今更ながらプロフィールとポートフォリオをまとめてみた。
自己紹介って結構恥ずかしいじゃないですか?だってここまでの経歴とかまとめると「なんでライターやってるの?」なんて質問も飛んでくるわけで、これまでなかなか経歴とかポートフォリオとかを公開して来なかったんですよね。
必要に迫られたか?とかまぁ、そんな感じです。というわけでサラリーマン時代からフリーランスライターとして活動するまでをまとめてみました。ただ、こうしてみると経歴ごとに分岐点があるなと、我ながらよくもここまで来たもんだ。
今現在、記名記事として執筆しているメディアは3社になります。メインが「小学館・和楽Web」「名古屋情報通」「All About」です。それぞれ代表的な記事のリンクを貼っておきますので、どんなの書いているか気になる方はどうぞ…。あとこの巻末にこんな仕事受け付けてますとかもまとめてます、そちらも参考になさっていただけると助かります。
和楽Web
2020年の冬に執筆したインスタント味噌煮込みを土鍋でお店の味に近づける方法。結構ウケてて、この記事を読んでひとり用の土鍋買いました!って読者さんもいたくらい。「バカバカしいことを全力でできる稀有なメディア」で書かせてもらっています。
名古屋情報通
グーグル検索で常に上位表示の記事。ライターとして独立した最初の記事でもあります。Google上位表示は公開から半年ほど経ってからだったかな。SEOとか特に気にして書いてなかっただけに編集さんと不思議がってましたけど、公式からお借りした写真や、独自取材に基づいた記事が上位表示のきっかけだったようです。SEO記事は良くわからないから専門ではありません。
All About
日本中、結構どこにでもある桃太郎伝承。地元犬山にもこの伝承のある神社が残されている。が、とってもシュール。境内そこかしこにコンクリート像が置かれている。またこの神社には深い事情があったという記事。これを読まれた読者さんがわざわざ写真付きで記事を紹介してくれました。
他、記名記事ではないが英和翻訳記事、技術系の解説記事、企業PRの本文作成、企業サイトのコピー作成など執筆活動は多岐にわたります。
記事内のオリジナル画像はすべて自分で撮影。使用カメラはCanonEOS8000Dを使用。簡単な修正、レタリングも行います。また、クリエイター同士のつながりでデザイナー、カメラマンと協働することもあり、その際のディレクションも行えます。(料金等応相談)
お仕事の依頼、料金のお問い合わせ等はは下記リンクかコメントまでお願いします。
次の項からは私のこれまでの経緯、経歴をまとめてあります。少々長く文章ばかりですがお付き合いいただけましたら幸いです。
はじめましてフリーランスライターの岩田です
では早速ですが私、岩田がなぜ物書きを生業にしたのかまでの経緯と経歴をまとめていきます。ちょっと長いのですがお付き合いいただければ幸いです。また、これまで勤務した会社名は伏せさせていただきます。理由は読んでいただければわかるかと思います。
最終学歴は「高卒」です。それも県立の工業高校の機械科卒。成績は中の上くらいでした。高校在学中にある出版社の小説大賞に応募、新人賞を受賞して出版されます。何かを書いて報酬を得ることを始めたのは高校時代よりもっと前のことです。その辺は経歴のあとで追記しています。
卒業したのは1995年なので今から25年ほど前ですね。(執筆時、2021年)
高校卒業後は小説で賞を取ったことの縁で都内の私立大学に入学、しかし希望したゼミに入れなかったこと、東京暮らしがあまりにも楽しく、半年ほどで自主退学、その後名古屋へ帰ってきております。
名古屋へ帰ってきたのは1995年の秋。この年の10月から輸入車の販売店で働きながら副業でライターを始めます。当時はPCが珍しい時代、NECのPC98noteを使い、原稿はワープロソフト(一太郎だったかな)で執筆して入稿してましたね、懐かしい。記録媒体がフロッピーディスクだったんだよね。
自動車販売店では月に5台ほど車を売りつつ(少ないと思うかもしれませんが商材がアメリカ車だったもので)、車ビジネスとはなにか?を見てきました。だからじゃないのですが新車の登録や車検、メンテ類なんかもこの時に知識を得ます。ライターとしては週刊誌のコラムのゴーストライターとして書かせてもらってました。ゴーストなんで寄稿していた雑誌の名前は伏せておきます。
1996年3月ごろにWワークがたたり体調を崩します。この時に高校時代からお世話になっていた出版社が声をかけてくれて、本格的に出版の道に進みます。そのつてから就職情報誌の編集に契約社員で携わります。
契約社員の立場をいい事に、1年ほど父親の務めていた三菱自動車にも籍を置きます。確か企画開発だったかな…。この時ばかりは親の七光りに感謝!
