一気読み必至の海洋サバイバル・サスペンス! 『終の航路』試し読み
終の航路
[著]カサンドラ・モンターグ
[翻訳]新井ひろみ
(以下、本文より抜粋)
当時、わが家周辺の水深はおよそ一・五メートル。道路も芝生も、フェンスも郵便受けも水の中だった。ひと月前に大草原のかなたから押し寄せた水がネブラスカをひとのみにし、おかげで太古は内海だったというこの州は、かつての姿を取り戻したというわけだ。地球はもはや、陸地が島状に点在するだけの広大な海と化していた。窓から身を乗り出すと、水に映ったわたしの姿がいびつに伸びて、そのあとばらばらに千切れるのが見えた。
シャツをたたんでいるときだった。突然の叫び声にわたしは目を見開いた。鋭い刃物で切りつけられたような衝撃だった。ロウは五歳だったが状況を理解していたのだと思う。「いや! いや! ママといっしょじゃなきゃ!」
わたしは洗濯物を放り出して窓に駆け寄った。小型のモーターボートがうちの前にとまっていて、ロウを小脇に抱えたジェイコブが、片手で水を掻かきながらそれへ向かっていた。ロウは手足を激しくばたつかせ、ボートに乗せられそうになると父親の顔を肘で押して抵抗した。先に乗っていた男が立ち上がり、船べりから腕を伸ばしてロウを受け取った。ロウは、きつくなったチェックの上着にジーンズという格好だった。首にかけたペンダントを揺らし、水を跳ね上げ、釣り糸にかかった魚みたいにもがいている。
わたしは窓を開けて叫んだ。「ジェイコブ、何してるの!?」
夫はこちらを見ようともしなかった。わたしの姿を認めたロウが、ママ、とひときわ高い声をあげ、自分の体を抱える男を蹴りつけた。
わたしは窓の横の壁を叩きながらもう一度叫んだ。ジェイコブがボートに飛び乗り、男がしっかりとロウを抱え込む。手が震え、じりじりと焼けつくようだった。わたしは夢中で窓を乗り越え水に飛び込んだ。
地面に足が着くと同時に横向きになって衝撃をやわらげた。水面に頭を出すと、ジェイコブが苦々しげに顔を歪めているのが見えた。父親に抱き取られたロウは暴れ、叫び続けている。「ママ! ママ!」
浮かぶ瓦礫やごみをかき分けてわたしは泳いだ。空き缶、新聞紙、猫の死骸。エンジンがかかりボートが方向転換し、盛大な水飛沫がわたしの顔にかかった。ジェイコブに引き戻されながらも、ロウは必死にこちらへ腕を伸ばしてくる。小さな手がむなしく宙を掻く。
泳いでも泳いでもロウは遠ざかっていった。愛らしい顔も、まん丸な口も、風になびく髪も、やがて見えなくなってしまった。それでも悲痛な叫び声だけは、わたしの耳から消えることがなかった。
1
七年後
船の上空をカモメたちが旋回している。見上げたわたしはロウのことを思った。きゃっきゃっと声をあげ、腕をゆらゆらさせて初めての一歩を踏み出したロウ。プラット川にカナダヅルの渡りを見にいったとき、一時間近く身じろぎもせずにいたロウ。あの子自身、どこか鳥に似ていたように思う。ほっそりした体つきも、穏やかだけれど鋭いまなざしも、まるで飛び立つときを計って水平線を眺めやる鳥のようではなかったか。
わたしたちが昨夜錨を下ろしたのは小さな入り江の沖合だった。かつてはブリティッシュ・コロンビアと呼ばれていたあたりだが、現在は二つの山の頂が岩がちな海岸線となって入り海を形づくっている。海という昔ながらの呼称がまだ使われているものの、地球全体が今や海なのであって、ところどころに天から降ってきたように陸があるだけだ。
水平線のあたりが明るくなってくると、寝具をしまうためにパールがデッキカバーの下に潜り込んだ。七年前、パールはそこで生まれた。陣痛と呼応するように稲妻が光る、大嵐のさなかに。
