【試し読み】韓国発 お仕事小説『トロナお別れ事務所』ソン・ヒョンジュ=著/古川綾子=訳
「何事もなく平穏に別れたい。」そう願ってしまうほど、「別れ」に敏感な時代――。誰かが「別れ」を代行してくれる時代がくるであろうという想像から出発したこの小説は、いまの20~30代の気持ちを代弁するように、人間関係に懐疑的な「お別れマネージャー イ・カウル」を通じて人やモノとの「関係」について深く考える機会を与えてくれる一冊でもあります。韓国発、12月10日発売の『トロナお別れ事務所』、是非試し読みから読んでみてください!
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『トロナお別れ事務所』
ソン・ヒョンジュ[著] 古川綾子[訳]
1
依頼人のファン医師の第一印象は地味でおとなしそうな人だった。白いガウン姿で一睡もできないまま、E Rで朝を迎えたようだ。ガウンに反射する照明のせいか、患者だと言ってもおかしくないような血の気のない顔をしていた。いかにもERで徹夜したという感じで目も充血していた。でも、前髪で半分ほど覆われた顔には、どこか品格が漂っていた。研修医になって二年目のファン・ソグォン。私にとってはじめての顧客で依頼人だ。
「また変わったんですね」
彼の最初の言葉だった。
「えっと、前の担当は退職しました」
前任者に依頼したかったようだ。私は急いで財布から名刺を取り出した。
「イ・カウルと申します。昨年も利用されましたよね? 記録が残っていました」
私の言葉に彼は少し慌てたようすを見せた。口が滑った。今のは彼が浮気者だという誤解を招きかねない。うちの会社にしてみたらお得意さまだけれど、そんなの依頼人にはどうでもいいことだ。彼のただならぬ表情に気づいた私は、できるだけ口角を上げながら急いで話題を変えた。
「とりあえずお相手の情報と、思い出の品も一緒にいただけますか」
ようすをうかがいながら会社のマニュアルどおりに話した。彼の目つきを見ると、さっきよりは落ち着いたみたいだった。その目を見ながら勇気を振り絞り、もう一度尋ねた。
「その方とお別れしなければならない理由をうかがってもよろしいですか?」
今度はいちいち訊く必要のない余計な質問をしてしまった。
「どうしても言わなきゃいけませんか?」
彼のゆっくりとした口調が不快感を表していた。
「トラブルなくお別れするためには、それくらい知っておきませんと、依頼人のお役には立てませんので」
「たいした問題じゃありません。ちょっと休みたいんです。週末は昼寝もしたいし、平日は病院の業務にもっと集中したいし」
「休みたい?」
彼のふざけた答えに拍子抜けした私は聞き返した。
「正直言うと、もう今はすべてが面倒くさいんです。二人のあいだに少しずつルールが作られていくのが、なんていうか縛られてるように思えて。そういうのって疲れるじゃないですか。僕たちのように、常に緊張感にさらされる職業の人間にとっては拷問ですよ。そろそろ自分の失われた週末を取り戻したいんです」
彼はシニカルな表情で予想外の答えを返してきた。もう少し睡眠時間を確保したいなんて些細な理由が別れにつながるとは新鮮ですらあった。女性に飽きたわけではない、ひとりの時間が必要なのだという言葉に警報が鳴り響く。このご立派な言い分は本当に別れたい理由のラッピングみたいなものだ。過酷な競争社会とはいえ、恋愛もできないなんてと苦々しさを覚える。
「そうかもしれませんね」
依頼人に同調するように肩をすくめて相槌を打った。
「彼女にこんなこと言ったら、きっと頭がおかしくなったのかって思われますよ。病院はいつも研修医が足りない。それが問題なんです。一カ月近く徹夜が続いてトイレで仮眠をとったり、今までそんなこと一度もなかったのに睡眠時遊行症まで発症しちゃって、病院のロビーで目が覚めたこともありました。合間を縫って恋人と会ったりもしますけど、気持ちはほとんど病院に拘束されてるようなものなんです。だから恋愛を長続きさせるのも難しくて」
