け、慈愛に満ちた表情を浮かべる司会者に、将来の夢は〝生物学的研究〟の分野に進むことだ、と今となっては皮肉としか思えない答えを返した──自分の学力では、とても医者にはなれそうにないから、とひかえめにつけ加えて。この〝生物学的研究〟は、決して口先だけの言葉ではなかった。ペイジはウェルドンに、「もしまだ発見されていなかったら、癌」の治療法を見つけだしたいと告げた。ここにいるのは明らかに、真剣で思慮深い少年だった。
ティーンエイジャーになったばかりの少年にとって、このTV出演がどれだけ大きな心の励みとなっていたかは、想像にかたくない。1957年には出演はおろか、このTVという魔法のような新しいメディアに出た知り合いがいる人間ですら、ほとんど皆無に近かった。
13の歳で自分の姿を数十万人の視聴者に見てもらった彼が、その道を突き進んでいくのは必然だった。即座に成功は得られなかったかもしれない。だがそれから4年とたたずに、ジミー・ペイジはプロのミュージシャンになった。
その間にBBC-TVは、ようやくごく限られた時間をロックンロールに割くようになり、バディ・ホリーがその唯一のチャンネルに登場を果たした。「彼が1959年に飛行機事故で亡くなったとき」とデイヴィッド・ウィリアムズは語っている。「ピートとジムとぼくは黒いネクタイをしめ、地元の新聞販売店に行って、ぼくらのヒーローのひとりの写真と追悼記事が載っている新聞を全紙買いこんだ」
木工の授業時、ペイジは映画『ディスク・ジョッキー・ジャンボリー(Disc Jockey Jamboree)』〔*未公開〕でジェリー・リー・ルイスのベーシストが弾いていた楽器をもとに、そこそこ正確な形状のフェンダー・ジャズ・ベースを彫り上げた。「音も悪くなかった」とウィリアムズは語っている。
「ジムはたしかにひたむきだったが、それだけじゃとても言葉が足りない。いつ見てもあいつはギターを吊り下げ、新しいフレーズの研究をしていた」ウィリアムズはペイジの興味の対象が、エルヴィス・プレスリーや苦悩に満ちた顔つきのジーン・ヴィンセントから、外見上はより健全なリッキー・ネルソンに移り変わっているのに気づいた。これは決して意外なことではない。ネルソンのアップビートなロカビリー・ナンバーには、高名なジェイムズ・バートンのギターがフィーチャーされていたからだ。スコッティ・ムーアに負けず劣らず、ペイジに強い影響を与えたギタリストである。10年後にバートンはエルヴィス・プレスリーのTCBバンドのリーダーとなり、エルヴィスが亡くなる1977年まで、〝キング〟と行動をともにした。
「ああいう古いネルソンのレコードは、今聞くとかなりおとなしく聞こえるかもしれないが、当時はギター・ソロ(ジョー・メイフィスが弾いたものもふくめ)そのものが最先端を行っていて、ぼくの友人も大いに感じ入っていた」とウィリアムズは語っている。「〈イッツ・レイト(It's Late)〉のソロ・パートをものにしようと、あいつがえんえん苦闘していたのを覚えている。でも結局、探していたフィンガリングを誰かに教わって、うれしそうにその先に進んでいた」
ペイジは今や、スキッフルに留まらない音楽をプレイするグループを結成しようとしていた。彼は近隣のバンステッドで、リズム・ギターを弾く少年──ただしロックンロールのフィーリングには乏しかった──を見つけ、次にピアニストを見つけだした。
ドラマーもいなければ、名前もついていなかったものの、ペイジは何度かの練習をへて自信を深め、このトリオはエプソムの中心部にある退役軍人たちのたまり場的な飲み屋、コムレイズ・クラブで初舞台を踏むことになった。
ライヴは大々的な成功というわけにはいかなかった。いや、ウィリアムズに言わせると、むしろ「完全な修羅場」だった。リズムの推進役となるドラマーがいなかったことも、間違いなくこの3人のミュージシャンの足を引っぱった──後年のペイジは、とにかく最高のドラマー探しを肝に銘じるようになる。
「ロックンロールの進化に合わせて」とワイアットは語っている。「ジミーとわたしはギターにピックアップをつけ足した。エレキ化していったわけだ。左利きのギタリストで、ジミーとわたしの友人だったピート・カルヴァートが、初期の小さなワトキンスのアンプを持っていて、わたしはセルマーを持っていた。ジミーが持っていたのは、もっと大型のセルマーだ。将来を先取りしていたと言うのかな。わたしたち3人はいつもおたがいの家を行き来して、ロックンロールをかき鳴らしていた。トミー・スティールがイギリス初のロックンローラーとしてさかんにニュースになっていて、彼もべつに悪くはなかったが、わたしたちはエディー・コクラン、ジーン・ヴィンセント&ザ・ブルー・キャップス、そしてもちろんエルヴィスのようなアメリカ人アーティストのガッツがあるサウンドが好みだった。ジミーとわたしの場合は特に、ジーン・ヴィンセントのリード・ギタリストだったクリフ・ギャラップのサウンドだ。それがあの当時、わたしたちがなによりも気に入っていたスタイルであり、ギターのサウンドだった」
なにかを変える必要がある。それはペイジにもわかっていた。ロンドンのアールズ・コート・エキシビジョン・センターで開かれた電子機器の見本市で、彼はスタンドに立ってうたうローリー・ロンドンという若い学生を見た(じきにロンドンは〈世界はわがもの(He's Got the Whole World in His Hands)〉というゴスペル曲のカヴァーを全英、全米両チャートの首位に送りこむ)。ペイジはロンドンのバック・バンドのギタリストが、フェンダー・テレキャスターを弾いているのに気づいた。TVでバディ・ホリーが弾いているのを見て以来、のどから手が出るほどほしくてたまらなかったソリッドボディのギターだ。演奏が終わると、ペイジはロンドンのギタリストに話しかけ、テレキャスターを手に取って〈ゴー・ゴー・ゴー(ダウン・ザ・ライン)(Go Go Go (Down The Line))〉を弾いた。これはリッキー・ネルソンがカヴァーしたロイ・オービソンの作品で、ペイジのアイドルのジェイムズ・バートンがギターを弾いていた。
アメリカ製のフェンダー・テレキャスターは、おそろしく高価だった。それよりもはるかに手を出しやすく、ロンドンの楽器店でも購入できたギターが、トレモロ・アームを完備したチェコスロヴァキア製のコピー・モデル、フューチュラマ・グラツィオーソだ。ペイジはこの楽器を中古で手に入れた。
イギリス全土のコンサート会場が、ロックンロールを求める新たな若者市場に応えはじめた。1958年になると、教会風の建物だったエプソムのエビッシャム・ホールは、金曜日の夜が来るたびに〝コンテンポラリー・クラブ〟と改名し、ロックンロールのイヴェントを開催していた。
しかし短期間だけ在籍した別のグループをもってしても、ペイジはコンテンポラリー・クラブに行き着くことすらできなかった。14歳になったころ、ペイジはマルコム・オースティン&ザ・ワールウィンズという結成されたばかりのローカル・バンドに、一時的に籍を置いた。リード・ヴォーカルは前述のオースティン。トニー・バッソンがベース、スチュアート・クロケットがリズム・ギター、そしてドラマーはトムという名前だったが、その姓は時とともに忘れ去られてしまう。ペイジは〝ジェイムズ・ペイジ〟と名乗ってリード・ギターを弾いた。ミュージシャンたちの仲を取り持ったのは、ワイアットだった。1958年、マルコム・オースティン&ザ・ワールウィンズはバッソンの学校のクリスマス・コンサートに出演し、大半はチャック・ベリーとジェリー・リー・ルイスのカヴァーからなるステージを披露した。このバンドはその後、ほんの数回しかステージに立っていない。
グループのギタリストより2歳上だったバッソンは、〝ジェイムズ〟・ペイジが「とてもトレンディな男だった」とふり返っている。「イタリアン・ジャケットにイタリアン・シューズ──ものすごく尖ってるやつだ。ピチピチのジーンズをはいて、すごくクールな感じだったけど、顔はすごく幼かった。よくアコースティック・ギター持参であいつの家に行って、シングル盤やアルバムを聞いたもんだ。あいつのおふくろさんはいつも、オレたちを歓迎してくれた。ソフトドリンクを出してくれてね。オレたちの話題はもっぱら、ギターとポップ・ミュージックだった。最初に会ったときのジミーは、ヘフナーのセミアコしか持ってなかったんだ。その後あいつはソリッドボディのエレキ、フューチュラマ・グラツィオーソを手に入れた。ジーン・ヴィンセント&ザ・ブルー・キャップス、それにスコッティ・ムーアの大ファンだったな。少しばかりこみ入っていて、ほかとちょっと違うものなら、なんだって好きだったような気がする」
バッソンによると、ギタリストの家は「中流階級の下の下」だった。だがペイジの印象は「とても芸術家肌の男で、かりにミュージシャンにならなくても、画家になるんじゃないかと思っていた。あいつは15歳で学校を辞めた。あいつなら絶対ものになると思ったけど、同時に『それまでのあいだ、どうやって食いつなぐんだろう?』と不思議になった」バッソンはじきに、その答えを知ることになる。
エプソムにはほかにも名のあるミュージシャンたちが出演する、大規模な会場がいくつかあった。本格的なプロ仕様のロックンロール・ショウがエプソムにやって来たときの興奮を、ワイアットはずっと覚えていた──まるでサーカスかお祭りが、街に来たときのような興奮を。コンサートは地元の水泳プールで開催された。ワイアットによると「一番の呼びものはダニー・ストームというシンガー。クリフ・リチャードの代役をやったことを売りにしていた男で、たしかに見てくれはそっくりだった。トリ前はバディ・ブリテン・トリオ。バディはバディ・ホリーのそっくりさんだ。ジミーとふたりで観(み)に行ったんだが、当時としてはかなりエキサイティングなショウだった。すると途中で司会者が、飛び入り参加のタレント・ショウをはじめますとアナウンスしたので、ジミーと一緒にエントリーしてね。わたしたちはどっちもギターを弾いた。わたしは〈ミーン・ウーマン・ブルース(Mean Woman Blues)〉を弾き、ジミーはインストゥルメンタルをやった。たしか〈ピーター・ガン(Peter Gunn)〉か〈ギター・ブギー・シャッフル(Guitar Boogie Shuffle)〉だったはずだ」
コモレイズ・クラブでの失敗にもめげず、ペイジはなおもバンド活動をつづけ、ドラマーを探し、名前を考えだした──ザ・パラマウンツである。パラマウンツは1959年の夏の終わりに、ほぼジーン・ヴィンセント&ザ・ブルー・キャップスそのままのステージング、おふざけ、曲目を披露するロンドンのグループ、レッド・E・ルイス&ザ・レッドキャップスの前座として、コンテンポラリー・クラブに出演することになった。
パラマウンツにはいちおうヴォーカリストもいたが、その晩の演奏曲目は、大半が──当時の通例として──インストゥルメンタルだった。なかでもジョニー&ザ・ハリケーンズの最新ヒット〈レッド・リバー・ロック(Red River Rock)〉でペイジが弾いたアグレッシヴなギターは注目を集め、感銘を受けたレッド・E・ルイスは、自分のバンドのマネージャーをしていたクリス・ティッドマーシュなる男にこのギタリストのすごさを伝えた。レッド・E・ルイス&ザ・レッドキャップスの出番が終わると、ペイジがステージに登場し、レッドキャップスのギタリスト、ボビー・オーツからソリッドボディのギターを借りて、チャック・ベリーのソロをふくむいくつかのギター・パートを弾いた。
ホールの奧では、ペイジの両親が見守っていた。彼らは自分たちの息子がいずれ、この愚かしい趣味を卒業することを望んでいたのだろうか? ペイジは筆者にこう語っている。「いや、逆にぼくを励ましてくれた。ぼくのやっていることは大部分、ちんぷんかんぷんだったかもしれないけど、それでもこの子のしていることなら間違いないと信頼してくれたんだ。ぼくはただのイカレポンチじゃないって……」
その晩、やはりパラマウンツを親たちよりも近くから見守っていたのが、サリー・アン・アップウッドだった。同じ学校に通っていたペイジのガールフレンドで、この関係は2年ほどつづいた。ボーイフレンドより年上のサリー・アンはワイアットのクラスにいて、ペイジの音楽的な成長をつぶさに見守ることができた。
ジミー・ペイジとパラマウンツは、さらに何度かコンテンポラリー・クラブに出演した。彼らが前座についたグループのひとつ、フレディ・ヒース・コンボはその後、イギリスを代表するロックンロール・バンド、ジョニー・キッド&ザ・パイレーツに発展する。すると1959年のイースターにボビー・オーツがレッド・E・ルイス&ザ・レッドキャップスを脱け、クリス・ティッドマーシュは東ロンドン、ショアディッチのパブの2階で開かれるオーディションに、15歳のペイジを招いた。彼は週給20ポンドでこの仕事を得た。
ペイジの人生は明らかに、広がりを見せつつあった──音楽面だけでなく精神面でも。「オカルトに関心を持ちはじめたのは、15歳ぐらいのときだ」と彼は1977年に、筆者とのインタヴューで語っている。まだ学校に通っていたこの時期に、彼は西洋的なオカルトの実践法に関するアレイスター・クロウリーの長大な論考『魔術──理論と実践(Magick in Theory and Practice)』を読破した。ペイジの早熟な知性を如実に物語る、にわかには理解しがたい難解な書物である。この本に胸を打たれたペイジは、「そう、これだ。これしかない。やっと見つけたぞ」とひとりごちた。15歳にして彼の進路ははっきりと定まった。
第2章 ネルソン・ストームからセッション・プレイヤーに
最初のうち、ペイジは週末だけしかレッド・E・ルイス&ザ・レッドキャップスでプレイすることができなかった。なんと言っても彼はまだ、学生の身分だったからだ。
現に彼の父親は当初、このバンドでプレイすることを認めようとしなかった。おかげでクリス・ティッドマーシュはわざわざマイルズ・ロード34番地に足を運ぶ羽目になる。レッドキャップスの仕事は週末に集中しているので、息子さんの学業のさまたげになることはほとんどないと説明されてはじめて、ジミーの父親は納得した。「そういうことならOKだ」と年長のジェイムズ・ペイジは言った。
だがじきにペイジは副校長のミス・ニコルソンと激しく対立する。将来の夢はポップ・スターだと話す彼を、この厳格な女性はいっかな認めようとしなかった。当時の最低卒業年齢は15歳だったため、彼は一般教育資格(GCE)のO(基本)レヴェルを4つだけ取って学校を去り、そのまま二度とふり返らなかった。
「ジミーのプレイはつねに進化していた」とロッド・ワイアットはふり返っている。「学校を出ると、チェット・アトキンスばりのリード・ギターを弾けるようになって──あいつは本物の天才少年だった。わたしたちは相変わらずおたがいの家でジャムっていたが、前ほどひんぱんじゃなくなっていた。ジミーの特徴は、ああいった初期のギタリストにしては珍しく、いろんなジャンルやスタイルのギターが弾けたことだ」
1960年のR&Bシーンでめきめき頭角をあらわしていたバンドが、クリス・ファーロウ&ザ・サンダーバーズだ。ペイジはその3年前、北ロンドンのトッテナム・ロイヤルで開催されたブリティッシュ・スキッフル・グループ・チャンピオンシップで、はじめてファーロウのステージを見ていた。
グループの売りものはファーロウのしゃがれたソウル・ヴォーカルだが、ペイジが熱心に目で追っていたのはギタリストのボビー・テイラーだった。「あいつはじっとボビーのプレイを見ていた。で、そのあとバックステージにやって来て、『いやはや、なんてすごいギタリストなんだろう、あなたは』なんてことを口にするわけだ。だからボビーはあいつに、多大な影響を与えている」とファーロウは、ライターのクリス・ウェルチに語っている。「ジミーがしきりにボビーと会いたがったのは、彼のことを自分が見た中で最高にクールなギタリストだと思っていたからだ。ボビー・テイラーはとてもハンサムな男で、いつも黒い服を着ていた……ジミーはよく、オレたちがフラミンゴみたいなクラブでやっていたライヴに顔を見せていた。そしたらあいつの住んでるエプソムのホールに出たとき、オレたちのところにやって来て、『ぼくがお金を出すので、あなたとバンドのアルバムをつくってみませんか?』と持ちかけてきたんだ」
ファーロウと同い年の16歳だったペイジは、自分の将来をはっきりと見据えていた。なぜならすでにそれだけの金を貯めこみ、しかもその投資が最終的には大きな見返りをもたらすことを、あらかじめ見越していたからだ。彼はまた、自分がそのアルバムのプロデューサーになると宣言した。かくも年端のいかない少年としては、衝撃的と言っていいほどの自信と冷静さを感じさせる発言である。
アルバムはサリー州モーデンのR・G・ジョーンズ・スタジオでレコーディングされた。ファーロウによるとペイジは、レコーディング・スタジオの仕組みを完全に知り抜いているように見えた。「やるべきことを知っていて、ギターはアンプを使わず、卓に直接つっこんでいた。あいつ自身はいっさい弾いてない。ボビー・テイラーが弾いてるスタジオで、一緒に弾くのは気が進まなかったんだろう」
レコーディングされた曲の中には、カール・パーキンスの〈マッチボックス(Matchbox)〉を思いきりパワフルに演奏したヴァージョンや、雷鳴のようなボ・ディドリー・ビートに乗せて、ハードにアレンジしたバレット・ストロングの〈マネー(Money)〉などがふくまれている。だがこのLPは2017年にペイジ自身のレーベルからリリースされるまで、ずっとお蔵入り状態だった。
史上最高のロック・ギタリストを目指すだけでは飽き足らなかったペイジは、本能的に、レコードのプロデュース法も学ぶ必要があると考えた。はたして彼は、さほど遠くない将来にそのすべてがひとつにまとまることを、すでに予感していたのだろうか?
