「これは鏡であり、あなたは印刷された文」 池田武史
”たとえば、一番最初、
それはバカみたいなことで始まったんじゃないかな。
(…)
どんな方法ででもそれは起こった。
たまたまその辺にあるものを組み合わせて、その装置は完成された。
そういうことだと思うよ。”
(※1)
この台詞は、黒沢清監督の映画『回路』の中で、世界に幽霊が溢れてしまう理由について、唐突に説明される際のものだ。実際のところ因果律的には何も説明しないこの言葉の、それに続く(哀川翔によって行われる)実演を超える不穏さは何なのだろうか。
まず、この言葉の曖昧さがある。”たまたまその辺にあるものを組み合わせて”、完成される”装置”が異物を呼び込むのであれば、およそどのような状況でも、異界を呼び込む可能性を得てしまう。この言葉はほとんど呪いのようだ。映画の中で”装置の完成”の実演として行われる、窓とドアの枠を形成する長方形を赤い粘着テープでなぞるように貼ることは、一つのサンプルでしかない。この行為に似たこと、この言葉によって想起されること、時空間的に韻が踏まれたもの、即ち抽象性を介してこの”装置”や異界はどこかに降ろされる。
しかし、なぜ?この理由も判然としない。故にこの言葉が示しているのは、”私たちが為すことの全てが、実は私たち自身によって理解されているとは限らない”、ということだ。即ち、私たちの身近なもの、了解の中にあると考えられているものは―こうした呪いによって―私たちの理解の外にあるもの=他者と重ね合わされる。あるいは、私たち自身の行為を他者のものに変えてしまう。
そもそも、幽霊を人の形で捉え、窓やドアがどこか全く知らない世界と通じているのではないかという思考は、抽象や相似と関係している。抽象とは、差異ではなく類似によって世界を捉える一つのモードであり、それは時に他者(例えば死や異界)をも主体の了解の中に巻き込む。相似、つまり形の一致は、この巻き込みの契機になる。人形が霊魂を宿し、撮影によって命を抜かれるという思考は、人の形に“人ならざるもの”を巻き込んでいる(※2)。ところで他者は、主体の、あるいは人間の感知や了解からは離れているからこそ、そう呼ばれる。しかし、それ故に他者はこの了解の内に影としてしか現れることが出来ないとも言える。この意味で、”人”の姿をした幽霊は、他者と人間の重なりという点で象徴的なものだ。言い換えれば、あらゆる他者はその影として、幽霊的にしか私たちに感得されない。つまり、相似によって他者を巻き込む思考は、私たちには完全には否定できない。例えば宇宙に存在するブラックホールで起きる現象は私たちの身近さとはかけ離れたものであり、「黒」とも「穴」とも具体的には関係がない。死を直接経験することは私たちには出来ず、他のものの死やその死体は自分のものではない。しかし、同時にこれらは、私たちに感得される際「黒」い「穴」であることや、自分の「死」であることを辞めることも難しい。だからこそ、ドアや人の形象は、相似によって結ばれて、「異界への扉」や「死」の影をおびる。私たちが、相似によって世界を捉えることを辞めない限り、この影が如何に荒唐無稽であると考えようが完全には拭い去ることは出来ない。私たちは他者との差異や違和を「相似」の中でこそ、感得している。
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では、改めて、呪いとは何か。呪いとは、バラバラに見える事象に一つの抽象性を見出すこと、掘り起こすこと、または維持することであり、且つそれが効果を持つ環境を社会に植えることだ(※3)。即ち作品制作や批評、ひいては概念的なものは全て、この意味で呪物であるだろう。これらは、ここに相似がある、ここに他者の影がある、他者への扉がここに口を開けていると指し示し、人に社会にそれを植え付ける。
播磨みどりの映像インスタレーション《This is mirror, after Camnitzer》および、《This is Mirror/Night》(※4)は、『回路』の”装置の完成”をかなり具体的に呼び起こす。「呪い」を共有していると言ってもいい。実際にこの2つの映像は数多くの点―例えば、部屋の内外の明かりのコントラストが強調されていること、窓という内外の境界についての操作が行われること―で酷似している。
