1946年1月号「ザ・ジャズレコード」誌に載った、ジョージルイス本人の書いた一文
2023年8月12日、
早稲田大学ニューオルリンズジャズクラブの創設者で、大阪で62年続く伝説のバンド、ニューオリンズラスカルズのリーダーであった
クラリネットの河合良一さんが逝去されました。
とても寂しいです。
私が大学生の時、ニューオリンズ・リバイバルという、自分の生きる時代とは違う素晴らしい音楽に出会えたのも、
数多くの日本の先輩方のおかげであり、
そのほぼ全ての先輩方にニューオリンズのエッセンスを吹き込むきっかけを作った方こそ、日本におけるニューオリンズジャズの第一人者の一人、河合良一さんでした。
河合さんが生涯愛した、ジョージルイスというニューオリンズのクラリネット奏者の記事を、追悼の意も込めて、ここに再掲したいと思います。
ニューオリンズ・リバイバルと呼ばれる音楽は、
名もなき黒人のおじいさん達が、戦後たまたまやっていた音楽などではなく、
一人一人に(ニューオリンズという)土地と結びついた人生のドラマがあり、
河合さんは常にそれらをリスペクトされていました。ジョージルイスの言葉から、その時代に生きたミュージシャンの様子が垣間見えるようです。
(前書き)
ジョージ ルイス・・・・1900年7月13日ニューオーリーンズに生まれる。
玩具の横笛(fife)からクラリネットにいたるまでまったくの独学であり、今でも楽譜を学ぶ必要性を感じていない。
今回ついに生まれ故郷以外の場所で演奏し、又レコーディングもした。
史上最も素晴らしいクラリネット奏者の一人と目され、偉大なジョニー・ドッズの伝統を受け継いで今も演奏している唯一の人。
ジョージ・ルイスはバンク・ジョンソンのレコードすべて、J I Jazzmannのレコード、そして一番最近では
ビル・ラッセルがスポンサーになったアメリカン ミュージック(American Music)のレコードで演奏している。
彼自身の名前で録音された唯一のレコードはクライマックス(Climax)レコードのジョージ・ルイスと彼のニューオルリーンズストンパースである。
(参照:クライマックスレコードのジョージアヴァキアンのレビュー)-1944年2月刊ジャズレコード誌
1946年1月「9番を演奏だ」
幼いころから私は音楽が大好きでした。
母は私をバイオリン弾きにしようと決めていました。
でも私はクラリネットの方が好きでした。
私たち家族はダンスホール”ホープのホール”の裏に住んでいましたが、
このダンスホールでは毎晩多くの人が踊り、
当時はそのダンスのことをボールと呼んでいました。
月曜日の午後はいわゆるバンケット(宴会)が催され、
昼から夕方6時まではバンド演奏があり、子供たちも招待されました。
当時、私は素晴らしいクラリネット奏者の演奏をよく聴いたものです。
アルフォンヌ・ピクー、ジョージ・バケット、チャールス・マッカーティス、ロレンゾ・ティオ等。
シドニー・ベシェは我が家によく来ました。彼らは家族ぐるみの付き合いでした。
私がまだ小さいときシドニーは我が家によく来て泊り、私に母の面倒をよく見るようにと言いました。
私が七歳の時、母は私に25セントをくれ、店に行っておもちゃのバイオリンを買っておいでと言いました。
店に行ってみるとバイオリンは全部売り切れていたので、私はfife(横笛)を買いました。
横笛が吹けるようになるまで一生懸命練習しました。
私は生まれてこの方音楽のレッスンを受けたことが一度もありません。だから今でも楽譜は読めません。
16歳の時、私はホンモノのクラリネットを手に入れました。自分で稼いだ4ドルで買ったものです。
そのころ我が家はマンデヴィル(Mandeville)へ引越し、
(注:ニューオリンズ市街からポンチャートレイン湖をはさんで車で1時間弱の、北の町。)
夏は通して叔母のところで過ごしました。そこで私はクラリネットの吹き方を勉強し、1年もするとバンドに参加しました。