三菱自動車では当時飛ぶ鳥を落とす勢いで売れていたシャリオグランディスのCM企画のコンペに参加、コンペを勝ち抜いて飯島直子に「父ちゃんかっこいい!」を言わせました。(コンペがあまりにも楽しかったことと、CM企画が残ってるのでここの経歴だけ会社名を出しておきます。)
当時のCMってYouTubeとかで見れます。3分ぐらいから始まる飯島直子シリーズの企画、作ってました。キャスティングは会社が用意したんだけどね。
三菱は1年の契約だったため契約期間満了のため退社、就職情報誌に戻るか、ライターとしてフリーになるかの選択を迫られる中、掲載のため取材に向かった岐阜県の小さな時計部品工場で作られる人の目ではとても見えない小さな部品に魅了されてしまい、これまでの実績や経歴を捨てて製造業に転身します。
小さな町工場は日本を救う?
1997年、高校を卒業してから2年後に製造業へ転職、まったく知識のない金属加工業だったのですが、楽しくて仕事に没頭します。その会社はもともと時計の部品製造が主だったのですが、国内の部品製造は海外勢の価格の安さに押され、業態を変更している最中でした。人員も20人そこそこの小さな会社でした。ただニーズはあっても作れる会社がないというニッチなモノを作っていたので仕事は毎日楽しかったですね。
大手医療機器メーカーから真鍮製の電源プラグを加工してくれないか?との打診があった1999年、設計の段階から関わることになり、製法特許を務めていた会社が持てるならと共同開発します。これがその後に大化け、国内トップシェアの内視鏡メーカーへ成長し、この成功により微細加工メーカーとして徐々に引き合いが増えていきます。
2002年のITバブル崩壊により務めていた会社は相当なダメージを受けます。月5000万ほどあった売上は800万まで低下、存続の危機にさらされた中、先に開発した内視鏡の電源プラグの製法特許を他社に譲ることにして、この危機を乗り切ります。
と同時に売却先ではその技術を使いこなし、生産体制を整えることができないという問題が発生します。度々売却先に出向き、技術説明や指導を行ったのですが、ある日売却先からの「人ごと譲ってくれないか?」との提案に同意、勤務先に了承をもらい移籍します。
加工業から製造・生産管理へ
移籍先は日本でも有数の自動車部品メーカー。正社員の雇用契約ではあるが、年棒制という少し特殊な雇用形態でした。
その会社は産業機器から自動車部品までを生産、販売していて、前職でもお付き合いがあり、希少な金属加工や開発にも関わっていました。希少金属と聞くと大層なことをやってたように聞こえますが、加工の条件さえ合わせれば作れてしまいます。実は大したこと無いんです。
生産技術という仕事だったんですが、製造していた産業機器の取扱説明書や仕様書などの作成も担っていました。私が担当していた時期、販売する商品のテキスト部分は私が書いたものです。
いわゆる大企業に移籍から一年後、中小企業診断士の資格試験に挑戦しました。理由は大企業にある危機感のなさ。「うちの会社」というその会社に務めている社員の感覚と絶対に潰れないという特殊な感覚に危機感を覚え、例えば何かしら今の職場から離れた時に有効な国家資格を取得することが目的でした。足掛け7年ほどかかり難関資格を取得。リーマンショックとも重なり、製造現場の仕事から離れた時点で資格を使った転職か、フリーランスとしての独立を視野にいれました。
資格を利用した独立で見えた世界
リーマンショックの余波は自動車製造業をまともに襲いました。時間短縮の業務、パート社員から解雇されていき、事業部は解体、統合まで行う徹底ぶり。2008年に生産技術から人事部に移動して、パート社員の解雇を言い渡す不名誉な立場に置かれ、その業務が落ち着いた頃に退職を決意。おそらく同年代の中でも年棒制で年収も高かった事、高校卒からその会社に入社した純粋培養の社員では無いことが移動に至る理由だと退職してから教えてもらいました。
