ブランショ 『明かしえぬ共同体』 抜き書きノート
ブランショ 『明かしえぬ共同体』 抜き書きノート その①(西谷修による解説)
ナンシーのバタイユ論である『無為の共同体』を契機にして本書が書かれた。前半部でバタイユの試みと自身の政治的な経験を踏まえつつ、後半部でデュラスの小説『死の病』を参照しながら、「共同体」に対する考察を行っている。
前半(ナンシーとバタイユの論点)
○デュラス、マスコロ、エドガール・モランとは50年代以降の政治的な行動で歩みを同じくしている。
○バタイユとも40年代から知己であるという関係を遥かに超えた仲であり、お互いに強い影響を及ぼしている。
○ブランショはバタイユの30年代を通して自らの経験を語っている。しかし30年代は別の立場から共同体を探求していた。
○ブランショはナンシーの論点をそのまま引き継いでいる。全体主義に対する批判という文脈の中にある。
○生産する有意な人間、自己を内在として形成する人間、という概念が個人を全体へと収斂させ従属させている。
○個とは抽象に過ぎず、「共同体の喪失」という負のファンタズムや「共同体への傾斜」を生み出す根源となっている。
○現状、直接それに応じるのはキリスト教的なコミュニオンか、ヘーゲル的な個と全体の弁証法のどちらかである。
○しかし共同体は近代化で葬られたものでもなく弁証法的歴史的展望や生産する主体が作る有意な社会の外側にある。
○個体は死によって我有化の能力を奪われ喪失の中で死そのものを失いながら未完了のまま消え果てる。
○これは自立にとって決定的な躓きの石となる。そして共同性は「人は1人で死ぬことができない」という有限性のうちにある。
○誰かの死の隣にいることは、対称的な個として措定する可能性を奪い去る。
○そして、差異を晒すだけの存在として隔てられるが、その分割を分かち持ち共に支えることが共同体の逆説的実相である。
○有限性を自覚せざるをえず分割として、この限界を共に分かち合う。ここに、既にある共同体を発見する。
○帰属、内在、個の止揚、融合、超越、有限性の補完ではなく有限性を晒し出すことに共同体を見出している。
○未完了の存在が裸でその有限性を晒し合う純粋な差異の接触としてのコミュニケーションが想定されている。
○バタイユの共同体は「内的体験」という概念と密接に結びついている。
○誤解されがちだが、「内的体験」は超越的な価値や権威への廃絶を目指している。
○ナンシーの共同体論もバタイユの「内的体験」を引き継いだものということができる。
○「体験の中で主体と客体は効力を停止する。」「このとき主体は非知、客体は未知となる」とされている。
「一切の際を流し去る幻惑の中に主体を飲み込むのではなく、主体の個別性の解消によってもはや、主-客の中で客体を知によって支配しようとはしない<非-知>と、主体によって所有されるべき客体ではない<未知のもの>(もはや知の対象ではありえないもの)との直の接触を生むのである。」
後半(デュラスの小説に対する解釈)
○68年5月とシャロンヌ事件の想起から語り始めるのは政治と愛に関する省察が共同体という思考で結びつているから。
○共同体が制度的なものと共同幻想という方向で思考されるのであれば共同体に統合され奉仕する愛しか想定し得ない。
○共同体はそれらのはるか手前で生きられる。また、愛も本質的に社会を締め出し外に連れ出していくものである。
○それ故に共同体と愛は社会の外で出会うことになる。
○ブランショは閉鎖的な愛の世界を幸福な融合の世界だとは捉えていない。
○絶対的な他者が二重の差異(他人として性的な他者として)を際立たせて身を接し合うだけの世界として読み取っている。
○差異の抹消が統合への飛躍を約束するものではなく裸になり触れ合うことにより、ますます際立つだけの差異である。
○物語の中では男と女が登場するが以下のような違いが見られる
他者を知るという形によって所有しようとする男 ⇄ 身を委ねる女
試そうとして享受しない男 ⇄ ひとり悦楽を知る女
知ろうとする欲望に突き動かされる男 ⇄ すでに自足しているかのような女
そのわけを問わずにいられない男 ⇄ 問うことすら知らない女
○ブランショが示唆しているように男は<非-知>の夜を潜り抜けなかったわけではない。
○だがその夜は知の主体であり続ける彼にはなにものでもなかったとしか思われない。
○「あなたを分け隔てている違いを通して彼女に達することのこの素晴らしい不可能性」を男は知り得ない。
○知の主体であり続ける限りは共同体を<未知のもの>として、知らないという形でしか生きることができない。
○女はあるがままに身を投げ出しているが、男も見ると知るという形の欲望のあり方とその不可能性とに身を投げ出している。
○差異の共同体、分割という共同性が生きられる<非-知>である瞬間もあれど…。
○知の主体であるとき、語ろうとするときでさえ、打ち明けるすべもない<明かしえぬ共同体>でしかない。
○「無名の大衆の現前」「恋人たちの世界」は個の総和でなく、個の消失としての超越をも失った直の触れ合いである関係。
○組織化や目的化を受け入れず、ただのそこにいるという要請のみによってそこにいる。
○ブランショによる「死の病」の解釈にはレヴィナスの影響が大きい。
○レヴィナスにおける他者の背後には神がいるが、ブランショは徹底して地上に踏みとどまり、人間としての他者しかみない。
○そのとき孤独を支えるものは何もないが、だからこそ孤独な者として未完了な者として有限性を晒し合い共同性が現れる。
