【患者さまの声】右目の光を失いつつもレストラン経営への挑戦
7年前から「Partire jun」というイタリアンレストランを営む粕谷 潤さん46歳。
10代で右目の視力低下に気づき、今では右目がほとんど見えなくなりました。
疾患のことからレストラン開業に関する想いまで明るく話す潤さんですが、今になって振り返ると後悔していることもあるといいます。
発症から現在までにどのような経緯があったのか、薬とともに生きるというのはどんなことなのか。
様々な想いをお話しいただきました。
疾患の重大さを理解できず。視力を失って抱いた「後悔」
―――疾患の経緯について教えていただけますか
小学校〜高校まで野球少年でした。
小児喘息の傾向はあったものの、その他は至って普通の子ども。日常生活や野球に関して特に問題になるような身体的な変化は全くないまま小中高と過ごしてきました。
視力の変化に気づいたのは18歳の頃です。
突然視界が変わって、見えづらさを自覚するようになりました。
色々と検査を重ねた結果「黄斑変性症※1」と「中心性漿液性脈絡網膜症※2」だと診断されましたが、当時はあまり情報もなく、何よりも視力が少し落ちた以外にはなんの症状もなかったので、疾患について詳しく知ることもせず、治療について深く考えることもしませんでしたね。
当時説明されたことは覚えていて、疾患のために生涯薬を飲み続ける必要があること、完治しないことなど、治療に関することも一通り聞いていました。ただ、当時は症状もそれほどひどいものではなく「これまで普通に見えているのに今後見えなくなることなんてあるのか?」という疑いのような感情もありましたし、疾患に対してちゃんと理解できていませんでした。
ですから「薬を一生飲み続ける」ということも受け入れることができなかったんです。
診断に至るまでのつらい検査を乗り切ったのに、さらに「服薬」という制限まで生じるのか、という気持ちもありました。比較的早い段階で、症状の進行を緩やかにするために服薬治療を提案されましたが、治療を開始するという選択はしませんでした。
その結果、今では右目はほとんど見えておらず、視野の中心部が暗く見えたり、かすかに見える部分も視界が歪んでいて、滲んで見えます。
今考えると、後悔しかないですね。
過呼吸と喘息発作の重複でパニックに
―――パニック障害が起きたのはいつごろですか?
パニック障害は24歳で発症しました。
きっかけは過呼吸と喘息の発作が同時に起こったことです。
もともと体を動かすのが好きでジムに通っていたんですが、その日は喘息の発作に過呼吸が重なってしまってとても息苦しくなりました。
過呼吸を経験したことがある方ならわかると思いますが、息苦しくなったり思い通りに呼吸ができない状態になると「苦しい」という思いとともに「恐怖」を感じるんですよ。とにかく苦しくて息ができない、どうしよう、どうなっちゃうんだろう、と。
気持ちが焦る一方で苦しさは増していきパニック状態になりました。
幸い何とか自宅に戻ることができましたが、数日間は症状が続きました。
受診した結果、診断されたのが「パニック障害」です。
原因は日々のストレス。
この日から精神科に通い始めることになりました。
当時は、自動車整備の仕事をしていたのですが、職場の環境はホコリや鉄粉が舞うなど、喘息の疾患を持つ私にとって良い環境とはいえませんでした。
喘息の発作が出始めると、あの日のジムの状況が蘇ります。
過呼吸になり、苦しくなってしまうのではないかという恐怖です。
喘息にも精神的にも環境を変えるほうが良いのは明らかだったので、これを機会に以前から興味のあった料理の道へ進むことにしました。
生きることとは「後悔しない毎日を過ごすこと」
料理の道へ進んだのは27歳の時です。
イタリアンレストランや焼き鳥屋、焼肉屋から学校給食の調理まで、昼夜問わず働きました。
イタリアンレストラン「Partire jun」を開業したのは40代になってからで、料理人の独立としては決して早いタイミングではありませんでした。
それでも「お店を持つ」という夢を叶えたのは、後悔しないように生きたい、という思いがあったからです。
当時はすでに子供もいましたし、大きな挑戦でしたね。
ただ、僕にとっての「生きること」とは「一日一日を悔いなく過ごすこと」です。
若い頃に突然病気と向き合うようになり、人間いつ死ぬのかなんてわからないと思うようになりました。
それならば、やろうと思ったことはやってみればいいと。
最期に「やっておけば良かった」と思いたくないじゃないですか。
やってみて「ダメだったね」という方がまだいいですよ。
この想いは子どもたちにも伝えています。
後悔しないように生きてほしい、という願いを込めて。
幸いなことに、妻は疾患や症状に対して気負うことなく接してくれます。
大げさなサポートをすることなく、必要なときには自然に支えてくれるのがとてもありがたいです。
家族がいるから頑張れるというのは間違いないですね。
生きがいは「子供の成長」生き続ける原動力に
―――今の生きがいはなんですか?