カニ獲とり籠に餌を入れたところへパールが現れた。片手に頭のないヘビを、もう片方の手にはナイフを持っている。手首に巻いているのはブレスレットならぬ、数匹のヘビたちだ。
「このまま何も獲れないと、今夜はそれを食べることになりそうね」わたしは言った。
パールはわたしを睨んだ。ロウはわたしと同じ黒っぽい髪にグレーの瞳だったが、パールは違う。鳶色の癖毛も鼻のそばかすも父親譲りだ。立ち姿までそっくりだと思うこともある。足を踏ん張り顎をわずかに持ち上げて、くしゃくしゃの頭をもたげる。両腕を引き気味にして胸を張る。何も恐れず何も憂えず、世界と対峙するかのような立ち姿だ。
あれから六年間、わたしはロウとジェイコブを捜し続けた。二人がいなくなったあと、祖父が完成させたバード号に乗り込み、わたしと祖父も家を出た。ほどなくパールが誕生したが、祖父がいなければ、わたしたち親子が生き延びることはできなかっただろう。わたしが授乳するあいだ、魚を獲るのも、行き合った人々から情報を集めるのも、祖父一人が担ってくれたのだ。そして祖父はわたしに船の扱い方を教えてもくれた。
先祖伝来の工法で母親がカヤックをつくるのを、祖父は子どもの頃から見ていたのだという。木材をあばら骨の形に組む方法や、母体が胎児を孕むように安全に、その乗り物で人々を運ぶ方法を。漁師を父に持つ祖父はアラスカの海辺で生まれ育った。百年洪水に伴って人々は内陸へ内陸へと移り住むようになったが、祖父もそのうちの一人だった。やがてネブラスカに腰を落ち着けた祖父はしばらく大工をしていたが、ずっと海を懐かしがっていた。
ジェイコブとロウを捜すことにかけて、祖父はわたしよりも熱心だった。港に寄れば、手がかりを求めて停泊中の船をくまなく調べ、酒場や交易所では二人の写真を見せてまわった。海の上でも、船と行き合うたびに人に尋ねた。
けれど祖父は、パールがまだ乳飲み子のうちに死んでしまった。とてつもなく重い荷を背負うことになったわたしは、とにかく必死だった。古いスカーフを使ってパールを胸にくくりつけ、祖父がしていたとおりに行動した。港の船をチェックし、人々に写真を見せてまわった。でもそれがあったおかげで、ただ日々を生きること、一匹でも多くの魚を釣り上げることだけに汲々とせずにすんだ。今の暮らしはかりそめなのだと、希望を持っていられた。
今から一年前、わたしたちはロッキー山脈の北側に位置する小さな集落に立ち寄った。建物は崩れ、道にはごみが散乱していた。ずいぶんにぎやかな村で、大勢が行き交うメインストリートには屋台や露店がひしめき、洪水以前に麓から運び上げられた雑多な品物が並んでいた。牛乳パックに入ったガソリンや灯油、溶かして別のものにつくりかえるためのジュエリー、手押し車、缶詰、釣り竿、衣類など。
そうかと思えば、洪水後につくられたり見つかったりしたものを売る店もあった。苗木、種、土でこしらえた器、蝋燭、木桶、地酒、手作りのナイフ。薬草類には〈シロヤナギでみるみる解熱!〉〈火傷やけどにはアロエベラが効く!〉などと派手派手しい宣伝文句が添えられている。
そうとうひどい状態の売り物もあった。商売人は人を雇って水に潜らせ、沈んだ家々に残っているものを漁ってこさせるのだ。錆びたねじ回しだの、黴で重くなった染みだらけの枕だのを。
通りを挟んだ向かい側の露店には、期限の切れた薬の小瓶と箱入りの弾薬ばかりが並んでおり、マシンガンを携えた女性が店番をしている。