1960年、レッド・E・ルイス&ザ・レッドキャップスは、自分の詩の朗読に伴奏をつけるミュージシャンを探していたビート詩人のロイストン・エリスを紹介された。
エリスはジミー・ペイジより3年早い1941年に、ロンドン北西部のピナーで生まれた。ペイジが最初に暮らしたロンドン西端のヘストンと同様、郊外のはずれに位置する街だ。16歳で学校を出た彼は、作家になる決意を固め、18の歳で自作の詩を集めた『ジャイヴィング・トゥ・ジップ(Jiving to Gyp)』〔*未訳〕を処女出版する。エリスはすぐさまロックンロールの魅力に囚われ、詩作から得られるわずかな収入を、クリフ・リチャード&ザ・シャドウズやジェームズ・ディーンのような人々の伝記本執筆で補っていた。1961年に彼は、自分なりにイギリスのポップ・ミュージックを総括した『ザ・ビッグ・ビート・シーン(The Big Beat Scene)』〔*未訳〕を刊行した。
エリスはビート・ミュージックと詩(ポエトリー)を融合させた自分のライヴ・イヴェントを〝ロケットリー〟と称していた。最初のうちはクリフ・リチャードのバッキング・グループ、ザ・ドリフターズが伴奏をつけていたが、アメリカのR&Bヴォーカル・グループとの混同を防ぐためにザ・シャドウズと改名した彼らは、それとほぼ同時に〈アパッチ(Apache)〉でナンバー1ヒットをものにし、詩人のバックを務めている暇はなくなってしまった。
バイセクシュアルを公言し、いつもお相手を探していたエリスは、1960年にリヴァプールのジャカランダ・コーヒー・バーでジョージ・ハリスンに出会った。ハリスンはどうにか詩人の誘いを退けたものの、ビートルズ──当時のつづりは Beetles ──は結局この街で、彼の詩の朗読に伴奏をつけることになる。エリスはつねづね、2番目の e を a に変えるよう提案したのは自分だと主張していた。ジョン・レノンはのちにエリスのことを「ロックンロールと文学の合流点的存在」と評している。〈ペーパーバック・ライター(Paperback Writer)〉は、彼をモデルにした曲だという説もあった。
レッド・E・ルイス&ザ・レッドキャップスを通じて、エリスはヴィックス・インヘラーに入っているベンゼドリンでおおわれた段ボール紙を嚙むと、覚醒剤的な効果が得られることを知った。イギリスの辺鄙な場所で、深夜のショウをいくつもこなさなければならなかったバンドにとっては大いにありがたい効果である。詩人はこの手法をビートルズに伝授し、翌朝の9時までえんえんと彼らと話しつづけた。
伴奏の音楽に関しては、レッド・E・ルイス&ザ・レッドキャップスのメンバー全員を雇う必要はないとエリスは判断した。代わりに彼はひとりだけミュージシャンを起用することにした──ジミー・ペイジである。
1960年の末から1961年の6月にかけて、ペイジは何度かエリスのバッキングを務めた。なかでもとりわけ意義深かったのが、サウザンプトンで録画され、ITVのサザン・テレヴィジョンでオンエアされたジュリアン・ペティファー〔*イギリスのTVジャーナリスト〕との共演だった。のちにエリスは、ペイジをはじめてTVに出演させたのは自分だと主張したが、これは明らかに事実と異なっている。
ペイジは相変わらず、中古のフューチュラマ・グラツィオーソを弾いていたが、じきにそれは、ほんもののフェンダー・テレキャスターに取って代わられた。1961年3月4日、彼とエリスはケンブリッジ大学の異端者協会で共演。そして同年7月23日、もっぱらコーヒー・バーや小ホールに出演していたふたりは、ずっと大きな舞台に挑むことになる。20歳のエリスが、17歳のペイジの伴奏で、ロンドンのブラックフライアーズ・ブリッジ近くにオープンした実験劇場、マーメイド・シアターで開催されるマーメイド・フェスティヴァルに出演する運びとなったのだ。フェスティヴァルではほかにもルイ・マクニース、ラルフ・リチャードソン、フローラ・ロブソン、ウィリアム・エンプソンといったそうそうたる顔ぶれが、朗読を披露する予定だった。
「ジミー・ペイジはわたしの詩を熱心に読みこんでくれたし、わたしたちの相性も上々で、ドラマティックなプレゼンテーションを披露し、舞台でもTVでも好評を博していた」とエリスは語っている。
「ジミーはわたしの詩の伴奏用に、独自の音楽をつくってくれた。たいていは『ジャイヴィング・トゥ・ジップ』の収録作だが、その次に出た『レイヴ(Rave)』〔*未訳〕という本から、『楽に、楽に、ぼくを楽に壊してくれ』というくだりがあるやつもやったかもしれない。わたしたちのステージ・パフォーマンスとしては、マーメイドのショウがピークだったし、あれがたぶん最後になったと思う」
「ロイストンはぼくに、とりわけ大きな影響を与えた男だ」とミュージシャンは、詩人の作品について語っている。「それまでに読んでいた詩とはまるっきり似てなかったし、あの時代のエッセンスとエネルギーを表現していた。彼はアメリカのビート詩人たちと共通する精神や、寛容さの持ち主だった。
ロイストンのバックをやってみないかと言われたとき、ぼくはふたつ返事で引き受けた。特に忘れられないのは、1961年にロンドンのマーメイド・シアターに出たときのことだ。朗読会のたびに新境地を開拓していたぼくらは、誰がどう見てもハンパじゃなかった。
アメリカのジャズ・ミュージシャンも、詩人たちの朗読にバックをつけているのを知っていたからね。ジャック・ケルアックは朗読の伴奏にピアノを使っていたし、ローレンス・ファーリンゲティはスタン・ゲッツと組んで、詩とジャズを合体させていた」
とはいえロイストン・エリスと組んだこうした芸術的なイヴェントはあくまでも例外にすぎず、普段のペイジはレッド・E・ルイス&ザ・レッドキャップス──そしてのちにはニール・クリスチャン&ザ・クルセイダーズとのツアーに忙殺されていた。
レッド・E・ルイス&ザ・レッドキャップスのマネージャー、クリス・ティッドマーシュは自分がシンガーになろうと決心し、ニール・クリスチャンと改名した。それに合わせてティッドマーシュ/クリスチャンはグループにもクルセイダーズという新しい名前をつけ、ペイジは〝ネルソン・ストーム〟になった。リズム・ギタリストのジョン・スパイサーは〝ジャンボ〟、そしてドラマーのジム・エヴァンズは〝トルネード〟というニックネームを授かった。
スクリーミング・ロード・サッチ&ザ・サヴェージズの一員として、似たような地域を巡業している、やはりヘストン育ちのギタリストがいた。名前をリッチー・ブラックモアといい、やがてはディープ・パープルの創立メンバー、また個人でも高名なギター・ヒーローとして、輝かしい未来を築く男だった。
「ジミー・ペイジに会ったのは1962年のことだ。わたしは16歳か、17歳だった」と彼は最初の出会いを回想している。おりしも〝ネルソン・ストーム〟は、新しいギターを手に入れたところだった。「ニール・クリスチャン&ザ・クルセイダーズと共演してね。ジミー・ペイジはグレッチのギターを弾いていた。あのころからもう、大物になるのはわかっていた。ただのうまいギタリストじゃなくて、スターの資質があったからだ。なにか、ただならないものを感じさせた。とても落ち着き払っていて、自信満々だった。それで『こいつはここで終わるようなタマじゃない──全部、わかってやっている』と思ったのさ。大半のギタリストよりもずっと先を行っていたし、自分がうまいことも知っていた。と言っても傲慢さを感じさせるタイプじゃない……それよりは自分にすっかり満足している感じがした」
旅暮らしが2年つづいたころ、ペイジは何度か腺熱で倒れた。疲労と粗悪な食事が原因で──もしかするとヴィックスに入っているベンゼドリンの紙片を、ひんぱんに嚙みすぎていたのかもしれない──ウイルスが居着いてしまったのだ。1962年10月、まだわずか18歳の若さで、〝ネルソン・ストーム〟はニール・クリスチャンのバンドを引退した。
ほとんど間を置かずに彼は、サリーのサットン・アート・カレッジに入学し、ギターに負けず劣らず愛していた絵画の勉強を開始した。むろん、ペイジの音楽愛は依然として旺盛で、おそろしく趣味の幅が広かった彼は、新旧のクラシック音楽、とりわけポーランドの作曲家クシシュトフ・ペンデレツキの画期的な作品──彼が1960年に発表した〈広島の犠牲者に捧げる哀歌(Threnody to the Victims of Hiroshima)〉は、1945年8月に壊滅した日本の都市をテーマにしていた──をむさぼるように聞いた。後年の彼がヴァイオリンの弓でギターを弾くようになるのは、ペンデレツキ作品からの影響だ。
「いつもバスで旅をしていた」と彼は1975年の『ローリングストーン』誌で、キャメロン・クロウに語っている。「学校を出てから2年間はそういった暮らしをつづけ、かなりいい稼ぎを上げられるようになっていた。でも身体を悪くしてしまったので、アート・カレッジに入学してね。あれで方向性ががらりと変わった……どれだけギターに打ちこんでいようと、ああいうやり方をつづけていたら、いずれまいってしまうのはわかっていた。2か月ごとに腺熱を発症していたんだ。だからそれから1年半ほど、ぼくは週に10ドルで暮らして、英気を養った。ギターはずっと弾いてたけど」
ニール・クリスチャン&ザ・クルセイダーズを脱けてほんの数日のうちに、ジミー・ペイジは突然、啓示にも似た経験をする。おりしもイギリスでは、史上初となるアメリカ人ブルース・アーティストのパッケージ・ツアーが予定されていた。ドイツ、スイス、オーストリア、フランスでの開催をへて、アメリカン・フォーク・ブルース・フェスティヴァルは、1962年10月22日に、マンチェスターのフリー・トレード・ホールで昼夜2回開催される予定になっていた。出演者はメンフィス・スリム、ソニー・テリー&ブラウニー・マギー、ヘレン・ヒュームズ、シェイキー・ジェイク・ハリス、Tボーン・ウォーカー、そしてジョン・リー・フッカー。
ペイジは友人のデイヴィッド・ウィリアムズと見に行く手はずを整え、だが車で一緒に行く代わりに、列車で移動し、マンチェスターで彼と落ち合うことにした。どうやらこの時点での彼は、乗り心地の悪いヴァンにクルセイダーズと一緒につめこまれ、イギリスのあっちやこっちに長距離移動したことが、体調不良の原因のひとつになったと考えていたようだ。
デイヴィッド・ウィリアムズはアレクシス・コーナーのイーリング・ジャズ・クラブ、その実は西ロンドン、イーリング・ブロードウェイの裏手にある、殺風景な地下の一室で知り合った3人の友人と一緒だった。同じくこうした音楽の愛好家だった彼らは、自分たちでもグループを結成したばかりだった。バンド名は? ザ・ローリング・ストーンズ。この新しい友人たちの名前は、それぞれミック・ジャガー、キース・リチャーズ、ブライアン・ジョーンズといった。
アメリカン・フォーク・ブルース・フェスティヴァルの昼の部は、その日のマンチェスターが雨模様だったせいか、さほど盛りあがらずに終わったものの、夜の部は彼らの期待に十分応える内容で、なかでも自分のギターだけをバックに、3曲の短いセットでコンサートを締めくくったジョン・リー・フッカーは際立っていた。「外に出るとそこはジメジメした、灰色のマンチェスターだったのかもしれない。でもぼくらはデルタで暑さにうだっているような気分だった」とウィリアムズは語っている。フッカーの前に出たTボーン・ウォーカーは、ウィリアムズによると「クールさの化身」だった。「有名な〈ストーミー・マンデイ(Stormy Monday)〉を明るい色のギブソンで弾いたんだ。ぜんぜん力みが感じられなくて、ただただよくなる一方だった。ギターを両脚のあいだに下ろしたかと思うと、頭のうしろに持ってきてソロを弾く。とてもジムや、キースや、ほかの連中を見ている余裕はなかったけれど、終わったときはみんな絶賛の嵐だったし、むちゃくちゃ感動しまくっていた」
ペイジ、ジャガー、リチャーズ、ジョーンズ、そしてウィリアムズの5人は徹夜のドライヴでロンドンにもどり、ジョーンズはその間ずっと、スピードを気にしていた。1962年当時、イギリスで唯一の高速道路だったM1は、首都から北に100マイル離れたバーミンガムのはずれまでしか延びていなかった。「結局ぼくらは高速に行き着き、終夜営業のガソリンスタンドを見つけた。これもやっぱり、ぼくらにとっては新鮮な経験だった。でもジムはもう夜間移動のヴェテランだったから、フライ料理のメニューを得々と説明してくれてね。腹ごしらえを終えるとぼくらは旅を再開し、まだ暗いうちにロンドンのはずれに到着した」
サットン・アート・カレッジに通いはじめてまださほどたたないころ、ペイジはアネット・ベックという同級生と知り合った。アネットには先ごろウィンブルドン・アート・カレッジを辞め、車の塗装をする仕事に就いたばかりのジェフという弟がいた。このジェフはその後もずっと、ホット・ロッド・タイプの車にこだわりつづけることになる。
1985年にカリフォルニアのKMET局で受けたインタヴューの中で、ジェフ・ベックは司会者のシンシア・フォックスに次のように語っている。「たしか、姉貴がエレキギターを弾く男のことを、興奮した口調で教えてくれたんじゃなかったかな。以前の姉はまっ先に、『そのうるさい音を止めて! あんたが弾いてるのはただの騒音よ!』と言ってくるタイプだった。でもアート・スクールに通うようになると、それががらりと一変した。たぶん、ほかにも同じことをやってる男がいるのを見て、考えが変わったんだろう。姉貴は大声を上げながら家に帰ってきて、『あんたみたいなことをやってる人がいるわ』と言った。ああ、もちろん気になったよ。そんなイカれた真似をしている人間なんて、このあたりじゃ自分だけだと思っていたから。でも姉貴はその男が住んでいるところを教えてくれて、会いに行ってみたらと勧めてくれた。オレ以外にああいう妙な見てくれをしたエレキギターを持ってるやつに会えたら、それはたしかに最高だろう。それでジミーの家に行って、居間に入ると……あいつは小さなアコギを出して、思いっきり弾きはじめた。最高だったよ。あいつはバディ・ホリーの曲をうたってた。で、それからはもう一気に親しくなってね。あいつがおふくろさんに買ってもらったテープレコーダーで、よく一緒にホーム・レコーディングをしたもんさ。たしかあいつはその音源を、イミディエイト・レコードに大金で売りはらったはずだ」
ベックとペイジは昼も夜もペイジの実家で、一緒にプレイしたり、アイデアを交換したりするようになった。ペイジはグレッチ・カントリー・ジェントルマンで、リッキー・ネルソンの〈マイ・ベイブ(My Babe)〉や〈イッツ・レイト〉といった曲をプレイした。ネルソンのギタリスト、ジェイムズ・バートンに触発された彼のプレイは、ベックに言わせると「とにかく最高」だった。ふたりはペイジの2トラック・テープレコーダーで録った自分たちのジャムを再生してチェックした。演奏時、マイクはソファのクッションのひとつで覆い隠されていた。「それを叩くと、史上最高のドラム・サウンドが録れるんだ!」とベックは語っている。
しかしこうした課外活動的な音楽の実験は、ペイジがサットン・アート・カレッジで受けていた美術の講座と、かならずしも相反するものではなかった──この2つの側面はむしろ、おたがいを補い合っていた。後年、ライターのブラッド・トリンスキーは彼に、レッド・ツェッペリンの活動に関連して、「壮大なヴィジョンを描き、それにこだわりつづけるのは、ロック・ミュージックというよりファイン・アートの特徴です。アート・スクールに通ったことが、あなたの考え方に影響をおよぼしたのでは?」と問いかけた。
「それはもう間違いない」とペイジは答えた。「そこで知ったことのひとつは、大好きだった抽象画家のほとんどが、テクニック的にもうまい画家だったことだ。みんな、長いあいだ修業を積んで古典的な構成や画法を学び、そこから独自のスタイルを築いていった。
これはちょっとした衝撃だった。ぼくの音楽も、それと同じ道を進んでいるのがわかったからだ。初期のバンド活動から、スタジオ・ミュージシャンやプロデュースの仕事に転身し、アート・スクールに通ったことは、ふり返ってみるとぼくの修業時代だった。ぼくはいろんなことを学びながら、アイデアのしっかりした基盤を築いていたけれど、まだ本当の意味での音楽はプレイしていなかった。その後、ヤードバーズに加入すると、いきなり──バーン!──今までに学んできたことが全部あるべき場所に収まりはじめて、ぼくはようやく、本当におもしろいことができるようになった。こうして新たに得られた自信を、ぼくは飽くことなく求めつづけた」
サットンに通いはじめてからも、ペイジはときおり、マーキー・クラブやリッチモンドのクロウダディ・クラブ、あるいは近隣のイール・パイ・アイランドといった、ロンドンのライヴ・ハウスで、シリル・デイヴィスとアレクシス・コーナーのR&Bオール・スターズがくり広げる夜のセッションに参加していた。じきにR&Bオール・スターズの正式なギタリストにならないかと持ちかけられるが、病気の再発をおそれる彼は断りを入れた。
当時、そのシーンにはもうひとり、履いていた靴にちなんで〝ゴム底ズック(プリムソルズ)〟と呼ばれる若手のギタリストがいた。最初のうち、〝プリムソルズ〟はほとんどまともにプレイできなかったが、家庭がそこそこ裕福だったおかげで、ケイ社製の真新しいギターを所有していた。彼にはもうひとつ、スタイリッシュなファッションにちなんだ〝エリック・ザ・モッド〟というニックネームもあり、じきにアイドル視していたロバート・ジョンソンと同様、驚異的なスピードでこの楽器をマスターする。こうしてより大きな成功を収めた彼は、フルネームを名乗るようになった──エリック・クラプトン。
ペイジはある晩、R&Bオール・スターズとプレイしたあと、「エリックがやって来て、『何度かステージを見せてもらったけど、きみのプレイはマット・マーフィーに似てるね』と言った」とふり返っている。「メンフィス・スリムのギタリストだ。それでマット・マーフィーはほんとに好きだし、熱心にその活動を追っているギタリストのひとりだと答えたんだ」
ペイジの技量に気づいていたのは、エリック・クラプトンだけではない。じきにロンドン南西部に位置するミッチャム出身のグループ、シルエッツのジョン・ギブスからもアプローチがあった。ギブスは〈ザ・ウォリイン・カインド(The Worryin' Kind)〉という曲を皮切りに、EMIからリリースされるシングルのレコーディングを手助けしてほしいとペイジに依頼した。
シルエッツはその後、ペイジの新しい友人、ジェフ・ベックをときおりフィーチャーするようになる。心理地理学的に見てなにより魅力的な事実は、ジミー・ペイジ、エリック・クラプトン、そしてジェフ・ベックという、1960年代のイギリスを代表するもっともクリエイティヴなギタリスト3人が、おたがいから半径12マイル以内の距離で成長していたことだろう。
マーキー・クラブでR&Bオール・スターズとプレイするペイジを見た若きアレンジャー兼プロデューサーのマイク・リーンダーは、その技量に感銘を受け、1962年の暮れに彼をリズム・ギタリストとしてスタジオに招き入れた。ペイジはアート・スクールに通いながら、裏ではこうした仕事を定期的にこなすようになった。
ペイジをチェックするようにリーンダーをうながしたのは、エンジニア見習いのグリン・ジョンズだった。同じエプソム育ちで、ペイジより2歳上だったジョンズは、何年か前に彼のプレイを見たことがあった。ペイジとの最初の出会いを、ジョンズはこうふり返っている。「ある晩、タレント・コンテストが開かれたことがあってね。誰も見たことのないまだ十代前半の少年が、ステージに腰をかけ、脚をぶらぶらさせながらアコースティック・ギターを弾いていたんだ。かなり上手(うま)かったし、もしかしたら優勝したのかもしれないが、あの晩、ホールにいた人間は誰ひとり、彼があんなにも革新的な音楽をつくりだす男になるとは、夢にも思ってなかったんじゃないかな」
「本当にビックリした」とペイジは1965年、リーンダーに弾いてほしいと頼まれたときの気持ちを『ビート・インストゥルメント』誌に語っている。「それまでぼくは、セッションの仕事は〝組合員限定〟だと思っていたんだ」
「当時のマイクはフリーランスのプロデューサーだった。プレイしてほしいと頼まれた曲は、カーター&ルイス・グループの〈ユア・ママズ・アウト・オブ・タウン(Your Momma's Out of Town)〉だ。彼がフルタイムでデッカに入社したのは、そのレコードがリリースされたことも大きかったんじゃないかな」
じきにマイク・リーンダーは、もっと格が高いセッションの仕事をペイジに依頼した。この仕事はシャドウズの名プレイヤー、ベーシストのジェット・ハリスとドラマーのトニー・ミーハンが一緒だった。その結果生まれた〈ダイアモンズ(Diamonds)〉はナンバー1ヒットとなり、このデュオはそこからヒットを連発した。のちにハリスとミーハンは、ジョン・ボールドウィンなる男をツアー・バンドのメンバーとして雇い入れる。すでにそこには運命の手が、ちらちらと見え隠れしていた。じきにジョン・ボールドウィンは、ローリング・ストーンズのマネージャー、アンドルー・ルーグ・オールダムが手がけるソロ・シングルのリリースに際して、ジョン・ポール・ジョーンズと改名する。ボールドウィンの新しい名前は、米軍の高名な海軍司令官を描いた1959年のヒット映画『大海戦史(John Paul Jones)』にちなんでいた。
ハリスとミーハンはすでにシャドウズを脱退していたものの、ビートルズ以前、イギリスで一番の人気──その多くは眼鏡をかけたギタリスト、ハンク・マーヴィンの技量とカリスマによるものだった──を誇っていたグループの出身者とプレイすることは、18歳のペイジにとって大きな名誉だった。
「最初にハンク・マーヴィンを知ったのはいつかって? 14歳ぐらいのときだろう。3つのコードを覚えてご機嫌な時間をすごしたいあのころの子どもたちは、もっぱらスキッフルに夢中だった」とペイジは2011年、BBCラジオ4のジョン・シュガーに語っている。「でもそこからもっと先に進むと、アメリカのロカビリーやロックンロールが、子どもだったぼくらみんなを魅了しはじめた。で、そんなときクリフ・リチャード&ザ・ドリフターズ〔*シャドウズの最初の名前〕があらわれ、むちゃくちゃ出来のいいカヴァーを聞かせてくれたんだ。カヴァーとはいえ、本物らしいガッツもちゃんと持ち合わせていた。
だから肝心なのは子ども時代にクリフとプレイするハンクを見たか、TVでハンクを見たことがあるかってことでね。うまかったけど、本領を発揮したのはシャドウズと組んだときだった。つまりあれは、ほんとに、ほんとにいいバンドだったわけで、ハンクはすごくカッコよかった……もう、ほんとにクールだった。あのころも、今もそうだ。彼には独自のイメージがあった……流れるようなプレイを聞かせ……あの初期の時代には、ぼくらみんなが──ジェフ・ベックも、ぼくも、エリック・クラプトンも──〈アパッチ〉とか〈ミステリー・マン(Man of Mystery)〉とか〈FBI〉みたいな(シャドウズの)ヒット曲を弾いていたんだ。
ハンクは独自のサウンドをつくりだした。はっきり彼だとわかるサウンドを。ギタリストの多くは子ども時代、彼に影響を受けていた。まだ、自分がいずれロック・スターになるとは夢にも思っていなかったころにね」
ツアー先でジェット・ハリスとトニー・ミーハン、そしてジョン・ボールドウィンとともにギターを弾いていたのがジョン・マクラフリンだった。ギター・ショップで働いていたとき、ペイジにちょっとしたギターのレッスンを施したこともある男である。「ジョニー・スミスやタル・ファーロウの流れをくんだ、当時のイギリスでは、一番のジャズ・ギタリストだったと思う」とペイジは語っている。「コードの進行みたいなことについては、本当にいろんなことを教わった。ものすごく指が速かったし、ものすごく先を行っていて、もうむちゃくちゃ勉強になった」
〈ダイアモンズ〉のセッションをきっかけに新たな道が開け、まだ公式にはサットン・アート・カレッジの学生だったペイジは、週に最大で10回のセッションをこなすようになる。以後3年半、依然として学生の身分のまま、彼はイギリスを代表する2大セッション・ギタリストのひとりとなった──もうひとりはビッグ・ジム・サリヴァンで、相変わらず実家暮らしをしていたエプソム出身の少年は、とりあえず〝リトル・ジム〟と呼ばれていた。アーティストや音楽を問わず、さまざまなジャンルの仕事をしたこの時期に、彼はギターの腕をみがいた。初期のセッションで主に使ったギターは、ニール・クリスチャン時代に弾いていた黒のレスポール・カスタムだった。〝フレットレスの驚異〟と呼ばれ、ピックアップが3基ついていたこのギターは、音色の面で非常に柔軟性が高かった。必要に応じて彼は、1937年型のクロムウェル・アーチトップ・アコースティック・ギターにバーンズのアンプを組み合わせ、ときにはフェンダー・テレキャスターを使うこともあった。
1963年6月、ペイジはチャンネル諸島に暮らす6万人の視聴者だけを対象にしていたITV最小のフランチャイズ局、チャンネル・テレヴィジョンでインタヴューを受けた。髪の毛をきれいなオールバックにしたペイジはいかにもロッカー然としていたものの、その口調と正確で格式ばった言葉づかいは、実際の本人以上に高い階級の育ちをほのめかしていた。免税のアルコールと煙草(たばこ)で知られるこのイギリスの租税回避地の中でも、ジャージー島とガーンジー島は休暇先としてそれなりにヒップな評判を得ていた。ペイジがそこにいたのも、それが理由だったのだろうか?
インタヴューは屋外の波止場で撮影された。最初の質問は、段取り的なものだった。
──セッション・ギタリストというのは?
「ヒット・パレード入りを目指して、レコードをつくるために呼ばれるギタリストのことですが、ギャラはいつも決まっていますし、一夜興行につきあうとは限りません」
──いつも、特定のシンガーのために仕事をしているわけではない?
「そうですね」
──あなたのように年が若いセッション・ギタリストはほんのひとにぎりしかいないようですが、その理由は?
「かなり閉鎖的な世界ですからね。ミュージシャンズ・ユニオンは組合員を優先しますし、ヴェテランの仕事がなくなってしまうので、若い人間を入れたがらないんです」
──じゃああなたはどうしてセッション・ギタリストになれたんですか?
「わかりません。たぶん、勘所を心得ていたんでしょう」
──ギター歴はどのくらいですか?
「4年です」
──ずっとセッション・ギタリストをやっているんですか?
「いえ、ここ1年半ほどです」
──レギュラーのバンドはあるんですか?
「はい、ニール・クリスチャン&ザ・クルセイダーズです」(この時点でペイジはすでに脱退していた)
──このグループではどういう仕事を?
「イギリスのあちこちで一夜興行をやっています」
──今までにレコードでバッキングを務めた大物というと?
「ジェット・ハリス&トニー・ミーハン、エデン・ケーン、ダフィー・パワー」
──ショウビジネス界の大物たちと仕事をするのはどういう感じですか?
「ガッカリしますね」
──どうしてですか?
「こっちの期待に応えてくれないからです。基本的にはガッカリさせられることのほうが多いですね」
──レコードを愛聴している人たちにとっては、あまりありがたくない話かもしれませんね。あなたの職業的な野心は? ずっとギタリストでいたいと思いますか? 自分でレコードをつくってみたいと思ったことは?
「いえ、特には。ぼくは美術にとても関心があります。できれば優秀な画家になりたいですね」
──ギタリストではなく?
「ええ、できれば」
──ギターはあなたにとって、お金を稼ぐのための手段にすぎないんですか?