かなり現実的な悩みだった。彼の切実さに応えるように笑顔で告げた。
「弊社が責任をもって、失われた時間を取り戻してさしあげます」
「本当に解決してくださるんですね?」
彼と話していると、病院という場所は恋愛もできない冷酷な現場だという気がしてきた。でも心の片隅には猜疑心も芽生えていた。原因は本当に慢性疲労だろうか? もしかすると二股をかけている? 自分の必要十分条件を満たす期間限定の恋愛がしたいタイプ? あらゆる想像が頭の中を駆け巡った。彼はわずか六カ月前にも前任者に同じような理由を並べ立てたらしい。恋愛疲れは目的が消えたときに生じる。別れの兆候は愛されていないときに現れる。つまり愛は冷めたのだ。テンションの上がらない恋愛の終焉は、彼にとって明らかに疲労の原因なのだろうとぴんときた。
「研修医の時期が一番大変だと聞きますが、いっそのことその方とご結婚されてはいかがですか」
「結婚? あんな重たいものを、なんでまた」
しょうもない質問を投げることで、依頼人の心をもう一度引っかき回してみた。彼はファンタジーの時間はもうおしまい、現実に戻ったのだと言わんばかりの冷ややかで理性的な態度だった。
「それでは、お相手の個人情報と、返却する品物の準備ができましたらご連絡ください」
そう挨拶すると、私は修練の間を後にした。
私の仕事はお別れマネージャー。入社して一カ月になる。
一カ月前、ソウルの延南洞にある〈トロナお別れ事務所〉で面接を受けた。これまでろくな仕事に就けないまま、転職活動と職場を行ったり来たりしながら五年という時間を生き抜いてきた。もしかするとこの五年は、チェ・ゲバラの不屈の精神でなんとか持ちこたえたのかもしれなかった。そうこうしているあいだに生気に満ちた二十代は終わりを告げ、人気の高い職場や高収入が保証されている大企業は手が届かない国になってしまった。正直、事務所からの面接に来るようにという連絡にも心はときめかなかった。
もっと正直に言うと、私を動かしたのは母の健康問題だった。最近は百歳時代なんて言葉もよく聞くけれど、私の母は少し前から食事制限が必要な胃無力症に苦しんでいた。そんな母の体が少しずつ痩せ細っていくのを目の当たりにし、ひどく不安になった。三十歳になった今も、未婚で私を産んだ母とべったり親子として生きていた。そのせいか、いまだに経済面で完全に自立できていないことが申し訳なかった。
〈トロナお別れ事務所〉は、延南洞でもデートスポットとして人気の高い路地にあった。感情のもつれの解消を代行する事務所が、恋人同士で歩くのにぴったりなこんな場所にあるのが不思議だった。路地には住宅と食堂が立ち並び、酒飲みが好きそうな店も多かった。私が探していた住所は路地の突き当りの古びた雑居ビルにあった。延南洞らしからぬ老朽化した建物は私を失望させた。
眩しい陽光のせいかペンキの剝げた跡がより鮮明に見えた。しばらくそのまま見上げていた。得体の知れない悲しみに襲われたが、行かないわけにはいかない。
いつの間にか〈トロナお別れ事務所〉という看板の前に立っていた。〝トロナ〟という単語が頭の中でせわしなく回っていた。耳に挿したイヤホンから、ビートルズの『ハロー・グッドバイ』が流れてきた。薄暗い廊下を進みながら本音では逃げ出したかった。思い描いていた会社の姿とは似ても似つかない。いくら地面を這いつくばっているとはいえ、こんな会社に就職するために今まで耐えてきたわけじゃない。イヤホンを外し、事務所に入るべきかやめるべきか悩んだ。思いと行動は裏腹だった。私の手は鞄から鏡を取り出すとアイラインが滲んでいないか、ヘアスタイルは崩れてないか、最終チェックを行っていた。でも最後は顔がどうかよりも勇気が必要だった。このままやめて帰ったら朝からシャンプーやメイクをした手間がもったいない気がして、もう一度呼吸を整えると遠慮がちにドアを開けた。