お金を持っていないわたしは交易所を目指した。魚の入った布袋を肩にかけ、ストラップをしっかりつかんで、もう一方の手はパールの手を握っている。パールの赤い髪はぱさぱさに乾いてところどころ抜けはじめていた。肌が荒れて茶色味を帯びているのは日焼けのためではなく、壊血病の初期症状だ。パールのために果物を、自分のためには漁具を、手に入れる必要があった。
交易所のカウンターに魚を並べたわたしは店主相手に交渉を始めた。でっぷり太った黒髪のその人には下の歯が一本もなかった。せめぎ合いのすえ、魚七匹が、オレンジ一個と糸とハリスと平パンに替わった。それらを布袋にしまうと、わたしはロウの写真を出し、この子を見かけなかったかと店主に尋ねた。
写真を覗き込んだ彼女は、少ししてから、ゆるゆると首を横に振った。
「本当に?」見かけたことがあるから、すぐに否定しなかったのではないか。
「見たことないね」彼女は訛りの強い答えを返すと、魚を包みはじめた。
わたしたちは港へ向かった。船をあたってみるつもりだった。これだけ人が多いのだから、ロウがいる可能性はある。あの店主がたまたま見かけなかっただけかもしれない。「新鮮なレモンはいかが! 卵もあるよ! ベニヤ板は半額だよ!」メインストリートの両側から、呼び込みの声がひっきりなしにかかる。
前方を、青いワンピースを着た髪の長い少女が歩いていた。
わたしは足を止めて目を見張った。あれはロウの服だ。ペーズリー柄、裾のフリル、ベルスリーブ。間違いない。世界が平面になり、空気が薄くなった気がした。パンはいらないかいと真横で言われたが、その声が遠く聞こえた。少女の後ろ姿を凝視しながら、わき上がる喜びで目眩がしそうだった。
わたしは駆け出した。果物のカートをひっくり返し、パールの手を引っ張って、夢中で走った。海の青が急に輝いて見えはじめた。
少女の肩をつかんで振り向かせた。「ロウ!」あの顔が見られる、娘をこの腕に抱ける、そう思い込んでいた。
こちらを見つめ返しているのは、別の顔だった。
「やめて」少女は身をよじった。
「ごめんなさい」わたしは後ずさりした。
早足で去っていきながら、少女は何度か薄気味悪そうにこちらを振り返った。
行き交う人々と舞い上がる埃のただ中で、わたしは立ち尽くした。パールがわたしの腰に顔をつけるようにして咳をした。
人違いだったわね、と自分自身に言い聞かせるように呟やいて、この新たな現実に納得しようとした。わき上がる絶望を懸命に抑え込んだ。大丈夫、きっと見つかる。大丈夫、きっと見つかる。唱えるように心の中で繰り返した。
突然、体当たりされた。と思った次の瞬間には肩から布袋が消えていた。パールが地面にひっくり返り、よろけたわたしは露店の古タイヤに体をぶつけた。
「泥棒!」わたしは叫んだが、女の逃げ足は速かった。ボルトと布を売る屋台の裏へ消えた相手を、わたしは追いかけた。ひよこが詰まった箱を飛び越え、杖をついた老人をかすめて走った。
ときおり立ち止まっては、その場でぐるりと回って視線を巡らせた。人々は何ごともなかったかのようにわたしの脇を通り抜けていく。人いきれと喧噪で気分が悪くなってきたが、それでも捜した。捜し続けた。陽が傾いて路上の影が長く伸び、ついに力尽きて気がつくと、そこはスタート地点のそばだった。少し先に、タイヤの店のかたわらにたたずむパールがいた。
こちらにはまだ気づいていない。不安をたたえた目で人混みを見つめ、口元を震わせている。転んだときに怪我でもしたのか、片方の腕を抱えるようにしている。ずっとわたしを待っていたのだ。捨てられた子のように立ち尽くして、母親の帰りを待っていたのだ。あの袋の中のたった一つのオレンジは、今日の最大の収穫だった。きちんとパールを育てていることの証として、わたしのよすがとなるはずのものだった。