「ええ、そうです。ギターで画を描く資金が稼げるといいんですが」
ペイジが仕事をするアーティストの格は、着実に上がっていた。その初期の例がカーター=ルイス&ザ・サザナーズの〈ユア・ママズ・アウト・オブ・タウン〉だ。「仕事の速いプレイヤーで、ロックンロールがわかっていたし、それをもっと膨らませてくれた」とジョン・カーターは語っている。「同時にとてももの静かで、ちょっとインテリっぽい感じがした」
ジョン・カーターとケン・ルイスの本業はソングライターだが、余技としてバッキング・シンガーの仕事をしていた。ふたりが最初に書いたヒット曲は、マイク・サーンが1962年に放ったノヴェルティのナンバー1ヒット〈カム・アウトサイド(Come Outside)〉のあとを受けて、全英チャートを18位まで上昇した〈ウィル・アイ・ホワット?(Will I What?)〉。カーター=ルイス&ザ・サザナーズを結成したのは、そうすれば自分たちの曲のプロモーションになると説得されたからだった。ペイジはセッション・ミュージシャンとして、ストーク・オン・トレント出身のマローダーズが1964年にトップ40に送りこんだカーター=ルイス作品〈ザッツ・ホワット・アイ・ウォント(That's What I Want)〉でギターを弾いた。その後、ペイジは短期間だけ実際にこのグループのメンバーとなる。のちにプリティ・シングスのドラマーとなるヴィヴ・プリンスは、ビッグ・ジム・サリヴァンやドラマーのボビー・グレアムと同様、ペイジの在籍時にこのグループでプレイしていた。1964年になるとカーター=ルイス&ザ・サザナーズはアイヴィー・リーグと改名し、さらには魔法のようにフラワー・ポット・メンに変身を遂げ、1967年に〈花咲くサンフランシスコ(Let's Go to San Francisco)〉を全英4位に送りこんだ。
ペイジはほかにもアイルランド版のペリー・コモとも言うべきヴァル・ドゥーニカンの〈ウォーク・トール(Walk Tall)〉──1964年11月に6位──や、やはりアイルランド人のヴァン・モリソンをシンガーに擁するベルファストのグループ、ゼムの〈ベイビー・プリーズ・ドント・ゴー(Baby, Please Don't Go)〉とB面の〈グロリア(Gloria)〉、そしてそれにつづくシングルの〈ヒア・カムズ・ザ・ナイト(Here Comes the Night)〉など、多種多様なレコードに参加した。
ゼムの2本柱はヴァン・モリソンとギタリストのビリー・ハリスンだった。「オレたちは1964年のなかばに、デッカのウェスト・ハムステッド・スタジオに連れて行かれた」とハリスンは語っている。「こっちの持ちネタを聞かせるためだ。やったのは〈ベイビー・プリーズ・ドント・ゴー〉と〈グロリア〉、それに〈ドント・ストップ・クライング・ナウ(Don't Stop Crying Now)〉で、これが最初のシングルになったんだが、結果は散々だった」
セッションをプロデュースしたのは、ニューヨーク育ちの都会人で、かなりの大物ソングライター兼レコード・プロデューサーだったバート・バーンズ。アトランティック・レコードの重鎮のひとりで──彼はドリフターズを復活させ、ソロモン・バークをこのレーベルにスカウトした──のちには傘下レーベルのバングを立ち上げ、ソロになったヴァン・モリソンとニール・ダイアモンドをはなばなしくデビューさせる男である。マンガ映画的なウィットでリズム&ブルースのテーマを一変させたロスアンジェルス出身の白人ソングライター・チーム、ジェリー・リーバー&マイク・ストラーの影響を受けたバート・バーンズは当初、催眠的なラテンのリズム、とりわけマンボで微妙に味つけした曲の数々で、かなりの成功を収めていた。ニューヨークの名高いブリル・ビルディングを本拠に、休むことを知らないバーンズはアイズレー・ブラザーズの〈ツイスト・アンド・シャウト(Twist and Shout)〉、ソロモン・バークの〈エヴリバディ・ニーズ・サムバディ・トゥ・ラヴ(Everybody Needs Somebody to Love)〉、ジ・エキサイターズの〈テル・ヒム(Tell Him)〉、ゼムの〈ヒア・カムズ・ザ・ナイト〉、マッコイズの〈ハング・オン・スルーピー(Hang On Sloopy)〉など、数多くの曲を共作した(時としてうしろ暗く、ヤクザ者がからむこともあったニューヨーク・ポピュラー音楽界の住人にふさわしく、誰もが最高の男と見なし、ボヘミアン的なシックさを好む人々の目には、特に魅力的な存在と映っていたバート・バーンズもやはり、裏社会との〝つながり〟を噂され、〝マフィアのメンバー〟だった可能性すら口にされていた。となるとバーンズが彼一流の視点から、アメリカの音楽業界について、ペイジに興味深い教育を施した可能性もある。レッド・ツェッペリンは最初のセッションで、〝バート・バーンズに捧げる曲〟という副題が付された〈ベイビー・カム・オン・ホーム(Baby Come On Home)〉をレコーディングした。まさしくバーンズがアトランティックでプロデュースしていたようなタイプの、すばらしく美しいソウル・ナンバーだが、1993年までリリースされることはなかった。この1968年のレコーディングにおけるペイジのギター・プレイからは、バート・バーンズに対する彼の愛情を聞き取ることができる)。
バート・バーンズが最初にロンドンを訪れたのは、〈ツイスト・アンド・シャウト〉を書いたことがきっかけだった。ジョン・レノンがすばらしく情熱的な歌を聞かせ、曲の人気を別次元に高めたビートルズのカヴァー・ヴァージョンは、1963年にLPチャートで30週ナンバー1に輝いたリヴァプールのグループのファースト・アルバム《プリーズ・プリーズ・ミー(Please Please Me)》を締めくくっていた。アメリカでのビートルズはまだ、まったく無名の存在だったものの、このアルバムからバーンズが最初に印税として受け取った小切手の額面は、9万ドルだった。1963年10月、彼は現地の事情を確かめるためにロンドンに向かい、箸にも棒にもかからないアーティストを何組かプロデュースした。
イギリスの首都にはすでに、シェル・タルミーがいた。以前はキャピトル・レコードの仕事をしていたロスアンジェルスっ子である。彼はデッカのA&R部長、ディック・ロウ──ビートルズとの契約を断ったことで知られる男だが、その後ローリング・ストーンズと契約を結んで面目を施した──に雇われて、同社のスタッフ・プロデューサーになっていた。ロウは自分が契約したゼムというベルファストのグループのプロデューサーに、バーンズがうってつけなのではないかと考えた。
〈ツイスト・アンド・シャウト〉はブライアン・プール&ア・トレメローズによって今一度カヴァーされ、デッカ・レコードから出た彼らのヴァージョンは全英トップ10ヒットを記録する。これはある意味、意趣返し的なリリースだった。というのも彼らはロウが、ビートルズの代わりに契約したグループだったからだ。ブライアン・プール&ア・トレメローズはエセックスという、ロウのようなロンドンの住人にとっては、リヴァプールよりもはるかになじみのある土地の出身だった。
アメリカ人のプロデューサーが自分とタルミーの2人しかいなかったロンドンで、バート・バーンズはデッカ・レコードを通じて仕事を獲得し、セッションではもっぱら〝リトル・ジミー〟・ペイジをギタリストに起用した。彼はペイジの才能を高く買い、友人になっていた。バーンズの評伝を書いたジョエル・セルヴィンによると、「ミッキー・モストやアンドルー・ルーグ・オールダムのような新世代のイギリス人プロデューサーがアメリカ的なサウンドのレコードをつくろうと躍起になる一方で、バーンズはイギリス的なサウンドのレコードをつくろうとしていた初のアメリカ人プロデューサーだった」
デッカでおこなわれたゼムのセッションは、その甲斐(かい)あって、朗々と響きわたるまったくユニークなサウンドのレコードを生みだした。「バート・バーンズは誰かに言いくるめられてあのセッションをプロデュースしたんだ」とビリー・ハリスンは語っている。「そして彼はジミー・ペイジと、ドラムのボビー・グレアムを連れて来た。当然、不満の声は上がったし、特にオレは反対だった。自分たちだけでやれると思っていたからだ。ジミー・ペイジはベースに合わせて同じリフを弾いていた。リードを弾いたのはオレだ。あのリフを書いたのも。
バート・バーンズとオレたちは、サウンドのことで口論になった。オレはオレたちの演奏で問題ないと思っていたし、セッション・マンを使うのは、ちょっとズルをしているような感じがしたんだ。当時のオレは、すぐにカッとなるタイプだった。
だからもうやたらと口論になって。ジミー・ペイジは誰とも話したがっていないような感じがした。世界中の誰よりも自分がえらいつもりでいる、高慢ちきな男というか。じっと黙って座っていて、話しかけてもいっさい答えようとしない。なんの反応もなかった」
もしかするとビリー・ハリスンは、ほかのミュージシャンたちがもの静かなジミー・ペイジの特徴としてとらえていた内気さの意味を、取り違えていたのかもしれない。彼自身の個人的な偏見を、ペイジにぶつけていた可能性もある。「自分のほうが上だと思っているみたいだった。このアイルランド人どもよりは上だと。あれは宿屋に『セールスマン、有色人種、アイルランド人はお断り』という看板がかかっていた時代で、ペイジにもそれと同じ、人を見下して、小馬鹿にしているようなところがあった。そりゃテクニック的にはたいしたものだったけど、それにしたってちょっとくらい、親しげなそぶりを見せても罰は当たらないだろ?」
「リード・ヴォーカリストのヴァン・モリソンは敵意をむき出しにしていた。自分のレコーディングにセッション・マンなんてお呼びじゃないと思っていたんだ」とドラマーのボビー・グレアムは語っている。「ディレクターのアーサー・グリーンスレイドが、あくまでも手助けで来ただけだと言い聞かせていたのを覚えている。それで少しは落ち着いたが、やっぱりムッとした顔をしていた」
ちなみに音楽評論家のスペンサー・リーが『インディペンデント』紙に寄せたグレアムの追悼文には、「モリソンの思惑はともかく、彼らの相性は抜群で、〈グロリア〉の最後でグレアムが狂ったように叩きまくるドラムは、ロック史に残る名演のひとつだ」と記されていた。
そして〈ベイビー・プリーズ・ドント・ゴー〉のオープニングのギター・リフは、60年代のポピュラー音楽における決定的な瞬間のひとつだ。これは実のところ、完全にビリー・ハリスンの功績だった。「あとになってイラッとさせられたのは、ジミー・ペイジが〈ベイビー・プリーズ・ドント・ゴー〉で圧巻のソロを弾いたという説が広まっていくのを、腕をこまねいて見てなきゃならなかったことだ」とハリスン。「あれにはイラッときた。弾いたのは自分だとあいつが言ったことは一度もない。だが否定したことも一度もないんだ」
その翌年、ゼムに加入するジャッキー・マコーリーによると、「ジミー・ペイジは長年のあいだ、ビリー・ハリソンが弾いたギターのおかげで称賛を浴びていた。でも今はもう、それが間違いだったと認めている」
バーンズはアイズレー・ブラザーズの傑作のカヴァーで、グラスゴーから登場したルル&ザ・ルーヴァーズのデビュー・ヒットとなる〈シャウト(Shout)〉にもペイジを起用した。そしてルル版の〈ヒア・カムズ・ザ・ナイト〉に彼のギター・パートをつけ加えたが、ゼムの作品に先だってリリースされたこの壮大なヴァージョンは、全英チャートに1週ランクされただけだった。
ロスアンジェルスのフェアファックス・ハイスクールでは、フィル・スペクターの先輩だったシェル・タルミーもジミーのプレイを気に入り、ギタリストも同じくらい彼のことが気に入っていた。スタジオの改革者だったタルミーはしばしば音の分離や録音のレヴェルに手を加え、ペイジはそうしたテクニックを熱心に研究した。
タルミーがこのギタリストと行き合ったのは、ロンドンに到着してデッカの仕事をはじめた直後のことだった。「17歳の天才ギタリストがいるという噂が耳に入ってきたので、実際にそのプレイを聞いて起用を決めたんだ。わたしたちの相性は抜群だったし、彼のプレイも最高だった。『こいつはきっと大物になるぞ』と思ったね。唯一残念に思うのは、彼がレッド・ツェッペリンを結成したとき、わたしに声をかけてくれなかったことだ。もったいない! あれは、ぜひともやってみたい仕事だった。
あいつはわかっていた。つまり、オリジナルだったということだ。あの当時のロンドンには、本当の意味で現代的なミュージシャンがほとんどいなかった。うまいミュージシャンならいくらでもいたが、みんなちょっと古くさいところがあった。イケてるリズム・セクションはひと組かふた組程度。最初はそのかたわれだったビッグ・ジム・サリヴァンを使っていたが、その後ジミー・ペイジを発見すると、彼のほうがもっといいと思うようになった。もっと今風だったからだ。わたしがこうすべきだと思っていた通りのプレイ、少なくともアメリカでやっていた通りのプレイを聞かせてくれたから、わざわざ考えるまでもなかった」
このプロデューサーはペイジをドラマーのボビー・グレアム、そしてときにはベースのジョン・ボールドウィンと組ませ、非常に臨機応変で仕事の速いチームをつくりだした。タルミーはグレアムを「イギリスが生んだ史上最高のドラマー」と評している。ジョー・ブラウン&ザ・ブルーヴァーズで叩いていた1962年6月、グレアムはニューブライトンのタワー・ボールルームで、ブライアン・エプスタインからアプローチを受けた。よかったらピート・ベストの代役で、ビートルズに入ってくれないか? だがグレアムはその申し出を断り、リンゴ・スターのために道を開けることになった。
グレアムがはじめてペイジに会ったのは、このギタリストがニール・クリスチャン&ザ・クルセイダーズでプレイしていたころのことだ。彼らはバッキンガムシャー州のエールズベリーで、ジョー・ブラウンの前座を務めた。「すっかり感心してね。すごく親しい友だちになったし、自分がプロデューサーになってからは、いつもジミーを起用していた。オレたちがふたりで書いた曲用に、ジムボ・ミュージックという出版社もスタートさせたし。ジミーは決してぶっ飛んだ変人タイプじゃない。とてももの静かで、内気な男だ。音はビッグ・ジム・サリヴァンよりも、ジミーのほうがちょっとひずんでいた──あの2人はよく、交代交代でプレイしていたんだ。アレンジャーから特別な指示がない限り、なんだって自分たちでケリをつけていた」
ペイジもグレアムも楽譜は読めなかった──ただしギタリストはそれから数年のうちに、初見で弾けるようになる。「しっくり来るかどうかで判断するしかなかった」と言うグレアムは、その活動期間中に自分が叩いた曲数を、1万5000曲と見積もっていた。「音はデカかった。シンガーが息継ぎをしたら、フィルを入れる。それがオレの流儀だった。オレは新しく入ってきた世代のひとりだ。ジム・サリヴァンはもうそこにいた。ジミー・ペイジは──オレと同じで楽譜はからきしダメだったけど、すばらしく勘がよかった」
セッションの仕事はいい金になり、ギャラは1回あたり9ポンドと、当時の平均的な労働者の週給よりも少し高かった。しかもミュージシャンズ・ユニオンの規則により、セッションは1日に3回と決まっていた──午前10時から午後1時、午後2時から午後5時、午後7時から午後10時の3回である。各セッションでミュージシャンたちは、通常4曲を完成させ、その後、茶封筒に入ったギャラを現金で受け取る。かりに3回のセッションすべてに参加すれば、1日で30ポンド近い稼ぎになった。1日の仕事を終えると、ペイジやビッグ・ジム・サリヴァンやグレアムは、クロムウェリアンやアニーズ・ルームのような、流行のナイトクラブに足を運んだ。
「ジミーとやった仕事の中で、一番マトモじゃなかったのが『ゴンクス・ゴー・ビート(Gonks Go Beat)』〔*未公開〕だ」とグレアムはふり返っている。「オレたちはチャーリー・カッツに言われて、デッカの第3スタジオに入った。普段はクラシックのレコーディングに使う聖堂みたいなスタジオだ。オレなんかがいていい場所じゃない──場違いなセッションに顔を出してしまったのは、あの時が最初で最後だった。オレのパートはまるで、ロンドンの地下鉄マップみたいに見えた。ジミーがやって来て、『間違ったところに来ちゃったみたいだ。譜面がまるで読めない』と言った。すると音楽監督が『諸君、用意はいいか?』と問いかけ、まわりはぴたっと静かになった。そしてオレのいるほうを見たので、うしろにいる誰かに話しかけるんだろうと思っていたら、『ボブ、きみからだ』でも悪戦苦闘するオレを見て、そいつはとうとう指揮棒を下ろし、オレのところに来てパートのおさらいをさせた。セッションがはじまり、ジミーのほうに目をやると、あいつは猛然と弾きまくっていた。で、セッションが終わって、『いい感じで弾いてたじゃないか』と声をかけたら、『いや、アンプのスイッチを切ってたんだ』だとさ」
シェル・タルミーとともに、2人のジムとボビーのトリオは無数とも思える新人アーティストやヒット曲候補のバッキングを務めた。ランカストリアンズの〈太陽に歌って(We'll Sing in the Sunshine)〉、ウェイン・ギブソンの〈シー・ユー・レイター・アリゲイター(See You Later Alligator)〉、ファースト・ギアの〈リーヴ・マイ・キトゥン・アローン(Leave My Kitten Alone)〉……リトル・ウィリー・ジョン作品のカヴァーで、〈ア・サートゥン・ガール(A Certain Girl)〉のB面だった〈リーヴ・マイ・キトゥン・アローン〉でのプレイを、アメリカのロック評論家、グレッグ・ショウは「〈胸いっぱいの愛を〉以前では、ペイジのもっとも際立ったソロ」と評している。
1965年1月15日、この時もやはりタルミーの依頼で、ペイジは17歳になるマニッシュ・ボーイズのリーダー、デヴィッド・ジョーンズと〈アイ・ピティ・ザ・フール(I Pity the Fool)〉で共演した。これはボビー・ブランド作品のカヴァーで、B面は〈テイク・マイ・ティップ(Take My Tip)〉だった。ほどなくしてデヴィッド・ジョーンズは、モンキーズのデイヴィー・ジョーンズとの混同を避けるためにデヴィッド・ボウイと改名する(1964年にペイジは、ジョーンズ/ボウイ率いるソサエテイ・フォー・ザ・プリヴェンション・オブ・クルーエルティ・トゥ・ロング・ヘアド・メン(長髪男性虐待防止協会)の〝メンバー〟になっていた。これは明らかに宣伝ねらいのギミックだが、その甲斐あってジョーンズはTVニュースのネタになった。さらにペイジはいずれもシェル・タルミーがプロデュースしたデヴィッド・ボウイの初期のバンド2組、デイヴィー・ジョーンズ・ロッカーとデヴィッド・ジョーンズ&ザ・ロウワー・サードのレコーディングにも参加。またマイク・ヴァーノンのプロデュースでデッカからリリースされた彼のファースト・アルバム《デヴィッド・ボウイ(David Bowie)》にも参加している)。
「あの〈アイ・ピティ・ザ・フール〉セッションは見物だったね」とウェイン・バーデルは語っている。当時、フランシス・デイ&ハンターというロンドン、チャリング・クロス通りのレコード店で働いていた彼は、その後、マネージャーとして成功を収めた。「まだボウイじゃなかったデヴィッドに呼ばれて、IBCのセッションを見学したんだ。プロデュースはシェル・タルミーで、グリン・ジョンズがエンジニア、ジミー・ペイジがギターを弾いていた」
「どう見てもヒットの目はなさそうだな」とペイジはその日、この曲を評した。彼の予言は的中した──このシングルの売り上げは、500枚にも満たなかったのだ。しかしマニッシュ・ボーイズのセッションで、彼はデヴィッド・ジョーンズにあるギター・リフを伝授した。若きシンガーにはまだその使い道がわからなかったが、デヴィッド・ボウイになってから、このリフを2つの曲に活用した──最初は1970年の《世界を売った男(The Man Who Sold the World)》に収録の〈スーパーメン(The Supermen)〉、そして2度目は1997年の〈デッド・マン・ウォーキング(Dead Man Walking)〉に。「まだほんの青二才だったころ」と後年、デヴィッド・ボウイは語っている。「ぼくはあるバンドとロックのセッションをやった。60年代にやっていた無数のバンドのひとつ──そうそう、マニッシュ・ボーイズというバンドだ。ギター・ソロを弾いたのは、アート・スクールを出たばかりなのに、もうトップクラスのセッション・マンになっていた若者だった……ジミー・ペイジさ」
そしてこの〝若者〟が〈アイ・ピティ・ザ・フール〉で弾いたソロには、十分自慢するだけの価値があった。当人はクサしていたものの、これはヒットしていてもおかしくない、なんともすばらしいレコードだったからだ。そしてその出来栄えには、ジミー・ペイジがつけ加えた、ミック・グリーンがパイレーツで弾いていたような熱っぽいハード・ロック・ギターが少なからず貢献していた。
たしかに〈アイ・ピティ・ザ・フール〉は不発に終わったかもしれない。だがタルミーは1960年代のイギリスを代表する2組のグループの出世作的なシングルをプロデュースした。キンクスのサード・シングル〈ユー・リアリー・ガット・ミー(You Really Got Me)〉と、ザ・フーの〈アイ・キャント・エクスプレイン(I Can't Explain)〉である。ペイジは後者のオケでリズム・ギターを弾いた。
「わたしにソロが弾けるかどうか確信が持てなかったシェルは、贔屓(ひいき)にしていたセッション・ギタリストのジミー・ペイジを念のために呼び寄せた」とピート・タウンゼンドは自伝に書いている。「そしてわたしたちのバンドがビーチ・ボーイズ風の、下手くそなバッキング・ヴォーカルつきでこの曲をリハーサルしていたせいで、シェルは3人の男性セッション・シンガー、ジ・アイヴィー・リーグを呼んで、わたしたちの代わりにさえずらせることにした。シェル・タルミーは締まりのある、売れ線の上出来なサウンドをものにできる男だったので、たとえギターのフィードバックはいっさい入っていなくても、ヒットを出すためなら仕方がないと妥協するつもりでいた」
アラン・ディ・ペルナの『ギターの達人たち:その素顔(Guitar Masters: Intimate Portraits)』〔*未訳〕の中で、タウンゼンドはペイジを「友人のひとり」と呼んでいる。たしかに2人のギタリストには共通点があった。どちらもフーの共同マネージャー、クリス・スタンプのアシスタントを務める美しい──年上の──アニャ・バトラーと関係を持っていたのだ。タウンゼンドは当初、なぜペイジがセッションに来ているのだろうと首をひねった。「『で、きみはここでなにをしているんだ?』とジミーに訊くと、『リズム・ギターにもう少し重みを持たせるためさ。オーヴァーダブでギターを入れるんだよ』わたしが『なるほど』と返すと、彼は『なにを弾くんだ?』と訊いてきた。『リッケンの12弦だ』と答えると、『じゃあぼくは……』なんだったのかは覚えていないが、雰囲気はとても友好的で、最初から最後まで、とても楽しめるセッションだった」
〈アイ・キャント・エクスプレイン〉のB面に収められた〈ボールド・ヘッデッド・ウーマン(Bald Headed Woman)〉でファズの効いたフレーズを弾いたのはペイジだった。ザ・フーの編集アルバム《トゥーズ・ミッシング(Two's Missing)》のライナー・ノーツで、フーのベーシストだったジョン・エントウィッスルは「全編で聞けるファズのドローンを弾いたのはジミー・ペイジだ。理由はあいつが、当時この国にはひとつしかなかったファズボックスを持っていたからさ」と語っている。
エントウィッスルのコメントは正確に言うと誤りだ。ギブソン・ギターは1962年にファズトーン・ペダルの製造を開始し、〝マエストロ・ファズトーン・FZ-1〟と銘打って売りだしていた。数は限られていたものの、アメリカからの輸入品はロンドンの高級な楽器店で購入が可能で、ペイジがこの仕掛けを入手したのも、そうした店のひとつだったのである。
技術開発の例に洩れず、ファズボックスとそれがギターのサウンドにもたらす歪み感──ローリング・ストーンズの〈サティスファクション(Satisfaction)〉でキース・リチャーズが強く印象づけたこのサウンドを、ペイジは極限まで活用することになる──は、完全に偶然の産物だった。1951年、ジャッキー・ブレンストン&ヒズ・デルタ・キャッツ──その正体はアイク・ターナーズ・キングス・オブ・リズム──が〈ロケット88(Rocket 88)〉で全米リズム&ブルース・チャートの首位を獲得する。〈ロケット88〉の顕著な特徴は、ウィリー・キザートのギターが発するうなり声のようなサウンドだった。1951年、この曲をレコーディングするために、キザートがミシシッピ州のクラークスデイルからメンフィスにあるサム・フィリップスのサン・スタジオに向かっていたとき、タイヤ交換の途中でアンプが車から転げ落ちてしまう。破損したスピーカーのコーンを修復するつもりで、ギタリストは穴に紙を詰めこんだ。するとその結果生まれたわずかに歪んだサウンドが、史上初のロックンロール・レコードと呼ばれることも多い〈ロケット88〉の特徴となったのである。それを機にギタリストたちは、同様の〝汚れた〟サウンドを出す手立てを探りはじめ、リンク・レイやバディ・ガイなどは、そうした音色を再現するためにわざとアンプを破損させた(レイはスピーカーにいくつも穴を開けた)。1961年には偉大なカントリー・シンガー、マーティー・ロビンスのシングル〈気にすんなよ(Don't Worry)〉が全米チャートを3位まで上昇する。その大きな立役者は、ギタリストのグレイディ・マーティンが故障したアンプを通してプレイしたブツブツ音のギターだった。マーティンはほどなく〈ザ・ファズ(The Fuzz)〉と題する独自のシングルをリリースし、それがこの機能不全的なサウンドのなかば公式な名称となった。