○愛の世界と政治をロマンティックに貫通させたいわけではない。
○性を契機とした対幻想とその単純な延長ではない共同幻想とを無媒介に連続させたいわけでもない。
○共同体はそのような幻想の限界に崩落として現れるので、共有される幻想も人を内在へと包み込む共同性もない。
○むしろ、それらを排除するのがコミュニケーションである。
○おのれを投げ出すことの中で我知らず果たされる一切の幻想を離脱した触れ合いである。
○だからこそ<共同体を持たない人々の共同体>なのであって語りえる権能すら持ち得ない<明かしえぬ共同体>なのである。
全体主義批判として
○ブランショは「共同体」をめぐる考察を同時に「共産主義」が提起している問題として語り始めている。
○史的唯物論の影響が語の意味を完全に覆い尽くし、現在では共産主義国家の内実がこの言葉を規定している。
○共同体も近代社会以前の失われた価値の復興として先進国ナショナリズムやファシズムの原理として機能している。
○異なる歴史的な文脈のもとで2つの言葉の関連性は自明ではなくなっている。
○ただし日本ではマルクス以前のコミュニズムとそれ以降で「公有制」と「共産主義」と分けて訳されている。
○マルクス主義(史的唯物論)の影響を除けば「共産主義」は本質的にプラトンのような「公有制」を意味する。
○唯物論的な生産に規定される労働という概念がまさにここで語られる<内在>の構造で想定されているものである。
○「共産主義」=マルクス的な近代と経済の徹底 ⇄ 「共同体」=ファシズムの根拠となる反近代的な価値
○「共産主義」と「ファシズム」は近代に対しての態度において激しく対立するが、「国家」により全体主義へと収斂してしまう。
○ブランショの提起 → 共産主義を近代が産んだ共同体への要請として問い直すこと。
○ブランショの提起 → 共同体をあらゆる権力とトポスから外へ開くものとして見出すこと。
○現代の共産主義批判はスターリン主義以前、果てにはドイツ観念論や西洋の形而上学から見直すことを指向している。
○これらは現実に対する抗議から出発し根拠とされた思考を批判し対案を配置するという方法になる。
○しかし「言説が現実を組織し規定する」「言説に責任あり」という糾弾者からの目線、魔女狩りに対する違和感がある。
○共産主義は歴史の要請に応えたものであり、この要請は現在でも否定し難く必然的に存在している。
○この要請は共同体の共同体への要請であり、現在を根底から規定しているものである。
○ブランショはむしろ「有罪者」として思考する。革命とファシズムという大災厄の中で生きてきたため。
○<共同体への傾斜>は<近代>が不可避のものとして抱えている病である。
○人間は1人では完結し得ない有限な存在であり、そのこと自体が他者や共同体へと運命づけている。
○共同体はこの有限性を賄うべき超越として帰属すべき内在として存在するわけではない。
○未完了で有限な存在が自らの条件を担い、有限性にさらされるとき既に共同体はそこにある。
○有限性に晒すのは権利を主張する社会的な一個人ではなく、同じく無権力に身を委ねる存在者である。
○存在者どうしは未完了なまま互いに有限性にさらされ限界を分かち持っている。
○この限界(=差異)意外に共有すべき何ものもなく、互いに身を晒し、身を投げ出し与える贈与しかない。
○この贈与が言語などの媒介を必要としない超越を生み出さない直の交流、存在が交わり通うコミュニケーションとなる。
○<コミュニケーション>が制度的な、共同幻想としての共同体を排除する「共同体なき共同体」の不可能な実質である。
○<コミュニケーション>は制度としての持続を拒否し、政治党派に回収されない共産主義の不可能な実質でもある。
○マルクスも主体の形成を交通として語っている。受け渡されるものの帰属を超えた流通として捉えている。
○言われたことより言うという行為、伝達の手段ではなく贈与となるときにコミュニケーションが現れる。
○ものの流通が価値を生む手段ではなく交通として誰にも帰属しない出来事であるときにも現れる。
○そのときに現れる共同体に向けられたのがブランショの共産主義である。
○マスコロの「共産主義とは、コミュニケーションの物質的追求の過程である」という言葉を冒頭で引用している。
ブランショと政治
○文芸批評家として戦後から評価を受けたため、30年代に右翼の政治ジャーナリストであったことは知られていない。
○ブランショの文学探究は公的な政治活動からの撤収を理論化したものだともいえる。(<沈黙><忘却><死>のキーワード)
レヴィナスの影響
ブランショの「顔」「殺意」「他人に対する責務」「責任」はレヴィナス的な文脈で解釈すべき。他人とは一つの超越。「顔への接近」という体験で捉えている。「顔」に相対して「君は殺さない」という倫理的な要請を引き受ける責任と主体が発生する。私の責任と言ったとき他者のために「人質」となることを意味する。主体としての代替不能性はその責任を担うことで生まれる。
文庫版あとがき
○近代主義者は「自由な個人の契約」の含意を持つ「社会」に対して消え去るべき過去の遺物として規定している。
○主体の「行為」が作る歴史的時間の圏域ではなく脱時間的で現在の「無為」の領域における関係性が共同体である。
○客観的に把握できず、「現在」として完遂され、跡形もなく過ぎてゆく歴史化しえない関係として考察している。
○個人的な利害関心ではなく無数の人々がなぜコミュニズムとファシズムに引き寄せられたのか?