打ちのめされた気がした。わたしがもっと注意していれば。上の空でなければ。あれほどあっけなく布袋を剥ぎ取られたりはしなかっただろう。わたしは用心深い人間だったはずなのに。ロウを見つけるという気持ちは、もはや希望というより執念になってしまっていたのだ。
ようやく思い至った。あの青いワンピースがどうしてあれほど強くわたしの心をとらえたのか。そう、確かにロウはあれと同じ服を持っていた。けれどジェイコブが持ち出さなかったのは確かだ。なぜならロウがいなくなったあと、わたしは箪笥からあの服を出して、しばらくは夜になるとそこに顔をうずめて眠っていたのだから。あとに残されていたからこそ、強く記憶に刻まれていたのだ。あれをロウがどこかで着ているわけはない。そもそも成長したロウにあのワンピースが入るわけはない。それは頭では理解できるが、わたしの中でロウはあの頃のままなのだ。大きな目をして高い声で笑う五歳児だ。今、道で行き合ったとして、わたしは一目でわが子だとわかるだろうか?
つらすぎる。初めてそう思った。港に着くたび、手がかりを探し求め、がっかりする。毎度毎度それを繰り返し、消耗する。パールと二人、この世界で生き延びていくためには、自分たちのことに集中しなければだめだ。ほかのこと、ほかの人間のことは、忘れなければ。
だからわたしは、あの日限りでロウとジェイコブを捜すのをやめたのだった。どうして捜さないのとパールに訊かれれば、その都度正直に答えてきた。捜しても見つからないからよ、と。わたしは不思議でならなかった。二人ともきっと生きているはずなのに、なぜ何の手がかりも得られないのか。水に囲まれた小さな集落しか残されていない狭い世界なのに。
今、わたしたち親子は目的もなく水上を漂っている。川が海に流れ込むように、変化のない日々がただ続いてゆくばかりだ。毎晩わたしは耳を澄ましてパールの寝息を聞く。娘の生の証を確かめる。パールはわたしにとっての錨だが、レイダー船に襲われはしないか、魚が一匹も獲れず飢え死にしはしないかと、不安は尽きない。悪夢にうなされては無意識のうちにパールに向かって手を伸ばし、二人して目を覚ますことの繰り返しだ。心配の種がいくつも連なる列のわずかな隙間に、ぽつりぽつりと希望が垣間見みえる、そんな日々だった。
カニ獲り籠の蓋を閉めて船べりから落とし、二十メートルの深さまで沈めた。陸に目をやると、なんとなく心がざわついた。不安という名の小さなシャボン玉が、胸にわき上がってくるような。浜の湿地帯は黒っぽい草と低木に覆われ、その先の山には木々が生い茂っている。多くはポプラ、ヤナギ、カエデの若木だ。森林限界の高度は昔に比べてずいぶん上がった。小さな入り江には、交易船が停泊することもあればレイダー船が待ち伏せしていることもある。本当ならもっとじっくり周辺を偵察してから上陸するべきなのだが、早急に水を調達しないと、残りはあと一日分もない。
わたしの視線を追ってパールも海岸を見やった。
「あの人たちがいた海岸に似てるね」
わたしにはこたえる一言だった。
数日前、レイダーが小舟を襲うところを遠目に目撃して以来、パールは口を開けばその話をする。あのときわたしたちは速やかに遠ざかった。風を受けて彼らの視界から消えながら、心はずっしりと重たかった。パールは、小舟を助けようとしなかった自分たちが、いけないことをしたみたいに感じているのだ。わが身の安全を守るのが第一だと言って聞かせながら、わたしは実は恐れていた。わたしの心は、周囲の水位が上がるにつれて――陸が水に浸食されるように――自分でも気づかないうちに小さく狭くなってきているのではないかと。