ロスアンジェルスではラジオ局の技術者が同様の効果を生む電子機器をつくり、依頼したプロデューサーのリー・ヘイズルウッドが、1960年に出たサンフォード・クラークのシングル〈ゴー・オン・ホーム(Go On Home)〉で使用していた。またそれと同じ街では、高名なレッキング・クルーの一員となるスーパー・セッション・プレイヤーで、同時にエレクトロニクスの天才でもあったオーヴィル・〝レッド〟・ローズが同様の機器を開発し、レッキング・クルー仲間のギタリスト、ビリー・ストレンジがアン・マーグレットの〈アイ・ジャスト・ドント・アンダースタンド(I Just Don't Understand)〉で活用している。さらにストレンジはアメリカ版のシャドウズとも言うべきインストゥルメンタル・サーフ・バンド、ベンチャーズが1962年の終わりにリリースした〈2000パウンド・ビー(The 2,000 Pound Bee)〉でも、ローズの発明品を使用した。とりわけペイジの関心を強く惹いたのがこの曲で、ぜひとも激しい震動のようなサウンドを再現したいと考えた彼は、自分でもマエストロ・ファズトーンを購入した。
しかしそれは完全に満足のいく製品ではなかった。さいわいにも彼はすでに、こうした面で手助けをしてくれる人間と知り合っていた。エプソムの音楽シーンで交遊を結んだロジャー・メイヤーである。一種のエレクトロニクスおたく的な存在で、1964年の時点では、テディントンにある英国海軍研究所の音響分析セクションで働いていたが、ふたりの交遊は以前と変わりなくつづき、おたがいの家を訪ねてはアメリカ産のレコードに聞き入っていた。「マエストロのファズを手に入れたジミーは、わたしのところにやって来た」とメイヤーは語っている。「『悪くはないけどサステインが弱くて……ちょっとスタッカート気味になるんだ』と言うので、『ぼくらならきっと改良できるさ』と答えてね。その会話が刺激になって、わたしは最初のファズボックスを設計した」
「ロジャーには、ベンチャーズの〈2000パウンド・ビー〉で聞けるディストーションをもっと強烈にできる仕掛けをつくってほしいと頼んだんだ」とペイジ。「しばらくして彼は、最初の本当に上出来なファズボックスをつくってきた……このすばらしいサステインを生んでくれる、はじめての仕掛けを」
6ヴォルト電池で稼働するメイヤーのファズボックスは、カスタムメイドのケーシングに収納され、ゲインとバイアスのコントロールに加え、アウトプットの音量を調整するスイッチがついていた。「ペイジとわたしは最初から、サステインが強く効く、でも信号がずっと変動しない仕掛けをつくろうとしていた」とメイヤー。「ごくごく早い段階からはっきりしていたのは、不快な音にはしたくないということだった。ファズボックスを設計するのはとても簡単だ。誰にだってできるけれど、いい音がして音程が狂わないものにするとなったら、話はまるで変わってくる」
キンクスの活動におけるペイジの役割は、もっと謎に包まれている。〈ユー・リアリー・ガット・ミー〉のあの伝説的なソロを弾いたのは彼だとしばしば言われてきたが、実際にはそうではない。「ペイジはたしかにキンクスのファーストLPでリズム・ギターを弾いている。だがLPの数週間前に録った〈ユー・リアリー・ガット・ミー〉のリードを弾いた事実はないし、それを言うならどの曲でもリードは弾いてない。わたしがジミーを呼んだのは、歌に専念したいと言うレイの代わりに、リズムを弾かせるためだった」とシェル・タルミーは語っている。事実、ペイジはすでに、グループ名をタイトルにしたキンクスのデビュー・アルバムに収録される〈ドライヴィング・オン・ボールド・マウンテン(I've Been Driving on Bald Mountain)〉と〈アイム・ア・ラヴァー・ノット・ア・ファイター(I'm a Lover Not a Fighter)〉で、アコースティックの12弦ギターを弾いていた(1965年にペイジは〈ユー・リアリー・ガット・ミー〉のインストゥルメンタル・ヴァージョンでプレイし、デイヴ・デイヴィスがオリジナルで弾いたギターのパートをほぼ完全になぞったソロを弾いた。このヴァージョンは、《キンキー・ミュージック(Kinky Music)》と題するラリー・ペイジ・オーケストラのアルバムに収録されている)。
「ぼくが彼らのセッションに参加したのは、レイ・デイヴィスが自由に動きまわり、始終スタジオにいなくても、実質的にすべてをコントロールできるようにするためだった」とのちにペイジは語っている。「レイはあの辺の曲のプロデュースに、シェル・タルミーと同じくらい関与していた……正確にはもっとだ。バンドに指示を出したりしていたのは、全部レイだったからね。ときには3人のギタリストが同時に、同じリフを弾くこともあった」
「ジミー・ペイジについてはこんな話があるんだ」とレイ・デイヴィスは『クリーム』誌に語っている。「ジミー・ペイジは自分が世界ではじめて、G弦を使うべきところにB弦を使った男だと思っている。でもぼくに言わせると、あいつが誇れるのはそれだけだ。それ以外の面ではクソみたいなやつだと思う……その後ぼくらがホットになると、ジミー・ペイジやほかにも大勢の連中が、ぼくらのセッションにやって来た。あいつはたしか〈アイム・ア・ラヴァー・ノット・ア・ファイター〉で12弦を弾き、〈ロング・トール・ショーティー(Long Tall Shorty)〉でタンバリンを叩いたんじゃなかったかな」
実のところ、ペイジが「G弦を使うべきところにB弦を使った」ことはない。『メロディー・メイカー』紙に彼は、上のE弦の代わりにB弦を使ったと語っている。彼は通常のE弦を、GかAにチューニングされたバンジョーのオクターヴ弦と交換していた。「そうやって弦をベンドさせると、ポップのレコードでも荒々しい、本格的なブルースのサウンドが出せるんだ」
「キンクスのレコードでは、たいしたことはしていない」とペイジはのちに認めている。「アルバムじゃたしか2曲ぐらいリフを弾いたはずだけど、本当に覚えてなくて。ぼくの存在をレイがこころよく思っていなかったのは知っている。基本的にキンクスは、ぼくがレコーディングの現場にいるのを嫌がっていた。あれはシェル・タルミーのアイデアでね。でもメンバー以外の人間がヒット曲づくりの現場にいると、厄介なのがマスコミだ。当時はセッション・マンの起用に、あれこれ難癖をつける記者が多かった。むろん、ぼくはなにも話さなかったけど、どこからか話がもれて……そしてその手の話は往々にして、悪感情につながるのさ」
こうしたセッションの大半で、ペイジはギブソンのレスポール・カスタムを使ったが、そのフレットには「スムースに指が動かせるように」やすりがかけられていた。「おかげですごく濁りのない、最高の音が出せた」と彼はBBCレディオ1のジョン・トブラーとスチュアート・グランディに語っている。
レイ・デイヴィスやビリー・ハリスンの不満はともかく、ペイジは60年代中期のブリティッシュ・ポップを代表するレコードの数々──その一部は文句なしの傑作だ──に参加していた。たとえば3作目のジェームズ・ボンド映画の主題歌で、ビッグ・ジム・サリヴァン、そして同じくイギリスの高名なセッション・ギタリストだったヴィック・フリックとともに参加したシャーリー・バッシーの〈ゴールドフィンガー(Goldfinger)〉は、アメリカでもトップ10ヒットを記録。トム・ジョーンズの〈よくあることさ(It's Not Unusual)〉はイギリスでナンバー1、アメリカでトップ10ヒットとなった。ほかに全米ナンバー1になったペトゥラ・クラークの〈恋のダウンタウン(Downtown)〉、キャシー・カービーの〈シークレット・ラヴ(Secret Love)〉、マリアンヌ・フェイスフルの〈涙あふれて(As Tears Go By)〉、P・J・プロビーの〈ホールド・ミー(Hold Me)〉、デヴィッド・ボウイがアルバム《ピンナップス(Pin Ups)》でカヴァーするマージーズの〈愛の悲しみ(Sorrow)〉、ナッシュヴィル・ティーンズの〈タバコ・ロード(Tobacco Road)〉、ブライアン・プール&ザ・トレモローズの〈キャンディ・マン(Candy Man)〉……シャングリラズの〈黒いブーツでぶっとばせ(Leader of the Pack)〉と同様、バイクでの事故死をうたったトゥインクルの〈すてきなテリー(Terry)〉は1964年のクリスマスに全英チャートを4位まで上昇するが、〝悪趣味〟だとしてBBCから放送禁止処分を受けた。彼はまたワイルドなR&Bグループ、ダウンライナーズ・セクト──彼らに比べるとプリティ・シングスですら、クリフ・リチャードなみにおとなしく見えた──のデビュー・シングル〈ベイビー・ホワッツ・ロング(Baby What's Wrong)〉とB面の〈ビー・ア・セクト・マニアック(Be a Sect Maniac)〉でもプレイしている。
バート・バーンズの場合と同じく、ペイジのセッションは大半がデッカ・レーベルの仕事で、場所はウェスト・ハムステッドのブロードハースト・ガーデンズにある同社のスタジオ──まるでオフィス・ビルのような、地味で特徴のない建物だった。
彼はデッカのソロ・アーティスト、シェフィールド出身のデイヴ・ベリーのセッションに数多く参加した。名字が同じチャック・ベリーの〈メンフィス・テネシー(Memphis Tennessee)〉をカヴァーして、最初のヒットをものにした彼は、イギリスのロックンロール・シーンが生んだ最初期のアンチヒーローであり、まさしくオリジナルな存在だった。「ハンブルクで、客をじらすストリッパーの手管に目を惹かれてね」と彼は、ドイツの港町での巡業をふり返っている。かくしてデイヴ・ベリーはマイクと手だけを表に出し、あとは幕の陰に隠れたまま大半の曲をうたうようになった。
エルヴィス・プレスリーがアーサー・クルーダップの〈マイ・ベイビー・レフト・ミー(My Baby Left Me)〉をカヴァーしたとき、スコッティ・ムーアの弾くギターのフレーズは、ティーンエイジャーのジミー・ペイジを大いに触発した。そして今、ペイジはデイヴ・ベリーがうたうこの曲の扇情的なヴァージョンで、みずからリード・ギターを受け持とうとしていた──いつものようにビッグ・ジム・サリヴァンをリズム・ギターに据えて。
ベリーの〈マイ・ベイビー・レフト・ミー〉はトップ40をかすめただけで終わったが、1964年7月にリリースされた情熱的な〈クライング・ゲーム(The Crying Game)〉は、トップ5入りを果たした。しかし今回、リードを取ったのはビッグ・ジム・サリヴァンで、ペイジはリズムにまわり、ドラムはおなじみのボビー・グレアムだった。音楽紙にはエンジニアのグリン・ジョンズと、彼の隣に立って〈クライング・ゲーム〉のプレイバックを聞くペイジの写真が掲載された、とベリーは回想している。「たいていのセッション・ミュージシャンは、自分の出番が終わると同時にスタジオから退散した」とベリー。「でもジミー・ペイジはちゃんとしたプレイヤーだったので、いつも自分のパートを聞き返していた。ときにはやり直したいと言いだすこともあったし。言っておくが当時のジミーはカーター=ルイス&ザ・サザナーズのメンバーで、午後の5時にはライヴの仕事に出ていたんだ」
自分の起用するセッション・プレイヤーは「本気で入れこんでいた」とベリーは語っている。「たぶんデッカ時代の曲の4分の1は、あの面子(メンツ)でやってるはずだ。25曲から30曲ぐらいかな。スタジオの時間が決まるとマイク・スミスから連絡がある。でもビッグ・ジムとジミーの都合がつかないときは、いったんキャンセルして待つようにしていた」ペイジがハーモニカを吹いたオケも、少なくとも4曲あった。たとえば〈C・C・ライダー(C.C. Rider)〉や、ハーモニカのリフが重要なバスター・ブラウンの〈ファニー・メイ(Fannie Mae)〉がそうだが、一方〈クライング・ゲーム〉のB面に収められた〈ドント・ギミー・ノー・リップ・チャイルド(Don't Gimme No Lip Child)〉では、ペイジがリード・ギターとハーモニカの両方を受け持っている。
まだ20歳にしかならないペイジは、スタジオで我を通すタイプだったのだろうか? 「ぜんぜんそんなことはない」とベリー。「あいつはとても静かだった。どっちにせよ真の意味でプロフェッショナルなプレイヤーに、とげとげしいところはまるでない。アーティストがビッグになればなるほど、そういうのとは縁がなくなる。あの2人のギタリストは本当にすばらしいプレイヤーで、譜面には頓着しなかった。ジムは即興でソロを考えだす。レコードを聞けば、彼がヴォーカルにカウンターのメロディーをつけているのがわかるはずだ。よく『そっちを使おう。そのほうがリアルだ』と言っていたものさ。ああいった男たちと仕事をすると、いろいろとアイデアが湧いてくる。2010年に再会したときのジミーも、まったく感じは変わってなかった──まっとうでもの静かな男。オレは自分の作品を、とても誇りに思っていた。すごく幅があったんだ。だからジミー・ペイジが世界一ビッグなバンドのメンバーになったとき、オレはあいつと仕事をしていたことをすごく誇らしく思った。会うとすごく誇らしくなるんだ。子どもみたいに」
1964年3月27日、ペイジはカーター&ルイスの〈スキニー・ミニー(Skinny Minnie)〉で、ヘヴィなファズトーンのギターを弾いた。
この手はすでにギタリストの常套(じようとう)手段となっていた。1964年のはじめにも、スクリーミング・ロード・サッチ&ザ・サヴェージズのセッションで再度、ペイジは同年10月にリリースされるシングル〈ドラキュラズ・ドーター(Dracula's Daughter)〉とそのB面曲〈カム・バック・ベイビー(Come Back Baby)〉のギターを、ギブソン・マエストロ・ファズトーンで補強した。レコーディングは伝説のジョー・ミークがホロウェイ・ロードに構えるちっぽけなスタジオでおこなわれ、エンジニアも彼が務めている(本名をデイヴィッド・サッチというスクリーミング・ロード・サッチはエキセントリックなイギリスのロック・ミュージシャンで、棺(ひつぎ)に入って登場し、ジャック・ザ・リッパー──ペイジも参加している、デッカから出た初期シングルのタイトルでもあった──の扮装(ふんそう)をすることもあった彼のステージは、〈アイ・プット・ア・スペル・オン・ユー〉を書き、レコーディングしたスクリーミン・ジェイ・ホーキンズをお手本にしていた。サッチのサヴェージズは格好のミュージシャン養成所となり、ギタリストのジェフ・ベックとリッチー・ブラックモア、そしてチャーリー・ワッツの前に短期間だけローリング・ストーンズで叩いていたドラマーのカーロ・リトルを輩出した。1963年にサッチは全国十代党(ナシヨナル・テイーンエイジ・パーテイ)の代表としてイギリスの中間選挙に立候補し、それ以降も国会議員に立候補しては落選するパターンをくり返す。また1964年には、テムズ川の河口にほど近い戦時中の要塞を拠点に、海賊放送局のレディオ・サッチを設立した。サッチは60年代が終わる前に、再度ジミー・ペイジの人生に登場を果たすことになる)。
1964年9月、デッカはこのレーベルと契約していたダイナミックでソウルフルなアメリカ人シンガー、ブレンダ・リーをロンドンに招き、ブロードハースト・ガーデンズでレコーディングをさせた。「『こっちに来たのは英国風のサウンドのレコードをつくるためよ』と彼女は言っていた。ナッシュヴィルじゃ同じサウンドは出せないと思っていたんだ。あっちじゃようやく半年前に、イギリスのビート・グループに追いつきはじめたところだったから」とプロデューサーのミッキー・モストは『ローリングストーン』誌に語っている。
〝リトル・ミス・ダイナマイト〟を当世風にするために選ばれた曲は〈イズ・イット・トルー(Is It True)〉といい、これもまたペイジの音楽仲間、ジョン・カーターとケン・ルイスの作品だった。ギタリストが初期のワウ・ワウ・ペダルを用いたこのレコードは、奇(く)しくも大西洋の両岸で最高位17位を記録した。
このころエプソムでペイジやロッド・ワイアットのギター仲間だったピート・カルヴァートは、ピムリコのニート・ハウス4番地にロンドン滞在用のフラットを借りていた。ここにはペイジもしばしば立ち寄り、翌日、早い時間から仕事があるときは、そのまま泊まることもあった。するとじきにヤードバーズのクリス・ドレヤが別の部屋に越してきた。
生来の能力を改善し、拡張したいという欲望は、ペイジにとって、ほとんど本能に近いものだったようだ。シタールの存在を知るやいなや、ほぼ間を置かずに購入した彼は、イギリスでもっとも早い時期にこの楽器を広めたひとりだった。「こういう言い方をしておこう」と彼は語っている。「ぼくはジョージ・ハリスンより先にシタールを持っていた。ただし彼と同じくらいうまく弾けたと言うつもりはない。ジョージはシタールをとてもうまく使っていた……一度、ラヴィ・シャンカールのコンサートを見に行ったことがあるんだけど、客席にはぼく以外、若者はひとりもいなくて、インド大使館の大人が大勢来ているだけだった。つまり、それぐらい古い話だったわけでね。知り合いの女の子が彼と友だちで、コンサートのあと、楽屋に連れて行ってくれたんだ。その娘に彼を紹介されたぼくは、シタールを持っていること、だけどそのチューニング法がわからないことを話した。彼はとても感じがよくて、紙にチューニングのやり方を書いてくれたよ」ほかの音楽紙よりも知的だと自負していたイギリスの週刊音楽紙『メロディー・メイカー』は、1966年5月7日号に「いにしえのシタールで曲を弾くには?」と題する記事を掲載するが、その主な情報源はペイジだった。
こうした探求心旺盛な側面は、アコースティック・ギターの腕を磨こうとした際にも発揮された。「偉大なギタリストのほとんどは、エレキかアコースティックのどちらかがうまいだけだった」と1968年にはじめてペイジに会い、1975年にはレッド・ツェッペリンのレーベル、スワン・ソングの副社長となるアラン・カランは語っている。「でもジムはどっちも同じくらいうまい。それは彼がつねに、この楽器と誠実に接しているからだ。これは彼に聞かされた話だが、まだ仕事をはじめたばかりのころ、あるセッションでプロデューサーに『エレキの代わりにアコースティックで弾いてくれないか?』と言われたことがあったらしい。だが納得のいくプレイができなかった彼は、家に帰ると、それから2か月アコースティックの練習を重ねたそうだ」
1960年代の前半はイギリスのフォーク・ミュージックがブームを迎えた時期で、何人かの名手が台頭し、ギターを学ぶ若者や、つねに腕を磨きたいと願うギタリストたち──ペイジのような──の崇拝の対象となっていた。そうしたプレイヤーたちの中で、聖なる三角形を形づくっていたのがジョン・レンバーンと、東洋のスケールを自分のギター・プレイに採り入れたデイヴィー・グレアム、そしてバート・ヤンシュだった。ブラッド・トリンスキー著『奇跡 ジミー・ペイジ自伝(Light and Shade)』によると、ペイジはとりわけ「別のギター・チューニングとフィンガー・スタイルのテクニック」を示してくれたヤンシュに心酔し、「それを自家薬籠中のものとして、やがては〈ブラック・マウンテン・サイド(Black Mountain Side)〉や〈スノウドニアの小屋(Bron-Y-Aur Stomp)〉などのツェッペリン・クラシックを生みだすことに」なった。
「間違いなく彼は、いろんなものを具現化してくれた男だ」とペイジ。「ヘンドリックスはエレキに大きな貢献を果たしたけれど、ぼくはそれと同じことをアコースティックでやったのが、ヤンシュだったと本気で思っている」ヤンシュと同じグラスゴー出身のフォーク・ギタリスト兼シンガー、アル・スチュアートはペイジに、ヤンシュのギターはD─A─D─G─A─Dにチューニングされていると説明した──いわゆるオープン・チューニングである。ペイジは自分でもこのチューニングを用いはじめた。
第3章 シー・ジャスト・サティスファイズ
ジミー・ペイジの仕事は大半が平凡なポップのセッションだったものの、ときおり創造的な側面を存分に発揮するチャンスがめぐってくることもあった。たとえば1965年1月28日の朝、ロンドンのポートランド・プレイス35番地にあるIBCレコーディング・スタジオに、イギリスきっての腕利きミュージシャンが6人、午前の部のセッションのために参集した。ペイジがギターでブライアン・オーガーがオルガン、リック・ブラウンがベースを弾き、ドラマーはミッキー・ウォーラー、サックスはジョー・ハリオットとアラン・スキッドモアだった。彼らが呼び集められたのは、アメリカの伝説的なブルースマン、サニー・ボーイ・ウィリアムソンのアルバムをレコーディングするためだった。「午前10時にスタートして、午後1時にはもう終わっていた」とウォーラーは回想している。「それと、あれは完全な一発録りだった。オーヴァーダブはいっさいしていない。オレたちは全員が車座になってプレイした」酩酊の度合いが深まるにつれて、ウィリアムソンのタイミングは狂いはじめ、おかげでセッションはいちじるしく困難になった。
ペイジはのちにこうふり返っている。「サニー・ボーイは(ヤードバーズのマネージャーだった)ジョルジオ・ゴメルスキーのフラットに泊まっていた。そこに行ったらサニー・ボーイが生きたニワトリの羽をむしる音がした、とだれかに聞かされたことがある。それがどこまで本当の話なのかはわからない。ぼくがいたときは、そういうことはなかった。サニー・ボーイとぼくはマネージャーのフラットで一連の曲をリハーサルしたんだけど、その2日後にスタジオに入ると、サニー・ボーイはアレンジを全部忘れていた。最高だよ。いい音楽はそういうところから生まれるんだ」(サニー・ボーイ・ウィリアムソンはイギリス滞在中にバーミンガム・タウン・ホールのステージに立った。そこで彼のパフォーマンスを見て、息が止まるほどのショックを受けた16歳のロバート・プラントは、畏敬の念を振りはらって舞台裏に忍びこみ、ブルースの巨匠のハーモニカを1本盗み取った──たまたまトイレで横並びになったとき、挨拶しようとしたティーンエイジャーに「失せろ」と言い捨てた、辛辣さで知られるブルースマンへの意趣返しとして)。
サニー・ボーイ・ウィリアムソンのセッションがおこなわれる直前、ペイジは別のアメリカ人──こちらはブロンドの女性だった──との仕事に関わっていた。ケンタッキー出身の美人シンガー・ソングライター、ジャッキー・デシャノンは早熟の天才だった。11歳のころにはもう自分のラジオ番組を持っていて、10代のはじめにレコーディング契約を結び、当初はカントリー・ミュージックをうたっていた。するとそんな彼女の〈バディ(Buddy)〉と〈トラブル(Trouble)〉というレコードが、初期の偉大なアメリカ人ロックンローラー、エディー・コクランの注目するところとなる。コクランはチャック・ベリーやバディ・ホリーと同様、ロックンロールのシンガー・ソングライターで、たまさかペイジのヒーローでもあった。のちにレッド・ツェッペリンは折に触れて、コクランの代表曲 ──〈カモン・エヴリバディ(C'mon Everybody)〉、〈サマータイム・ブルース(Summertime Blues)〉、〈ナーヴァス・ブレイクダウン(Nervous Breakdown)〉(この曲は実質的に〈コミュニケーション・ブレイクダウン(Communication Breakdown)〉のひな型だった)、そして〈サムシング・エルス(Somethin' Else)〉──をステージでカヴァーすることになる。「きみはカリフォルニアの娘みたいだな」とエディーは彼女に告げた。「もし本気で成功したければ、カリフォルニアに行ったほうがいい」
デシャノンはコクランの本拠地だったロスアンジェルスに居を移し、彼の取りなしでシンガー・ソングライターのシャロン・シーリー──コクランのガールフレンドで、リッキー・ネルソンに〈プア・リトル・フール(Poor Little Fool)〉を提供していた──とチームを組んだ。2人の娘は曲の共作をはじめ、ブレンダ・リーのヒット曲〈ダム・ダム(Dum Dum)〉やフリートウッズが取りあげた〈アイ・ラヴ・アナスタシア(I Love Anastasia)〉を生みだした(シャロン・シーリーは1960年4月16日、エディー・コクランの生命を奪う自動車事故で、ジーン・ヴィンセントともども重傷を負った)。
15の歳でデシャノンはエルヴィス・プレスリーのガールフレンドとなり、それは彼女を取り巻く神話の一部となった──彼女はほかに、リッキー・ネルソンとも関係を持っていた。アメリカでは大ヒットを出せずにいたものの、ソニー・ボノとジャック・ニッチェが書いた〈ピンと針(Needles and Pins)〉を彼女がうたったヴァージョンはカナダで1位となり、その後、この曲をイギリスでカヴァーしたサーチャーズもやはりチャートの首位に輝いた。じきにサーチャーズはデシャノンの作品〈ウォーク・イン・ザ・ルーム(When You Walk in the Room)〉を取りあげ、1964年9月にリリース。この曲は全英チャートを3位まで上昇した。また彼女は1964年の8月から9月にかけて、ビートルズ初の全米ツアーに前座の一員として参加している──当時、彼女のバッキングを務めたミュージシャンのひとりが、若きライ・クーダーだった。
シェル・タルミーやバート・バーンズやブレンダ・リーと同様、文化的な流れの変化を感じ取ったジャッキー・デシャノンは、アビイ・ロードのEMIスタジオでレコーディングをする目的で1964年の終わりに渡英した。「わたしはグレン・キャンベルやジェイムズ・バートンやトミー・テデスコのような人たちとの仕事に慣れていた──ああいったすばらしいギタリストたちとの仕事に」と彼女は回想している。「それで向こうに着いたときもまず、『わたしのセッションで使えそうな、凄腕のアコースティック・ギター奏者はだれ?』と訊いてみたら、それだったらジミー・ペイジしかいない、とだれもが口をそろえるわけ。当時の彼はいろんなヒット曲に参加していて、スタジオ・ミュージシャンの〝A〟リストに入っていたからよ。
それで『いいわ、だったら呼んでちょうだい』と言ったら、『まだアート・スクールに通っているから無理だ』思わず『なんですって?』と訊き返しちゃったわ。姿を見せたときの彼は……絵の具がついたズボンをはいていて、スタジオでは最年少のプレイヤーだった。コードをいくつか適当に弾いて聞かせたんだけど、それをなぞる彼のプレイを聞いて、わたしは部屋から吹っ飛ばされそうなくらいのショックを受けた。あのころからもう、彼はスゴかったのよ。すぐにすばらしい才能の持ち主なのがわかったので、わたしの〈ドント・ターン・ユア・バック・オン・ミー(Don't Turn Your Back on Me)〉という曲で弾いてもらって、曲もいくつか一緒につくってみた」