最初に目に飛びこんできたのは、面接を受けに来たらしい男女が古いグレーのソファに並んで座っている光景だった。事務所とは名ばかりで、せいぜい二十坪ほどしかない。どの窓にも濃い色のブラインドが下りていて、室内は薄暗かった。私が思い描いていた革新的な雰囲気とは少し違ったけど、そんなことをどうこう言ってる場合じゃなかった。予定外の生理痛で、朝から鎮痛剤を二錠も空きっ腹に放りこんできたせいで胃がむかむかした。恐る恐るソファに座った。応募者は三人。面接の緊張感の代わりに、奇妙な好奇心がむくむくと湧き上がってきた。いったいお別れの仲立ちをする会社の社長って、どんな人なんだろう。面接は何を訊かれるんだろう。意味不明な質問はしないでくれと祈るばかりだ。
「遠路はるばるご苦労さまです。面接というよりも気楽に話す場ですから、緊張せず、リラックスしてください」
パーティションの向こうから男性がにゅっと現れると話しかけてきた。おそらくここの社長なのだろう。四十代半ば、のっぺりした丸顔はエラが張っていて、白いものがちらほら見えるもみあげは悪くない印象だけれど、好感が持てるタイプではなかった。気になったのは眉毛だ。まばらな眉が途中で切れているのがひときわ目につき、母の言葉を思い出したのだ。眉毛が途中で切れている男は何をやっても最後まで続かない、だったっけ。社長はその眉にぐっと力を込め、事務所の真ん中に置かれた会議用テーブルに集まるよう言った。私たちが座ると、社長はこう切り出した。
「世の中には三種類の人間がいる。ごたごたを起こす人、ごたごたを傍観する人、ごたごたが起こってることにも気づかない人。さて、みなさんはどれに当てはまるかな?」
質問の意図がわからないし、唐突すぎると思った。この手の質問が一番嫌だった。そのとき応募者の男性が慎重に口を開いた。
「世の中にいっさい興味がない人間は?」
男性はものすごく真剣な表情でくだらない質問をした。
「うーん、それは……排水溝に詰まったような人間といえるだろうな」
社長のひと言に男性の顔が赤くなった。私はさっきから左の袖口が汚れ、何度も洗って着古したような社長のワイシャツが気になって仕方なかった。この人、キロギアッパ〔子どもを母親と一緒に海外留学させ、自分は韓国で一人暮らしをしながら仕送りをする父親のこと〕なのかな? バツイチ? シングル? ありとあらゆる雑念が湧いてきたけれど、さっきの質問は忘れていなかった。あえて言うなら私は最後に分類される。でも応募者の誰も口を開こうとしなかった。私たちが黙っていると、社長は咳払いして話を続けた。
「きみたち三人とも、社会から隔絶でもされてるみたいだな。お別れマネージャーという職業は、きみたちには馴染みが薄いかもしれないが、私は別れすらも他人の力を借りる時代が来ると見ているんだ。特に最近の若者は、顔を見ながら感情を伝えるのがかなり苦手だし、なくてはならない仕事になるはず。別れを丁重に、品位をもって伝えるお別れマネージャーがいれば、望まぬ感情をシャットアウトすることができるというわけだ」
社長の理路整然とした話術は論理まで兼ね備えていた。
「ここにやってくる顧客はみな、自分の力では別れられない弱い人たちだよ。最近じゃ、別れ話の切り出し方を間違えると復讐されるケースなんかもあるから、お別れマネージャーはこの先、確実に必要とされるはず。特にこのビジネスは新たな市場を開拓するわけだから、他所から顧客を奪ってくるチンピラみたいな真似もしなくて済む。創意力が求められるカッコいい職業だ。質問のある人はどうぞ」
隣の女性が手を挙げて質問した。
「〈トロナお別れ事務所〉の〝トロナ〟って、どういう意味ですか?」
「とてもいい質問だ。元通りという意味の〝トロ〟、私や自分を指す〝ナ〟で〝トロナ〟。つまり〝本来の私〟、自然体の自分を表している。誰かと出会って別れれば本来の自分に戻るし、習慣に囚われている場合も本来の自分とはいえないからね。それで〝本来の自分〟に返ろうという意味でつけたんだよ」