○それは「近代」が退けた「共同体への傾斜」のせいである。共同体の要請によるものである。
○コミュニズムが全体主義に転化し得るような権威に対する拒否の瞬間的「勝利」はその場で完遂される。
○ブランショにとって、五月革命はその場で完遂されて跡形もなく消えていった「勝利」の一つの場面である。
○人間は「共同的存在」 → 孤独感・言語・存在が単独で完結しない。「共」は「存在する」の構成的な様態である。
○「共存在」がメディア的な「公共性」によって代替されているのが近代の「日常的現存在」だとハイデガーは指摘する。
○そこには誰にも代替できない自分自身の死に直面することで「現存在」は「本来性」に目覚めるという発想がある。
○ハイデガーは具体的な歴史によって生成された個を超えた民族という観点で初期のナチスに希望を見出した。
○一方で、バタイユは「共存在」が実体や目的として構想された「共同体」に還元しないことを狙っていた。
○アセファルを「共同体の企て」である「散逸」で「共同体の不在」を「完遂」した極限的な試みとして位置付け。
○デュラス『死の病』で描かれる恋人たちの共同体に「無限の差異」と「分離」そのものの共有を見出す。
○「共同性」は経験的な行為の目的として実現されるのではなく行為のうちに反復として生起し、完遂される。
○「共同体」を求める企ては常に裏切られるという形でしか実現しない。どんな実態としても形成されない。
○メディア空間を誰のものでもないが故に万人に開かれた公共性へと変容した瞬間が68年5月だった。
ブランショ 『明かしえぬ共同体』 抜き書きノート その②(否定的共同体)
☆前半について
前半はバタイユとの経験やナンシーの共同体論について語っている。バタイユ自身は「神話の不在」を「神話の不在の神話」へと実体化する戦前の試みを通して、「共同体の不在」から「不在の共同体」の、あるいは「共同体を持たない者たちの共同体」という結集に希望を紡ぎ出そうとした。ブランショはナンシーの『無為の共同体』に触発され、戦後の状況とバタイユの雑多な著作や試みの再解釈から共同体論を抽出し語り直している。
「これまでわたしたちが、存在の未完了性ないしは不完全生を共同体の原理としてきたとするなら、今わたしたちが、共同体を「恍惚」の中に消滅する危機にまで高めるものの兆しとして見ているのは、共同体はまさしくそれを限界づけるもののうちで実現されるのだということ、共同体はそれを消滅させ無化するもののうちで至高なものとなるということ、そして共同体は、以後残されたしかるべき唯一のコミュニケーション、ただ文学という不都合な手段を介してのコミュニケーションのうちに引き継がれるということである。」
○共産主義、共同体
冒頭で本書のテーマは「共産主義の要請と共同体の可能性あるいは不可能性…(中略)…言語の欠陥に関する考察である。」や「それ自体の不可能性にいつも何らかのかたちで縛られているこの可能性とはいったい何なのか。」と宣言している。共産主義の素朴な要請は人間が絶対的に内在的な存在であるという想定の下にある。「人間はおのれの営みの所産であり、最終的には全体の所産でもある」。一方で、それに呼応するのが個人主義である。「おのれ以外に起源を持つことを拒否し、他者に対する依存関係の全てに無関心なものとして現れる。その他者は過去や未来の際限なく反復された自分自身でもある。そして死すべき者であると同時に自らを不死の者として宣明する」。
○共同体の要請、ジョルジュ・バタイユ
「彼が注視するときには対等な者としてありながら彼とは常に非対称な関係にある他者を導入する」のだとしたらそれは共同体と呼び得るのか、別の社会形態なのか、という仮定からバタイユは共同体の要請を実現すべく試みた。その結果、「孤独を味わったが、いつでも共同体の不在へと転化しうる不在の共同体(不在を共有する共同体、分かち合われた孤独)に身を晒していた」。バタイユによれば「私の共同体の不在に所属しないことが誰にせよ許されているわけではない。」ということらしい。
○なぜ「共同体」なのか?
