私が私を襲いにくる
激烈な暑さの中、本日は地元の防災訓練に消防団として参加してきました。
何を隠そう私消防団に所属してるんです。
そんなことはどうでもいいですね。
何か前置きを書こうとして何も思いつかなかったパターンです。
今日は、数ヶ月前に観た、とある映画を紹介したいと思います。
昨年公開された話題の映画『us』です。
監督は、『ゲット・アウト』で一斉を風靡したジョーダン・ピール。
このお方、もともとコメディアンだったそうな。
[簡単なあらすじを少々]
1986年。
サンタクルーズにあるビーチ沿いの遊園地に、両親とともに行楽に来た少女・アデレート。
少女は両親とはぐれてしまい、少し離れた場所にある全面ガラス張りの不気味なアトラクション内に迷い込んでしまう。
そこで、アデレートは自分のドッペルゲンガーと出会い、気を失い、失語症に陥ってしまう。
時は流れ現在。
アデレートはゲイブと結婚し、二人の子供に恵まれる。
休暇で家族一行でサンタクルーズのコテージに向かう。
アデレートは幼い頃のトラウマがあり、ビーチに行くことを拒むが、夫の説得もあり向かうことを決心する。
その夜、宿泊するコテージに自分たち家族にそっくりな家族が襲いかかってくる。
アデレートにそっくりな女性は自分をレッドと名乗る。
自分たちはテザード(クローン人間)であると語り、テザードはレッド達だけでなく、全世界で出現しており、彼らはオリジナルの人間たちを襲い始めて…
怖いです。
結末はだいたい想像がつくと思います。
わりとお決まりなオチになっていると思います。
ただしこの映画の主題はそこじゃない。
この映画はとにかく恐怖の演出が抜群にうまいです。
結末が容易に想像できることで、逆に恐怖が倍増します。
そういった映画です。
「ああ、たぶんこういうことだろうな…いやだな…そうだったらいやだなあ…あーーやっぱりーーー…」
こんな感じの気分になります。
視聴者側の恐怖へ向かう心理を考察したいんですが、それをすると盛大なネタバレになるのでここではやめておきます。
もしご視聴になられる方がおられましたら、最後に判明する事実に対して、想像をしてみてください。
「こういうことだったら、じゃあこういうことだな…うわ、きっついなあ…」
うん、わかりづらいですね(笑)
テザードがなぜ生まれたのか、ということに関しては映画内では語られていません。
しかし、テザードについて考えてみると、テザードはオリジナルの人間に対して深い恨みを持ち、明確な殺意を持って襲ってきます。
そこには自分たちが享受できなかった生活を、オリジナルの人間達はのうのうと享受していることへの恨みがあるように感じます。
おそらくテザードを通して、特権階級にいるような人たちの足元には貧しい生活をしている貧困層の人たちがいて、そうした貧困層にいる人たちによる反旗を描いたのではないだろうかと考えます。
そう考えると主題が「貧富の格差」にあるように思えてなりません。
劇中の主人公家族とその友人家族の描き方を見てもそれが現れているように思います。
自分たちよりも少し良いクルーザーを持ち、少し良いコテージを持っている友人家族に対して、表向きは仲良くするけどそこには明確な妬みが表現されています。
テザードという存在がこの映画で大きな役割を持つわけですが、テザードにはどういった意味があるのでしょうか?
ちょっと調べてみました。
tether
[名]
1(動物をつなぐ)つなぎ鋼[鎖]
2(体力・忍耐などの)限界
[動]
<動物を>(…に)つなぎ鋼でつなぐ;…を束縛する
goo辞書
https://dictionary.goo.ne.jp/word/en/tether/
なるほど…
テザードはオリジナルの人間と「つながれた存在」という意味であることがわかります。
冒頭で、この映画の監督は元々コメディアンであると紹介しました。
人を笑わせることを生業としていた人が、人を怖がらせる映画を撮るとはなんとも面白いなと思います。
人の感情を揺さぶるという意味では、その勘所を押さえている監督なのかなと思いました。
ぜひぜひ一度視聴してみてください。
「お前ら、誰だ?」
「僕たち(us)だ」