一番の生きがいは子供の成長です。
長女が吹奏楽部に入っているんですが、演奏を聞くと毎回感動するんです。
初めて聞く前は「中学生の演奏なんて大したことがないだろう」と思っていたんですが、実は結構レベルが高かった。遠征することもあるので、できる限り付き添ったり送り迎えをしています。
ほかにも次女がバスケット、3女はトランペットをそれぞれ頑張っているんです。
演奏会、合宿、試合の応援、コンクール。
学校のオヤジの会に顔を出したり、地域の行事にも関わったり。
仕事をしながら子どもたちのために捻出する時間は、忙しくもあるけど嬉しいものですね。
身体にとっては負担なのかも知れませんが、これがあるから頑張れるという元気の素みたいに感じています。まだまだ倒れるわけにはいかないんですよ。
発症前にコントロール。疾患と上手く付き合うまで
―――疾患との付き合い方に関してどのような変化がありましたか?
現在は予防が大切だと思っています。
パニックが出ないように喘息を予防する。
喘息の発作が出ないように体調をコントロールする。
疾患を受け入れてできる対処はできるだけしておくことが大事だと思えるようになりました。
でも、当初は受け入れるということがすごく難しかったんです。
とくに、心療内科の受診では待合室には色々な症状の方がいます。
重症の方もおられるので、その方と同じ空間に自分がいることすら受け入れられませんでした。
通院が負担に感じてしまった時期もあります。
でも、一度薬を持っていない時にパニックが出てしまったことがあって、時間外にも関わらず心療内科に駆け込んだことがありました。何とか頼み込んで処方してもらい、服薬して事なきを得ましたが、その時に「ちゃんと向き合って上手く付き合う」ことの大切さを実感しました。
アレルギー情報を簡単に共有できたら。管理ツールに期待
―――疾患と付き合う上で、どのようなことに気を付けていますか?また、これを改善するためにあなたが望むツールやサービスにはどのようなものがありますか?
薬の飲み忘れがないように気を付けているのですが、たまには忘れてしまうこともあります。でも、飲まなければ息苦しくなるので薬は飲み続けています。
喘息は小学生の頃からつきあっているので、今では「症状が出そうだな」と感じた時点で対処することができるようになりました。埃っぽい場所に行くと「気をつけよう」と肌で感じることもありますね。
また、喘息の症状が強く出たときだけ使う吸入薬の管理で迷うことがあります。
症状が出なければ使うこともないので、前回からの吸入薬の残量や使用期限についてわからなくなってしまうんです。使用回数を記録しておけば済む話なんですが、使用期限をお知らせしてくれるツールがあったら便利ですよね。
あとは、薬の情報について簡単に共有できるものがほしいです。
僕は薬剤アレルギーがあるので、医療機関では毎回伝えなければなりません。
ただ、これが結構面倒なんですよね。かかりつけではない医療機関にかかる場合もあるので、新しい病院にかかる度に毎回同じ説明をしています。アレルギーが出た時の情報もアプリに入れておいて、医療機関や薬局に簡単に共有できたら楽ですし安心ですよね。
他にも、定期的な処方はオンラインで処方してもらって家に届いたら便利だと思います。
お店を営業しているので、診療時間に間に合わないこともありますし、喘息は診察しても毎回同じ薬をもらうだけ。状態が落ち着いているので好ましいことではありますが、30秒ほどの診察のために時間も使いますし金銭的な負担も重なります。薬をもらうだけで良いときは診察なしで宅配してもらえるシステムができたらいいですね。
―――harmoおくすり手帳では、薬の情報が管理できるだけでなく、副作用やアレルギー歴などをアプリの中に記入することができ、それを薬局や医療機関で共有することが可能です。
harmoは薬情報が共有できるのがいいですね。
アレルギー歴とか薬歴情報など、一度登録したら変わらないものはどの薬局でも共有できるのがいいです。もしも自分が倒れた場合などを考えても、麻酔薬のアレルギーをアプリですぐに医療機関が把握できたら安心です。自分が喋れない、伝えられない時にこそ必要だと思います。