社長は自信たっぷりに説明した。拳を握り、世の中に向かって蹴りでもお見舞いしかねない勢いだった。拳に浮き出た青い血管が皮膚を突き破ってきそうなほどくっきり見えた。社長の情熱には誰もついていけなそうだ。その情熱のわりに会社の規模が小さすぎる点が気がかりだった。それから、窓にかかっている季節外れのレモンイエローのブラインドが、さっきから気になって仕方なかった。レモンイエローより白のほうがしっくりきそうなのに。
社長は結婚相談所でカウンセラーをしていたと自己紹介をした。非婚者が増えて結婚相談所が事務所をたたんだので辞めたそうだ。時代の変化に合わせていち早く動く処世は悪くないなと思った。
社長は恋愛上手なカップルは別れ方もひと味違うと言った。過酷な競争社会で別れのような感情に引きずられることのないよう、きっぱりとけじめをつけるのだと。振るのか? 振られるのか? それが問題だ。愛が終わること自体は罪ではない。心変わりをしてしまった相手を引き留めようとするのは苦しいけれど、自分から別れを告げるほうが感情を表に出すことなく合理的ともいえる。だとすると、別れは残酷なほうが有利になる。つまりは別れの駆け引きが得意な人は恋愛上手で、常に勝者というわけだった。
個人面接がはじまった。社長はすごく独特な人だった。面接もかなり変わっていた。
「イ・カウルさん、入って」
私の名前が最初に呼ばれた。社長との面接の場は印象的だった。肩の高さまであるパーティションの向こうに社長がいた。中は想像していたよりずっと狭かった。机の向こうにベッドが見えた。フレームまで付いているベッドが視界に入った瞬間、見てはならないものを見てしまった人みたいにぎょっとした。新婚夫婦の寝室にあるようなヘッドボードに装飾が施されたダブルベッドなんて、場違いもいいところだ。社長は椅子の背もたれに頭を預けたまま、目を丸くしている私の表情を読み取ったかのように視線でベッドを指した。
「ああ、あれ? ビジネスが軌道に乗る前なんで、ここで寝ることも多くてね。気にしないで」
社長はきまり悪そうに笑った。ベッドのせいで複雑な心境になった私は、社長の向かいの椅子に気まずそうに座った。社長は手にした履歴書にざっと目を通して言った。
「今は秋(カウル)じゃなくて、春だけど?」
「はい?」
「いやいや……冗談、冗談だよ! 別れの季節の名前だったもんで、つい……」
社長は初対面にもかかわらず、つまらないダジャレを言ってきた。名前のことを言われるたびに改名したくなる。私の考えでは秋は恋愛の季節だ。金色に染まった道を誰かと一緒に歩きたいと思う季節でもあった。別れにぴったりなのは冬だと思っている。体が冷えると心も凍る気がするからだ。夏と冬のほうが別れるのに最適な季節じゃないだろうか。こんなことを考えていたら、社長がまたなにか呟いた。
「心理学とは、心理。うん……専攻は気に入った。うちの仕事とも合う部分があるし」
履歴書と私の顔を交互に見ていた社長は愉快そうな反応を見せた。質問が続いた。
「男性に振られたことは? それもかなり残酷なやり方で。いつも振るほう? それとも振られるほう? ははは、この質問はちょっとあれだな。参考までに言うと、私はいつも振られるほうでね……ははは」
社長は〝残酷な〟という単語に抑揚をつけながら低い声で言った。これまで数多くの面接を受けたけれど、こんなにレベルの低い内容ははじめてだ。しかも二つめの質問はかなり露骨だった。プライベートに関するものだったし戸惑いも感じていた。一般的な面接でされるような質問ではない。その点が一番不安だった。
「私はたいてい、振るほうですね」
力強い声で答えた。本音では答える価値もない質問だと言い放ち、今すぐにでも外に飛び出したかった。
「オッケー!」
社長の言葉が突き抜けた。私が誰かを振ったという答えが、どうして痛快なオッケーになるのか理解できなかった。社長の笑みは尋常じゃなかった。その後も、ずっと頭の中で考え続けていた。