映像の冒頭、暗い廃屋のような建物の内部の窓から、草が生い茂る雑木林の風景がのぞいている。そこに何か四角いフレームのようなものを持った人物が現れる。フレームが人物によって窓枠に嵌められると、そのフレームと窓枠のサイズが完全に一致していること、それどころかフレームに張られたイメージが、窓から覗いていた風景と全く同じサイズで転写されているものであることが分かる。人物はインクのようなものを、重ね合わされた窓とフレームの下部に注ぐ。インクのようなものが、人物の持っているヘラのようなもので、フレーム上部へこそぐようにもち上げられると、窓の風景と二重化していたイメージは、青のモノクロームな一つの像として明瞭になり、外の雑木林の風景は背景に退く。ここで、この行為がシルクスクリーンによる転写であることが分かる。いや、正確にはそれに類似した何かだ。ここには、定着されるべき面(例えば、紙)に対応するものがない。即ち、インクによって結ばれるはずだったもう一つの像は不在になっている。フレーム内の面に青いインクがいきわたると、人物は、青一色になった雑木林の像ごとフレームを外す。すると、青い雑木林のフレームにあった像と同じサイズの風景が再び現れる。
この播磨の《This is mirror~》において相似で結ばれている、窓から見える風景、それを写し取られたシルクスクリーンの版、版にインクが塗布された時に現れる像、そして不在の定着面は、存在的、時空間的な混同を催させる。この混同は、幽霊映画に馴染みのものだ。
一般的に映画の中のカメラによって撮影された遠近法的な空間の中では、「幽霊」あるいは幽霊役の人間は、「人間」役の人間と同じように扱われる。つまり、映画の中において「幽霊」と「人間」というのは同じように映像に映る像、影であるしかない。映像の中で、相似の関係を結ぶものたちは、それだけで存在論的な差異を飛び越えてしまう。映像に映る人影は、同時に一人の具体的な役者であり、登場人物であり、幽霊でもある。ここで、本当にフィルムに幽霊が映っているか、役者が幽霊に見えるかは特に問題ではない。なぜなら、相似によって結ばれた存在的な混同/越境こそが幽霊映画の、いや映画が与えるフィクションの中心にあるからだ(※5)。
《This is mirror~》は、シルクスクリーンの刷りへの介入によって、こうした幽霊映画の特徴を正確になぞっている。実際、窓から見える風景→シルクスクリーンの版に写し取られた風景→インクが全面に塗られて現れる風景→(再び)窓から見える風景、というそれぞれ重なり合いながら変化していく本作品のプロセスは、実物と像、それらを媒介する版が「相似」で結ばれていることを幾重にも刻印する。あるいは、「刷り」という行為における結果を不在にすることによって、「相似」を扱うということを「印刷」行為の中心に据えなおしている。繰り返しになるが、こうした「相似」的な側面の強調と、相似で結ばれるものの存在の混同は、例えば「人形が霊魂を宿す」とか「撮影によって命を抜かれる」といった想像力に限りなく近づいていく。はっきり言ってしまえば、印刷行為のプロセス自体が、幽霊を見るという「相似」による存在論的な混同から逃れられないことを、本作は刷り込んでいく。印刷行為の幽霊化ともいうべきことがここでは行われている。
《This is mirror~》が、どこか不穏だが、これが幽霊映画ほどにステレオタイプに見えないのは、ここで相似によって結ばれているものが「風景」「雑木林」と取り急ぎ名指し可能なものであって、それが「人影」ではないからにすぎない。例えば、人影がシルクスクリーンに複製され、不在の定着面へと刷られどこか別の場所へ投じられる、もしくはその人影によって別の場所から「何か」を呼び込む、というような本作の別のバージョンを想像することは容易だろう。いずれにしろ、本作品が「印刷」の全てを、幽霊として刷り込むことが達成されるなら、既にこのバージョンは、ありふれたものとして存在していることにはなる。何故なら、人影や世界の似姿としての印刷物など既に世界に溢れかえっているのだから。こうして、《This is mirror~》は、”たまたまその辺にあるものを組み合わせて、その装置は完成された”ことを達成してしまう。全ての印刷物が、かつて具体的に何かと相似によって結ばれていたこと、いまだに”何か”と関係を結びえること、ないしはその依り代になると想像することは、世界が幽霊で埋め尽くされる『回路』の想像力と韻を踏んでいる。
