小さな砂粒が、いつの間にか
「あかりちゃんは絵が下手だね、弟は得意なのに」
母が何気なく放った一言が
小さな砂粒となって、
わたしの心に落ちた
「あかりちゃんは、絵以外は器用でなんでもこなしてくれて、すごいね」
母が鼓舞するつもりで放った言葉が、
知らず知らずのうちに蔓へと成長していった
わたしは絵が下手なんだから、絵を描いちゃダメだ
わたしはなんでも器用にこなすことが認められる要因なんだから、それをやり続けなくちゃ
気づけば
小さな砂粒は
小さな蔓の芽は
自分の中で栄養を蓄え、
大きくなり
まるで世界の常識であるかのようにわたしの中で育っていった
お母さんを悪者にしたくなくて
それらの言葉に傷ついているわたしを、悲しんでいるわたしを
なかったことにした
その時に感じた痛みや悲しみに蓋をして
彼女がなぜその言葉を放ったのか
その背景や意図を想像することにした
きっと、彼女なりのエンパワーだったのだろう、とか
弟を立てるための最善の選択だったのだろう、とか
いろんな想像を巡らせ
胸が重くなるのを感じていた
もしも、
あの時のわたしのとなりに
静かに座ることができたとしたら
どんな言葉をかけるだろう
そんな問いを置いた時に
湧いてきた言葉を
ここに記しておきたいな、と思う
あなたの絵は素敵だよ
上手いとか下手とか
そういうことではなく
あなたのそのままの表現が素敵なんだよ
そして、どんな絵を描いたとしても
描かなかったとしても
あなたが何を選択しても
そのまんまで完璧で素晴らしいことなんだよ
あなたが誰かに貢献しようとがむしゃらにならなくても
あなたの存在からたくさんのものを受け取っているよ
あなたが例え大きな失敗をしようと
無自覚に誰かを傷つけてしまおうと
それでもあなたは存在してていいんだよ
「お母さん、あのね、
わたしはただ自分の中にあるものを表現していたいんだよ
それが上手いとか下手とかは関係なくって
ただ、わたしの内側から湧いてくるものをちゃんと感じて表現したいんだ
それが、きっと、世界のために繋がることなんだよ
だからね、わたしのことを信じていて大丈夫だよ」
120回目となるラジオの収録。
もう2年以上続けているラジオの中で
起こった一幕。
たった30分のラジオの中で
思いがけずに自分の源泉に還る体験をした。
いままで、"聴いている相手がいること" "ちゃんと伝わること"を頭の片隅に置いてきた収録時間で
周りの人の存在や聴いてくれている人の存在への意識が和らぎ
自分の内側から溢れる感覚に触れ、涙があふれる体験になった。
120回、ということは
3600分もの時間、ラジオに声を乗せて届けてきたことになる。
30分という時間の感覚、
聴いてくれている人の心地よさ、
話のテンポ
それら全てが身体に染みつき
意識を手放しても再生される状態だったからこそ
自分に集中して、表現できたのだと思う
そして、自分がその意識を手放したとしても
そこを握ってくれる仲間がいるという安心感も。
不思議な体験だった。
きっと、忘れられない体験だ。
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