バンドはブラックイーグルバンド(Black Eagle Band)と呼ばれ、5人編成でダンスの演奏をしました。
私はここで2年間演奏しました。
その後また別のバンドに参加しました。トランペットのレオナルド・パーカー(Leonard Parker)、トロンボーンのダン・ムーディ(Dan Moody)などと一緒でした。
これは1年続き、それからバディ・プティ バンドに加わりました。
これはブラックアンドタン バンド(Black and Tan Band)と呼ばれていました。
バディ(Buddie Petite)はリーダーで、トランペットを吹きました。
トロンボーンのアンブローズ(Ambrose)、バンジョーのバディ・マンディ(Buddy Mandy)、ドラムのエディ・ウッズ(Eddie Woods)、ベースのチェスター・ザルディス(Chester Zardis)が仲間でした。
そのバンドが解散になり、バディと私はニューオーリーンズに戻りました。
そこで2人はアール・ハンフリーバンド(Earl Humphrey band)に加わりました。2年にわたりこれらの2つのバンドで私はバディと一緒でした。
バディはニューオリンズが生んだ最高のトランペットプレイヤーの一人だと私は思います。
彼の音楽はレコーディングされていませんが、音はルイ・アームストロングにかなりよく似ています。
音域(range)のことではなく音色(tone)がたいへんよく似ています。
バディはハイノートではありませんが中音、低音域の面ですばらしい奏者でした。
バディが死んで15年になります。彼は45歳で亡くなりました。
顔はダークブラウンで目はおかしな灰色でした。
しゃべるとき、もつれた発音(lisp)が入り、それに彼はすごい呑み助でした。
しかし一緒に働くには素晴らしい仲間で、我々二人はいつも仲のいい友達でした。
バディがバンド演奏をすると、それ以外のバンドは営業停止状態になりました。
望めばニューオーリーンズの仕事を全部かっさらうことだってできたでしょう。
ある夏のポンチャントレーン湖で起きたことは忘れられない思い出です。
その時私とバディはそれぞれ別のバンドに所属していました。
馬が引く大きなトラックに乗って仕事やパレードをしていたのですが、2台のトラックが出合った時は、
カッティングコンテスト(食うか食われるかの音の腕比べ)になりました。
ある日我々は酔っぱらっているバディに出くわし、彼のバンドをコテンパンにやっつけました。
次の土曜日我々はまた出かけていき、
バディが座ってションボリ頭を下げ手をぶらぶらさせているのが見えました。
そこで彼のバンドをまた追いかけてやろうということになりました。
その時実は誰かがこっそり忍んできて、我々のトラックの車輪をバディのトラックの車輪に鎖でつないだのです。
結果、我々は身動きができなくなりました。
するとバディがぱっと立ち上がりました。その土曜日は我々のバンドがコテンパンにやられてしまいました。
私が思うに、バディはルイ・アームストロングより素晴らしい奏法と美しい音調を持っています。
ルイを除くとニューオーリンズではバディ以上に知られて好かれていたトランぺッターはいなかったと思います。
彼はいつも頼りになる人でもあり、
どんなバンドでもどんなミュージシャンでも受け止めて、いつも大衆をひきつけました。
1916年から1922年にかけて、私はその湖の周りの様々なバンドで演奏しました。
バケー(Bacquet)、シドニー・ベシェ(Sidney Bechet)などを含めその他いろいろの人たちがいました。
あるバンドにはトロンボーンのアール・ハンフリー(Earl Humphrey)、トランペットのバディ、
ドラムのロイ・エヴァンス(Roy Evans)、ベースのアレックス・スコット(Alex Scott)などがいました。
バンジョーは背の低い身障者で、みんなに”小さいお父さん”(Little Dad)と呼ばれていました。
誰でもリーダーになればお金の一切を取り仕切りました。供託された罰金なども含めて。