パーティションの外に出ると、背の低い男性が焦れたようすで面接の順番を待っていた。彼は私を見るなり催促するように尋ねてきた。
「何を訊かれました?」
答えなかった。特別なことなんてない、よくある質問だ。そう教えてあげたいという気にもなれなかった。
面接を終えた私はふたたびソファに座ってイヤホンを耳に挿した。音楽を聴いていると、さっきの社長の質問が思い出された。三十歳になるが、本当は生まれてこのかた誰とも真剣な付き合いをしたことがなかった。誰かに好意を抱くという行為を警戒してきたと言うべきか。感情の前で躊躇してしまうのだ。だから恋愛とか失恋といった感情にうまく対処できなかった。誰かを振った経験くらいあると答えるほうが、プライドを保てそうだった。
恋に落ちたらその感情にすべてを委ねればいいのだと、母がアドバイスしてくれたことがある。恋愛至上主義の母の思考はかなり陳腐だった。激しい競争社会において、愛という感情は、神経を消耗させる古臭い感情なのではないだろうか。だから私は三十歳になってもシングルなのかもしれない。恋愛で感情を消耗するより、スキューバダイビングを楽しむほうがマシだという思いは変わらない。
数日後、事務所に現れたのは私とパク・ユミの二人だけだった。さいわいなことにユミは同い年だった。世の中に興味がないと言った背の低い男性は、予想どおり現れなかった。私たちには入社と同時にマネージャーという役職が与えられた。〈トロナお別れ事務所〉のメンバーは、社長とキム・ジュウンという内勤の女性社員、そして私とユミ、この四人がすべてだった。
2
ファン医師にふたたび会ったのは病院で依頼を受けた二日後だった。私が病院に入ると、ちょうど彼がERから出てくるところだった。彼はこちらをチラッと見ると、ロビーの案内デスクに近づいていった。
総合案内所のスタッフの女性は、ファン医師を見ると紺色の箱を取り出した。箱を受け取った彼はしばらく考えこんだのち、すぐに私に差し出した。その瞬間、奇妙な感覚にとらわれた。まるで依頼人の恋人が私に憑依したみたいに、かすかに手が震えた。もし愛する人から思い出の品をこんなかたちで受け取ったら、箱を床に叩きつけているかもしれない、そんな感覚だった。
「別れても、たまに連絡くらいは取り合える友だちでいようと伝えてください」
彼がにやりと笑いながら言った。たまに会える友だちという言葉にハッとした。たまに寝るくらいなら付き合ってやってもいい、そんなふうに聞こえたのはなぜだろう? ツンとあごを上げて彼の目を覗きこむ。未練を滲ませた目を卑怯だと思った。
「友だちでいられるなら、悪くは思ってないということですよね?」
彼の反応が気になって質問を投げかけてみた。
「別れるときに、仇として記憶に残ろうとする人間はいませんよ」
ファン医師はそう答えながらも、少し落ち着かない表情を見せた。この人は付き合う相手を充電器かなんかみたいに思っているのではないだろうか。一瞬そんな気がした。充電と放電を自由にする人。腐った缶詰が必要なのは満腹な人間ではなく、飢えに苦しむ人間だ。私はなんとか笑顔を作った。
「お別れマネージャーが必要なのは、まさにこういうときではないでしょうか? 誤解のないように、きれいさっぱり処理しますので、大船に乗ったつもりでいてください」
信頼を得るために彼の顔を見ながら確信を込めて言った。
「それではよろしくお願いします」
彼は携帯のメッセージを確認すると、急いでE Rに戻っていった。ぼんやりとその後ろ姿を見送ると、私は箱を小脇に抱えて病院のエントランスを出た。箱の中身より、まずは無事に最初の仕事をやり遂げたという安堵のほうが、私にとっては大きな意味を持っていた。
「思い出の箱、回収してきたんだな」