歴史的にはさまざまなグループ、ソビエト、ファシズムなど列挙することができる。「共同体は既成の概念の枠組みでは捉え切れず、思考する段になると低劣で唾棄すべき側面に否応なく還元されるか、あるいは何やら重大な驚くべきものがそこにあることは予感されながらまともに思考され得ないゆえに十分な闘いを組み損ねてしまった」
○不完全性の原理
「なぜ共同体なのか?」という問いに対して「不完全性の原理」という明確な答えを与えている。原理であると呼んでいる限りでは、「一人の存在者の可能性を統制し秩序づけるものであって、欠如は補完の必要性を伴わない」ことがポイントである。「不充足の意識は他者により不可能性を意識することにより生じる。そしてこの付疑が果たされるために他者が、あるいはもう一人の存在者が必要なのである。存在者は単独では己のうちに閉じこもり眠り込みそこに安らいでいる。存在者は単独であるが、自分が単独出ることを知るのは彼が単独ではないその限りにおいてである。」と分かりやすく記述がある。他にもポイントになる箇所を引用しておく。「不充足の意識は存在者が自分自身を疑問に付することから生じる。」「私の考えは、私ひとりで考えたものではない。」「存在者が求めているのは承認されることではなく、異議提起されることである。」「不断の自己解体を通じてのみ、おのれを構成してゆくことになる。」「分断された個人としてのあり方に固執し続けることの不可能性を意識させるのは意義に晒され避妊を受けるこの剥奪状態なのだが、彼が他者に向かうのはまさしくそうした不可能性を意識するためであり、この剥奪状態の中で初めて彼は存在し始めるのである。」「自分を常にとりあえずの外部性として、あるいはそこかしこに破綻をきたした現存として体験しながら、ただ、荒々しい沈黙のうちで不断の自己解体を通じてのみ、おのれを構成していくことになる。」
そこで、不充足の原理により、複数の他者、共同体を求めることになるが、やはりそれも有限なものであると断言している。「共同体はある合一への傾向、融合状態、集団的沸騰状態へ向かう傾向を持っている。」しかし、そうなると、「ただ一つの単位を作り出すのみであって、自己の内在性に閉じこもる単独の個人を想定する場合と同様の反論にさらされる」ことになる。つまり、個人主義と内実が変わらないのである。
「不充足はそれに終わりをもたらすものを求めているのではなく、むしろ満たされるにつれてますます募ってゆく欠如の過剰こそを求めている」。それが異議提起を呼び求める。異議提起には他者が必要となる。「自己を不断に根底から疑問に付すものだとすれば、おのれの力を超えるその可能性を彼は一人で支えることができない」はずなので。
○合一(コミュニオン)?
バタイユは恍惚の神秘神学、恍惚体験の世俗的探求を目指しているようなイメージがあるがそれは間違いである。むしろ融合の実現を排除し、それに嫌悪感すら抱いている。共同体において、一体性のうちに忘我の状態であるよりも、「不充足でありながら、その不充足性を断念できない現存が揺さぶられておのれの外に投げ出される困難な歩み」を重視していた。「一体性は共同体が共同体としての自己を無化すると同時にそれ自体も抹消してしまうものでもある」とも表現されている。共同体を構成する個人が個人として存在を弱めて、共同体として一つの単位になってしまうため、実質これは共同体を解体する。
一体感を追求するべきではないとはいえ、「共同体は単にそれがおのれの限界を課す限界の中で複数で存在するという意志を分かち合いそれを共有するというものだけではない」と指摘している。
○他人の死
「何にもまして私を根底から問いただすものは何なのか?」ブランショは他者の死(死に瀕し消え去りつつある他人に対する私の現前)であると断言している。ここで言われているのは、死の孤独を分かち合うための対話の中に絶対的な不可能性が見られるということだと思われる。「同胞が死んでいくのに立ち会うとき、生きている者は、もはや自己の外に投げ出されてでなければそれに耐えられることができない。」「彼の最も本来的な可能性でもあるだろうこの孤独な出来事、そしてそれが彼の所有の権能を根底から奪い去ってゆく限りで人と分かち合うことのできない彼固有の所有に属すると思われる、この出来事の孤独を分かち合うために、私は彼と対話するのだ。」
○死にゆく者の隣人
共有の権能を停止してしまう他者の死が共同体を基礎づけるとしている。つまり、共同体の限界がそこにある。死にゆく者の隣人であることが重要なのは、死ぬことの不可能性(自らの死を完遂できないという意味での)を「いけない、君は死んでしまう…。」という優しい禁止によって傾斜の上に引き留めるためである。
ただし、「私は死なない、私の所属している共同体(祖国、世界、人類、あるいは家族)が存続している以上は」という考えに反論している。ある契約や血縁や民族、人種の承認によって結び付けられるような共同体は、そもそもここで想定している共同体の範疇には入らない。間違って『成員』と呼ばれているが、充足した単位に送り返される。
○共同体と無為