時にはお金をどうやって分けるかで問題が起こることもありました。
お金のトラブルに巻き込まれたバディに代わってアール・ハンフリーがバンドを引き継いだこともありました。
アール・ハンフリーのもとを去ったあと、私は自分自身のバンドを結成しました。
バンドにはレッド・アレン(Red Allen)、トロンボーンのアーネスト・ケリー(Ernest Kelly)、
ベースのアーサー・ミッチェル(Arthur Mitchell)、ドラムのアルバート・モートン(Albert Morton)、
バンジョーの小さいお父さん(Little Dad)などがいました。我々は園遊会やダンス、
日曜のパレードなどで演奏をして生活費を稼ぎました。このバンドは1年続きました。
その後私はクリス・ケリー(Chris Kerry)バンドに入りました。
ケリーは牧師だったと思います。
それで彼はどの曲も宗教的なスタイルで演奏しました。
彼がプランジャーミュート(ゴム製)を使った最初の人で、シルバーミュートも同じように使いました。
私はケリーがそうやって”Careless Love”を演奏したのを覚えています。
それより以前、キング・オリバー(Joe King Oliver)の演奏を聞いたことがありますが、
その当時オリバーはミュートをそんなに使わずダービーハットを使っていました。
クリス・ケリーはブルースの奏者として最高の一人でした。
この楽団には、トランペットのクリス(Chris)、アルトサックスのマニュエル・マネッタ(Manuel Manetta)、
バンジョーのバトラー・ラップ(Butler Rapp)、ヤンク・アーサー・ジョンソン(Yank Arthur Johnson)、
彼の弟のトロンボーンのバディ(Buddy)などがいました。彼らはバンク・ジョンソン(Bunk Johnson)のいとこです。
ロイ・エヴァンス(Roy Evans)はドラム、
ベースプレイヤーは内股の奴で、我々は彼をダック・アーネスト(Duck Ernest)と呼びました。
私はこのバンドにはけっこう長い間いました。
それからキッド・レナ(Kid Rena trp.)のバンドに移り彼と長い間一緒にやりました。
長いことだったので、ジプシースミス音楽堂のタキシードバンドからにこのシルバーカップを勝ち取っています、
タキシードバンドには、トランペットのオスカー・セレスティン(Celestin)、トロンボーンのベイビー・リジリー(Baby Ridgely)、
ドラムのアビー・フォスター(Abbie Foster)、アルトサックスのポール・バーンズ(Paul Barnes)、
サキソフォンの一人にシドニー・カリエール(Sidney Carriere)がいました。
我々の楽団は、毎火曜日にブルのクラブ(Bull's Club)で、毎土日にエコノミーホールで演奏しました。
平日は他の場所で演奏です。1928年までこの楽団にいました。
この年、足を骨折してしばらく仕事から遠ざかりました。
その後ドラマーのアーノルド・デュパが率いるオリンピアバンドに参加しました。
トランペットはタルボット(Talbot)、ベースはトーマス・コープランド(Thomas Copeland)、
ピアノはヴァーネル(Vernell)の弟のブラッキー・サンチャゴ(Blackie Santiago)で、彼はブギスタイルで演奏しました。
もう一人のピアノはヴァーネルの甥ウイリー・サンチャゴ(Willie Santiago)です。
このバンドと別れた後、私は職に就いたり離れたりしました。あちらのバンド、こちらのバンドとうろうろしました。
ジム・ロビンソンやサム・モーガンと行動を共にしたのですが、誰かが休んでいるとき代わりに演奏して、
一緒に同時出演することはあまりありませんでした。
私はパンチ・ミラーと演奏しましたが、パンチ・ミラー楽団のメンバーには決してなりませんでした。
パンチ・ミラー楽団にはクラリネットのジョージ・ボイド、トロンボーンのエド・モーリス、バンジョーのウォルター・プレストン、