しかしふたりが惹かれ合ったのは、彼のギタリストとしての技量と、ジャッキー・デシャノン自身の音楽的才能だけが理由ではなかった。「ぼくらはその後、つき合うようになった」とペイジは1977年のインタヴューで明かしている。それによると彼女は、とても魅力的な提案で彼に誘いをかけていた。「『ボブ・ディランの新しいアルバムがあるんだけど、聞いてみたい?』と言われたんだ。ぼくは『聞いてみたいかって?』と答えた」
1965年の大半を、ペイジとジャッキー・デシャノンはカップルとしてすごし、そこそこ有名だったこのアメリカ人ソングライターは、彼を自分の庇護下に置いた。ふたりはロニー・スペクターがサーフィン・ナンバーをうたっているようなロック調のシングル〈ドリーム・ボーイ(Dream Boy)〉を共作した。マリアンヌ・フェイスフルは当時のペイジが「どちらかというとさえない感じ」だったと語っている。彼女はペイジとデシャノンの関係を、「さえない感じをふり払う」ための手段と見なしていた。彼女のマネージャーで、ローリング・ストーンズのマネージャー、アンドルー・ルーグ・オールダムとも親しかったトニー・カルダーは、「ある晩、ジミーとジャッキー・デシャノンがいちゃついているせいで、自分のホテルの部屋に入れないことがあってね。わたしは外から、『それが終わったら、マリアンヌのために曲を書いてくれるかい?』と呼びかけた」と回想している。
その結果生まれたマリアンヌ・フェイスフル2曲目のヒット〈カム・アンド・ステイ・ウィズ・ミー(Come and Stay with Me)〉は、チャートを4位まで上昇した。このパートナーシップはほかに、マリアンヌのアルバムに収録された〈イン・マイ・タイム・オブ・ソロウ(In My Time of Sorrow)〉を生みだしている。
「ぼくらはいくつかの曲を共作し、それは結局マリアンヌやP・J・プロビーやエスター・フィリップス、でなきゃだれか別の黒人アーティストに取りあげられた……当時としては異例なことに、ぼくは印税の通知書を受け取りはじめ、そこには自分の曲をカヴァーしたアーティストの名前が記されていた」とペイジは語っている。
しかしエルヴィス・プレスリーとリッキー・ネルソンという、自分のアイドル2人と寝た経験のある女性と関係を持っていたペイジは、いったいどういう気分でいたのだろう? 彼がアレイスター・クロウリーの〝セックス・マギック〟が生みだす超自然なつながりや、パワフルで超越的だとされるエネルギーをますます信じるようになっていたことを考えあわせると、自意識と自分の可能性に対するペイジの期待が、かなりふくれ上がっていたのは間違いない。
金銭面に関しても、ペイジはつねに抜け目がなかった。1965年のはじめに自前の音楽出版社を設立した彼は、ほどなくして、精神面でも作品面でもジャッキー・デシャノンの支えを受けながら、初のソロ・レコードをつくりはじめた。〈シー・ジャスト・サティスファイズ(She Just Satisfies)〉はキンクス風のロック・ナンバーで、フォンタナ・レーベルからリリースされ、リード・ヴォーカルは彼が取った。B面はやはりペイジ=デシャノン・コンビの〈キープ・ムーヴィング(Keep Moving)〉。今の耳で聞くと、〈シー・ジャスト・サティスファイズ〉は十分チャートで勝負できそうな曲に思えるのだが……。
「〈シー・ジャスト・サティスファイズ〉と〈キープ・ムーヴィング〉はただのジョークだった」とペイジは後年、いくぶん謙遜が過ぎる口調でこのシングルを切り捨てている。「今聞かれたらいい笑いものだろう。聞きどころはせいぜい、ドラム以外の楽器を全部ぼくがやってることぐらいしかない」
1965年に受けた『ビート・インストゥルメンタル』誌とのインタヴューで、〈シー・ジャスト・サティスファイズ〉につづくシングルの可能性を問われたペイジは、「最初のレコードを気に入ってくれなかった世間の人たちが、2枚目をほしがってくれるとは思えない」とにべもなく否定した。
1965年3月、ペイジはデシャノンに連れられてはじめてアメリカを旅し、まずニューヨーク、つづいてロスアンジェルスを訪れた。のちに本人が認めたところによると、チャック・ベリーのウィットと描写力に富む魅力的な歌詞をもとに、アメリカのイメージを形づくっていたギタリストにとって、人生はいきなり想像を超えた展開を見せはじめた。
ニューヨークでのペイジはマンハッタンにあるバート・バーンズの豪華なペントハウス・マンションに滞在し、余った部屋をあてがわれた。プロデューサーはそこで、グレートデンと2頭のシャム猫と暮らしていた。ペイジがビッグ・アップルにいるあいだに、つねに精力的なバーンズは、ペイジとデシャノンが書いた〈ストップ・ザット・ガール(Stop That Girl)〉という曲をバーバラ・ルイスにうたわせた。この失恋をうたったミドルテンポのバラードは、同年、アトランティックからリリースされたミシガン出身の女性ソウル・シンガーのアルバム《ベイビー・アイム・ユアーズ(Baby, I'm Yours)》に収録されている。バーンズを通じて、ペイジはアトランティック・レコードの両巨頭、アーメット・アーティガンとジェリー・ウェクスラーに会見した。このつながりはやがて、計り知れない価値を生むことになる。バーンズはまた、ペイジを「アトランティックのセッションにともなったが、ユニオンと入管の問題があったので、彼はノー・クレジットで演奏した」ということだ。
その後、ペイジは西海岸に飛んだ。可能性の豊潤さをあたたかな声で囁(ささや)きかける1960年代なかばのロスアンジェルスは、ほとんど神話の土地のように思えた。この街に関する情報は、そのほぼすべてが映画での描写から得られたもので、ハリウッドはさながら聖杯だった。スターの座を目指して世界のあちこちからやって来た人々が住人の多くを占めるLAには、男女を問わず、ほかのどんな大都市圏にも増して美しい人々が集っていた。
ロスアンジェルスの完璧な天気、近代的な車社会、美しい景観と、型破りで自由な考えをよしとするライフスタイル──1920年代以来、この街は常人には理解しがたい、難解なアートの実践者が集う場所として知られていた──は、魅力的なパッケージを形づくっていた。
だがそうした豊潤な空気が、まやかしでしかない場合もあった。ロスアンジェルス南部のワッツ地区で暴動が発生した1965年8月、取材に向かった海外マスコミの記者の多くは、この街を車で縦断することになる。〝黒人のゲットー〟を探しながら、彼らにはパームツリーと小ぎれいなバンガローの立ち並ぶこの場所で、流血をともなう都市暴動が起こったことが信じられずにいた。
ワッツ暴動は、ロスアンジェルスと南カリフォルニア全般に関する世間一般のイメージとくっきり対照を成していた。だがそれは同時に、つねにこの街を脅かしていた地震と同様、いつ噴出してもおかしくない、その中心に位置する暗闇のメタファーでもあった。
ペイジに時代の空気を嗅ぎとる能力があることは、すでに明らかになっていたが、ここでの彼は時代の先を行っていた。というのもロスアンジェルスはじきに、ポピュラー音楽の世界的な中心地となる場所だったからだ。「はじめてここに来たのは1965年、スタジオ・ミュージシャンをやっていたころだ」と彼は2014年、『ロスアンジェルス・タイムズ』紙に語っている。「バート・バーンズが呼んでくれてね。うちに泊まればいいと言ってくれたんだ。ぼくはジャッキー・デシャノンに会い、カイロズでバーズを観た(バーズは1965年3月26日にカイロズでデビューを飾った)。今はたしか、コメディ・ストアになってるところだ。まるで魔法のような時代で、本当に盛りあがっていた」
ある朝、彼はサンセット大通りに建つハイアット・ハウスのコーヒーショップに足を踏み入れた。そこで朝食を取っていたのが、ハリウッド・アーガイルズ、B・バンブル&ザ・スティンガーズ、リヴィングトンズといったグループに関わってきたハリウッド音楽シーンの重鎮、キム・フォウリーだ。ロンドンでP・J・プロビーと仕事をした彼は、その際にペイジと知り合っていた。「クラッシュド・ヴェルヴェットに身を包んだミスター・ボーイッシュは、わたしに目を留めると、近寄ってきて腰を下ろした。たった今、最高に物騒で、気狂いじみた経験をしてきたと言う。
彼は当時の有名なシンガー・ソングライター、美しいブロンド娘から、自宅に招待されていた。そこに行くと、彼女は彼を拘束した。拘束具を使われたと言うので、手錠のことかと訊くと、彼はそうだと答え、だが鞭(むち)も使ったとつけ加えた──3日間、昼も夜も。怖かったけれど、同時におもしろかったと言っていたな。ほら、後年の行動には、かならずその引き金になる出来事があるというじゃないか。ジミー・ペイジの場合は、これがそうだったとわたしは思う。なぜなら主導権を握ることが、彼のこだわりになったからだ」
この早すぎたロックンロール・カップルは、数か月で袂を分かった。「彼は音楽の世界に幻滅して、そこから離れたがっていた」とジャッキー・デシャノンは語っている。「ジミーはコーンウォールかチャンネル諸島に行って、陶器を売りたいと言っていたわ。この業界や緊張に耐えられなくなっていたし、わたしは静けさを夢見る彼に耐えられなくなっていた。それで別れたんだけど、彼はあれ以降、ずいぶんと変わったみたいね」
《レッド・ツェッペリンⅢ(Led Zeppelin III)》に収録の〈タンジェリン(Tangerine)〉は、ジャッキー・デシャノンにインスパイアされた曲だと言われている。
1965年5月、ロンドンにもどってきたバート・バーンズは、ゼムのファースト・アルバム用に、今回はデンマーク通りのリージェント・スタジオでオケのプロデュースを開始した。ビリー・ハリスンからの抗議をよそに、バーンズは再度ペイジを起用し、彼はジョッシュ・ホワイトのフォーク・ソング〈アイ・ゲイヴ・マイ・ラヴ・ア・ダイアモンド(I Gave My Love a Diamond)〉のゼム・ヴァージョンに〝ヴィブラートの装飾音〟を提供した。
1962年10月にビートルズがパーロフォンからのデビュー・シングル〈ラヴ・ミー・ドゥ(Love Me Do)〉で登場し、単にパフォーマーとしてではなく、きわめて優秀なソングライターとしても現象的なブームを引き起こす以前、イギリスのポップ・ミュージックは、伝統的な〝ティン・パン・アレー〟の音楽出版社が演者にあてがう楽曲で支配されていた。リヴァプールのカルテットの成功を受けて、自作自演のアーティストが数多く登場していたにもかかわらず、1965年になってもまだ、ビートルズはこのシステムを覆せていなかった。ロンドン最南西部出身のメンバーが大半を占めるヤードバーズは、昔ながらのやり方で選ばれるシングル曲と、ライヴで演奏される曲目──基本的にはローリング・ストーンズやプリティ・シングス、そしてもっと格下のダウンライナーズ・セクトのようなイギリスのグループがいささか芝居がかった調子でわめいていた、ハーモニカのむせび泣く、テンポの速い、変容したリズム&ブルース・サウンド──とのあいだに、いちじるしい乖離(かいり)が生じていた5人組のグループだった。
ヤードバーズを結成したクリス・ドレヤ、アンソニー・〝トップ〟・トッパム、そしてのちにメンバーとなるエリック・クラプトンは、いずれもサービトンの同じ中等学校に通っていた。「キー・パーソンはトップ・トッパムの親父(おやじ)さんだ」とクリス・ドレヤは語っている。「ほかじゃ手に入らないアメリカ盤のSPを、山のようにコレクションしていた。黒人のブルース・ミュージックで、言うまでもなく、それが最初の目覚めになった。あの音楽を見つけたときは、本気で瓶の中から妖精が出てきたような感じがしたもんだ。戦後のうっとうしい50年代、60年代は、かけらも自由な感じがしない、感動ともほとんど無縁な、噓くさいポップ・ミュージックばかりだったからね。
なのにアンソニー・トッパムはあわれなことに、仲間はずれにされてしまう。実際の話、彼はすごく重要な存在だった。あのバンドはもともと、半分と半分が合わさってできたようなものだった。そのかたわれはアート・カレッジに通っていたトップとわたしで、クラプトンも同じアートの流れにいた。よりにもよってサリー州のサービトンという場所で。
あの時点でのトップ・トッパムはたぶん、エリック・クラプトンに負けずおとらず器用でうまいギタリストだったと思う。でもまだほんの16歳だったから、両親に学校をやめることはまかりならんと言われて、ヤードバーズでの活動ができなくなってしまった。
トッパムは今も、最高のギタリストだ。あいつはその後、チキン・シャックでプレイした。わたしたちみんなの中では、実のところトッパムが一番才能のあるアーティストだった。でもトッパムの両親は、ちゃんと稼ぎになっていたのに、あいつを外出禁止にして、やむなくわたしたちはクラプトンを入れた。わたしたちのやっていた音楽になんらかの素養があるプロのプレイヤーは、彼しか知らなかったからだ」
グループのシンガー、キース・レルフは、同じ中等学校出身の2人よりもエリック・クラプトンのことをよく知っていたので、みずから買って出て「あいつの居所をつきとめた」とドレヤはふり返っている。クラプトンはすでにケンジントン・カレッジ・オブ・アートに進学し、だが1年で退学になっていた。教師たちは彼がアートよりも、音楽に熱を入れていると判断したのである。
1964年の終わりごろになると、ヤードバーズの評判は高まり、イギリス一クールなバンドのひとつとして、カルト人気を脱する日も近いのではないかと噂されていたが、それには今や畏敬の対象となっていたギタリストの存在が、大きくものを言っていた。ヤードバーズ──クラプトン以外のメンバーは、亜麻色の髪をしたヴォーカリストのキース・レルフ、セカンド・ギタリストのクリス・ドレヤ、ベーシストのポール・サミュエル=スミスと、ドラマーのジム・マッカーティー──のマネジメントは以前、アンドルー・ルーグ・オールダムとエリック・イーストンにローリング・ストーンズをかすめ取られたジョルジオ・ゴメルスキーが手がけていた。
ヤードバーズを紛れもないポップ・スターの座につける曲が、〈フォー・ユア・ラヴ(For Your Love)〉だった。〈フォー・ユア・ラヴ〉はのちに10CCを結成するマンチェスターのグレアム・グールドマンがはじめて書いた2曲のうちのひとつで、自分のグループ、モッキンバーズに聞かせたが却下され、次に聞かせたハーマンズ・ハーミッツからも、やはり没を食らっていた。だがこのグループとグールドマン両方のマネージャーだったハーヴェイ・リスバーグは〈フォー・ユア・ラヴ〉に強い感銘を受け、こうした反応の悪さにもめげず、今度はロンドンのハマースミス・オデオンで、1964年のクリスマス公演中だったビートルズにこの曲を売りこんだ。曲ならいくらでも自前で用意できるファブ・フォーは、当然のようにまったく興味を示さなかった。しかしそのハマースミス公演でビートルズの前座を務めていたヤードバーズがそのヒット性を認め、レコーディングする運びとなったのである。
この判断は吉と出た。1965年3月にリリースされたシングルは、ビッグ・ヒットを記録する。とはいえバンドのそれ以前の楽曲に比べると、〈フォー・ユア・ラヴ〉はかなり毛色が異なっていた。ヤードバーズはすでに、より本来の彼らに近いと思われるシングルを2枚リリースしていた──〈アイ・ウィッシュ・ユー・ウッド(I Wish You Would)〉という、ビリー・ボーイ・アーノルドが1955年に発表したシカゴ・ブルースのカヴァーと、サニー・ボーイ・ウィリアムソンが1937年に出した〈グッド・モーニング・スクールガール(Good Morning, School Girl)〉の改作ヴァージョンである。後者は〈グッド・モーニング・リトル・スクール・ガール(Good Morning Little Schoolgirl)〉という別タイトルで呼ばれることも多い曲だが、もしこのタイトルのままだったら、近年のラジオでは間違いなくいっさいオンエアされないだろう。ヤードバーズ初のライヴ・アルバム《ファイヴ・ライヴ・ヤードバーズ(Five Live Yardbirds)》に収録のヴァージョンでは、ヴォーカルをシンガーのキース・レルフの代わりに、ベーシストのポール・サミュエル=スミスとエリック・クラプトンが受け持っている。
イーリング・ジャズ・クラブに出ていた初期の時代には、まださほど評価の高くなかったクラプトンも、今や独自の個性を発揮し、自分がプレイすべき音楽を純粋主義者的に追い求める点で、ほかのプレイヤーとは一線を画していた。彼はオーティス・レディングのカヴァーを、ヤードバーズの次のシングルにするべきだと考えた。そうしたスタンスと明らかに卓越した演奏力によって、彼はファンのあいだでヒーロー視されるようになる。すると1965年3月、『メロディー・メイカー』紙にこんな見出しの記事が載った。「クラプトンがヤードバーズを脱退──『商業路線に走りすぎだ』」
「正直、ちょっとバカみたいな曲だと思っていた」とクラプトンは、〈フォー・ユア・ラヴ〉について語っている。「ヘッジホッパーズ・アノニマスみたいなグループには向いてるんじゃないかと思ったけど。ぼくらがプレイすべき音楽かという点で見ると、まるでお話にならなかった。それで『これは終わりのはじまりだ』と思ったんだ」
同じ『メロディー・メイカー』紙の記事の中で、キース・レルフも彼なりにことの次第を説明していた。「とても悲しい。ぼくらはみんな友だちだからだ。悪感情はぜんぜんないけど、エリックは業界にうまくついて行けなかった。商業路線が好きじゃないんだ。とにかくブルースを愛してるから、ぼくらみたいな格好だけの白人に、下手にプレイされるのがたまらなかったんじゃないかな! エリックはぼくらの新しいレコード〈フォー・ユア・ラヴ〉を気に入ってなかった。ほんとなら彼をフィーチャーするところなんだけど、うたうのもなにをするのも嫌だと言うんで、結局は途中に出てくるブギーのパートしか弾いてない。彼の脱退はとりあえず、グループのイメージにとっては大きな打撃となるだろう。エリックはとても人気があったからだ」
クリス・ドレヤの説明はずっと簡潔だった。「大ヒットを出したら、リード・ギターがいなくなった」
エリック・クラプトンはそれから2週間とたたずに、ジョン・メイオールのブルースブレイカーズに加入する。2か月もすると、ロンドンのあちこちにこんな落書きがあらわれはじめた──「クラプトンは神だ」英国ブルース・シーンのゴッドファーザーとして、アレクシス・コーナーと肩を並べる存在だったマンチェスター出身のボヘミアン、ジョン・メイオールはすでに、ブルースブレイカーズへの加入をジミー・ペイジに持ちかけていた。だが彼が断ったおかげで、クラプトンに道が開かれたのである。
ペイジは疑いなく引く手あまただった。エリック・クラプトンの後任を探すヤードバーズとマネージャーのジョルジオ・ゴメルスキーは、ほかならぬクラプトン自身の推薦で、まずペイジに声をかけた。
「ジミー・ペイジならやってくれるかもしれないと思ってね」とジム・マッカーティーはふり返っている。「セッション・プレイヤーの中では売れっ子中の売れっ子だったし、ジョルジオがジミーを知ってたからさ。彼はジミーに、バンドに入ってくれないかと訊いた。でも当時のジミーはセッションで忙しすぎて、ライヴ・バンドに加入する気になれなかった。代わりに彼は、ぼくの代役のひとりをためしてみたらどうだ? と提案した。ジェフ・ベックという男を。それでジェフに会いに行って、バンドに入らないかと声をかけたんだ」
ペイジの友人のジェフ・ベックは当時、1964年8月に加入したトライデンツでプレイしていた。イール・パイ・アイランドに週1回レギュラーで出演し、1500人もの観客を集めることもあったロック系のブルース・バンドである。ベックはこの申し出を受けた。
ペイジをニール・クリスチャン&ザ・クルセイダーズ時代に悩ませた健康不良は、いまだに尾を引いていた。それと同時に彼は、セッション・プレイヤーの仕事で得られる、莫大な稼ぎのことも忘れていなかった。だが本人に言わせると、この話を断った一番の理由は、深まりつつあったクラプトンとの友情だった。「もしエリックのことを知らなかったら、あるいは彼のことを嫌っていたら、加入していたかもしれない。でもあの時は、いっさいそんな気になれなかった。エリックのことがすごく好きだったから、裏で手をまわしたと思われるのが嫌だったんだ」
(ペイジが友人のジェフ・ベックに厚意を示したのは、この時だけではない。1962年にニール・クリスチャン&ザ・クルセイダーズからの脱退を宣言したときも、彼はやはりベックを自分の後任に推薦していた)
ジェフ・ベックは1965年3月5日の金曜日、エリック・クラプトンがグループを脱退したわずか2日後に、ロンドン南部のクロイドンにあるフェアフィールド・ホールズで、ヤードバーズとしての初舞台を踏んだ。彼らの序列は、〈ゴー・ナウ(Go Now)〉で最初のヒットを飛ばしていたムーディー・ブルースに次ぐ2番目だった。
自分をクラプトンの後任に推薦してくれたペイジにいたく感謝していたベックは、わざわざエプソムにあるペイジの実家を訪れ、友人に1959年型のフェンダー・テレキャスターをプレゼントした。「すばらしい心づかいだ」と後年、ペイジは語っている。とはいえベックの感謝の念は、現実に即したものだった。トライデンツというブルース・ギター・バンドの中では際立った存在だったものの、彼がギターの成層圏へと飛翔(ひしよう)するための足がかりを得たのは、ジャズ色の濃いソロでそのサウンドを強化した、ヤードバーズに加入してからのことだったからだ。事実、ベックはほどなくして、ペイジから非常に具体的な道具を借り出した──ロジャー・メイヤーのファズボックスである。ベックは自分が参加したヤードバーズの初シングル〈ハートせつなく(Heart Full of Soul)〉の東洋風のリフに、このエフェクターを使用した。「ヤードバーズ時代にジェフがぼくの家に来て、〈シェイプス・オブ・シングス(Shapes of Things)〉を聞かせてくれたときのことは、今もはっきり覚えている。とにかくすばらしかった──すごくぶっ飛んでいて、時代の先を行っていた。でもぼくは彼のやってることを聞くたびに、なんだか同じリアクションをしているみたいだ」とペイジは回想している。
「ジェフがすばらしいのは、ルーツはみんなと同じブルースとロックンロールなのに、音楽の趣味がずっと幅広いことだ」とクリス・ドレヤは語っている。「ロックンロールやブルースのリフを弾くだけでは飽き足らず、もっと先に進みたがっていたが、それが当時のわたしたちにはドンピシャでね。というのもグループはちょうど、さまざまな種類の実験に手を染めようとしている時期だったんだ。ふり返ってみるとジェフは、かなりのプレッシャーにさらされていたと思う。わたしたちは曲をある程度練りあげた上で、ジェフを呼び入れていた。たとえば〈ハートせつなく〉で彼がものにしたシタールっぽいサウンドは……実際に呼んだシタール奏者のサウンドは、薄っぺらで貧弱だった。それでジェフに『きみにできるかい?』と訊いてみたら、あの信じられないサウンドを生みだしてくれたんだ。ジェフ・ベックは60年代後半のサイケデリック・サウンドの先駆けだ。彼はスタックスやモータウンのレコードからコードを取り入れた。ポイントは、カチッとまとまったバンド・サウンドだった」
第4章 ベックス・ボレロ
ジェフ・デクスターがはじめてジミー・ペイジと遭遇したのは、「1960年代の前半の後半」のことだ。15歳のとき、BBC-TVでツイストを披露して名を上げたデクスターは、モッズ・シーンの立役者のひとりで、タイルズというクラブのDJを務めていた。それ以前はロンドンのオールド・コンプトン通りにある英国産ロックンロールの種蒔き場──クリフ・リチャードもここでスカウトされた──2iズ・コーヒー・バーの常連で、のちにはUKアンダーグラウンド・ロック発祥の地となる、ミドル・アースの設立にも大きく関わっている。「当時のジミーは街中を駆けまわっていた。でもわたしたちが本当に親しくなったのは、1965年か66年のことだ。わたしたちはどっちも、出来のいいスーツと出来のいいシャツに目がなかった」
ペイジとデクスターはソーホーで待ち合わせ、この地に集うさまざまな服飾専門店の在庫をあさった。ジャケットやパンツねらいのこともあったが、シャツの素材に使えそうな生地を探すことのほうが多かった。そんななかで、とりわけエキゾティックな素材探しにうってつけだったのが、グレート・マールボロー通りに建つチューダー様式の百貨店、リバティーだった。布地を手に入れた彼らは、ウィスキー・ア・ゴー・ゴーの2軒隣にあるウォーダー街のスター・シャートメイカーズを目指した。スター・シャートメイカーズはハンガリー人夫婦の仕立屋チームが経営していた。夫婦は──当時としても──けたはずれに安い11シリング、55ペンスに相当する額で、布地を顧客が望む通りのスタイルに仕立ててくれた(ダギー・ミリングスを行きつけにしていたビートルズをデクスターが連れて行ったことをきっかけに、スター・シャートメイカーズには有名人が大挙して訪れるようになった)。
ある日、リバティーを出たペイジとデクスターは、店の西側を走るキングリー通りをそぞろ歩いていた。彼らはそこで、アクリル樹脂のシートにキラキラ光るスクリーンという型破りな照明を用いた26キングリー・ストリートというアート・ギャラリーを発見した。ロンドン初のサイケデリックなアート・ギャラリー、26キングリー・ストリートは、キース・アルバーン(ブラーのシンガー、デーモン・アルバーンの父親)が経営していた。「わたしたちはちょうどアシッドに目覚めたところだった」とデクスターは語っている。「ジミーの家でトリップしたんだが、彼とトリップしたことは一度もない──何度か、助けを求めたことはある。アシッドを飲んでヤードバーズのリハーサルに行ったんだ。彼はわたしの面倒を見てくれた」