ナンシーからの引用→「共同体が他人の死によって顕現されるのは、死がそれ自体、死すべき者たちの共同体だからであり、かれらの不可能な合一(コミュニオン)だからである。…(中略)…共同体は、それ自身の内在性が成立せず、主体としてそこに所属することはできないというそのような不可能性を引き受けている。…(中略)…共同体とは、その『成員』に必ずや死ぬという彼らの真実を提示するもの、あるいはその提示そのものに他ならない。…(中略)…それは、有限性と有限な存在を基礎づけている見返りのない過剰との提示なのである。」
ナンシーの考察①共同体は限定された社会の一形態でもなければ、合一(コミュニオン)による融合を目指すものではない。②社会的な小単位と違って共同体は何らかの営みをなすことをおのれに禁じており如何なる生産的価値をも目的としない。
死のさなかの交替が合一(コミュニオン)にとってかわる。バタイユいわく「共同の生に必要なのは、死の高みに身を持することである。大多数の私的な生に割り当てられているのは卑小さだ。しかし共同体は死の強度の水準においてしか持続しえず、危険が比類ない偉大さを失ったときから直ちにそれは崩壊しはじめる。」ということらしい。
○共同体とエクリチュール
共同体は至高性の場ではないと断言している。おのれを露呈しながら他を露呈させるものである。共同体は共同体を締め出す存在の外部を内に含んでいる。つまり、他者とのやり取りの中で、根本的にことばの同一性が成り立たない。共同体は分かち合われることなく、交わし合うことばとして展開され得ない。つまり、つねにすでに失われている純粋な喪失状態の中でことばを可能にする。ことばの贈り物、他者によって確かに受け取られるということを保証し得ないような純粋な喪失としての贈与という考え方がブランショの文学に対する根本的な捉え方となっている。嘆願すら拒否され、行き場を失う、受領されないという危険性を孕んでいる。「共同体は他ならぬその挫折のさなかで、ある種のエクリチュールと関係する部分があるのではないかということが予想される。」ここで、デリダの影響が見られる。エクリチュールとしての言語の不可能性と共同体を想起させている。
バタイユの試み①共同体の探究、シュルレアアリスト・グループの場合、②「コントル・アタック(反撃)」、③「アセファル(無頭人)とフロント組織としての社会学研究会」
○アセファル共同体
誰も関与した人間が語りたがらないので、謎に包まれている試みである。出版されたテキストも射程を明らかにしていない。共同体は死によって基礎づけられるといった発想もアセファルの影響が大きいのではないかと思われる。ただ、本書だけではよく分からない。神話の不在という戦後の精神状況を背景にして、「古代社会に実在したと想定される共通の神話を生きることで作り上げられる祝祭の共同体」を現代に復活させることを目的としたらしい。ここでは、供儀の儀式の不可能性や共犯者としての意識に着目すべきかと思われる。
「各人がグループをなしているのは、ただ分離の絶対性によってのみであり、この分離の絶対性は砕け散ってついに関係となるためにおのれを宣明することを必要としている。」「この共同体は、自己を組織し死の供儀の執行を計画しながら、一切の活動を営むことを断念し、その断念さえも断念した。」「自らも死にながらでなければ犠牲者に死を与えることのできない執行者からその死を受け取る覚悟をした者の、供儀が実行されるはずだったあの森…」ここはアブラハムのイサク奉納に関しての解釈を論じたデリダの著作を読んだ方が良いのかもしれない…?「死の供儀の執行を計画しながら一切の活動を営むことを断念し、断念することすら断念したのだといえる。
○供儀と放棄
供儀に付すことは殺すことではないとバタイユはいう。「アセファルに関わること、それは、おのれを投げ出し、おのれを与えること、すなわち、無限の放棄に見返りもなくおのれを与えること、なのである。それは、共同体を解体しながら基礎づける供儀である。」とブランショは解釈しているが、一方で、「彼らを孤独に送り返してしまう」し、「一緒にさせることもない」という。そして、不在は共同体の唯一の秘密であり、「共同体の不在は共同体の挫折ではなく、極限的な瞬間、あるいはそれを必然的な消滅へとさらす試練なのである」としている。また、共有することも留保することもできない共同の体験だったのだという。「修道士たちは、持てるものを捨ておのれ自身をも捨て、それを持って共同体に寄進し、そこを起点として新たに神の庇護のもとで再び一切の所有者になる。」という表現は、自己を投げ捨てる主体の消失の果てに現れた共同体はその全責任を個人が負うことになる、ということを意味しているのだと思われる。ただし、アセファルはそのようなかたちではなく、「間近に迫った死の切迫として、撤収として」「死へのあらかじめの撤収」として現存した。「斬首は狂奔に解き放たれた情熱によってでしか実現されないが、この情熱こそ、おのれの解体により認可される、明かしえぬ共同体のうちに表明されたものである。」
ドストエフスキーの『悪霊』をめぐるフロイトの解釈とアセファルとの間には見過ごせない異なる部分があると指摘している。①死を与えながら同時に死ぬであろう者のみが死を与えることができる。②各人が全員のために死ぬ必要がある。ありうべき全員の死の中で各人が共同体の運命を決定する。③しかし供儀の執行はグループの法に反する。活動を断念し企てを排除することが要請されているため。④これらを踏まえて全く別の犠牲が現れる。1人あるいは全員の殺害ではなく、贈与であり放棄であり、放棄の無限性であるようなものである。