ベースのジョー・ガブリエルとドラムのHappyがいました。私は時々クラリネットのジョージ・ボイドの代わりを務めました。
パンチは力の強い精力的な男でブルースを得意として、
ダービーハットを使ってよく吹いたものです。
さて、皆さんにはパレードと葬式についてお話ししたいと思っていました。
葬儀パレードに初めて演奏参加したのはニューオリンズで1923年頃のことです。
最初は3月19日の「聖ジョセフの日」で、オリジナル・ユーレカ楽団と一緒でした。
タキシードバンドとも一緒にやりました。私はダンス音楽より、こちらの葬儀パレードの演奏のほうが好きでした。
その気になれば、ずっとクラリネットを吹いていられました。
この類の音楽はそれまで演奏したことがなかったのですが、
アイディア(楽想)は全部わかり、
難しいとは思いませんでした。
プティ(Petit)のように助けてくれる人がそばにいましたし、いつもリズムを刻んでくれるベースドラムもいましたから。
一般的に葬儀パレードは、ソサエティやクラブの発注でした。
メンバー全員、どこに集合するか知らされ、クラブを出発し行進をしながら亡くなった方のお宅まで行き、
お好みのものを何でもラグタイムでもマーチでも演奏しました。
そして家から1ブロック離れたところで、ドラムは消音にして、神聖な曲たとえば「聖者の行進」などをラグかマーチのテンポで演奏しました。
遺体が家の外に運び出されるときはベースドラムを非常にゆっくり3回たたき、
スネアドラムがだんだん小さくなっていきました。
よく演奏したものの中には「荒れ果てた十字架」(注:Old Rugged Cross)や「鳥のように自由に」(Flee as a bird to the mountain)などがありました。
遺体が埋葬される最後の曲はいつも「ティル ウィ ミート アゲイン」(God Be With You Till We Meet Again)でした。
葬儀の後は、ドラムの消音を取り外し、かぶせてあった国旗を取り除け、
いつもの普通のパレードとなり、楽団とクラブのメンバーはホールまで、
来る時とは異なる別の道路をパレードして戻りました。
そうやって誰もがパレードを見ることができたのです。
あの当時のニューオーリーンズにはさまざまな種類のクラブ、
慈善団体、共済組合などがありました。
保険ではなかったのですが、病気になれば薬がもらえ、死ねば埋葬もしてもらえるというある種の安心感がありました。
たとえ貧乏でも、あるいは葬式をやってくれる家族がいなくても、
クラブが全部取り仕切ってやってくれました。
葬儀の前日にはクラブ会員全員に通知がいき、もし葬儀に出席しなければ罰金を科せられました。
遺体が埋葬されるまで墓地から立ち去ることは許されません。
クラブの役員が回ってきてメンバーカードを見てだれが出席しているかちゃんと確認しました。
普通は一台の大きなリムジンが先導して後ろにクラブ会員がついて行進しました。
もしミュージシャンが死んだ場合はその人のために楽団全部が一緒になって一つのバンドを編成しました。
クリス・ケリー(Chris Kelly)が死んだときは9楽団が行列しました。
トランペットとドラムだけの編成のこともあり、
またフルバンド編成のこともありました。
一つのバンドが終われば次のバンドがスタートするといった具合でした。
クリスは多分ニューオリンズで白人と黒人の両方から最も愛されたミュージシャンだったでしょう。
群衆がとても多かったので、
逮捕される人も多数でした。
逮捕された人々はそれが葬儀であることをすっかり忘れていたのです。
お通夜には様々なバーからワインが届けられ、三日三晩続きました。クリスは退役軍人でしたから、
海軍病院で死去しました。
人々はみな一晩中長い列を作って彼の遺体にあって別れを告げました。
クラブのパレードは実に大きいものでした。
数年前は朝の9時に始まり午後の5時まで続き、ずーっと街中を練り歩いたものです。後になって、午後1時から午後5時くらいになりました。