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いや、それどころか、本作に唐突に現れる「THIS IS A MIRROR, YOU ARE A PRINTED SENTENSE」(これは鏡であり、あなたは印刷された文)という、シルクスクリーンの版に写されたテキストは、『回路』の汎幽霊的な指向をさらに拡張する。「YOU ARE A PRINTED」即ち、私たちの本性は印刷物であり、私と認識しているものはその幽霊や影ではないのか、という思弁性がここにある。私たちは、私たちに刻印されたものを運んでいる印刷物にすぎず、たまたま「人間」のふりをしているだけなのだろうか。あるいは、私たちが印刷物であるなら、私たちと相似である”何か”を、現実に降ろす扉なのだろうか。いずれにしろ、私たちが印刷物であるなら、私たちに刻印されているもの、私たちが運んでいる「SENTENSE」、文、呪文とは何なのか。《This is mirror~》や、『裏側からの越境』と題された本展覧会の、鏡の向こう側、裏側にいる他者から、私たちを見返す思弁性の中心はここにある。
今回、藤沢市アートスペースにおいて映像インスタレーションとは別の部屋に展示されていた(※6)、作家の誕生年から集められたカレンダーを解体し再構成する《Landscape of Prints / Calendar》の試みは、《This is mirror〜》の持つ思弁性=「あなたは印刷されたもの、もしくはその幽霊」を実際のものに降霊させているようだ。また、別の部屋に展示されていた、様々な日用品のゴミによって組み上げられた何かの写真≒印刷物である、《Democracy Demonstrates》は、「まるで、もうすぐいなくなってしまう人の最後のポートレイトを撮るような感じだった(※7)」と作家によって注釈されている。
作品の素材となっている過去の印刷物やゴミに対してのまなざしは、それらのかつての所有者やその周りで営まれていたものに思いを巡らせるというような、メランコリーやノスタルジィからは距離を置いているように見える。遺物の中に特定の人称を認めるというよりも、人称、即ち人間の実存や営為といったものが、むしろ印刷物やゴミの付帯物であるような見方がある。このいわば、非人間的な視線は、《Roadside Picnic in Fujisawa》という、不法投棄現場のブリコラージュ(!)とでも言うべき作品でも外部化されている。タイトル引用元の『路傍のピクニック』は、ストルガルツキィ兄弟によるファーストコンタクトもののSF小説の古典である。この小説において、人間の文明的な副産物であるゴミが虫や小動物等によって捉えられる視線と、人間が異星人の”来訪”の痕跡を見る視線は重ね合わされている(※8)。これは、あらゆる行為主体(人間、虫や小動物、異星人)にとって他者は結局のところ、それぞれの了解でしか捉えられないことの皮肉だろう。裏を返せば、これは人間の遺物=ゴミを他者が見た場合、今私たちが考える「人間」像とはかけ離れた行為主体が立ち上がる可能性を示す。言い換えれば、私たちが「人間」を把握するように、他者は「人間」を把握するわけではない。
ゴミ処理場の焼却炉に設置された監視カメラの映像をほぼそのまま使用している、《Worker's song》という作品に映る、一目ではそれとは理解出来ないほどの巨大な炎とその熱に舞う塵が作りだす眺めは、『路上のピクニック』における他者が人間を捉えるまなざしをシミュレートしている。即ち、他者、地球外生命体のような、本当には理解ができないものとして「人間の営為」を捉え直す。
「もうすぐいなくなってしまう人の最後のポートレイトを撮るような感じだった」という播磨自身の言葉における「人」が捉えているのは、特定の人格をもった素朴な人間像ではない。思弁的に思い描かれた”絶滅”(※9)−もうすぐいなくなってしまう−以後に非人間的に振り返られた「人間の営為」、あるいは人間を乗り物にしていた何かだろう。ここでは私たちはゴミの主人であることを辞め、ゴミを生み出す流れに寄与する一部に追いやられている。それはちょうど、幽霊を呼び出す”装置”の完成に、人間が次々と加担させられる『回路』のプロットのようだ。ならば、改めてこう問うことも出来よう。“たまたま、その辺にあるものを組み合わせて”完成された装置、それが人間を支配し他者を呼び込む事態とは、現実的には何なのか。『回路』や播磨の作品が発する呪いによって捉えられる、現実の他者とはいったい何なのか。それこそが、「THIS IS A MIRROR, YOU ARE A PRINTED SENTENSE」の「SENTENSE」に該当するもの=呪文だろう。
