『刃に刻む』第一話
これは研師の話です。
刃と過ごした時間は心に刻む。
研師が濁った刃を磨いていく、景色が鮮明に映し出されることで、色褪せた思い出に新しい命を吹き込んでいく。
人との出会いの数だけ、時間は刻まれる。
靴磨きや研師のように新しい命を吹き込む仕事は世の中であまり尊重されていない。
世界でトップ級の企業を築いた経営者も、若かれし時代の大勝負の前には靴を磨いて成功していくサクセスストーリーは良くある話。
影の立役者に少しでも目を向けて深掘り出来たらいいなと思い、描いてみました。
『研師の道を選んだ日』
小雨が降りしきる九州の田舎町。
霧の中からぽつんと現れる小さな駅舎には、木造の温もりと懐かしさが漂っていた。
桐生祐一は、駅前に一台停まっている古びた軽トラックを見て、ほんの少し笑みをこぼした。
そのトラックは、彼の父親が何十年も使い続けているもので、彼が中学生の頃から見慣れた風景だった。
「やっぱり、父さんのトラックだな。」
雨音に混じって聞こえてくるのは、トラックのエンジン音だけ。
降り続ける雨の中、祐一はトランクから大きなスーツケースを引きずり出し、トラックの荷台に載せた。
スーツケースには、大阪での十年間の修行時代に使い続けた道具がぎっしりと詰まっている。
「大阪で、しっかりやってきたんだろう?」
運転席の窓が開き、祐一の父親が声をかけてきた。
厳格な顔立ちだが、その瞳の奥には、息子を見守る優しさが微かに覗いている。
「まあね。まだまだ未熟だとは思ってるけど、そろそろ自分の店を持ちたくてさ。」
祐一は笑いながら答えたが、その表情はどこか少し硬い。
父親に自分の選んだ道を認めてもらいたいという気持ちと、同時に不安やプレッシャーが心を支配していたのだ。
父親は何も言わず、ゆっくりとトラックを発進させた。
車内は無言のままだったが、二人の間に流れる空気は決して重くはない。
親子が共有する無言の会話、これこそが彼らのコミュニケーションの形だった。
実家に戻る道中、祐一の頭の中には、これまでの研師としての歩みが走馬灯のように浮かんでいた。
大阪に渡ったのは20歳のときだった。
職人の世界は厳しいと聞いてはいたが、実際の修行の日々はその想像をはるかに超えるものだった。
祐一が研師として働くようになったのは、たまたま立ち寄った包丁屋での出会いからだった。
ひときわ輝く刃に目を奪われ、その美しさに見惚れていたところ、奥から現れた無愛想な男に声をかけられた。
「興味があるのか?」
それが、祐一の師匠、佐々木重蔵との出会いだった。
重蔵は、大阪でも名の知れた研師で、その腕前は一流の料理人たちからも一目置かれる存在だった。
「包丁を研ぐってことは、ただ刃を鋭くすることじゃないんだ。」
重蔵の言葉は、まるで祐一の心を見透かしているかのようだった。
それからの修行の日々は、まさに地獄の日々だった。
朝から晩まで砥石の前に座り続け、重蔵の指導のもとで一本一本の包丁と向き合う。
彼の研ぎはただ美しさを追求するものではなく、使い手の心までをも写し取るものだった。
「お前は、何のために包丁を研ぐ?」
ある夜、疲れ果てていた祐一に重蔵が問いかけた。
祐一は返事に詰まり、ただ黙り込むしかなかった。そのとき、重蔵はそっと研ぎ終えたばかりの包丁を持ち上げ、祐一に差し出した。
「この包丁を研いだとき、俺はある料理人の姿が浮かんだ。いつも丁寧に食材を扱い、客の笑顔を一番に考える人だ。その想いを、この包丁に込めたんだ。」
重蔵の研ぎ上げた包丁は、光を放ち、まるで生きているかのような存在感を放っていた。
その刃には、使い手の心と重蔵の研ぎ師としての魂が確かに宿っていた。
祐一はその日、初めて研師としての覚悟を問われた気がした。
そして、彼は心に誓った。
「いつか、自分も包丁を通じて人の心を研ぐ研師になる」と。
トラックは田舎道を進み、やがて実家の前で停車した。
雨は上がり、家の前には母親と妻、そして子供たちが待っていた。
幼い弟を抱きかかえながら、娘の春菜が駆け寄ってくる。
「お父さん、おかえり!」
その一言が、祐一の胸に温かいものをもたらした。
どんな苦労も、この瞬間のために耐え抜いてきたのだと実感する。
「ただいま、みんな。これから、ここで頑張っていくからな。」
祐一は笑顔で家族を見渡し、両手で娘を抱き上げる。
ふと視線を上げると、実家の向かいにある古い倉庫が目に入った。
彼が子供の頃から空き家同然だったその倉庫を、これから自分の工房として改装するのだ。
翌日から、祐一は作業着を着て、父親とともに倉庫の改装に取り掛かった。
湿気と埃で使い物にならなくなった古い棚を取り払い、奥から見つけ出した古い砥石台を綺麗に磨き直す。
小さな窓からは優しい日差しが差し込み、少しずつ工房らしい形に整っていく。
「祐一、ほんまにやるんやな。」
作業の合間、父親がぽつりと呟いた。
祐一は手を止め、父親の方を見た。
その目は厳しさの中に誇らしさが宿っている。
「うん。俺が、大阪で学んだことを、ここで形にしたいんだ。」
父親は小さく頷き、作業に戻った。
改装が終わり、ようやく店が完成した日、祐一は一人で工房の中央に立ち、ぐるりと見渡した。
砥石が並ぶ作業台、昔ながらの木の棚、そして修行時代から使い込んできた研ぎ道具たち。
どこを見ても、祐一のこれまでの人生が詰まっている。
「ここから始まるんだな…」
祐一は深く息を吸い、砥石の前に座った。
目の前に置かれた包丁は、父親がかつて使っていたものだ。
長年の使用で刃はすり減り、手入れも行き届いていない。
祐一は慎重に刃の表面を指で撫でた。
「俺の腕で、もう一度この包丁に命を吹き込んでやる。」
砥石に水を含ませ、丁寧に包丁を当てていく。
初めてこの砥石を手にしたときの重みが、今でも祐一の手に伝わってくるようだ。
父親がこの包丁でどれだけの魚を捌き、家族の食卓を支えてきたのか。
その想いを研ぎ上げるように、祐一は静かに、そして力強く研ぎを進めた。
刃先が鋭く研ぎ出されるたびに、祐一の心にも新たな決意が刻まれていく。
「包丁は心。俺の研ぎで、人の心を輝かせるんだ。」
祐一の新たな挑戦が、ここから始まる。