ペイジをうとんじるビリー・ハリスンの発言とはうらはらに、デクスターは彼の友人が、単に音楽的な業績だけでなく、親身になってくれる人間としても、ロンドンの音楽業界で高い評価を受けていたと主張する。「愛すべき男だった。仲間のひとりというか。顔を合わせるのはレコードの発表会とか、人目につかないクラブとかで──ただしスピークイージーには、ほかのみんなほど顔を出さなかった。わたしがインプロージョンのショウをやったときも、ジミーは見に来てくれた。ああいったイヴェントでわたしの相棒だったイアン・ナイトは、ミドル・アースを辞めてヤードバーズのステージングと照明担当になり、レッド・ツェッペリンでも同じ仕事をすることになる。ジミーとはアレクサンドラ・パレスで開かれた14アワー・テクニカラー・ドリームみたいなイカれたハプニングにも、よく一緒に出かけていた」
ペイジはエプソムを離れ、シェパーズ・ブッシュからケンジントン・ハイ通りに抜ける西ロンドン、ホランド通りの路地裏にあるフラットで暮らしていた。そこは数え切れないほどあるワンルーム・アパートのひとつひとつに、マリファナを売りさばくヒッピーがいるのではないかと思わせるような地域だった。1966年、デクスターはサイケデリック・シーンの黒幕的存在だったアーティスト、レディー・ジューンの招きでボヘミアン・コミュニティーの本拠地、マジョルカ島のデイアを訪れた。デイアで彼は、ポートベロー通りスタイルのヒッピー娘の中でも、とりわけいかがわしいグループと知り合いになる。その一部はロンドンにもどり、サウス・ケンジントンのナイトクラブ、ブレイズの常連になった。「ジミーとああいうあやしげな娘のひとりは、よくストーンしたまま、バッファロー・スプリングフィールドを何度も何度も何度もくり返しかけていた。『ぼくもこういう方向を目指したい』と言っていたな。『魔法みたいなことをするバンドをつくりたい』と」
ペイジがかねてから心を惹かれていたフォーク・シーンは、依然としてスウィンギング・ロンドンを代表する売りもののひとつだった。「レ・カズンズにはよく顔を出していた」とデクスターはロンドンの代表的なフォーク・クラブをふり返っている。「ベヴァリーとジョンのマーティン夫妻は、わたしの親友だったからね。ニック・ドレイクがくつろげる場所は、ハムステッドにある彼らのフラットだけだった」
デクスターはつねづね、アートに関するペイジの圧倒的な知識に感銘を受けていた。「彼はコレクターだった。あらゆるもののね。子ども時代から自分の着た服は、ひとつ残らず取ってあったし。母親がありえないぐらい片づけ好きの、きちんとした人だったんだ。それは彼にも言えることだがね」
デクスターはまた、ペイジに少なからぬ影響を与える別の女性とも友人になった。シャーロット・マーティンというフランス人モデルである。はじめて会ったとき、彼女は20歳、デクスターは19歳だった。「最初に彼女を見かけたのは、ウェスタウェイ&ウェスタウェイという、スコットランドのニットウェアを売っていた大英博物館そばのすばらしい店だ。若い娘はみんなそこか、スコッチ・ハウスに集まっていた。彼女はなんでもござれの優秀なモデルで、最初は雑誌に出ていたが、世間が彼女の美しさに気づくと、あらゆるところで起用されるようになった。ザ・フールのコレクションでも、毎回モデルを務めていたし。彼女とザ・フールはすごく仲がよかったけど、それは彼らがみんな、フェザントリーのエリックの家にたむろしていたからなんだ」〝エリック〟というのはもちろん、エリック・クラプトンのことだ。彼とシャーロット・マーティンはカップルだった。
この時点でペイジは実質的に、アート・カレッジをドロップアウトしていた。後年の彼は金銭面における抜け目のなさで、かなりの評判を得ることになるのだが、彼が専門的技術に関心を持ちつづけたのは、セッションの仕事で少なからぬ稼ぎを上げていたからに過ぎないと考えるのはいささか早計だろう。現にレコーディングというアートと、それをできるだけ完全に理解するための作業は、彼にとって、ロックンロールの舞台に立つことよりも、はるかに大きな魅力を持っていたようだ。すでに音楽業界のエリートのあいだでは、彼の技量が高い評価を受けていた。1965年8月、ローリング・ストーンズのマネージャーにしてUKポップ界の風雲児、アンドルー・ルーグ・オールダムと彼のビジネス・パートナー、トニー・カルダーがかねてから計画していたインディペンデント・レーベル、イミディエイト・レコードの発足がマスコミに発表された。「イミディエイトはアメリカの優良な小規模インディペンデント・レーベルと同じスタイルで運営される」とオールダムは語っている。「新たなプロデューサーも迎え入れるつもりだが、ぼくらが主に期待をかけているのは、ポップのセッション・ギタリストからプロデューサーに転じたジミー・ペイジと、ぼくの2人の友人たち、ストーンズのミックとキースだ」
ペイジがはじめてアンドルー・ルーグ・オールダムと仕事をしたのは1964年、イギリス版のフィル・スペクターを目指す彼が、その手段のひとつとしてスタートさせたアンドルー・ルーグ・オールダム・オーケストラで、ストーンズの曲をカヴァーしたときのことだ。セッションはロンドンのホルボーンにあるキングスウェイ・スタジオでおこなわれ、プロデューサーはジョン・〝ポール・ジョーンズ〟・ボールドウィンだった。
ペイジはその後、マリアンヌ・フェイスフルのツアーに帯同する。彼女はその夏、ミック・ジャガーとキース・リチャーズが書き、レコーディングにはペイジも参加したデビュー・シングル〈涙あふれて〉をトップ10に送りこんでいた。
ペイジをオールダムに推薦したのは、彼のセッションに参加するミュージシャンを手配していたチャーリー・カッツだった。「彼がある日、『ジミーって若いのをためしているところなんだが、なにかひとつ、やらせてみてくれないか? 譜面は読めないが、そこはビッグ・ジム・サリヴァンが面倒を見てくれるはずだ』と言ってきたんだ。というわけでジミーは、ぼくのセッションに参加しはじめた」とルーグ・オールダムは語っている。「最初にやったセッションのひとつがマリアンヌ・フェイスフルの〈涙あふれて〉で、彼はキラキラ輝いていた。彼がフロアにいてくれると重宝した……口数は多くないけれど、いつもニコニコしていた」
じきにペイジはローリング・ストーンズの〈ハート・オブ・ストーン(Heart of Stone)〉に参加する。ただしこのヴァージョンは、1975年にストーンズのアルバム《メタモーフォシス(Metamorphosis)》がリリースされるまで、ずっと未発表のままだった。
「ジミーはまるで煙のようだった」とルーグ・オールダム。「正直、ぼくには彼がどういう人間なのかわからない。なぜなら偉大な人間は本性を隠し、スタジオがうまくまわるように、周囲に合わせて変化するからだ」
アンドルー・ルーグ・オールダムはペイジとの関係を一歩先に進め、彼をイミディエイトのプロデューサー兼A&Rマンとして雇い入れた。「あのころは気の合う人間がいると、一緒に仕事をしようとするのが普通だった。筋が通っている感じがしたし、ジミーもそのアイデアを気に入っていて……うん、彼はとても優秀だったと思う。その後の彼の仕事ぶりが、ある意味、それを証明してるんじゃないかな、違うかい?」
ローリング・ストーンズとのセッションについては──「彼はミックとキースとぼくがつくったデモの一部に参加し、それは結局1975年に出た《メタモーフォシス》というアルバムに収録された。ストーンズはプレイしていない。たしかキースとぼくが書いてプロデュースしたボビー・ジェイムスンのシングルにも参加しているはずだ……ぼくは人を、本人の思い描く通りに受け止める。ジミーはプレイヤーで、ときどきぼくやジャッキー・デシャノンと共作するソングライターだった。ソロ・アーティストだと思ったことはないし、本人にもそのつもりはなかったと思う」
ペイジはストーンズ用に用意されたデモのうち3曲に参加した──〈ブルー・ターンズ・トゥ・グレイ(Blue Turns to Grey)〉、〈スティック・イン・ユア・マインド(Some Things Just Stick in Your Mind)〉、そして前述の〈ハート・オブ・ストーン〉である。ペイジが参加した〈ブルー・ターンズ・トゥ・グレイ〉は未発表に終わったものの、同曲の後期ヴァージョンが1965年にアメリカでリリースされたストーンズのアルバム《ディッセンバーズ・チルドレン(December's Children (And Everybody's))》に収録され、クリフ・リチャードのカヴァー・ヴァージョンは、1966年にチャートを15位まで上昇した。〈スティック・イン・ユア・マインド〉と〈ハート・オブ・ストーン〉は《メタモーフォシス》に収録され、前者はヴァシュティ・バニヤンがイミディエイトからリリースし、だが不発に終わったファースト・アルバムでカヴァーしている。
イミディエイトでのプロデュース業にペイジが心を惹かれた背景には、具体的な理由があった。昔なじみのエリック・クラプトンと仕事をするチャンスが得られることだ。彼が加入したジョン・メイオール&ザ・ブルースブレイカーズは、このレーベルと協定を結んでいた。
1966年6月、ジョン・メイオール&ザ・ブルースブレイカーズは、ロンドンのウェスト・エンドにあるグレート・カンバーランド・プレイスのパイ・スタジオに入る。ペイジがプロデュースの指揮をとったセッションは、リアルタイムな音楽の歴史の中で、ランドマーク的な位置を占めることになった。
演奏された曲の中には、〈アイム・ユア・ウィッチドクター(I'm Your Witchdoctor)〉と〈テレフォン・ブルース(Telephone Blues)〉がふくまれていた。ラインナップはキーボードにジョン・メイオール、ドラムにヒューイ・フリント、ベースにジョン・マクヴィー、そしてギターにエリック・クラプトン。ジャケットにマンガ雑誌の『ビーノ』が写りこんでいる、高名なアルバムをレコーディングしたジョン・メイオール&ザ・ブルースブレイカーズと同じ布陣である。「〈ウィッチドクター〉にオーヴァーダブを入れる段になったとき、エリックは泣き叫ぶようなフィードバックを一番上に乗せるというアイデアを出した」とペイジは語っている。「ぼくはそれ用のセッティングをする彼と一緒にスタジオにいた。それからコントロール・ルームにもどり、エンジニアにオーヴァーダブを録ってくれと告げた。3分の2ぐらいまで進んだとき、彼がフェーダーを下げて、『このギタリストを録るのは無理だ』と言った。たぶんメーターが赤に振れるのを見て、職業的倫理観がうずいたんだろう。だからぼくはよけいなことを考えずに、自分の仕事に専念しろと言ってやったんだ! 〈テレフォン・ブルース〉でのエリックのソロは、とにかく最高だった」
リヴァーブを注ぎこむことで、オーヴァードライヴのかかったワン・ノートのサステインを特徴とするクラプトンのプレイに火をくべ、そうやってソロをさらに引き立たせる手立てを彼に会得させたのはペイジだった。
だが──ペイジも気づいていたように──B面の〈テレフォン・ブルース〉における、クラプトンの物悲しい叙情的なプレイのほうが、おそらくはそれにも増して重要だろう。彼がはじめて成熟した美しい音を流れるように奏で、一気に表現の幅を広げたのがこの曲だからだ。楽器の分離──と同時に奏でられる和音──の明瞭さは、思わず耳を疑うほどだ。明らかにペイジは、レコーディング・スタジオですごした数え切れないほどの時間から、多くを学び取っていた。最高のロックンロール・レコードはパーツごとに入念に組み立てられていることを、彼は身に沁みて知っていたのだ。
イミディエイトのプロデューサーとして、彼がはじめて手がけたシングルのタイトル曲は、なにかを予言するかのように、後年のペイジが関わりを持ち、そのせいで悪名を馳せることにもなる、うしろ暗い題材を取りあげていた。歌詞の最初の2行は──
オレはおまえの呪術医、邪眼の持ち主
悪魔のパワーを持つ魔法使い
たしかにこれはブルース・ミュージック全般にちりばめられている、お決まりのイメージに過ぎなかったのかもしれない。だがより大きな視点に立つと、興味深い裏の意味が浮上する。それはあたかもペイジがレッド・ツェッペリンのオーラを形づくる、神秘的な闇の哲学をもてあそんでいる──いや、むしろその試運転をしている──かのようだった。
「このセッションの重要性は、いくら強調してもし足りない。なぜならそれは、モダンなギター・サウンドの誕生を象徴する出来事だったからだ。実際にギターを弾いたのはクラプトンだったものの、そのプレイをきちんとテープに収めることができたのはペイジの功績だった」とブラッド・トリンスキーは書いている。
同年、ペイジはアメリカの著名な作曲家、バート・バカラックのアルバム《ヒット・メイカー!(Hit Maker! Burt Bacharach Plays the Burt Bacharach Hits)》に参加した。「ペイジはリハーサルとレコーディングに対するバカラックの精緻なアプローチに感銘を受けていた」とジョージ・ケイスは『ジミー・ペイジ/ギタリスト飛龍力50年(Jimmy Page: Magus, Musician, Man)』に書いている。これもやはり、ペイジにとってはいい勉強になった。「逆にバカラックは、若き英国人の礼儀正しさと品のよさに感心していた」
イミディエイトとの契約の一環として、ペイジはフランスに本拠を置くドイツ人の女優兼モデル兼シンガー、ニコのバックでギターを弾いた。ロンドンでこの地の空気を満喫していた彼女と知り合ったアンドルー・ルーグ・オールダムは、彼女のために〈ザ・ラスト・マイル(The Last Mile)〉という曲をペイジと共作し、ペイジはレコーディングのアレンジ、指揮、プロデュースを受け持つとともに、演奏にも参加した。しかしながらこの曲はB面にまわされ、A面にはゴードン・ライトフットの〈アイム・ノット・セイイング(I'm Not Saying)〉が選ばれた。この曲でもペイジは、ギターを弾いている。
「ニコの存在を知ったのは、ブライアン・ジョーンズを通じてだった」とルーグ・オールダムは語っている。「それでジミーと曲を書き、B面曲として彼女とレコーディングしたんだ。もしかするとA面より上出来だったかもしれない。いや、A面にするべきだったと思う。〈アイム・ノット・セイイング〉はどうしようもない曲で、イギリスじゃこれっぽっちもヒットしなかったからだ。その後、彼はマリアンヌ・フェイスフルとツアーに出た。わたしたちはみんな、こうして次々に登場する新しい波の女性たちに感銘を受けていた」
ペイジとクラプトンの友情はますます深まり、〝スローハンド〟という反語的なニックネームを奉られていたクラプトンはじきに、ジェフ・デクスターの友人だった美しいフランス人のガールフレンド、シャーロット・〝チャーリー〟・マーティンをしばしば連れ歩くようになる。クラプトンがナイトクラブのスピークイージーで彼女と出会ったのは1966年夏、新グループ、クリームの結成に向けて動いていた時期のことだった。
しかしイミディエイト・レコードが起こしたトラブルのおかげで、2人のギタリストの友情には危うくひびが入りそうになる。このレーベルがクラプトンの承諾抜きで、彼がペイジの家に泊まったとき、ペイジのサイモン・テープレコーダーに録音した曲の一部をリリースしてしまったのだ。そのせいでクラプトンはしばらくのあいだ、ペイジに不信感を抱いていた。だがそれは、いわれのない疑念だった。「出すのは無理だと言ったんだ。ブルースの基本形を、あれこれいじっただけだったから。でも結局、一部の曲に別の楽器をダビングし、ライナー・ノーツもぼく名義にされてしまった……ひと文字だって書いちゃいないのに。どっちにせよ、金は一銭も受け取ってない」とペイジは語り、それがどういう仕事であれ、彼にとって実際に重要なものは、なんであるかを明らかにした(クラプトンのベーシック・トラックに楽器をオーヴァーダビングしたミュージシャンはビル・ワイマンとチャーリー・ワッツ、そしてハーモニカのミック・ジャガーだった)。
1939年にロンドンの西部で生まれたサイモン・ネピア=ベルは、ドキュメンタリー映画作家の息子だった。アメリカでジャズ・ミュージシャンを目指したのちに、いつしかカナダで映画の音楽を監修する仕事に就き、最終的にはロンドンにもどって、同系列の仕事をつづけていた。1965年のスクリューボール・コメディ『何かいいことないか子猫チャン(What's New Pussycat?)』は、彼がたずさわった映画のひとつだ。レコードやデモの制作にも手を広げ、ボンド通りのアドヴィジョンや、ケンジントン・ガーデンズ・スクエアにあったロンドンきっての映画音楽スタジオ、シネ・テレ・サウンド・スタジオ、通称CTSのような人気のスタジオを使っていた。彼が主として起用するのは、ロンドンのトップ・プレイヤーを一手にブッキングしていたディック・カッツが推薦するセッション・ミュージシャンだった。
高度な知性とウィットを有するネピア=ベルは、スウィンギング・ロンドンを体現するようなキャラクターで、輸入したフォード・サンダーバードを乗りまわし、つねに葉巻を口にくわえていることで知られるゲイの男性だった。一番の友人は、毎週金曜日の夜にITVで放映されるヒップなポップ音楽番組『レディ・ステディ・ゴー!』のプロデューサーだったヴィッキー・ウィックマン。彼とウィックマンは1965年のサンレモ音楽祭で披露されたイタリア語のバラード〈(あなたなしには)生きられないわたし(Io Che Non Vivo (Senza Te))〉に、ほとんど冗談のつもりで英詞をつけた。音楽祭に参加した2人の友人、ダスティー・スプリングフィールドは、その曲とメロディーに感動の涙を流していた。ロンドンのナイトクラブに出かけるために、1時間かそこらで曲に合った英詞をでっち上げたウィックマンとネピア=ベルは、そこに〈愛してるだなんて言わなくてもいい(You Don't Have to Say You Love Me)〉というタイトルをつけた〔*邦題は〈この胸のときめきを〉〕。ダスティー・スプリングフィールドがレコーディングしたこの曲はイギリスでナンバー1ヒットとなり、アメリカでも4位まで上昇する。その後も世界各国で何度となくリヴァイヴァル・ヒットを記録し、1970年にはあのエルヴィス・プレスリーがカヴァー・ヴァージョンをリリースした。
〈この胸のときめきを〉の歌詞を書いた時点で、ネピア=ベルはジョルジオ・ゴメルスキーに代わり、ヤードバーズのマネージャーに就任していた。才能に恵まれ、人間的にも魅力的なゴメルスキーが解雇されたのは、ある意味、無理もない話だった。彼は後年、こう打ち明けている。「わたしはそもそもマネージャーになるべきじゃなかった。むしろマネージャーが必要なタイプの人間なんだ」不正めいたことはいっさいなかったものの、ヤードバーズはグループをいつまでたっても黒字にできない彼に見切りをつけた。それでもゴメルスキーがヤードバーズを大いに鼓舞する存在だったことに変わりはなく、レコーディング契約を結んでヒットを出すことができたのも、もっぱら彼のおかげだった。彼はまた1965年におこなわれた初の全米ツアー中に、メンフィスのサン・スタジオで、エルヴィス・プレスリーの初期の活動を導いていたサム・フィリップスとのレコーディング・セッションを組んでいた。ではグループがレコーディングした曲は? タイニー・ブラッドショウが1951年に発表したジャンプ・ブルースの古典〈トレイン・ケプト・ア・ローリン(Train Kept A-Rollin)〉である。ジョニー・バーネット・トリオが1956年にロカビリーのスタイルで再演したこの曲を、ヤードバーズはアメリカのみのリリースだったアルバム《ハヴィング・ア・レイヴ・アップ(Having a Rave Up)》に収録した。〈トレイン・ケプト・ア・ローリン〉は、その後もヤードバーズの活動の中で大きな役割を果たすことになる。
「1965年の終わりか1966年のはじめごろに、ヤードバーズでベースを弾いているポール・サミュエル=スミスから電話があった」とネピア=ベルは回想している。「彼のガールフレンドで、その後、妻になる女性が、ヴィッキー・ウィックマンの秘書をしていたんだ。わたしはパリに足を運んでヤードバーズのライヴを観た。そしてすぐさまマネージャーの仕事は、グループをひとつにまとめておくことだと理解した」
ヤードバーズのマネージャーとなってからも、舞台裏でのネピア=ベルとグループの関係は、ずっとぎくしゃくしたままだった。「ヤードバーズはパブでサッカーの話をするのが似合いの連中だった。わたしはゲイだったから、どうしてもその世界には入りこめなかった」
レコーディング・スタジオで仕事をしていたころのネピア=ベルは、常時セッション・ミュージシャンを使っていた。「セッション・プレイヤーなら下手なプレイをするわけがない。本人たちも自分たちが、世界でもトップ・クラスだと知っている。LAでシナトラとプレイしている連中と並べても、決してひけを取ることはない」
ネピア=ベルが最初に選ぶギタリストは、「いつも決まってビッグ・ジム・サリヴァン」だった。ただし「ああいった連中は、やたらと腹立たしい真似をした」と彼は語っている。「こっちをためすような真似をするんだ。ビッグ・ジム・サリヴァンはペーパーバックを持参し、録りがはじまっても読みつづけた。譜面台に載せておくんだ。曲が半分くらい進んでいても、自分の出番が来るまで読みつづける──わざと、こっちに見せつけるようにして」
追加のギタリストが必要になると、呼ばれるのはいつもペイジだった。「彼とビッグ・ジムは、2人でパートを分け合っていた。わたしはジミー・ペイジと話をして、この男はほんもののセッション・マンだと納得した。テクニック的にすばらしく、ほかの連中からも高く評価されているのがわかったからだ。ほかにハーマンズ・ハーミッツのアレンジを一手に引き受けていたジョン・ポール・ジョーンズもよく起用した。だがジミー・ペイジのことを心から好きになったことは一度もない。彼にはちょっと、冷笑的なところがあった。学校でわたしをいじめていた連中にも、ああいう、ゾッとするような冷たさがあって、ジミーを見ているとそれを思い出したんだ。ああいう冷笑を浮かべる人間は、たいてい不幸な子ども時代をすごしていた」
1966年の5月16日と17日、ロンドンのウェスト・エンドにあるIBCスタジオで、ジェフ・ベックとペイジは今にして見ると最初期のスーパー・セッションとも言うべきレコーディングに参加した。
曲のタイトルは〈ベックス・ボレロ(Beck's Bolero)〉。1928年にパリのオペラ座で初演されたラヴェルの〈ボレロ(Bolero)〉をベースにした曲だ。ロシアのバレリーナ、イダ・ルビンシュタインの依頼でラヴェルが書いたこの曲は、ボレロの名で知られるスペインの音楽とダンスをもとに、執拗(しつよう)に同じパターンをうねうねとくり返す作品だった。
1965年に入ると、主としてつねに新しい文化に目がなかったポール・マッカートニーのような人々の好みに影響されて、さまざまなクラシックの作曲家たちが、以前なら〝ポップ〟として知られていた音楽のファンのあいだで注目を浴びるようになる。それはたとえばバッハ、シベリウス、ストラヴィンスキー、プロコフィエフ、ガーシュイン、ドビュッシー、そしてラヴェルといった作曲家たちで、1966年には彼の〈ボレロ〉がかなりの有名曲になっていた。曲の構成はかなりいじられ、じきにレッド・ツェッペリンが深く掘り下げるハード・ロック・サウンドの、最初の雄叫(おたけ)びと呼んでもよさそうな仕上がりとなる。
〈ベックス・ボレロ〉にはそうそうたる面々が参加していた。リード・ギターのベックとアコースティック・ギターのペイジに、だれもが一目置くセッション・ピアニストのニッキー・ホプキンス。ドラムの席にはザ・フーのキース・ムーンが座り、ベースはジョン・ポール・ジョーンズが受け持った。もともとはザ・フーでリズム隊の片割れを務めるジョン・エントウィッスルがベースを弾く予定になっていたが、彼があらわれなかったため、ジョン・ポール・ジョーンズが急遽呼び寄せられたのである。
「ジミーがキース・ムーンと、彼のスーパーグループに加入する話をしているという噂を聞いた」とネピア=ベルは語っている。「その時点でもう、レッド・ツェッペリンという名前がついていたとは思えないが、もしかするとうちうちで話に出ていた可能性はある。クリームが結成されたのも同じ時期のことだったが、ベックとペイジとムーンがそれを意識していたのかどうかはわからない。ザ・フーのマネージャーのキット・ランバートとクリス・スタンプは、クラプトンのマネージャーのロバート・スティッグウッドと同じビルに入っていた。だから彼がクリームを組んだときの事情は全部、わかっていたはずなんだ。わたしもそうだったからね。キース・ムーンもたぶんキットとクリスから、事情を聞いていたんだろう。わたしは自分の立場上、ジェフをグループ(ヤードバーズ)に留めておくことしか考えていなかった。ジミーはたぶん、全員の才能をブレンドさせた新グループの結成を考えていたと思う」
「オレはいつも、ものごとに全身全霊で臨むか、でなきゃぜんぜんやらないようにしてきた」とベックは、少しばかり歴史を歪曲して語っている。「だから自分の理想のバンドはどういうものか、思い描いてみようとしたんだ。プロデューサー陣はばっちりだったし、ドラムにはキース・ムーン、ギターにはジミー、そしてベースにはジョン・ポール・ジョーンズがいた。どういう曲をやるのかまだわかってなかったけど、それでもスタジオは盛りあがっていたし、オレも『なんて面子だろう! これで決まりだ!』と思っていた。でも結局、それきりになってしまって。ムーニーがザ・フーを脱けられなかったからだ。あいつは自分が別のバンドでやっているのがバレないように、変装してスタジオにやって来た」
「ジミー・ペイジとオレは、とりあえず成り行きを見てみるために、極秘でキース・ムーンとのセッションを組んだ」とベック。「でもスタジオでやる曲は、あらかじめ用意しておく必要があった。キースには時間がなかったからだ──3時間以上姿をくらますと、あいつのローディーが捜しはじめるのさ。セッションの何日か前にジミーの家に行くと、あいつはすごくデカい音がするフェンダーの12弦をかき鳴らしていた。メロディーのきっかけになったのは、その12弦のエレキのサウンドだ。あいつがなんて言ってるか知らないが、あのメロディーを考えたのはオレだった。オレはあいつが弾くAメジャー7とEマイナー7のコードに乗せて、プレイしはじめた……あいつの弾くボレロのリズムに乗せてメロディーを弾いたんだが、そのうちにオレは『ジム、そろそろボレロのビートから離れてくれ──永久にその調子で行くのは無理だ!』と言った。というわけでオレたちは曲の途中で急停止し──ヤードバーズが〈フォー・ユア・ラヴ〉でやってたように──まんなかにあのリフを突っこんだ。それからオレは家に帰り、別のパート(アップテンポのセクション)を考えたんだ」