人間が他者の中に人の相似≒幽霊を見てしまうことは、そもそもの「人間」の呪いである。それは、人間と相似を結ばない他者について見えにくくさせる呪いでもあるだろう。現に他者とは、何も死後の世界や地球外生命体だけではない。気候や地殻の変動は、時に私たちに天災として具体的に降りかかるが、この恒常的な変化は人が生きるタイムスケールや規模を超えるため、予兆としてしか私たちは感得出来ない。いや、人間が生み出した、“たまたま、その辺にあるものを組み合わせて”完成された装置でさえ、人間の手に負えないことなどいくらでもある。印刷技術によって知識や記憶の広範な共有が可能になったことが、人間をどのように作り替えてしまったかを知らないように、私たちはこの技術以前の人間がどのようなものであったかを想像することすら難しい(※10)。日々、目の前を取り急ぎ「商品」や「ゴミ」と名付けられ、流れていくもの達が、何によってそうさせられているのかの全容を私たちは、もはや把握出来ない。個々の存在や活動が、計量可能な経済的指標と「生産性」という言葉によって評価されること、それに自らを日々適応させていくことが何故、何によって行われるのか、私たちは自明と言えるのだろうか。AI(人工知能)が人間を凌駕してしまう恐れが叫ばれて久しいが、自らが生み出したものに、既に私たちは自身を明け渡しているのではないか(※11)。それが、知性や行為主体と見なされていないのは、単にそれが人間によって捉えられる「知性」や「行為主体」を超えてしまっているからではないか。私たちが、これらと共に世界からいなくなる時、その絶滅を為すのは私たちなのか、私たちにかけられた、私たちが生み出した呪い=「SENTENSE」なのだろうか。
(※1)映画『回路』(黒沢清 脚本・監督 東宝 2001年)より筆者が書き起こしたもの。(…)の部分で筆者によって省略されたものも含めると、セリフは以下のようになっている。
”たとえば、一番最初、
それはバカみたいなことで始まったんじゃないかな。
受容エリアがある臨界点に達してさえいれば、
どんな方法ででもそれは起こった。
たまたまその辺にあるものを組み合わせて、その装置は完成された。
そういうことだと思うよ。”
(※2)諸物の「類似」による世界の把握、近代以前の人間の世界観、および、その呪術的な論理については以下が詳しい。
ミシェル・フーコー『言葉と物〈新装版〉: 人文科学の考古学』 渡辺一民,佐々木 明訳 新潮社 2020年
41−68頁
Michel Foucault "Les Mots et les choses: Une archéologie des sciences humaines" Gallimard, 1966
モリス・バーマン『デカルトからベイトソンへ ――世界の再魔術化』 柴田 元幸訳 文藝春秋 2019年
66−70頁
Morris Berman "The Reenchantment of the World" Cornell University Press, 1981
(※3)「呪い」「呪術」の論理については前掲書が詳しいが、加えて、中島らもの小説『ガダラの豚』に登場する一説は、現在における「呪文」が如何様なものであるかを端的に示している。
「(前略…)文化的な機構として呪いは実効力を持つ。極端に言えば、たとえば言葉というのはひとつの呪いだ。ただし、それは同じ文化土壌の中でしか効力を持たない。関東の人間は〝阿呆〟と言われると深く傷つくが、関西人には半分ほめ言葉のようなもんだ。つまり、呪文というのは絶対的なものではない。人間のなりわいの中にあってこそ作用するものなんだ」
中島らも『ガダラの豚 Ⅱ』集英社文庫 1996年 55頁
(※4)播磨の映像インスタレーション《This is mirror, after Camnitzer》および、《This is Mirror/Night》のタイトルは、ウルグアイ出身のルイス・カムニッツァー(Luis Camnitzer)の1966年に制作された、レリーフ作品が元になっている。この作品は 元々版画家であったカムニッツァーが、初めて制作したコンセプチュアルな作品とされている。作品は、ペグボードのようなものの上に黒いプラスチック製の文字でこのように書かれている。
“This is a mirror. You are a written sentence.”