「レイダーに太刀打ちできると思う?」わたしは言った。「あの小舟の人たちもわたしたちも、みんな死んでしまうのが落ちよ」
「ためしてもみないのは弱虫だよ。母さんは魚のことしか考えてないんだね」
わたしはかぶりを振った。「あなたが思ってるほど母さんは弱虫じゃないし、いろんなことも考えてるわ」頭が変になりそうなぐらいよ、と喉元まで出かかった。ロウの行方がわからないままなのは、むしろ幸いなのかもしれない。もしわかれば、娘を取り戻すためにとんでもない無茶をしてしまうような気がする。
パールが黙っているので、わたしはさらに言った。「今はみんな、自分たちが生きていくだけで手一杯なの」
「母さんなんてきらい」パールはこちらに背中を向けて甲板に座った。
「きらいでけっこう」わたしはぎゅっと目を閉じて眉間を指で揉もんだ。
わたしが隣に座っても、パールはそっぽを向いたままだ。
「昨夜もあの怖い夢、見た?」穏やかな口調を心がけたつもりだったが、まだ少しつっけんどんだったかもしれない。
ヘビの尾のほうから、頭を取ったあとの穴へ向けて血をしごき出しながら、パールはこくりとうなずいた。
「正夢なんかじゃないわよ。あなたはずっと母さんと一緒。何があっても」顔にかかった髪をそっと払ってやると、パールの口元に笑みらしきものが浮かんだ。
わたしは立ち上がり、貯水タンクの中を覗いた。ほとんど空だった。これだけ水に囲まれていながら、飲める水がない。頭が痛いのも目がかすむのも、脱水症状によるものだ。総じて湿度は高く、いつもは一日おきに雨が降るほどなのに、ここしばらく降らない日が続いている。こうなったら陸で沢を探し、その水を煮沸して使うしかない。わたしは残っていた水を革水筒に入れ、パールに手渡した。
その重さを手で確かめるようにしてパールは言った。「さいごのお水でしょ?」
「母さんはさっき飲んだから」
パールはこちらをじっと見た。どんな嘘も見抜く目だ。この子に隠し事はできないのだった。自分自身に嘘はつけても。
ベルトにナイフをくくりつけ、貝を入れるためのバケツをそれぞれ持って、二人で岸まで泳いだ。浜は水浸しで貝など採れそうになかったが、ぬかるみに足を取られながら南へしばらく歩くと、日当たりのいい比較的乾いた場所が見つかった。土のところどころに小さな穴が開いている。わたしたちは流木を拾って掘りはじめたが、しばらくするとパールは木を放り出した。
「やーめた。全然いないんだもん」と、口を尖とがらせる。
「しょうがないわね」わたしも疲れて手足が重かった。「じゃあ、山の上のほうを見てきて。湧き水があるかもしれないから。ヤナギの木を探すのよ」
「わかってる」パールはくるりと背を向けて駆け出した。斜面を登る本人は急いでいるつもりらしいが、動作はどこかぎこちない。海の上での習慣が抜けず、着地する足に力が入りすぎて体が左右に揺れるのだ。
わたしは掘り続けた。自分のまわりに泥の小山がいくつもできた頃、ようやく貝殻に当たった手応えがあり、その一個をバケツに投げ込んだ。ふと、人の声がしたように思った。風と波の音に混じって、山の上のほうから聞こえてくる。背筋に緊張が走り、体を起こして耳を澄ませた。しかし何も聞こえず、何も起きなかった。いつもこうだ。陸へ上がると、実際にはないものが見えたり聞こえたりする。ラジオもテレビもないのに曲が流れていたり、死んだ祖父がたたずんでいたり。まさか、土を踏みしめれば過去へ帰れるわけでもないだろうに。
