楽しく淡い人生の終わり方
冒頭からこの記事について言い訳を書いておくと、自殺願望は無い、むしろしがみついてでもいきたい、が、齢40を回る頃から自身の死についてしばしば考えることがある。ちょっとコラムチックにさらっと書き残しておくから、まぁ読んでくれ。
死について考える
齢40を回った頃だったか、ふと自分の終いの作法みたいな本を読んだ。樹木希林さんのコラムだったかも知らんが、死について書かれた哲学のような内容で大変に感銘を受けたと同時に、自分の終い方を考えるきっかけになったのを覚えている。
その頃はまだこうして文章を書いて暮らそうなんてぜんぜん考えていなかったのだが、人生の終わり方のようなセンセーショナルな内容を一つ突きつけられた気がしたのだ。
死について、考えたことはあるだろうか?
僕の父はレッドスターコーポレーション(仮名)の割りと偉様だった。
一世を風靡したRV車両を世に送り出し、ラリー選手権用の車を作り、家庭をかえりみない人で、いつもイライラしていた。
多分ではあるが他に女でも居たのだろう。節操がないというか、来る者拒まず、去るもの追わずの性格で、周りに女性の影はちらりとあったのだから。
そんな父が早期退職であっさりとレッドスターコーポレーションを辞めて、農業を始め、米を作り魚を釣り、収入的に余裕はなかったが自適に快適に暮らし始めた。なんとも羨ましい話だった。
父が70を超えたあたりだったろうか、家の屋根に登り、はしごから足を滑らせ落ちた。頭を打って脳挫傷と診断され、半年ほど生死の境をさまよったのだ。
僕は近くに住んでいて、比較的時間の自由の効く仕事をもらっていたので、母が大変と父の看病を変わることがあった。
入院当初は前職の関係者、その重役と思われる人、仕事仲間、そして浮気相手なんかも見舞いに来たが、日に日に減っていき、ひと月も経つ頃には誰も来なくなった。
しかし入院当初から僕に連絡を取り、母がその日看病で病院に付き合わないことを確認すると必ず見舞いに来る女性が居たのには驚いたもんだ。
そしてその女性が父の援助を受け、独立し、お店を営んでること、我が家の財産を少しだけ別けてもらったこと、などなど「うちの父親って…」と思わせるエピソードも山盛りで、いつしか自分の知らない父がいた。
その後、父は奇跡的に回復したが、痴呆?というか記憶障害が残り、ここ15年くらいの記憶がすっぽりとなくなってしまっていた。言語障害こそないが、記憶障害が残ると、自分の家族の名前が言えなかったり、孫の顔がわからなかったり、昔の犬が今も生きていると思い込んだりするので、なにかしら説得することに難儀した。
浮気相手?の女性には父の状況がそんなだと、知らせたが、母の手前があるのだろう、たまに僕に父の状況を聞くだけで、それ以上前にはでてこなかった。
「父が高いところから落ちて死ぬかもしれない」と母から連絡を受けたとき、最初に考えたのは「順番」だった。父が死ぬ、母が死ぬが正しい順番なのか、それとも?もし父が自分だったら?もしうちの息子、娘だったら?
死について不謹慎だが順番を考えてしまった。どうかしたって残された者たちは悲しいのだから、せめて順番は守ろうぜ、と子どもたちには説明し、僕よりも早く死ぬことが無いようにしてくれ、とお願いはしてある。
人はどうしたって寿命で死ぬ、もしかして父のように事故に遭い、死ぬ寸前までなってしまうかもしれない。が、寿命の順番通り、年長者からこの世から去っていこう、とそんなことを考えたのだ。
順番以前に整理しなきゃならん
人間少なからず整理しておかないといけないなにかがあると思う。財産だったり、人間関係だったり、それこそ僕なんてSNSはなんとか意識のあるうちに閉じておきたい。
父のその状況を受けて、母と一緒にそれらの整理に取り掛かった。そこには知らなくていいことも、知っておいて損はなかったことも、どれだけ家族は愛されていたのかも残っていた。
なにより母にも浮気相手にも平等に何かを残そうとした痕跡があり、父の偉大さというか、甲斐性をみた。それについて母は今も言及せず、多分どこかでその女性と話し合い、残したもの(財産だったが)を渡したのだと思う。父は意識がはっきりとしているときに自分の手で人生を終いたかったのだと、その後、財産整理を請け負っていた弁護士にも聞いた。
その時の母の表情は気が抜けたというか、諦めたというか、なんとも表現しにくい表情ではあった、今でも忘れられない。
終いの作業は自分自身でやらないと、知らなくていいことを家族や関係者が知ることになる。特に土地、お金、資産なんかは家族と兄弟で揉める。そして最も揉める原因、仏壇だ。
一応岩田の本家の仏壇を引き継いだ父は僕が小学生の時分から親戚と揉めていたのを覚えている。
先祖の仏壇を面倒見る=先代が残した財産や資産を全部引き受ける、という話を、まだ死んでいない祖父抜きで兄弟同士で争っていた。なんとも醜い話で、資産云々も多分びっくりするくらいの額なんだろうなという認識でしかなかった。
僕の祖父は放浪家で、ふらりと何処かへ出かけたと思ったら、気に入った土地で住んでしまい、好き勝手やっている人だった。そのため父の兄弟は死んだ人と勝手に認定し、その財産を争う変な兄弟喧嘩を繰り返していた。
祖父の放浪癖が落ち着いて我が家に転がり込んできたことには驚いたが、ちゃっかりしてるのか、自分の持っている財産を子どもに渡すのではなく、孫に譲ってしまった。しかも遺言書に法的拘束力を持たせ、兄弟喧嘩を黙らせたのだ。
お陰で受け取った者は死ぬ思いで相続税を払う羽目になったのだが、今にして思うと争いごとが嫌いだった祖父は一部始終を知っていたのだと思う。それに巻き込まれた孫に残そう、自分の人生の終い方を心得ていた人だったのだと。それを思うと少しかっこいい、大迷惑だったが、かっこいい終い方だと思う。
もし自分が人生の終い方を選ぶなら、全て0にして渡せる財産はわたし、残さないように終わりたい。後何年いきれるかは知らないが、人生を終わらせるまでに自分の手で責任を取りたいなとおもう。
死について改めて考える
noteに遺言みたく書き残すのはすこし違うかもしれないが、僕は死ぬ間際に「それでも楽しい人生だった」と言い残して死にたい。これは社会人になってから変わらない。
どんなに人に騙されても一度信じた人は信じ抜きたいし、例えば僕から離れた人もちょっとだけ「何してるかな」と思いたい。本当はいかんのかもしらんが、関わった人が「あ、あいつ?死んだの?楽しそうなやつだったよね!」とか思い出話でもしてくれればいいと思う。
人それぞれ楽しみは違うが、自分の生きた爪痕はこの広い世界に残せていると思っている。それが何かは割愛するが、少しだけ世の中が便利になる何かを作ったつもりだ。過ぎたことだし、それを昇華させたのは後進の仕事だったから言及するつもりはない。そして仕事に関してはもう何かを作り出すことは無い、後進に任せて、責任を取る立場でいたい。
一つ心のこりがあるのなら、25年前に忘れてきた絶望感と高揚感をもう一度味わいたい。自分より圧倒的な才能を見たときのあの頃の自分に「大丈夫だから、進めばいい」と言ってやりたい。そしてできることならあの頃諦めた作品を今の自分の才能で書き上げて、何かに残しておきたいと思う。
人生の終い方、心得ているつもりでまだ未練があるようだ。