「あいつは自分の曲だと言ってるけど、書いたのはぼくだ」とペイジは反論し、この議論はその後も何度となく、蒸し返されることになった。
「ムーンがドラム全体を使って強力なフィルを叩くと、U47のマイクがスタンドからはずれ、部屋の向こうまで飛んでいった。あいつは一発で決めてみせた」とジョン・ポール・ジョーンズは語っている。
「スタジオでジミーがオレたちを怒鳴りつけ、フーリガン呼ばわりしていたのを覚えている」とベック。「みんな、先約が入っていた。でもオレはあの日のあのセッションがきっかけで本気になり──もうほとんどやるつもりでいた」
そのバンドこそ、オリジナルのレッド・ツェッペリンだったとベックは主張する──「まだ〝レッド・ツェッペリン〟とは呼ばれていなかったが、あれが一番早い段階のバンドだったことは間違いない」
「ぼくとベックがギター、ムーンがドラム、そしてニッキー・ホプキンスがたぶんピアノを弾く予定だった。あのセッションでメンバーになる予定じゃなかったのは、ベースを弾いたジョンジーだけだ」とペイジは語っている。「あれで、あの手のバンドの先陣を切ってやるつもりでいたんだ。クリームみたいなバンドのね。残念ながら、実現はしなかったけど──〈ボレロ〉以外は。あれがぼくらにできる精いっぱいで……あのアイデアは、言ってみればポシャってしまった。『この件はとっとと忘れよう』のひと言で片づけ、積極的に別のシンガーを探す代わりに、そのままうっちゃっていた。するとそのうちにザ・フーのツアーがはじまり、ヤードバーズのツアーもはじまって、それっきりになってしまったんだ」
事実、ベックとペイジは〈ベックス・ボレロ〉のスタジオ・バンドをれっきとしたグループにするべく、それなりにヴォーカリストを物色していたようだ。ペイジは『ギター・ワールド』誌のスティーヴ・ローゼンに「スモール・フェイセズのスティーヴ・マリオットか、スティーヴ・ウィンウッドのどっちかにするつもりだった」と語っている。スティーヴ・マリオットのマネージャーは〝ポップ界のアル・カポネ〟を自認するドン・アーデンだった。「最終的に彼の事務所から来た返事には、『一本も指のないグループを組んでみたくないか?』──少なくとも、それに類することが書いてあった」ふたりはすっかりおよび腰になり、スペンサー・デイヴィス・グループのスティーヴ・ウィンウッドには、声をかけることすらしなかった。
〈ベックス・ボレロ〉のプロデューサー・クレジットについても、いくつかの異論がある。レコードにはベックと個人的にマネジメント契約を結んでいたミッキー・モストの名前がクレジットされているものの、サイモン・ネピア=ベルは自分がプロデュースしたと主張し、その一方でジミー・ペイジも、レコードをプロデュースしたのは、ネピア=ベルが帰宅したあともずっとスタジオに居残っていた自分だと主張しているのだ。
「オケを録り終えると、プロデューサーは姿を消した」とペイジは1977年、スティーヴ・ローゼンに語っている。「それっきり、もう二度ともどってこなかった。ネピア=ベルはぼくとジェフに、あとを任せっきりにしてしまったんだ。ジェフはプレイしていて、ぼくはボックス(コントロール・ルーム)にいた。あいつは自分が書いたと言ってるけど、エレクトリックの12弦を弾いてるのはぼくだ。ベックはスライドのパートを弾き、ぼくは基本的にコードまわりを弾いている」
サイモン・ネピア=ベルにはまた別の見方があった。「あのレコードをつくったとき、ジミー・ペイジはずっと鼻で笑っていた。その後、ベックとペイジがミキシングの方向性について話しはじめると、わたしはふたりに後事を託して、現場を立ち去った。プロデューサーの目的は、レコードを本来の仕上がりにすることだ。だからわたしはあえて場をはずし──残りをあのふたりに任せたんだ。ミッキー・モストについて言うと、ヤードバーズのマネジメントに関する取り決めに従い、プロデュースのクレジットは全部、彼に行くことになっていた。『そんなもの、ほしくもない』と言ってやってね。それは本当の気持ちだった──でもあれは、ロックの歴史に残る名曲になっている」
キース・ムーンがこのセッションに参加したことを知ったピート・タウンゼンドは激怒し、ベックとペイジのことを「ちっぽけな脳みそしかない、見かけだけのちんけなギタリストども」呼ばわりした。ペイジの反応は? 「タウンゼンドがフィードバックに入れこんだ理由は、あいつが1音だってまともに弾けなかったからだ」タウンゼンドはのちに、こうコメントしている。「問題はキースのやった〈ベックス・ボレロ〉が、ただのセッションじゃなく、政治的な動きだったことだ。あれはグループが解散の危機に瀕(ひん)していた時期のことで、キースはひどい被害妄想に陥り、キツいクスリを飲んでいた。それでベックのグループに入って、わたしたちに帰ってきてくれと言わせようとしたんだ」
後年の説によると、ムーンはもしスタジオのラインナップが実際にバンドになったら、「鉛の風船(レツド・バルーン)みたいに」墜落するはずだと語っていた。ピーター・グラントによると、そこですかさず「鉛の飛行船(レツド・ツエツペリン)みたいに」とつけ加えたのは、ジョン・エントウィッスルだった(エントウィッスルは一貫して、レッド・ツェッペリンという名前は自分ひとりで考え、アルバムのジャケットに燃える飛行船を使うのも、やはり自分のアイデアだったと主張していた)。
キース・ムーンの評伝『ディア・ボーイ(Dear Boy)』〔*未訳〕を書いたトニー・フレッチャーは、その取材でジェフ・ベックに〈ベックス・ボレロ〉に関するインタヴューをおこなった。フレッチャーはベックに、ムーンはザ・フーにプレッシャーをかける目的で彼を利用したのではないかと訊ねた。それはまったくあたらない、とベックは答えた──〈ベックス・ボレロ〉の背景にあったのは、もっぱらジミー・ペイジと彼自身の関係だった。「いや、あれはジミーとオレの問題だ。オレは何度かジミーの代わりにセッションの仕事をやった。あいつは自分がやりたくないクソみたいな仕事を、全部オレにまわしてきたんだ。オレに車で迎えに来させて──ガソリン代はこっち持ちだ──でも結局はあいつもセッションに出るなんてことがよくあった。で、そこでオレのプレイを聞いて……オレのスタイルに興味を持ったのさ。話は全部そこからはじまった。でもそうするとヤードバーズが邪魔になってきて──前後関係はよく覚えていないが──『なんで自分のやりたいようにさせてくれないんだ?』と思ったのを覚えている。いつもそんな感じなんだ。ジムみたいに音楽的な意識が高くて才能のある男と一緒にやれたら、さぞかしすばらしいだろうと思ったけど、それが実現したのは、ずっと先のヤードバーズでのことだった。その間にオレは、最高にパワフルなドラマーを擁するザ・フーがますます強力になっていくのを見ながら、オレも先に進んでいくには、ぜひともああいうことをしなきゃだめだと思っていた。だからあれはある意味、オレを導いてくれる光だったわけで、それ以前のオレを完全に打ち砕くものでもあった。ヤードバーズにいて満足できたことは一度もなかったから、オレはジムに舵取りを任せてあのグループを脱退した」
ヤードバーズのリズム・ギター担当、クリス・ドレヤもやはり、ペイジ、クラプトン、ベックを輩出したイギリスの深南部、サリー州の出身だった。サービトンで育ち、その後もずっとそこで暮らしていた彼は、サットン・アート・カレッジに通っていた時期のペイジと、ときおり顔を合わせていた。近隣のトルワースにある熱帯魚店の外で出くわしたもことも一度ならずあり──ペイジは大の熱帯魚好きだった──ドレヤは一度、彼に「やあ、クリス。ちょうど今、うちの魚たちのために上等なサーモメーターを買ったところなんだ」と声をかけられたことがあった。
1966年6月18日、ペイジはジェフ・ベックが運転するえび茶色のフォード・ゼファー・シックスの助手席に座ってオックスフォードに向かった。目的はクイーンズ・カレッジのメイ・ボールに出演する友人のベックと、クリス・ドレヤほかの面々からなるヤードバーズを見ることだ。ヒットを連発していたマンチェスターのホリーズが共演に名を連ねていたが、当のヤードバーズもそれなりに〝ヴェテランのヒットメイカー〟という呼び名が似合うバンドになっていた。ベックが加入して以来、彼らはつねに全英チャートのどこかに顔を出し──アメリカでもグループのシングル盤が、ますます好評を博していたのだ。〈ハートせつなく〉、〈いじわるっ娘(Evil Hearted You)〉、〈シェイプス・オブ・シングス〉、〈オーヴァー・アンダー・サイドウェイズ・ダウン(Over Under Sideways Down)はいずれもシングル・ヒットを記録し、一方で評論家から高い評価を得るアルバム《ヤードバーズ(Yardbirds)》──通称は《ロジャー・ザ・エンジニア(Roger the Engineer)》──も、1966年の7月中旬にリリースされる予定だった。
ギャラは悪くなかったものの、メイ・ボールは基本的にブラック・タイ着用のフォーマルなイヴェントで、アンダーグラウンドの新たなヴォキャブラリーで表現すると、おそろしく〝ストレート〟だった。夜が深まるにつれて酩酊の度合いを高めていたヤードバーズのシンガー、キース・レルフはそうしたお高くとまった態度に反感を抱き、前途有望な若者たち(ブライト・ヤング・シングス)からなる観客をクサしたり、長々と批判したりしはじめた。大の熱帯魚好きにもかかわらず、気持ち的にはつねに反逆者で、ポップ・カルチャーの排他的な側面に同調していたペイジはこうしたスタンスに強く感銘を受けた。彼はレルフが「とてつもないロックンロールのパフォーマンス」をくり広げていると考えた。しかしヤードバーズのベーシスト、ポール・サミュエル=スミスはレルフの言動に愕然(がくぜん)となり、このライヴが終わるやいなやバンドを脱退した。
その後もライヴが決まっていたヤードバーズは、ベーシスト抜きでどうすればいいのかと途方に暮れた。ペイジはその場で、助力を申し出た。「マーキーのライヴがあるのに、ポールはもどってこなかった。それでぼくは愚かにも『じゃあぼくがベースを弾くよ』と言ってしまったんだ。ジム・マッカーティに言わせると、ぼくはとにかくスタジオから出たがっていて、ドラムでも引き受けそうな勢いだったらしい」
ペイジはしばらく前から、この先もはたしてセッション・プレイヤーの仕事をつづけていけるのだろうかと思い悩んでいた。「セッションの仕事は、とても有益だった。一時は最低でも週に6日、1日に3本のセッションを受けていたんだ。自分がなにをプレイするのか、前もってわかっていることはほとんどない。でもたとえ最低のセッションでも、勉強になることはあった──真面目な話、ぼくはかなりひどい曲でも弾いてるからね。もうやめようと決心したのは、安っぽいBGMの仕事に呼ばれるようになってからだ。あまりにも馬鹿馬鹿しすぎて、もうこんな暮らしはつづけていけないと思った」
「メイ・ボールのことは覚えている」とベック。「ジミー・ペイジが実際に見に来たライヴだ。オレはあいつに、バンドがあまりうまくいってないという話をしていた。会場にはダイアナ妃とつき合いがありそうな感じの連中が大勢いて、マドラー入りの酒を載せたトレイが行き交っていた。そしたらオレたちがやりはじめたとたん、キースがジムのドラムに背中から倒れこんでしまって。終わったあとでオレは、『悪かったな、ジミー。これじゃとてもバンドに入る気になれないだろ?』と言った。するとあいつ、キースがドラムに倒れこんだのは、今までで最高の見物だったと言ったんだ。つまり、簡単に怖じ気づくような男じゃなかったってことさ」
というわけでジミー・ペイジは、いくぶん奇妙な経緯でヤードバーズに加入した。問題のマーキーのライヴは3日後の6月21日におこなわれた。ペイジの演奏はどうだったのだろう? ベックによると、最悪だった。「いやもう、散々な出来だったよ。あいつはこれっぽっちもベースが弾けなくて、6本の細い弦の代わりに4本の太い弦が張られたネックに、むやみやたらと指を走らせていた」
それとは別にペイジはグループの一員となるやいなや、見てくれを完全に変化させた。いわく言いがたい趣味のよさと品格を感じさせる、高度にスタイリッシュで、非常にシックなロック・スターとして、みずからをアピールしはじめたのだ。ベースも習いとなった勤勉さを発揮し、ごく短期間でマスターした。
ヤードバーズに正式加入する前に、彼はバッキンガム宮殿にほど近いブレッセンデン・プレイスにあるサイモン・ネピア=ベルのフラットを訪ね、グループとそのマネージャーとのミーティングを持った。「姿を見せたときの彼は、くちびるをひどく腫らせていた」とネピア=ベル。「だれもその理由を知らなかったが、本人は通りで呼び止められた男たちに殴られたと言っていた。ジミー・ペイジならそういう目に遭っても不思議はないと思ったのを覚えている。あの冷笑的な表情のせいだ。ジミーの人を見下した態度は、受け入れがたいものだった。本人は自分ぐらいルックスがよければ、許してもらえると思っていたのかもしれないが。
彼がグループに入ったとき、わたしは『正直、きみは虫が好かない』と言った。『あなたはぼくのマネージャーだ。契約書を見せてほしい』と言われたので、『見せない。わたしは上がりの5分の4から自分のパーセンテイジを受け取る。きみのマネージャーになるつもりはない』と答えたんだ。見せたらどうせケチをつけて、この契約は最悪だと言いだすのが目に見えていたからさ。
わたしはずっと、ジミー・ペイジは部分的にゲイなんじゃないかと思っていた。彼の子ども時代は、あまり恵まれていなかった。なぜそれがわかるのかと言うと、なんとも嫌なやつだったからだ。彼はその後、服装倒錯の趣味に走っている。それは彼が自分のことを、ストレートだと思っていたことを意味した。
わたしはジェフ・ベックに言った。『ジミー・ペイジがヤードバーズに入ったら、きみは脱退するだろう』彼は『そんなことはしない』と言っていた」
ベックがペイジに贈ったテレキャスターの裏面には、元の所有者がスプレーで〝ジェフマン(Jeffman)〟という文字をペイントしていたが、ペイジはこの楽器をさらにカスタマイズし、サイケデリックな色に塗って、ステージの照明を客席に反射する銀のプレートを取りつけた。シンプルながらおそろしく効果的なギミックである。しばらくのあいだ、このテレキャスターはペイジのトレードマークになっていた。
しかしこのギターをヤードバーズで弾けるようになるまでのペイジは、あくまでもグループのベーシストだった。それはさぞかし厳しい試練だったはずだ。ぜんそく持ちのヴォーカリスト、キース・レルフは1日中酒を飲んでいた。もしかすると彼の内なる苦悩は、ヤードバーズのツアー・マネージャーが実の父親だったという事実のせいで、なおのこと悪化していたのかもしれない。マーキーでのライヴから7月の末までのあいだに、ヤードバーズはイギリスの各地で全24回のステージをこなした。ペイジにとってそれはきっと、過酷なツアーに明け暮れていたニール・クリスチャン&ザ・クルセイダーズ時代に逆もどりするようなものだったに違いない。6月27日にはパリでスモール・フェイセズと共演し、7月のはじめにはスコットランド公演があった。そのうちのひとつで、ベックとペイジはドイツの鉄十字を身に着けていたことを理由に、ツバを吐きかけられてしまう。この2人の元美術学生たちに、自分たちはストリート・レヴェルのコンセプチュアル・アートを軽く楽しんでいるだけだと説明することはできなかったのだろうか?(でなければそれは慢性的な未熟さのあらわれなのだと? 10年後にはシド・ヴィシャスやスージー・スーのようなパンク・スターが、同様にナチの象徴を用いて、似たようなショックを与えようとしていた。だがヤードバーズの場合と同じく、これもいたずら好きな10歳児が、学校の練習帳にそうした落書きをするのと大差なかったとは考えられないだろうか?)
ロンドンの西部にあるホランド通りの裏手に自分のフラットを借りてからも、ペイジはしばしばエプソムの実家で寝泊まりしていた。しかし彼の両親は60年代のなかばに別居し、最終的には離婚してしまう。この一件は彼らの息子に、大きな苦しみをもたらした。しかもさらにショックなことに、父親は二重生活を送っていた──別の女性と、もうひとつの家庭を築いていたのである。これが心を打ち砕かれるようなニュースだったことは、想像にかたくない。「そうなるともう二度と、人を信じられなくなります。とりわけ身近な人々を」とロンドンの高名なライフ・コーチ、ナネット・グリーンブラットはコメントしている。「どんな関係を結んでいても、『今は大丈夫だけど、この先はどうなる?』と不安に駆られてしまうんです。その結果、他人を支配したいと思うようになる。特に男性に対しては、強い不信感が生まれます。その意味でアレイスター・クロウリーは、信頼できない父親像にぴったり当てはまる存在でしょう」
ペイジと彼の母親が、父親に関するこの最悪としか言いようのない情報によって味わわされたトラウマは、ほとんど立ち直りようがないものだったはずだ。しかし新たな誕生が幸運をもたらすと言われているのと同じように、離婚という形の比喩的な死も、時としてその出来事の悲惨さを脱けだし、不死鳥のように飛翔する機会をもたらすことがある。ペイジの身にもそれと似たことが起こった。ある種の拘束を解かれた彼は、自分の可能性を極限まで追求したいという欲望を隠そうとしなくなったのだ。自分の理想像を思い描き、そのために努力を惜しまなければ、やがてはその像が自分になる。言い換えるなら、自分の真意に気づけということだ。この実存の中で自分はどういう人間になるべきなのか、自分はなんのためにここにいるのか──それがフリーメイソンの文献から、クロウリーがまるで予定されていたかのように援用した「汝の思うところを為せ」の意味だった。昔むかし〝ジミー・ペイジ〟は、ペイジ自身の心の中にある概念だった。だが彼が本気になり、なによりもその〝ジミー・ペイジ〟を必要としていたがゆえに、それは彼になり、彼はそれになった。その際に彼の信条がいくばくかの助けとなったことは、言うまでもないだろう。
第5章 欲望
ペイジはついに子ども時代の家を出た。彼は当初、ケンジントン、ホランド通りの裏手に借りたフラットで暮らしていた。しかし当時は、大地のエッセンスとコミューン的なつながりを持つことをよしとする風潮も一部に見受けられた──たとえば後年、ニューヨーク州北部のウッドストックに引きこもって独自の作品をつくりあげるザ・バンドや、バークシャー州のひなびたコテージで〝ひとつになる(ゲット・イット・トゥゲザー)〟ことを目指した、ペイジの友人のスティーヴ・ウィンウッド率いるイギリスのバンド、トラフィックが体現していたように。
かくしてペイジも同様に、緑なすバークシャーの田園地帯に居を移した。児童書の古典『たのしい川べ(The Wind in the Willows)』を書いたケネス・グレアムは晩年、レディングの4マイル西、パン川の岸辺に位置するパンボーンに隠遁していたが、ペイジもこの村に居を構え、かつての船小屋(ボートハウス)を購入した──彼の上昇宮蠍座(スコピオ・ライジング)をなだめるかのように、水がしばしばそばまで押し寄せる家を。後年のペイジはある種の世捨て人的なイメージをまとうようになるのだが、それを最初に育んだのがここで、彼はそうした暮らしの恩恵を創作活動に活かしていた。「ぼくはひとり暮らしを満喫していた──音楽づくりに没頭し、夜になるとひとりでボートに乗る。エンジンを切って、たそがれの中を漂っていくんだ。そういうのが全部、気に入っていた」と彼は『サンデイ・タイムズ』紙に語っている。熱帯魚の水槽も無事に西ロンドンからの長旅を終えていたが、最終的にはツアーで家を空けることが多くなったせいで、彼はやむなくこの趣味を断念した。
いずれにせよペイジは、転居からほとんど間を置かずに旅立った。今回、彼が向かったのはアメリカ合衆国だった。
それと同じ1966年6月に、とあるバンドが趣味のいい実験精神を発揮した魅力的なシングルを発表する。とはいえプロデューサーを務めるのが長年、ペイジをスタジオで重用してきた新機軸の達人、シェル・タルミーだったことを思えば、それも決して意外なことではない。聞き手をはっとさせると同時に、あざ笑っているようにも聞こえる問題の曲は、クリエイションというハートフォードシャー州出身のグループがリリースした〈メイキング・タイム(Making Time)〉で、ギタリストのエディー・フィリップスはときおり、ヴァイオリンの弓でギターを弾くことがあった。長年の定説では、このことを知ったペイジが真似をしたことになっている。「エディー・フィリップスはあの時代を代表するロックンロール・ギタリストのひとりに数えられるべき存在なのに、その名前が口にされることはほとんどない」とタルミーは語っている。「わたしが出会った中でもとりわけ革新的なギタリストのひとりだ。ジミー・ペイジはギターの弓弾きをエディーから盗んだ。エディーにはとにかく、目を見張らされたよ」
しかしながらペイジは、インスピレーション源は別にあったと主張する。それによるとバート・バカラックのセッションで、同じセッション・ミュージシャンのデイヴィッド・マッカラム・シニア──ロンドン・フィルハーモニーとロイヤル・フィルハーモニー管弦楽団の両方でヴァイオリンを弾き、大ヒットTV番組『0011ナポレオン・ソロ(The Man from U.N.C.L.E.)』の主演スターの父親でもあった男が、自分の楽器をヴァイオリンのように弓で弾いてみたことはあるかと彼に訊(たず)ねた。ペイジはヴァイオリニストの弓を借り──魔法の杖がその持ち主を見つけたわけだ──マッカラムの前でためしてみた。「そこから出てきたきしむような音にぼくは魅了された。実際にそのテクニックを追求しはじめたのは、ずっとあとのことだったけど、このアイデアに目を向けさせてくれた男は彼だ」
1966年の夏は、『タイム』誌の言う〝スウィンギング・ロンドン〟が多くの面で重要な転機を迎えた時期だった。5月、ウェンブリーのエンパイア・プールで開催された『NME』紙の人気投票優勝者(ポール・ウイナーズ)コンサートで、ビートルズは結果的にイギリスでは最後となるステージに立つ。しかしその模様をTV中継で見た視聴者にとって、コンサートを締めくくったのはヤードバーズだった。つむじ曲がりぶりを発揮したアンドルー・ルーグ・オールダムが、急にローリング・ストーンズが出演したパートの放映を拒否したのだ。するとこのことを知ったビートルズのマネージャー、ブライアン・エプスタインもやはり──〝クール〟さで遅れを取ってなるものかと言わんばかりに──ビートルズを放映からはずすように求め、おかげで視聴者はイギリスにおける、ビートルズ最後の正式なライヴ・パフォーマンスを見そこなってしまったのである。
ペイジのヤードバーズ加入からわずか数週間後には、のちに音楽シーン全体を激変させるグループがステージ・デビューを飾っている。1966年7月29日、クラプトンがドラマーのジンジャー・ベイカー、ベーシスト兼ヴォーカリストのジャック・ブルースと結成したクリームが、マンチェスターのツイステッド・ホイールで結成以来初となるステージに立った。ここは通常、クスリを口に放りこんで夜通し踊りつづけるモッズご用達の会場で、それ自体、変化する時代のあらわれでもあった。クリームはそれから1年もしないうちに全米をツアーして大好評を博し、クラプトンが長尺の、そして多くの場合はひとりよがりなギター・ソロを弾きまくるあいだ、ストーンした長髪のアメリカ人の聴衆がライヴハウスの床であぐらを組み、崇拝するように見つめるという、新たな光景があちこちでくり広げられるようになった。
クリームの初ライヴがおこなわれた翌日、1966年7月30日にはイングランドが自国開催のサッカー・ワールドカップで初優勝を果たし、国民の自信は一気に高まった。そしてこの年が終わるころには、もうひと組のパワー・トリオ、ジミ・ヘンドリックス・エクスペリエンスが最初のヒット曲〈ヘイ・ジョー(Hey Joe)〉とセンセーショナルなライヴ・パフォーマンスで、イギリスのチャートとライヴ会場を震撼させていた。
ウェンブリーでのNMEコンサートを終えると、ローリング・ストーンズは一種の休業状態に入った。ブライアン・ジョーンズのガールフレンドだった女優のアニタ・パレンバーグは、グロスター通りの地下鉄駅の裏手に位置するコートフィールド通り1番地にフラットを買い、ジョーンズもそこに移り住んだ。このえりぬきのボヘミアン人種に属する一部の女性たちと同様、アニタにも女司祭長じみた魅力があった。彼女はオカルトに魅了され、巻き紙とタローカード、そして時には奇妙な骨も入ったバッグをほぼ常時手放さなかった。アニタにこのフラットを買うべきだと主張したのはチェルシーのファッショナブルな美術骨董商、クリストファー・ギブスで、部屋はひとつしかなく、吟遊詩人のギャラリーにつづく階段が、一種のベッドルームになっていた。
ペイジは4年前にイーリング・ジャズ・クラブではじめてステージを見て以来、ローリング・ストーンズ、とりわけブライアン・ジョーンズと親しくしていた。ヤードバーズに加入したばかりだったこの時期も、彼はときおりコートフィールド通りのフラットを、キース・リチャーズやタラ・ブラウンと訪れていた。ブラウンはギネス家の御曹司だが、この年の終わりにフラットを出たあと、みずから運転するロータス・エランで衝突事故死を遂げている。その死はビートルズの〈ア・デイ・イン・ザ・ライフ(A Day in the Life)〉で讃えられた。ジョーンズとパレンバーグがLSDを常用しはじめたのはコートフィールド通り1番地でのことで、じきにリチャーズもふたりからの誘いで、もうひとつの現実を垣間見るようになった。すでにサイケデリックなドラッグをたしなみ、もはやセッション・ワークの厳しいスケジュールに縛られることのなくなっていたペイジも、当然この排他的な仲間に加わっていたと見るのが妥当だろう。