○内的体験
バタイユが出自となる概念である。「内的体験」は主体に発しながら主体を蹂躙する意義提起の運動とされているが、「実他者との関係を最も深い起源とするもので、この他者との関係こそが共同体に他ならない」とブランショは解釈している。また、その共同体は「無限への他性へと開き有限性を確定させるもの」であり、「知ることのできないもの、自己の外の認識を提起するし、逃れ得ぬものとして責任を課す」とも言っている。「孤立した存在者とは個人であり、個人とは抽象に過ぎず、通常のリベラリズムの脆弱な概念が思い描いているような存在に過ぎない」わけであるが、恍惚、政治的な行動、哲学、倫理的な探究によってそれを乗り越えることができる。「恍惚」は知を凌駕すると共にいつでも過去のものである。恍惚はそこに留まって体験することができない。同じ人間(しかしもはや彼は同じ人間ではない)が記憶から立ち戻るように語るしかない。内的体験が他者を必要とするにも関わらず「内的」なのは、それぞれが体験することに差異があり決して確かなものではないからだと思われる。
○秘密の分かち合い
秘密の分かち合いも個人の限界を破って分かち合われるとされているが、ある意味ではいかなる秘密もないがゆえに不可解であることそれ自体が秘密となっている。沈黙の中でも結局のところ全てが終わったのか全く定かでない。分かち合いは「理論化され定義づけの可能な真理あるいは対象となることもある」とはいえ、ナンシーの指摘するように、そこに保持すべき何者もない<非-処>でしかないし、「いかなる秘密もないが故に不可解で無為のためにしか」活動しない。共同体が消滅した後はその共有された秘密が文学として語られることを要請している。共同体が開示されるのは「それぞれに特異な義理のない少数の友人たちが、自分達の直面しているあるいは自分達がそこに運命付けられている例外的な出来事を、はっきりと意識しながら分かち合う沈黙の読誦によって、それを構成するとき」である(それらが別の形の共同体を開示することがなければ、それは公開を意図したものではないような苦痛に満ちた日記のノートのようなものでしかない)。開示されるといっても、ただ未知の者を前にして未知の責任へとさし向けられて、共同で生きられる孤独の中でその孤独を深めるばかりである。
ここでいう無為はブランショにおいて書くという行為との間で独特の解釈がされたものである。「書くことは日常の活動的な世界での営みではないが、ひとつの行為ではあり、書物という形で作品を生み出しはする」が、この作品は他の営みとは違って虚しいものである。そればかりか「文学作品はそれを書く作家に属しているのではなく逆に作家が作品に属している」という関係にある。書くという行為は二重にそれから逸脱していく。「ひとつはこの世の堅実な営みから、そして作品との結びつきを失う」という意味で。ブランショは無為に対して営み・作品からの逸脱、その消失といった消極的な規定ではなく、それ自体の積極的な作用を見出している。「書くことは人間の生を、そして世界を作品へと組織する営みを解体する、あるいは営みとしてのおのれを解体する能動的行為であり、同時に言語に営み・作品を組織する力を与えるものから言語を解放する行為」だとしている。「書くこと、それは営み・作品の不在(無為、営み・作品の解体を算出することだ。あるいは書くこと、それは営み・作品を通じ、営み・作品を貫通して算出されるものとしての営み・作品の不在である。」と訳者はブランショを引用している。作家は書くことしかできず、「決して作品の前にはいない、作品が存在するところにいながらそれを知らない」というわけである。これはデュラス『死の病い』の男やあなた(読者)の位相でもあり、アセファル参加者の位相でもある。
○文学的共同体
体験は単独者には起こり得ず、本質的には他者に向けてのものである。「自分の生が自分にとって意味あることを願うなら、私の生は他人にとって意味を持つものでなければならない」と表現されるように。そして、体験が極端に向かうのは体験がコミュニケーション可能であるからなのだが、「体験がコミュニケーション可能なのは、ひとえに体験がその本質において外部への開口であり他人への開口であり、自己と他者との間の暴力的な非対称性、つまりは引き裂きとコミュニケーションを誘発する運動である」ということにかかっている。そして、「その2つは同時的なもの」である。ここでのコミュニケーションという単語はブランショが独特の意味で用いている単語である。内的体験で発生するコミュニケーションは発信者、受信者、メッセージといった構造を崩壊させる無媒介で意味作用に還元できないものである。2つの契機(引き裂きとコミュニケーション)は相互に他を前提とし合い、相互に破壊し合っている。
ここでニーチェとバタイユの比較がされている。「ニーチェは自分の言葉を聞き届けられたいと身を焦がす一方で、受け取られるにはあまりにも危険な卓絶した真理をおのれのうちに担っているという、時に尊大な確信を抱いていた」が故に「狂気の時に至るまでおのれを放棄することはなかった」が、「ひとたびなされた放棄は裏切られた形で受け継がれる」ことになる(妹の改ざんとヒトラーの利用)。しかし、バタイユは友愛という概念を重んじていた。友愛は定義し難いが、「解体のさなかに至るまでのおのれ自身に対する友愛、通い合う道としての、そして不可避の不連続性から発する連続の肯定としての、人と人との友愛」として考えるべきである。友愛は「無為の共同体」の形態そのものである。
