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コンテンツとしてあまりに普通だと知る

自由気ままに何を書いても一定の読者と、評価を貰える。それは天才のなせる技なのだと、自分でコンテンツを発信してみて気づきました。

色物のお笑い芸人などをみて、「王道を狙えよ」と高みの見物みたいにふんぞり返っていた私ですが、王道を目指す人たちが相対するのは、「ダウンタウン」であり「千鳥」であり、「サンドウィッチマン」であり、それは果てしもなく高い壁なのだと理解した時、私は彼らに対して何も言えない。そんなことに気がついたのです。

王道が一番格好いいという考え方は今でも同じです。しかしそれは多くの人が同じことを思っているわけで、当然競争倍率が上がるわけです。私は今公募のコンテストに向けて小説を書いているところですが、王道のストーリーを書いたとて真に文章に上手い人たちに敵うのか自信がありません。はなから勝負を捨てているわけではありませんが、やってみたことがないのとあるのとでは、その世界に対する解像度がこんなにも違うのかと、とても驚きました。文章を書く前は、書けばとりあえずいいものが出来ると思っていましたが、そもそも書き切ることが難しい。私が半ば舐めてかかっていた世界は、私が思っていたよりもずっと過酷で、狭き門なのだと知りました。

この歳でそれを知れたのはまだ良かったのかもしれません。もちろん早い人は小学生の頃なんかにこのことに気づいているのでしょうが。私は今から大学に入学し、そこで文芸について学びます。その前に、私の舐めた態度を払拭してくれたこのnoteにはまず感謝しています。そしてこのnoteで、良い文章についてもっと勉強していきたいと思いました。

誰が見ても良い作品というのはあると思います。もちろん百人に聞いて百人がいいと答える作品はないでしょうが、多くの人が面白いと認めるという意味で、誰が見てもいい作品というのはあると思います。それが王道の作品というものだと思っています。少年漫画で言えばバトルもののような。

小手先の技術というのは割と揶揄されがちです。私も少し前までは正々堂々勝負するのがかっこいいと思っていました。しかし、小手先に技術があるというのは、それだけ勉強して、そのものに対する理解を深めていることの裏付けなのだと最近は思うようになっています。

実際私は小手先の技術が使えるほどの知識もないですし、まだまだ文章を書くこと自体が勉強不足、実力不足なのだと実感しています。

大学に入れば自動的に勉強できるというわけでもきっとないでしょう。自発的に私が必要としている知識や足りていないのもを探さなければ、無駄に時間を過ごすだけのような気がします。

今回も自戒的な文章になってしまいました。そろそろ生活も一変する時期が近づいてきたので、ここらで一度喝を入れようという、そんな感じですかね。

文章を書くことの難しさを少しだけ知れたような気がします。難易度は人によりけりでしょうが、私には中々難しく、だからこそ面白いものだと感じました。

明日も書きます。またよろしくお願いします。読んでくださり、ありがとうございます。

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