ふたたびうずくまって両手をぬかるみに差し入れた。二個目をバケツに入れるとカチンと音がした。さらにもうひとつ、掘り出そうとしたときだった。小さな、けれど鋭い叫び声が確かにあがった。わたしはぎくりとし、視線を巡らせてパールの姿を捜した。
2
斜面を見上げ、わたしは息をのんだ。崖の岩肌を背にして、パールが男に捕まっている。男はこちら向きのパールを自分の前に引き寄せ、首にナイフを当てていた。痩せてはいるが、鍛えられた体つきだ。パールは目を伏せてじっとしている。両脇にまっすぐ垂らした手は、足首のナイフまでは届かない。
男の表情は狂気を感じさせた。わたしは激しい心臓の鼓動を耳の奥に感じながらゆっくりと立ち上がった。
「こっちへ来い」男が大声を出した。子音が耳につく訛りは初めて聞くものだった。
「わかったわ」抵抗するつもりはないことを示すために両手を挙げて、わたしは歩き出した。
そばまで行くと男が言った。「下手なことしたら、こいつの命はないぞ」
わたしはうなずいた。
「船までついてこい。ナイフを捨ててからだ」
わき上がる恐怖をこらえてわたしはナイフをベルトからはずし、男の足元へ放った。それを自分の腰に差して、男はにやりと笑った。歯があるべき場所には穴が空いているだけだった。肌は赤銅色で、砂色の髪はまばらだ。片方の肩にトラのタトゥーが入っている。レイダーが入れるタトゥーは集団ごとに決まっていて、多くは動物だが、トラを使っているのはどこだったか。
「心配するな。おとなしくしていれば命までは取らない。船は山の向こうだ」
パールを連れた男のあとについて、曲がりくねった道を進んだ。硬い草に足首をこすられ、大きな石に何度かつまずいた。ナイフこそ下ろされたものの、男がパールを拘束していることに変わりはなかった。飛び出していって奪い返したかったが、男から引き離す前にまたナイフを突きつけられる恐れがあった。さまざまな考えが頭をよぎる。男の狙いは何なのか。船には大勢の仲間が乗っているのか。
男は、北方にあるという自分たちのコロニーについて声高にしゃべりはじめた。うるさくて考え事ができない。男の小脇で水筒が揺れ、中身がバシャバシャと音をたてている。わたしは恐れをしのぐほどの喉の渇きを覚え、思わず手を伸ばしてそのキャップを回したくなった。
「一日も早く新しい国をつくらなきゃならない。われわれに必要なのは……」男は空中から言葉をもぎ取ろうとするかのように手を前へ伸ばした。「秩序だ」うなずく男は上機嫌だ。「大昔から、国ってのはそうやってつくられてきた。秩序がなきゃ、人類はいずれ滅びる」
国家建設を目論む集団はほかにもたくさん存在する。彼らは陸から陸へ航海をし、各地の島や港に軍事基地を設け、地元住民を襲撃して自分たちの居住区コロニーにする。もともとは海上で略奪を行う海賊だったのが、陸に上がり土地そのものを奪うようになったケースがほとんどだ。
男が振り返ったので、わたしはさも感心したように目を丸くしてうなずいた。わたしたちの船は岸から八百メートルほどのところにある。今、歩いているのは崖沿いの山道だ。パールを抱きかかえて海へ飛び込み、船まで泳ぐことも考えたが、あの距離を泳ぐには波が高すぎる。まっすぐ海へ飛び込める保証はない上に、水中が岩だらけでないともかぎらない。
男の話は繁殖船のことに移っていた。レイダーは集団の人口を増やすため、女たちに子どもを産ませる。女児はコロニーで軟禁生活を強いられ、初潮を迎えると同時に繁殖船に移されるのだ。
