沈んだ水面 第三章
『揺れる水面』
A級での成功は、まさきの生活を大きく変えた。表向きにはすべてが順調だった。収入は増え、周囲からの賞賛も絶えなかった。しかし、その裏で、まさきの心はますます揺らいでいた。かつての競艇選手としての誇りは、賞金に取り憑かれた自分によって徐々に薄れていき、ただ金と名声に囚われる日々が続いていた。
「まさき、お前は本当に立派になったよ」
父親の隆一が家で語りかけてくる。かつては自分の父を嫌い、軽蔑していたはずのまさきだったが、今はその言葉を無理に否定することができなくなっていた。家には豪華な家具が揃い、兄や姉も以前よりも裕福な生活を送っている。すべてはまさきのA級での成功の賜物だった。
「俺がここまで来れたのは、父さんのおかげかもしれないな……」
まさきは虚ろな声で答えた。だが、その言葉には重みがなかった。むしろ、内心では自分が父と同じ道を歩んでいることに嫌悪感を抱いていた。だが、その嫌悪感すらも、賞金と成功に埋もれて消えていくようだった。
そんなある日、まさきにとっての転機が訪れた。
次のレースは特別なものだった。優勝すれば、A級のトップランカーとしての地位が確固たるものになる。賞金もこれまでにない額が用意されていた。だが、その一方で、まさきはこのレースが自分にとっての最後のチャンスかもしれないという感覚に襲われていた。
「これで、すべてが決まる……」
そう呟いたまさきの心には、かつて感じていたレースに対する情熱や誇りはなかった。あるのはただ、勝利によって得られる賞金のことばかりだった。
レース当日、まさきはスタートラインに立っていた。周囲の選手たちもまた、このレースに全てを賭けている。彼らの顔には決意と緊張が浮かんでいたが、まさきはそれすらも無関心に見えた。
「勝てばいい。それだけだ」
まさきの心はその言葉で埋め尽くされていた。スタートの合図が鳴り響き、ボートが一斉に水面を切り裂いた。まさきはスムーズにスタートを切り、序盤からリードを保つ。だが、その瞬間、まさきの視界に異変が生じた。
「――何だ……?」
まさきの頭に一瞬、かつての記憶がフラッシュバックした。父との八百長、賞金に目が眩んだ自分の姿、そして理想を忘れた自分自身。その瞬間、まさきのハンドル操作が僅かに狂い、ボートが大きく揺れた。
「くそっ!」
後続の選手たちがまさきを追い抜いていく。まさきは焦りながらも必死に体勢を立て直したが、気持ちが完全に崩れてしまっていた。レースはあっという間に終わり、まさきは3位に沈んだ。トップを逃したことで、賞金も名声も彼の手からすり抜けていった。
レース後、まさきは控室で一人、呆然と座り込んでいた。周囲の喧騒も、表彰台で歓声を浴びる選手たちの声も、すべて遠くに感じた。賞金に執着し、競艇選手としての本来の姿を忘れてしまった自分に、今さらながら嫌気が差していた。
「俺は、何をやってるんだ……」
まさきの目には、自分がかつて目指していた理想の姿がぼんやりと浮かんだ。競艇は単なるギャンブルではない。勝つことだけが全てではない。父がそう言った言葉の意味を、今になって痛感していた。だが、すでに自分はその言葉を裏切り続けていたのだ。
その夜、まさきは父の家を訪れた。リビングで酒を飲みながら満足げに笑う父の姿を見て、まさきは静かに言った。
「父さん、もうやめよう。このままだと俺は、本当に大切なものを全部失ってしまう」
父は一瞬驚いた表情を見せたが、すぐに軽蔑の笑みを浮かべた。
「お前は何を言ってるんだ?今さら何を失うっていうんだ。お前はこの金で家族を救ったんだ。それで十分じゃないか」
父のその言葉に、まさきはもう何も感じなかった。ただ、冷たい沈黙が二人の間に流れていた。
「俺はもう、勝つためだけに走りたくない。賞金なんてどうでもいいんだ……」
その言葉を残し、まさきは家を後にした。これまで自分を縛り続けていた「歪んだ絆」から解放されるためには、もう一度自分自身と向き合わなければならなかった。まさきは静かに、そして決意を胸に秘めながら、次の道を歩き始めた。
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