私の所属していたクラブ”スクエア・ディール”は1925年以後パレードをしていません。
ものすごい費用が掛かるし、大恐慌時代は会員が会費を払うことができないこともありました。
パレードをするときは、15~20の管区に分かれて各クラブ独自の色のコスチュームと襷(サッシュ)をつけました。
女性はパラソルを持ち、バラの花のバスケットを抱えました。
馬の脚には飾りがつけられ尻尾にはリボンでした。
指揮者の後ろにおよそ16人の補佐が続き、
彼らも時には馬に乗りました。楽団はその補佐の後ろです。
楽団員は黒いズボン、黒いワイシャツ、白い襟、黒いタイでした。
しかし、これではかなり暑いので、後になるとブルーのズボンと白いワイシャツを着ました。
いつも控えの子供たち、それに控えの大人たちもいました。
パレードで演奏を一日続けると、楽器を持ってくれる人が別にいる、というのはいつもとても安心でした。
殊にチューバやベースドラムの奏者にとっては。
クラブメンバーの人はバッジを付けたバンドの後ろで演奏します。
家から家を廻って行進しました。もしメンバーに経済的余裕があればパレードをしている全員のために自宅で飲み物を用意しました。
春と夏の間は毎日曜パレードをしました。
どこのクラブも毎年それぞれの記念日がありました。
今でもニューオーリーンズでは各クラブが年に一つか二つのパレード週間があります。
しかし以前のパレードに比べると大した規模のものではありません。
ミュージシャンの人数が演奏に十分なだけそろわないのです。
若い人は曲もリズム(time)もわかっていません。
よく演奏したものに「Blue Boy」「Gettysburg」「Salutation」などがありました。
リーダーはいつも小さい黒かばんを楽譜入れとして持参していました。
さて、このリーダーにはちょっとした策略がありました。
リーダーが楽譜を購入した時は一番上に題名がついていますが、
その題名を破ってしまい、代わりに番号を入れました。
だからリーダーはバンドの面々に「9番を演奏だ」という具合に大声で言います。
我々は何の曲を演奏するか前もっては知らされていません。
前にも書いた通り、私は楽譜が読めません、だから私には研ぎ澄まされた耳が絶対に必要でした。
マルディ・グラはキングの日の1月7日に始まります。
どこのクラブも大きなパーティとダンスパーティを催します。大きなケーキが用意され、
ケーキの中にはナッツが入っているものがあり、そのナッツに当たった人はだれであれキングになります。
キングになった人は女の人用にパーティを開きケーキを配ります。
中に人形の入ったケーキをもらった人が女王です。
これは火事でやられる前は、フレンチ・オペラハウスで行われていましたが、
現在は大きなホテルのダンスルームでやります。
毎晩パーティが開かれ、カーニバル前の木曜日プロテウスデー
(注:Proteus Day?ちなみに、ギリシャ神話をテーマにパレードをするKrewe of Proteusというクラブは、2017年現在、2番目に古いニューオリンズのマルディグラ・クルーである。1882年設立)パレードがスタートします。
小規模のクラブはカーニバル前の月曜日モーマスデー
(注:何かのミス?Momus paradeとは通常マルディグラ・カーニバルの前の木曜日に100年以上続いているパレードのことである。詳しい方ご教授ください。)に、大きいクラブはコマスデー
(注:Comus Day?1852年設立の最古のクルーThe Mistick Krewe of Comusがある。)にパレードをして、それぞれ15~20の美しい山車が出ました。
カーニバルの日、先頭にカーニバルの王様レックス(Rex)が来ます。
それぞれ二つの山車の後ろにバンドが一つ入ります。たいていは白人のバンドとスクールバンドです。
この前私はズールー・キング(Zulu King)の山車に一緒に乗りました。
この山車は古来のアフリカ独特のスタイルで飾りが施され、