未知の者との関係は「それが書くことによって作られる関係であるとしても、私を死あるいは有限性へとさらけ出すが、この死の中には死を鎮めるなにものも存在しない。友を持たない未知のものへの友愛、友愛が書くことによって共同体に呼びかけるとすれば、友愛はおのれ自身から除外される他ない」と指摘している。これは読者が自分の読むものに関して自由な単なる読み手ではないからである。「読者とは自己放棄に身を委ね自分自身を失いながらも、同時に、そこに生起し喪失の中で彼の手を逃れてゆくものをよりよく見定めるために、路傍にとどまる同伴者なのだ。」とされ、自己解体を強制されている。そして、私がそれに宛てて書いている者(想定している読み手)が「たった今読み終えたものに心打たれて涙せずにいられない」のだとしても、作者がもしどこかに想定している読み手を見出したとしたら、それはその人だけの特異的な体験を否定され侮蔑されることでもある。あくまでも読み手の個人的な読みでしかないからである。よって、文学的共同体においても、この2つの契機(引き裂きとコミュニケーション)は存在する。ブランショは「このノートがアリアドネの糸のように私を同胞たちに結びつける。その余は私には虚しく思われる。とはいっても私はそれを友人たちの誰にも読ませることができないだろう。」や「ごまかしだ!書くこと、真摯に裸形であること、そんなことは誰にもできはしない。そんなことはごめんだ。」とバタイユを引用している。文学的共同体は、読み手である未知の者との関係によって、「否定的共同体、すなわち共同体を持たない人々の共同体」とバタイユに呼ばれていた。
○心あるいは法
『精神現象学』をふまえたタイトル。ここは前半の議論の結論をまとめている部分である。ヘーゲルは法と倫理の生成、主体の共同体への上昇を説いたが、ブランショは「心の法」を社会的な「徳」に上昇させるのではなく、至高性を否定して、あくまでそこに留まるように意義提起を突きつけている。そして、「至高な形で至高性を否定するための、そしてあり得ない不可能な共同体から発して、コミュニケーションの基盤にあるものの中断に結びついた大いなるコミュニケーションの幸運に到達するための絶望的な運動がある。」と、近代の個を否定した先に共同体を見ている。しかし、そのコミュニケーションも共同体そのものの抹消を経由するがゆえに分かち合われることがない悲しさがある。
「コミュニケーションの基盤は必ずしもことばではなく、耐え難い不在であるような他人の死におのれをさらすことである」「この不在とともに友愛は戯れ。そして一瞬ごとに消滅していく。それは関係のない関係、あるいは無際限な関係以外の関係を持たない関係である。」とここで改めて強調している。そして、友愛を「私たちが自分一人では体験することのできない私たち自身の孤独との出会いを顕現する」ものだとしている。共同体は孤独の癒やしでも保護でもなく、「親愛の心として、-心あるいは法-彼を孤独にさらすその在り方」なのだ。
ブランショ 『明かしえぬ共同体』 抜き書きノート その③(恋人たちの共同体)
☆後半について
デュラスの小説の解釈によって共同体を考えていくのが後半となっているが、まずは政治的な出来事からの導入となっている。
☆「死の病い」について
ポストモダン叢書から『死の病い・アガタ』として出版されている。「明かしえぬ共同体」の出版に合わせて急遽翻訳したとのこと。訳者あとがきには西谷修にも助言をもらったとの記述あり。小説は視点が面白い。そこに登場するのは語り手を除けば固有名詞のない男と女だけである。そして、語り手が一人称「わたし」、読み手は物語の中で男として扱われ二人称「あなた」、女が三人称「彼女」という、なかなか見たことのない独自の語り口で話が展開していく。断定的な表現を極力排除しており、どこかはぐらかされている気分になる。これは読み手が主人公の男と同一化している構成となっているからであり、読み手の想像に委ねられている部分が多いからである。導入部分で「〜かもしれない」という表現が目立つ。あなた(=男)は「彼女を知らないのでなければならないだろう」、あなた(=男)は金で女を「買ったのかもしれない」、このようにテキストは未知なる読者に行動を委ねているように見せかけて暗に行動を命じ、行動したことにしている。
☆「死の病い」あらすじ
男が女を買った理由は「愛することを」知るためであり、「静かな動かないセックスのうえ、あなたが知らないでそこに眠るために」「世界のその場所で涙したい」からなのだという。毎日その女は彼の部屋に来ることになっており、体の関係もある。女は男のなすがままにされている。女は質問をするとしても、いつもたわいもない内容についてである。男はそれについて教える。例えば、季節とか海の音とか海の色についてなど。一方で男は女に愛をめぐる抽象的な質問しかない。そして、女は男が死の病いに犯されていることを宣告し、ことあるごとにそれを指摘する。女はよく眠るが、それと同時に部屋に不幸が増大する。一方で男には自分自身から抜け出したいと思い泣く癖がある。