2010年に資格を利用して岐阜の弁護士事務所と契約を結び、マネジメントなどを任せます。要は形だけ独立を果たします。しかし前職の会社がクライアントになり再び自動車部品会社にお世話になります。結局、ライターとして独立を果たした今も仕事を分けてもらったり、新規事業のアドバイザーなどで関わったりしています。離れたいんだけど離れられない関係になってます。独立するのですが、前職の会社に仕事を頂いていたので実はあまり独立の実感がなかったのも確か、ほぼそれまでの仕事と変わりありませんでした。でも人に生かされてること、独立後に十分の仕事があったこと、これらは今も続いています。
結果もっとも続けていたのは文章を書くことでした
「ライターとして独立しよう!」と思ったわけではありませんが、これまでの仕事や業務に関してどこも一つだけ共通することがあります。それは文章を書くことで、様々な製品の仕様書、取扱説明書、業務分析書などなどすべて文章でした。
発表する媒体ではなくすべてお客様に渡すものだったり、企業の根幹に関わる文章だったりするのですが、これまで歩んできた道を振り返ると、文章にした痕跡が十分に残っています。
2016年、所属していた弁護士事務所の契約が切れて、さて次に何をして生活するかと考えたときに、これまでは企業側に立っていた立場を一度置いてみようと考えました。そこで冒頭で並べたWebメディアさんや雑誌、企業PRなどの仕事を始めます。ライターとして旅サイトや雑誌のWeb版で記事をちょこちょこ書いてきたこともあり、診断士の年収ほどではないのですがライターとしてそこそこの収入もあったため、一旦診断士としての業務を停止、2017年の年初からライターとして独立します。
最初はWebメディアでコツコツ書ければいいや~的な気楽な旅ライターだったのですが、ライターとして独立した1年目に中博という経営コンサルタントの神のような人に出会います。中先生の経営者塾を運営し、今は業務のそれ自体は他の方にお任せしてますが、今でも交流のあるとても尊敬できる先生です。
2017年にライターとして独立したのですがベースは15年ほど培ってきた釣りブログの知識と文章術でした。インターネットの世界でブログが始まった頃からコツコツ書いていたブログは2009年頃にブレイク、年間で1億PVでを超える人気ブログになったのですが、あまり釣りに行けなくなってしまい更新も滞ってしまったため閉鎖。今にして思うと閉鎖するより残しておいて次につなげればよかったなと思います。
個人のブログ運営でもYahooやGoogleの検索上位に表示されていたので、SEOの知識がありますよね?とか言われるのですが自身ほとんど意識したことがなく、記事そのものに需要が少なからずあったんでしょうね、知らんけど。またバス釣りというニッチなジャンルだったため毎回3000文字ほどの内容が記事として認められたのだと思います。このブログはほんと、残しておけばよかった…。
長々と書き連ねてきましたが、現在は「名古屋情報通」「和樂Web」「All About」の3社で記名記事を、また英和翻訳の記事、企業PRやプレスリリース作成、インタビューから記事にしたり、店舗用の商材撮影、Web媒体のデザインなど個人で営んだり、他のフリーランスライターさんやデザイナーさん、カメラマンさんと協働したりしています。また、ご縁で前職の企業からお仕事をもらうことも増えてきています。特に仕様書の作成は良い評判を頂いております。
ライターに独立してから、チームで仕事を進めていく難しさや面白さも知りました。おかげさまで現在10名くらいの立場の同じ方たちと仕事させていただいております。個人事業ですが、屋号にCreators Re:Publicと名乗っているのは「クリエイターが社会にどんな影響を与え還元できるのか?」という意味があります。伝える仕事をもっと軽やかに、これが自分自身の信念でもあり使命であると考えています。
ここまでお読みいただきありがとうございました。
フリーランスライターの岩田の紹介はここまでになります。もしPRなどでお困りのことがあったり、「こんな仕事があるんだけど手伝ってくれない?」とかありましたらお気軽に下記問い合わせフォームまでご連絡ください。