王様は草で作ったスーツを羽織り、顔は黒、目は白、長い脚の靴を履き、
山車が進むにつれ王様はココナッツを沿道に投げます。
私は1938年以外、全部参加しています。1939年は白人のバンドに参加しました。
ユーレカブラスバンドのリーダーはトランぺッターのルイ・デュメイン(Louis Dumaine)でアル・ランドリー(Tp)、キッド・ハワード(Tp)、ジム・ロビンソン(Tb)、ジョー・エイブリー(Tb)が一緒でした。
ドラムが二個、その他サキソフォン、チューバ、メロフォンです。
たいていパレードのバンドは8人から10人で編成されました。
私はパレードではいつもE-flatクラリネットを、ダンスではB-flatクラリネットを使って演奏しました。
周りが全部金管楽器でも、E-flatクラリネットを使えば際立ってクラリネットの音が聞こえました。
私はレコーディングの時もE-flatクラリネットを使ったことがあります。
古いメタルクラリネットで、輪ゴムやそのほかいろいろなものでバネを強化してあります。
大恐慌の時代、ニューオリンズは事態がかなり悪化しました。
夜の8時から朝の3時までナイトクラブで一晩1ドルとチップだけで演奏しました。
Kitty(チップを積み立てる臺)を持って出かけ、時には平均して3ドルか4ドルになりました。
私には養わなければならない家族、妻と9人の子供がいました。
しばらくは公共事業土木事業局(PWA)の下で働きました。
そこで病気になり潰瘍ができ二か月ほどで解雇されました。
ナイトクラブにまた出かけましたが、そこで生活費を稼ぎだすことはとても出来ず、
河岸に行き荷役沖仲仕の仕事をもらいました。その時以来安定した職業として河岸にでかけます。
1941年デイブ・スチュアート(ジャズ研究家)がレコード製作ということで
ニューオリンズにやってきたとき、私ともう一人ピアニストが
リーズヴィル(Leedsville)という小さな地で待っているようにと前から言われていたのですが、
彼はさっさと帰ってしまいました。
1933年にはバンク・ジョンソンと私はイーヴァン・トーマスバンドに参加していましたが、
トーマスが殺され(注:Evan Thomas、浮気した女性の旦那がライブにやってきて、ステージ上で射殺された)、バンドは解散しました。
バンク・ジョンソンがビル・コルバーン(ジャズ研究家)とデイブ・スチュアート(ジャズ研究家)と一緒にニューオーリーンズにきて、
私の処にも立ち寄ってくれました。
ジャズマンレコード社のレコードを作ったのがこの時です。
それより前1924年に私はリー・コリンズとレコードを作りましたが、
発売されないままです。誰に頼まれて作ったのかさえ覚えていません・・・ちょっと酔っていましたし。
ドラムのロイ・エヴァンス、ピアノのティンク、
ベースのアレックス・スコットがいたことは覚えています。
もし誰かこのレコード制作がどうなったかご存知だったら、教えていただけるとありがたいです。
この数年は週にだいたい一度しか演奏していませんし、
もうそろそろやめようかとも思っています。
1942年にジーン・ウィリアムス(Gene Williams)がやってきてレコードを数枚作りました。
それから1943~44年にはビル・ラッセル(Bill Russell)とレコーディングしました。
その中には発売されていないものもありますが、葬儀スタイルのもの、
ブラスバンドレコードなどがあり、それらは他のレコードよりいい出来だと思っています。
バンク・ジョンソンと一緒の今回のニューヨーク旅行を決めたとき、
ローレンス・マレロ、スロー・ドラッグ・パパジョ、そして私の3人は一緒に演奏していましたが、
ジム・ロビンソンは他で仕事をしていましたし、
アルトン・パーネルはナイトクラブを廻っていて ベイビー・ドッズはシカゴにいました。
それが今ここにみんなで集まり、私たちの音楽が当地で気に入られ本当に大変うれしいです。
”Play number nine" by George Lewis