メイフェアの美術商で、スウィンギング・ロンドンの立役者のひとりだったロバート・フレイザーを通じて、ジョーンズ、パレンバーグ、リチャーズのトリオは高い尊敬を集める独立系の映画作家にしてオカルティストのケネス・アンガーと親交を結ぶ。アンガーはアレイスター・クロウリーの信徒だった。形而上学的なイメージが頻出するアンガーの短編映画は視覚的な詩とも言うべき美しさをたたえ、ポップ・ミュージックを用いてストーリーを伝える彼の手法は、非常に強い影響力を持っていた。マーティン・スコセッシは出世作の『ミーン・ストリート(Mean Streets)』でこの手法を再現し、アンガーはデヴィッド・リンチの『ブルーベルベット(Blue Velvet)』より23年早く、1963年の『スコピオ・ライジング(Scorpio Rising)』にボビー・ヴィントンのうたう同題の曲を使用している。アンガーはパレンバーグのことを〝魔女〟と見なし──彼女は逆に、魔術に関する知識はすべて、この映画作家から教わったと主張している──ブライアンも同様の存在で、「キースとアニタとブライアンはストーンズ内のオカルト・ユニット」だと考えていた。キースはアニタを通じてこうした世界に目覚め、ふたりはじきに恋人関係となる。このギリギリまで危険に近づこうとする考え方から生まれた最大の成果が、ローリング・ストーンズが書き、レコーディングした〈悪魔を憐れむ歌〉という曲で、オルタモントが実証したように、そこには当然それなりのツケがついてまわった。この時点でペイジはまだ、アンガーに出会っていない。しかしその数年後にとうとう出会いを果たし、そこからはじまった関係にも、やはりそれなりに罰がついてまわったのだった。
1966年の8月初頭に、ヤードバーズはニュー・シングルのレコーディングでIBCスタジオに入る。プロデューサーの席に座ったのはサイモン・ネピア=ベルだった。〈幻の10年(Happenings Ten Years Time Ago)〉と題されたこの曲はペイジとキース・レルフのアイデアをもとにしていたが、作詞作曲のクレジットはメンバー全員となっている。〈幻の10年〉はヤードバーズの全シングル中、もっともサイケデリックな曲だった。未来を指し示すかのように、この曲にはペイジとジェフ・ベックのツイン・リード・ギターがフィーチャーされていたため、ペイジは友人のジョン・ポール・ジョーンズに今一度ベースを依頼した。体調がすぐれなかったベックは自分のギターと、セックス診療所での経験をもとにしたナンセンスなセリフをあとで追加した。こうした風変わりなパートを別にすると、デジャヴ体験、あるいは前世の経験をうたっている歌詞はかなり痛切な内容だ──ポップをベースとする1960年代の前半が、よりロック色の濃い後半に移行していたこの時期にふさわしい、複雑なテーマである。
「それは激しくスタッカートするギター、下降する巨大なリフと横揺れする間奏部、そして現実の成り立ちと時間の性質に疑問を投げかける、LSDに触発された歌詞をフィーチャーした、圧縮されたポップ・アートの爆発だ」とジョン・サヴェージは『1966:60年代が爆発した年(1966: The Year the Decade Exploded)』〔*未訳〕に書いている。だが一部にはそれを小賢しい真似と見る者もいた。なかでも特に手厳しかったのが、『ディスク&ミュージック・エコー』誌の信頼できるレコード評担当、ペニー・ヴァレンタインだった。「音楽にこの種の言い訳をするのはもう勘弁してほしい。巧みでもなければ楽しませてもくれず、得るものもない。退屈で気取りが鼻につく。スプーンフルやビーチ・ボーイズのようなアーティストが本物の思いを自分たちの音楽にこめているこのご時世にあって、この種のことを頭のいいやり口だと思っているヤードバーズのような手合いにはもううんざりだ。あともう1回サイケデリックという言葉を耳にしたら、頭がおかしくなってしまうだろう」
事実〈幻の10年〉はイギリスで、ぎりぎりトップ30に入るのが精いっぱいだった。ことイギリスに関する限り、ヤードバーズは──当時のはやり言葉でいうと──斜陽だったのだ。
1966年8月5日、ペイジはミネソタ州ミネアポリスにあるデイトンズ・デパートメント・ストア8階のオーディトリアム──ここでは定期的にライヴが開催されていた──で、ヤードバーズとともにベースを弾いた。すでに2回訪れていたものの、彼がアメリカでステージに立つのは、この時がはじめてだった。このヤードバーズ3度目の全米ツアーは、1週間前にスタートする予定になっていたが、ベックが扁桃炎で病床に伏していたせいで延期された。彼が当初〈幻の10年〉のセッションに参加しなかったのも、やはりそれが理由だった。デイトンズ・デパートメント・ストアでは、午後1時と午後4時に2回コンサートが開かれた。「かなりシュールな状況だった」とペイジは何年もたってから、自分のウェブサイトでコメントしている。彼はステージ衣裳として、紫色のジャンプスーツに身を包んでいた。
この年の2月にアメリカでリリースされた〈シェイプス・オブ・シングス〉は、チャートを11位まで上昇するヒットとなった。そのあとに6月リリースの〈オーヴァー・アンダー・サイドウェイズ・ダウン〉がつづき、2か月後もチャートにランクされていたこの曲は、最高位10位を記録し、グループにとってはアメリカで最大のヒット曲となる。アルバム《ロジャー・ザ・エンジニア》がアメリカでリリースされたのは6月のことで、《オーヴァー・アンダー・サイドウェイズ・ダウン》と改題され、高い評価を浴びたアルバムはチャートを52位まで上昇した。アメリカでの活動を開始したばかりのグループにしては、悪くない成績である。
ツアーは中西部──シカゴ、デトロイト、インディアナ州の数か所──をガタピシと突っ切ってテキサスに南下し、彼らはバイブル・ベルトの各地で、ローリング・ストーンズが初期の全米ツアーで出演し、ひどくいら立たしい思いをさせられたのと同種のステート・フェア──おそらくはエルヴィス・プレスリーがそうしたライヴで、初期のステージングに磨きをかけていたことなどみじんも知らずに──でプレイした。ジェフ・ベックはまだ完調ではなく、会場でアンプのパワーが足りないことに気づくと、しばしば怒りをあらわにした。「思い通りの音が出せないとき、あいつは舞台裏でアンプを蹴っ飛ばしていた」とドラマーのジム・マッカーティは回想している。
といってツアーがまったく華やかさと無縁だったわけではない。航空会社が全国的なストライキを打っていたため、サイモン・ネピア=ベルはやむなく小型のジェット機をチャーターした。自分で自分のマーシャル・アンプを叩き壊したベックは、希望通りの代替品が見つからないとツアーはつづけられないと主張した。ネピア=ベルによるとペイジは、このジレンマを利用して彼の足をすくおうとした。「『サイモンはぼくらのマネージャーだ』と彼は言った。『だから当然、彼が代替品を探すべきだろう』当時のアメリカにはマーシャルのアンプがほとんどなくて──あってもせいぜい20台程度──ようやく見つかったやつも飛行機で引き取らなきゃならなかった。そのためにはアンプの代金をはるかに上まわる、莫大な経費が必要になる。でもそのおかげでジェフの機嫌はよくなったし、ジミー・ペイジはジミー・ペイジで、わたしから一本取った気になっていた」
1966年8月23日、ヤードバーズはロスアンジェルスから22マイル離れた太平洋上のリゾート、サンタカタリナ島でプレイした。グループはラジオ局のKFWBが主催したコンテストの勝者を満載したロングビーチ発の船で島に到着したが、その際にファンのひとりは、ベックが〝気むずかしい〟ムードを漂わせているのに気づいた。彼はツアーの開始時からずっと、そんな〝ムード〟に入っていた。完治していなかった扁桃炎が、ふたたび彼を攻め立てていたのだ。
しかしサイモン・ネピア=ベルにとって、この島のカジノ・ボールルームでくり広げられたグループのライヴは、彼がそれまでに見た中で一番の出来だった。彼によるとベックは、永遠に終わりそうのないソロを弾いた。その間に彼は、雷のようにとどろくペイジのベースとかけ合いを聞かせ、このふたりの融合したサウンドは、すでに〝サイケデリア〟として知られつつあった──そしてペニー・ヴァレンタインに忌み嫌われていた──音風景へと移ろっていった。
ヤードバーズがロングビーチにもどった時点で、ベックの体調不良ははっきりしていた。その晩はロスアンジェルスのガールフレンド、メアリー・ヒューズの腕に抱かれて休息を取ったものの、翌日になっても回復せず、その晩、モンタレー・カウンティー・フェアグラウンズで予定されていたライヴはキャンセルになった。
ベックの体調はツアーからの途中離脱を余儀なくされるほど悪化し、グループ内で大きな議論を巻き起こすが、そこで下された結論は、ペイジにとって重大な意味を持っていた。8月25日のサンフランシスコ、カルーセル・ボールルームを皮切りに、残された12回の公演ではクリス・ドレヤがリズム・ギターからベースにスイッチし、新たに流行りはじめていた裾広のパンツをはいたペイジがリード・ギターを引き継ぐことになったのだ。「あの時は本気で心臓が縮こまりそうだった」と彼は語っている。「ちょうどヤードバーズのコンサートの評価が頂点に達していた時期だったし、ぼく自身はまだリード・ギターで吠えまくる心の準備ができていなかったからだ。でも実際には問題なかったし、あの晩からぼくらはずっと、あの形でやりつづけた。で、ジェフが回復すると、リード・ギターは2人になった」
ツアー中にペイジは、自分自身のギター・プレイをラジオで耳にすることがあった。それは先ごろロンドンでおこなわれたセッションで、ミッキー・モストのプロデュースするシングル用に彼が弾いたギターだった。以前はフォーク・シンガーだったドノヴァンのスタイルを一変させ、黄金時代の幕を開いた〈サンシャイン・スーパーマン(Sunshine Superman)〉は、1966年の夏を代表する斬新なサウンドで全米チャートをぐんぐん上昇し、1週だけ首位の座につく。イギリスではこの年の12月までリリースされなかったものの、全米チャートとほぼ同じ動きを見せ、2位まで上昇した。
ジミー・ペイジとドノヴァン・リーチは音楽的に似通った考えの持ち主で、どちらも形而上学に関心があった。ペイジとともに〈サンシャイン・スーパーマン〉でベースを弾いたのは──またしても──ジョン・ポール・ジョーンズだった。それと同じ一連のセッションで、ペイジは耳について離れないギターを、ドノヴァンの同様に忘れがたい〈魔女の季節(Season of the Witch)〉に提供し、この曲はアルバム《サンシャイン・スーパーマン》に収録された。ドノヴァンがギターの達人、ジョン・レンバーンに教わったDマイナー・ナインスのコードを軸にして展開する〈魔女の季節〉は、長々と演りつづけるのにうってつけの曲で、レッド・ツェッペリンもサウンドチェックの際に、しばしばプレイすることになる。
イギリスにもどるとジェフ・ベックは復調し、車でパンボーンのペイジ宅に向かった。その内装はすでに、ロック・スターのあいだで流行っていたロココ趣味を反映しはじめていた。2人のギタリストはそれぞれがリード・ギターを弾き、おたがいとからみながら、自分たちのプレイ、さらにはバンドのプレイを強化できるステージ構成を考えた。彼らがリハーサルをした曲のひとつに、フレディー・キングの〈ゴーイン・ダウン(Goin' Down)〉がある──ただしレコーディングはされていない。
彼らは仕事を急ぐ必要があった。9月23日、ヤードバーズはふたたびツアーに出る。今回はローリング・ストーンズとアイク&ティナ・ターナー・レヴューのサポートでイギリスをまわる全12か所、1夜2公演のツアーで、1966年10月9日に終わる予定だった。
ツアーはロンドンのロイヤル・アルバート・ホールで幕を開け、ここでのヤードバーズは完全にローリング・ストーンズを食ったと言われている。しかし『NME』紙のステージ評は、とりわけジェフ・ベックに侮蔑的で、「ギターの軽業師」と呼ばれたことに、彼はいたく気を悪くしていた。サイモン・ネピア=ベルはいっさい、そうした評価に与さなかった。「彼らは本当にすばらしかった。ジェフとジミーがやっていたのは、ジェフ・ベックのソロをハーモニーで弾くということだ。目で見ても、耳で聞いても圧巻のすばらしさだった」
しかしじきに問題点が浮上した。クリス・ウェルチの『レッド・ツェッペリン:ザ・ブック(Led Zeppelin: The Book)』〔*未訳〕によると、「問題のひとつはジェフが競争心を抑えきれず、ジミーをステージから追いやろうとしたことだ。ペイジはいつも落ち着き払っていたが、ジェフがギターのやりとりの中で予想外の反撃を返してくると、正確さが危うくなって、音量に頼っていた」『トラウザー・プレス』誌の1981年10月号でジム・グリーンのインタヴューを受けたサイモン・ネピア=ベルも同意見だった。「ジミーが意図的にジェフを食おうとしたので、ジェフは不機嫌になり、終わり近くで出て行ったんだ。さいわい、ステージはなんとか終えることができた」
ベックはすぐに許され、ヤードバーズのラインナップに復帰した。これは必要に迫られてのことだった。ディック・クラークス・キャラヴァン・オブ・スターズ──伝説のDJが主催する、アメリカ・ポピュラー音楽界の恒例行事的なツアーの冬の部に参加する予定になっていたからだ。だがヤードバーズはそのツアーの前に、もうひとつ、新たな可能性を探ることになった。
形而上学的スリラーの古典的傑作──ただし随所で気取りがひどく鼻につく──『欲望(Blow-Up)』のパーティー・シーンでは、たとえばアニタ・パレンバーグとブライアン・ジョーンズの家を舞台にくり広げられていた高級なヒッピー暮らしの、誇張され、ドラマ化されたヴァージョンを見ることができる。イタリア人監督のミケランジェロ・アントニオーニがこの映画の撮影をロンドンで開始したのは、1966年4月のことだった(そのシーンは実のところ、チェイン・ウォークのクリストファー・ギブズ宅で撮影された)。劇中では、明らかに若き無法者(アンフアン・テリブル)のデイヴィッド・ベイリーをモデルにした、デイヴィッド・ヘミングス扮するファッション・カメラマンが、そこで殺人の現場を目撃したと思いこむ。
アントニオーニは7月にロンドンでの撮影を終了するが、この街の華やかで先端的な(スウインギング)空気をフルに表現するには、ロックンロール・クラブのシーンが欠かせないと判断した。9月、ロンドンにもどってきた彼は、ザ・フーのマネージャー、キット・ランバートと会見する手はずを整えた。会見の前日、ランバートはロンドンのメイフェア・ホテル内にあるビーチコマー・レストランで、サイモン・ネピア=ベルと昼食をともにした。このふたりは親友で、ランバートはアントニオーニへの対処法について、ネピア=ベルの知恵を借りようとしていた。ネピア=ベルは自分のグループのために、彼を引っかけることにした。「1万ポンドのギャラと、出演シーンの最終編集権を要求しろと言ったんだ。1分ほど話しただけで、アントニオーニはあいつを追い返した。
わたしはそのあとアントニオーニに会いに行った。『お金は必要ありません。これはアートです。むろん、こっちで編集するつもりもありません』」(実のところヤードバーズは、『欲望』の出演料として3000ポンドを受け取っている。自動車狂のジェフ・ベックは自分の取り分で、すぐさま中古のコルヴェット・スティングレイを買った)。
これはネピア=ベルのお手柄だった。『欲望』のヤードバーズが出演するシーンは、ロンドン北部、ボアハムウッドのエルストリー・スタジオにウィンザーのヒップなリッキー・ティック・クラブを模して建てられたセットで、1966年10月6日にはじまる週に撮影された。バンドはその前夜、キース・レルフが著作権上の理由で──言い換えるならクレジットをかすめ取るために──書き換えた歌詞を使って、〈ストロール・オン(Stroll On)〉と映画にはクレジットされている曲、だがそれをジョニー・バーネット・トリオの強烈な演奏ではじめて体験したファンのあいだでは、むしろ〈トレイン・ケプト・ア・ローリン〉のタイトルで知られている曲をプレイした。ヤードバーズがその前年、メンフィスのサン・スタジオでレコーディングしたのと同じ曲である(最初に選ばれたヤードバーズのライヴ定番曲、ハウリン・ウルフの〈スモークスタック・ライトニング(Smokestack Lighting)〉は、アントニオーニがこのシーンにはもっと激しいテンポの曲が必要だと判断したため見送られた)。
〈トレイン・ケプト・ア・ローリン〉はレッド・ツェッペリンが、最初のリハーサルで演奏する曲でもある。『欲望』でのヤードバーズは、若きマイケル・ペイリンや銀色のコートで踊るジャネット・ストリート=ポーターをふくむ、意図的に動きを止めた観客の前で、この曲の今にも爆発しそうな、猛々(たけだけ)しいヴァージョンをプレイする。舞台左手のベックに対して舞台右手に立つペイジは、キンクスのデイヴ・デイヴィスよろしく髪の毛をまん中分けにし、マトンチョップのもみあげは下あごに軽く触れる程度の長さにして、滝のように顔面にふりかかる2筋の髪の毛越しに客席をうかがっている。彼は前の開いた黒のジャケットを着用し、両襟にはバッジが3個、対称につけられている。途中でベックは故障したアンプにむかっ腹を立て、現実にはピート・タウンゼンドにしかできそうにないやり方でギターを叩き壊す。自分の役割を知らされたベックは、思わずたじろいだ──新しいギブソンのレスポールを壊さなきゃならないのか? ありえない!
そこでヘフナーの安いレプリカ・ギターが、何本か用意された。「ジェフ・ベックはようやくギターを叩き壊すことに同意し、それをなんと6回もくり返した」とネピア=ベルは回想している。ギターが破壊されてはじめて、観客は熱狂的な反応を示す。
しかしベックが映画で直面した問題は、ギターの破壊だけに留まらなかった。「アントニオーニは尊大なだけののろまだ。オレはこれっぽっちも好きになれなかった」と彼は語っている。「映画はちょっとしたジョークだった。クズだよ。『ああ。これでオレたちも終わりだな』と思ったからね。LAでプレミアを観たんだ。でも映画は好評だったし、オレたちも終わらなかった」
ヤードバーズでともにプレイするペイジとベックの映像は、『欲望』のこのシーンしか残っていないようだ。ほんの少ししか画面には映らず、2人の出演場面ではベックの暴力的な怒りが間違いなく場をさらっているものの、ペイジのほとんど女の子のようにかわいいルックス──一瞬だけ崩れて笑い顔になる──は、少年院送りの宣告を待つ不良のようなベックのけんか腰のふるまいと鮮烈な対照をなしていた。それを見れば一緒にプレイしたごく短い期間、このふたりがヤードバーズの強力な戦力となっていた理由がはっきりわかるはずだ。
ディック・クラークス・キャラヴァン・オブ・スターズには、ヤードバーズのほかにゲイリー・ルイス&ザ・プレイボーイズがトリのあつかいで参加していた。コメディアンのゲイリー・ルイスの息子がシンガーを務め、ハーマンズ・ハーミッツと同様、健全なイメージを売りにしていた彼らは、7曲連続で全米トップ10シングルを放っていた。ツアーの参加者はほかに、〈ウリー・ブリー(Wooly Bully)〉をヒットさせたサム・ザ・シャム&ザ・ファラオズ、ディスタント・カズンズ、その年の夏に洗練されたセクシーな〈サニー(Sunny)〉で全米チャートの上位にランクされたボビー・ヘブ、そして幼い恋の歌を十八番とする60年代初頭のヴォーカル・スター、ブライアン・ハイランド。じきにアルバム・ロックが市場を席巻するようになると、こうしたアーティストの多くは完全に息の根を絶たれてしまう。
ツアーは南部、中西部、西海岸を転々としたのちに、11月27日、ウェストヴァージニア州ハンティングトンで幕となった。「たしか33か所をまわるツアーで、そのうちの25か所はダブル、つまりひと晩に2回ライヴをやらされた」とペイジは語っている。「ダブルなら場所は同じだと思うかもしれないが、そうは問屋が卸さない──別の街で2回やるんだ。ライヴは前半と後半に分かれていた。前半が終わると休憩があり……後半の連中がやってるあいだに、前半の出演者はバスに乗って次の公演地に向かう。で、前半が終わるころに、後半の連中が来て引き継ぐわけだ。疲労度に関する限り、あれはぼくが参加したなかで最悪のツアーで、自分たちがどこにいて、なにをしているのかもわからなかった」
条件は劣悪で、アーティストたちは2台の改装したグレイハウンド・バスに分乗し、わずか4曲の出番のために、連日600マイル前後の距離を移動していた。「ほかの出演者はオレたちとほとんど、というかまるで共通点がなかった」とジム・マッカーティは語っている。「サム・ザ・シャム&ザ・ファラオズ、ブライアン・ハイランド。わかるだろ、とにかくまるで接点がないんだ。まぁサム・ザ・シャムにはそれなりに見所があったけど。とにかく、オレたちがバスを降りてステージに立つと、まず『ギターの音を下げろ!』と怒鳴られた。ジミーはプロフェッショナルだから受け流していたし、クリスとオレもなんとか持ちこたえた。なんでもジョークにしていたからだ。キースはずっと飲んだくれていた。でもジェフは……」
ジェフ・ベックは仏頂面でアメリカを横断する達人となりつつあった。「バスはエアコンが効いてることになっていたが、とてもそうは思えなかった。しかもバスに乗っていたアメリカ人のグループはみんな、ノンストップでギターを弾き、四六時中うたっていたんだ。信じられるか? 息苦しいバスに閉じこめられて、しかもまわりの連中はみんな、アメリカなまりでビートルズの曲をうたってるんだぜ」
ツアーがはじまった当初、『欲望』のセットでテクニックに磨きをかけたベックは、派手な破壊行為で注目を集めた。窓から投げ出されるアンプ、叩き壊される楽器……。「『欲望』のジェフ・ベックは、説得されてしぶしぶギターを壊していた」とネピア=ベル。「でもあの時は自分から進んで、アンプを壊すような真似をしていたんだ。ジミー・ペイジはきっと、あと少しの辛抱だと思っていたんだろう。現にジェフ・ベックはそのあと、バンドを脱退したからね」
グループ内には不満が鬱積しはじめ、ベックは当人がのちに認めたように、「すっかりグシャグシャになって」いた。「21歳でもう、オレは倒れる瀬戸際だった。もうやっていられなかった」
「楽屋で一度、頭上に抱えあげたギターをキース・レルフに叩きつけようとしたベックが、代わりに床に叩きつけてしまったことがある」とペイジは回想している。「レルフが呆気(あつけ)にとられた顔でベックを見ると、あいつは『なんでオレにこんな真似をさせたんだ?』と言った」
ツアーがなかばまで来たテキサス州のハーリントンで、空港行きのタクシーをつかまえたベックは、その足でロスアンジェルスに飛んだ──そこではもちろん、メアリー・ヒューズが彼を待っていた。旅立ちに関するベックの説明は? 慢性的な扁桃炎のぶり返し。治療を受けたらすぐにもどる、と彼は言い残していた。
ベックが姿を消した翌日、ネピア=ベルは地元のTV番組で、次のヤードバーズのコンサートがキャンセルになることを告知する羽目になる。だがレルフとペイジはストレスなどどこ吹く風で、現地のジョーク・ショップを訪ね歩いた。この2人にプレゼントされたシガーを長々と吸ったネピア=ベルは、それが口の中で爆発したせいで思わず腰を引いてしまう──生放送のTVに出ているまっ最中に。イギリスのグループは当時、こうした行為をおふざけ(ルーニング)と呼び習わしていた。ペイジがこうした企てに加担したという事実は、彼が決してお高くとまるだけの人間ではなかったことを示している。とはいえマネージャーとの複雑な関係を考えに入れると、こういうことをやろうと思い立ったこと自体、無意識的な悪意のあらわれだったのではないか?
この時もまた、ペイジがひとりでリード・ギターを引き継いだ。「ジミーはいつだって本物のプロだった」とクリス・ドレヤは語っている。「一方でジェフは感情で動く男だ。たぶんジェフはずっと、ジミーよりつらい思いをしていたんじゃないかな。気持ち次第でプレイが変化するタイプだったから。でもジミーの考えはいつも、『ぼくらはプロのミュージシャンだ』だった」
「自分のテリトリーを侵されるのが嫌だったし、ギターは全部オレのものにしたかった」とベックは認めている。「そしたらちょうどくたびれきっていたとき、6週間、ディック・クラークのツアーに出ることになって。6時間でもうウンザリしたよ。あの手の移動の問題や、感情的なもつれを抱えたまま、目的地に着いて、音楽的にぜんぜんピンと来ない連中とトイレみたいな場所でライヴをやってると、いずれ最悪の事態になるのは目に見えてる。オレはもう耐えられなくなって、とうとうつぶれてしまった。もう移動はこりごりだった……だからオレが追い出されたのか、それとも脱けたのかなんて問題はどうでもいい。とにかくああなるしかなかったんだ」
ロスアンジェルスでしばし考える時間が持てたベックは、ヤードバーズに復帰しようとした。自分が軽微な精神衰弱をわずらっていたことに気づいたのだ。しかし途中で離脱したギタリストがLAのナイトクラブでご機嫌な時間をすごしているという噂が伝わってくると、ヤードバーズはベックの解雇を決めた。
「もうこれ以上ヤードバーズのマネージャーをやっていくのは、無理だと判断したのがその時だ」とネピア=ベル。「むずかしくなりすぎていたし、わたしが本当に気に入っていたメンバーは──気のいいナイスガイのクリス・ドレヤを別にすると──ジェフ・ベックだけだった。だからジェフ・ベックのマネージャーはそのままつづけたんだ。ジミーはなんともあつかいにくい男で、いつもむっつりしていた」
一方でペイジは、自分があつかいにくくなるのは当然だと感じていた。「そりゃそうさ。だってぼくらはローリング・ストーンズと4週間旅して、そのあとアメリカをツアーしたのに、受け取ったのはひとりあたまたったの112ポンドだったんだ!」
ネピア=ベルが気づいたペイジのもうひとつの特徴は、このギタリストがしばしば片隅に隠れて、アレイスター・クロウリーの難解な書物を読んでいたことだ。「なんの本だと訊かれると、あいつはたいてい、『いや、きみにはわからないよ。知性が足りないから』といったたぐいの答えを返していた」
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