参考画像:http://www.casadaros.net/sites/default/files/styles/gallery_middle/public/artworks/105.269-A1_3.jpg?itok=3rOC5I4X
播磨の《This is mirror, after Camnitzer》の映像中、および『裏側からの越境』の展示の中に現れるシルクスクリーンの版に書かれた“This is a mirror. You are a printed sentence.” は、このカムニッツァー作品のテキストを改変したものだ。
“This is a mirror. You are a printed sentence.”という、新しく生み出されたある種の呪文が、黒沢清の映画『回路』における汎幽霊的な指向をいかに拡大したかは、本文に示した。
(※5)映画自体の幽霊性≒他者性に関するものは以下よりも禍々しいものはない。
高橋洋『映画の魔』 青土社 2004年 26−29頁
(※6)本論考は、以下の展覧会の鑑賞をもとに書かれている。
藤沢市アートスペース 『播磨みどり 裏側からの越境/HARIMA Midori Crossing the Boundary From Behind』 主催 藤沢市、藤沢市教育委員会 2022年10月8日-2022年12月18日
(※7)前掲の展覧会で配布されたハンドアウトに記載の播磨の言葉より抜粋。
(※8) アルカジイ ストルガツキー , ボリス ストルガツキー 『ストーカー』 深見 弾訳 早川書房 2014年
Arkady Natanovich Strugatsky, Boris Natanovich Strugatsky "Roadside Picnic" Macmillan, 1972
(※9)絶滅に関する思弁性は以下に詳しい
レイ・ブラシエ「絶滅の真理 星野太訳 『現代思想 2015年9月号 特集=絶滅 -人間不在の世界』 青土社 2015年 66−75頁
Ray Brassier "The Truth of Extinction"in Nihil Unbound: Enlightenment and Extinction, Palgrave Macmillan,2007
(※10)印刷技術における人間の世界認識の変化、およびそれを語ることの難しさは以下を参照。
エリザベス・ルイスホーン・アイゼンスタイン 『印刷革命』 みすず書房 2001年 11−15頁 275−284頁
Elizabeth Lewisohn Eisenstein "The Printing Revolution in Early Modern Europe" Cambridge University Press,1984
(※11)マーク・フィッシャーは、晩年にあたる2015年頃、資本主義自体を一つの行為主体として見なしていたことが以下の文献から伺える。晩年のマーク・フィッシャーのこうした発想を、敢えて本論考の言葉で言い換えるなら、「資本」こそが、この惑星を事実上覆っている行為主体であり、人間によってもたらされたAIであり、人間が捉えきれなくなった「呪い」である。
マーク・フィッシャー『奇妙なものとぞっとするもの──小説・映画・音楽、文化論集』 五井 健太郎訳 Pヴァイン 2022年 15−16頁
Mark fisher "The Weird and the Eerie" Repeater, 2017
マーク・フィッシャー『ポスト資本主義の欲望』 マット・コフーン編集, 大橋完太郎訳 左右社 2022年
12−13頁 163−167頁
Mark fisher, Matt Colquhoun "Postcapitalist Desire: The Final Lecture" Repeater , 2021
池田武史 Takeshi Ikeda
アーティスト。ハードコアバンド、コアオブベルズのドラマー。『風の谷のナウシカ』公開の翌月に生まれる。 高校の頃ドイツから取り寄せたAxCx(読み方は調べてください)のライブDVDに収められていた、全く演奏しないで飲んだくれている姿に衝撃を受けて、コピーバンドを辞め活動を開始。というか楽器演奏を終了。以後は都内や関西のライブハウスを中心に年間数十本のコンサートを精力的にこなすが、その内容は怖い話をする、似非ポルターガイストを起こす、物陰に隠れるなどであったと記憶している。近年はとうとう自分達で出演するのも辛くなり(主にメンバーの痛飲による体調不良が原因)、他人に依頼して、袋に入ったり、叫んだり、物陰に隠れたりしてもらっていた。みなさん、その節はありがとうございました。代表的なパフォーマンス手法は文化庁前でモッシュすること。
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