社長は私を見ると、にこりと笑って箱に興味を示した。思い出の箱。なんだか切ない言葉だった。気をつけながら開けてみると、中には彼女が贈った品物がきちんと並べられていた。カードの表に書かれた筆跡は彼女の想いが滲み出ているようでひときわ目を引いた。中の品物には恋人からの愛の痕跡がそのまま残っていた。もしかするとクレジットカードの返済に追われながらプレゼントしていたのではと想像を巡らせた。いまや箱の中身は捨てられた廃品同様に見えた。惨めだった。戻ることのないかつての愛の証を元の持ち主に返し、別れを提案する時間だけが残されていた。
箱の中には別れを告げる相手の名刺も入っていて、〝HTVホームショッピング MD カン・ミフ〟と書かれていた。はじめての対象者の名はカン・ミフ。
午後からはカン・ミフを分析する会議がはじまった。テーブルにファン医師から受け取った箱を置き、何が入っているのかと全員が好奇の目で眺めた。ユミが中身をごそごそかき回しながら取り出した。その目は好奇心いっぱいの子どものようだった。
「パンツもある!」
ユミがすごいものを発見したような声をあげた。
「何これ、使ってたパンツじゃない。タグはとれてるし、そのまま入ってるし……。捨てるなりすればいいのに。ほんとに変わった人」
「残酷に情を断ち切るってことだよね。パンツまで入れてきたところを見ると」
「最近の人たちって深い付き合いを煩わしく思うじゃない。いきなり、あなたは別れようって言われてますよ、なんて告げられたら、どんな気分になるんだろう」
それぞれが思ったことを口にした。社長は最近の男が軟弱になったのは完全に女のせいだと言い、ユミが手にしているパンツをつまみあげた。インディアン・ピンクにブルーのストライプが入った派手なデザインのパンツだった。社長は国立科学捜査隊の一員にでもなったかのようにパンツを仔細に調べていた。
「独特な性的嗜好の持ち主のパンツだな」
社長のひと言に私たちは大笑いした。社長はカン・ミフの写真を穴が開くほど見つめ、犯罪の痕跡を追う捜査官みたいに振る舞った。
カン・ミフは眉間が広く、切れ長の目をしたオリエンタル美人で、首はすらりと長く、薄い上唇をしていた。肩幅が狭く華奢に見えた。社長は目を細めながらカン・ミフの印象を整理した。
「上品な印象ではあるが頑固そうだ。依頼人にしつこくすがるんだろうな。いくら噛んでも噛み切れない牛すじみたいに。こういう性格が男をうんざりさせることもある。鼻の下が短いのは……執着が強い相だよ。これは簡単にはいかなそうだ」
「最近は観相なんて意味ないですよ。整形して顔が変われば観相も変わる世の中なんですから」
ジュウンが助太刀してくれた。
「どれだけ顔をいじったとしても、持って生まれた運命まで整形するのは難しいってことだ」
社長はそうひとりごちた。はじめての対象がゴム並みに粘り強い女性だという言葉に、まだ仕事がはじまってもいないうちから重圧を感じた。箱の隅にバラの花が描かれたカードが挟まっていた。開いてみると「おめでとう! おめでとう!」という騒々しい音声が再生された。バースデーカードにはこう書かれていた。
夏に二人で来た海を、冬にひとりで見てる。砂が相変わらずきれい。砂の数だけあなたを胸に刻みこんだ。三十二回目の誕生日おめでとう。これまでの時間を振り返ってみても、後悔なんて何ひとつない私たちの仲。今この瞬間も、あなたはERでバタバタしながら過ごしてるんだろうな。
──ミフ
バースデーカードの文面にはファン医師への愛の痕跡がそのまま刻みこまれていた。
「こいつ、二股かけてたんだね。三カ月前にも看護師を一方的に捨てるために依頼したって履歴が残ってる」
ユミがファン医師の過去の記録を持ち出した。
「ちょっと、このノート見てください。わあ、すごいな」
ジュウンが今度は青い表紙のノートを差し出してきた。
「何これ?」
「二人が電話で話した内容じゃない。こういう人もいるんだね」
ユミは不思議そうに通話内容が記録されたノートを広げた。
