沈んだ水面 第一章
『歪んだ絆』
多摩川の水面は、朝日を浴びて穏やかに輝いていた。普段なら心を落ち着かせるその風景も、まさきにとってはどこか冷たく見える。今日のレースは特別だった。勝てばA級昇格も夢ではなくなる重要な一戦だ。だが、それ以上に今日のレースには別の意味があった。
「まさき、頼むよ。今回は失敗できないんだ」
父親の隆一は、レース前にまさきを呼び出し、何度も繰り返した。普段の彼からは想像もできないほど焦燥感に満ちた顔だった。かつて競艇界のスターだった父は、今やその栄光を失い、競艇場の裏で八百長レースを仕組む男となっていた。まさきは幼い頃から憧れの対象だった父を見て育ち、その背中を追ってきた。だが、年々成績が振るわなくなり、家族を支えるために父が手を染めた汚れ仕事を、まさきは無言のまま見て見ぬ振りを続けてきた。
「わかったよ、父さん」
まさきは苦々しい思いを飲み込み、震える手で父の肩を軽く叩いた。今回のレースは、父の最後の賭けだった。多額の借金を抱え、競艇場からも見放されかけている父にとって、最後のチャンス。まさきが外側へ膨らみ、特定の選手に道を譲ることで大金を手に入れるという、あからさまな八百長レースだ。
「俺がこのレースで負ければ、父さんの借金も……」
そう自分に言い聞かせるまさきだったが、どうしても腹の奥底に渦巻く嫌悪感は消えなかった。家族を守るためだと信じたい。だが、心のどこかで、これはただ父の命令に従っているだけではないかという疑念が芽生え始めていた。
スタートの合図とともに、エンジンの轟音が響き渡った。まさきは冷静にハンドルを操作し、スタートダッシュを成功させる。水しぶきが飛び散り、風が顔を叩く。レースの序盤、彼は予定通り先頭を走った。だが、二周目に差し掛かる直前、まさきは大きくハンドルを切り、艇を無理やり外側に膨らませた。
「――!」
観客席から驚きの声が上がる。明らかに不自然な動き。続いて後続艇が猛スピードで追い抜いていく。道を譲った相手は、父が仕込んだ選手だった。すべてが計画通り、いや、計画通りに過ぎたのだ。
その瞬間、まさきの脳裏に父の言葉がよみがえった。
「勝つことだけが競艇じゃない。負け方も覚えろ。負けることが家族を救うなら、それもまた正しい選択だ」
レース後、まさきは無言のまま控室へ戻った。心の中では、自分が何をしたのかを理解していた。目標としていたA級昇格も、このレースで消え去った。だが、それ以上に家族を救いたいという思いが彼を突き動かした。
「まさき、よくやったな!」
控室の扉を開けた父は、満面の笑みを浮かべていた。その手には札束が握られている。見え透いた賄賂。まさきは視線を逸らし、無言のまま椅子に腰掛けた。何も感じなかった。ただ虚しさだけが胸を締め付けた。
「これで、しばらくは安心だ」
そう言って父は札束をまさきの前に置いた。かつての威厳に満ちた父親の面影は、どこにもなかった。そこにいたのは、ただの金に支配された小さな男だった。
「俺は、これで……家族を守れたのかな」
まさきは震える声でそう呟いた。だが、その言葉に父は耳を貸さなかった。父にとって、まさきはもはや息子ではなく、レースを操るための駒に過ぎなかったのだろう。まさきは手の平に汗が滲むのを感じながら、ゆっくりと札束を掴んだ。そして、そのまま力いっぱい壁に向かって投げつけた。
「もう、こんなのいらないよ!」
札束は空中で散らばり、紙幣が舞い上がる。父は呆然とそれを見つめていたが、すぐに目を細め、冷ややかな笑みを浮かべた。
「お前に選択肢はないんだ、まさき。俺たちにはもう、これしか残っていないんだよ」
父のその言葉が、まさきの心に深く突き刺さった。血の繋がり以上に歪んだ絆が、父と息子をがんじがらめにしていた。それを断ち切ることは、もはやできないのかもしれない。
「俺には、どうすればいいのかわからないよ……」
まさきは膝を抱えて座り込んだ。雨音が窓を叩く音だけが部屋に響いていた。
その日の夜、まさきは競艇場を離れ、一人で川沿いを歩いていた。水面に反射する街灯の光は、どこか歪んで揺れていた。
「俺は、このまま……負け続けるのか?」
呟くように言ったまさきの声は、川の流れに飲み込まれ、誰にも届かなかった。彼の中で渦巻く思いは、水面に映る影のように、ぼやけて、歪んで、やがて消えていく。どこに向かえばいいのか分からない。彼が求めたのは家族の絆のはずだった。だが、その絆は歪み、互いを絡め取る鎖と化していた。
心の底で、まさきは知っていた。このままではいけないと。だが、どうすることもできなかった。水面の波紋は次第に広がり、やがて見えなくなる。まさきはただ、冷たい川風を浴びながら、立ち尽くしていた。