漁をしているときに何度か繁殖船を見かけたことがあった。白地に赤い円の描かれた旗がその印だ。旗を掲げるのはほかの船を近づけないためでもある。病が瞬く間に広がる陸よりも、船のほうが子が安全に育つと考えられているのだ。ただし、ひとたび船上で伝染病が発生すればひとたまりもない。人は死に絶え、船は幽霊船となってさまよい、最後には山に衝突して砕け、海の底に消えていく。
「あんたが何を考えてるかはわかってる」男はしゃべり続ける。「だがな、ロスト・アボットは――われわれは――正しいことをしてるんだ。人がいなきゃ国はつくれない。税が必要だから取り立てなきゃならない。そうすることによって秩序ある世界ができ上がっていくのさ。この子はあんたの娘かい?」
わたしはぎくりとして、それから首を横に振った。「去年だったか一昨年だったか、浜で拾ったのよ」親子でないのなら、躍起になって引き離す必要はないと考えてくれるかもしれなかった。
男はうなずいた。「そうか、そうか。この手の子どもは役に立つんだ」
進むにつれて風向きが変わり、船で作業しているらしい男の仲間たちの声が入り江のほうから聞こえてきた。
「そういや、あんたによく似た子が北のコロニーにいたな」
わたしは上の空だった。飛びかかればこいつの右腕に届く。それを背中へ捻り上げて、腰のナイフを取り返すというのはどうだろう。
男が手を伸ばしてパールの髪に触れた。わたしは、はっとした。男は金のチェーンを手首に巻いていた。チェーンには、ツルが彫られたスネークウッドのチャームがついている。ロウのペンダントだ。家族でツルを見にいった夏に、祖父がロウのためにつくってくれたのだ。ツルの両目のあいだとくちばしだけが、ぽつんと赤い。
わたしは歩みを止めた。「いいわね、それ」耳の奥で心臓が脈打ち、体がハチドリの羽のように小刻みに震えた。
男は自分の手元に目をやった。「さっき言ってた子が持ってたのさ。あんたに似てる子。一時はだめかと思ったが……」男はナイフを持った手で入り江のほうを示した。「おっと。ぐずぐずしてたら日が暮れちまう」
わたしは男に飛びかかった。右脚を払い、ひっくり返った相手の胸に思いきり肘打ちを食らわせた。一瞬、息が止まったはずだ。腕を踏みつけてナイフを奪い、胸元に突きつける。
「その子はどこにいる?」かすれた声しか出なかった。囁きと言っていいかもしれない。
「母さん――」
「あなたはあっちを向いてなさい。さあ、どこなの?」ナイフの切っ先が皮膚にめり込む。
「谷(ヴァレー)だ」男は荒い息をして、すがるような視線を入り江へ投げた。「ヴァレーにいる」
「父親は?」
男は訝しげに眉根を寄せた。「父親なんかいなかった。死に別れたんだろ」
「いつなの? その子を見たのは、いつ?」
男はきつく目を瞑つぶった。「いつって。ひと月ぐらい前か? あのあとまっすぐこっちへ向かったからな」
「その子、まだそこにいるの?」
「おれたちが発たつときには、いた。まだ繁殖船には――」男は顔をしかめて喘いだ。
「あんた、その子に何かした?」
この期に及んで男は下卑た笑いを浮かべた。「たいして抵抗しなかったな」
胸に突きつけたナイフを、わたしは躊躇なく沈めた。柄が男の肌に当たるまで深く沈めて、それから静かに抜き取った。魚をさばくときと同じように。
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【著者紹介】
カサンドラ・モンターグ KASSSADRA MONTAG
Photo Credits: Nancy Kohler
米国ネブラスカ州の緑豊かな環境で本に囲まれて育った。大学で文学を専攻した後、地元の新聞に寄稿しながら詩や掌編の創作に励んだ。初めての長編となる今作が大手エージェントの目に留まり、刊行前から17カ国語での翻訳が決定した。