表紙をめくると、『ミフとソグォンの密談』というタイトルが目に飛びこんできた。日常会話がゴマ粒みたいに細かく記されていた。真心のこもった手書き文字に感動したけれど、なんとなく賞味期限の過ぎた缶詰のように見えた。ファン医師は彼女のまっすぐな想いが重たくなったのだろうか。男女の恋愛も、消費されて一箇所に滞ることなく流され、結局は廃棄処分されるものなのだろうか。
社長は相変わらず彼女の写真を鷹の目で見ていた。
「見れば見るほど孤独な猫の相をしてるな。こういう女が男の足を引っぱるようになると怖いんだよ。しつこいだろ。しかも口の形が気に入らない。しぶとくて、執念深そうにも見える。相当な意地っぱりだろうな」
「どうしてわかるんですか? 社長は観相もできるんですか?」
「人間相手の仕事して何年になると思ってるんだよ……。実体を覗くとな、世の中で金になるのは人なんだってことに気づく。わかるのは観相だけだと思ってるだろう? 手相もだぞ」
「どう考えても開業するべきですよ。社長。私の手相見てください」
私は社長の顔に左の手のひらを突き出した。
「おいおい、これじゃあ会議じゃなくて、占いの館じゃないか。出血大サービスしておこうか?」
星回りは盗めない。母はよく口癖のように言っていた。人相は整形手術で変えられても、四柱推命からは決して逃げられないという言葉を思い出した。
「理想的な手相は基本線が切れていないこと。支線が基本線の上下に枝分かれして伸びてるといいんだが、基本線が下向きだと力が弱くなる。カウルさんは感情線が濃いけど、中間でぷっつり切れてるな。きみさ、彼氏いないだろう?」
社長のいきなりのひと言に動揺した。
「どうしてそういう話になるんですか?」
「さてはいないな。でも、がっかりするのはまだ早い。彼氏ができたら、感情線が中指に向かってまた伸びてくるから」
「手相って変わったりするんですか? はじめて聞きました……」
「信じる、信じないはカウルさん次第だが、感情が変化すると気のめぐりも変わってくるくらいだから、手相が変化することもありうるだろ」
「それはないでしょう。手相は生まれつきのもので、変わらないって聞きましたよ」
「左手の手相は生まれつきだけど、右手は後天的な運が作用する。肝に銘じておくように、感情が乾いてると恋愛もできないぞ」
社長はまことしやかに呟いた。
「肝に銘じておきます」
「では、品物の観察もすんだことだし、そろそろ仕事の話をしようか」
「依頼人も、もったいないことしますよねえ。恋人にここまで尽くす女の人、最近はなかなかいないのに。彼女、本気で結婚まで考えてたんじゃないでしょうか。動画が保存されてるUSBもありました」
ユミがUSBを社長に差し出した。USBのリングに貼られた見出しには、『私の彼の一日』と黒いサインペンで書かれていた。
「脚本、演出、編集、全部カン・ミフになってますね。見るに堪えないっていうかイタすぎて、私はこんなこと死んでもできないと思います。すごい!」
ユミが自分なりに分析した結果を遠慮なく語った。
「簡単にはいかないだろうね」
「とりあえずカン・ミフに告知して、ぶつかってみることだな。彼女の性格を把握して、気をつけながらなだめていかないと。依頼人が別れたいと言っている以上、どうしようもないだろう? 男がセックスをする二百三十七の理由から、すでに除外されたんだから」
「社長! 今なんて言ったんですか?」
私は憤慨して言った。
「地下鉄の売店にそういう本があったから言ってみただけだよ。過敏に反応しすぎだって」
社長が高笑いしながら、どうってことないというように言った。
私にとってはじめての依頼人なだけに、なおさら気にかかった。三十歳で社会の落伍者になるのを避けるためには、なんとしても今回の仕事を成功させる必要があった。経験を積めば、社長が言うように最高のお別れマネージャーになれるかもしれない。ただただ肯定的に考えることにした。今や非正規雇用との決別は、カン・ミフにかかっていた。
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