この物語の最後、「ある日、彼女はもういない。」「夜のうちに行ってしまった」。なぜ消えたのか、どのようにして消えたのか、果てにはこの男が殺したのか、それは明らかにされていない。「彼女の突然の不在によってあなたとの違いが確かに」なる。すぐに諦め「あなたは彼女を探さない」し、「それが生じてしまう前にそれを失うという仕方でその愛を生きることができた」のである。
○68年5月
ブランショは、企ても謀議もなしに爆発的なコミュニケーションが発現し、階級や年齢、性や文化の相違を超えて初対面の人と関われる開域があったと証言している。権力奪取、占拠、転覆といった「伝統的革命」ではなく、ことばの自由によって、友愛の中で、共に在ることの可能性を表出させることがこのことに重要だった。語ると言うことが語られる者にまさり、純粋な沸き立つ感情が表明され、権威は無視されいかなるイデオロギーも自分のものだと主張できない、未だかつて生きられたことがなかった共産主義がここに出現したのだと人々は感じていた。敵を識別することもなく全てが許され、反対行動の不在の中で沸き立っていた。示威行動は展開されるに任せていた。ブランショは実は決着をつける必要のあるものなど何もなかったのだと捉えている。
○民衆の現前
民衆の現前は、いかなる権力をも引き受けまいとする、無能力の宣言の中で理解されるべきである。「委員会」も非組織を組織すると主張していたが、友情を否定して友愛に訴える友人サークルといった難しさがあった。シャロンヌの集会も同じように、何もしないで、その場にいることのできない犠牲者を継承する存在としてただ集まるだけだった。そして、誰ひとり解散を指示するものもおらず散っていった。「現前と不在は混合されるものではないとしても少なくとも実質的に入れ替わり合う」ものである。そして、民衆とは社会的事象の解体であり、法が囲い込むことのできない至高性(主権性)--至高性とはあくまで法の基礎でありながら法を締め出すものである--において再創出しようとする執着」だとしている。
○恋人たちの世界
民衆によるこれら無能力の力と恋人たちを貫く、愛することの不可能性は似たように特徴づけられている。民衆は「人々の集まりというより、空間の全てを、といっても場所のない空間(ユートピア)を占拠する、常に解散の運命にせまられた現前であり、おのれの自律性と無の他に告げるべきことを持たない一種のメシアニズム」である。一方で、「愛とは決して確かなものではないうえに、愛の要請は、愛への執着が愛することの不可能性という形態をとるにいたるような円環として課される」こともある。「いかなる生ける情熱を持ってしも近づきようのない孤立した存在者たちに向かって身を差し伸べたいと望む人々の、不確かなそれと感じられることもない痛み」これが「死の病い」なのかもしれない。
○死の病い
キルケゴールに由来すると思われるタイトルである。「痛みは問いかけを受け付けない耐え難いものだ」が、死の病いのような強い痛みは意識してようがいまいがまず他者に関わりを持つそして、「他者は聞き取ることとしての了解を超えており、私はそれに答えることを定められてはいるがその権能を持たない」と考察している。
ブランショは「このテクストが謎めいているのは還元不能であるという点に由来する」と指摘している。「誰でも思い思いにそこに登場する人物たちのイメージを思い描いてみることができる」からである。そして、「彼女がそこにおりかつそこにいないという事態を生じさせている現前のもう一つの特徴は彼女がほとんどいつも眠っているということ」にある。この眠りは「攪拌されてはならないものだが、同時にまた解読すべきもの」として知ることを妨げている。
「予め敗北を定められている闘い」でしかないのは、彼女は「把握可能な全体」や「統合可能な有限性に帰してしまうような総和にしてしまう」ものを逃れる限りにおいてしか、「閉じた形」として存在し得ないからである。男は「自分自身から抜け出そうと試みるその直向きな情熱を持って」おり「たえず何かをする」ような「約束をされてもいない目覚めを待ちながら墓の中でなお目を見開き続ける不眠症患者」だと表現している。女は「あなたは愛することができないで泣いているのだと思っているけれど、本当は死を課すことができないでないでいるのだ」と涙を流す男を断罪する。その非対称性が読み手の探索を遮る謎である。
○倫理と愛
その非対称性とは何なのだろう。ブランショは「愛するという感情が不意に訪れるとしたら、それはどのようにしてなのか、とあなたは訊ねる。彼女は答える。たぶん世界の論理の突然のひび割れから。彼女はいう。例えばひとつの過ちから。彼女はいう。意志からは決して。」と引用している。愛するという感情により、知識では「あり/知り」えず、相手に対する「理解という作用が要請する同質性の中に異質なもの」や「あらゆる関係が関係なしを意味するような絶対的に他なるもの」や「意志と欲望さえもが、突然の出会いの中で超え難いものを超えるという不可能性」などが現れるのだという。これらは最終的には猛威を振るう感情と共に自己を失いながら消滅する。愛するという感情には感情を超えた彼方に「満たしうるものを超える要求」だけでなく「要求されているものを遥かに超える」ものがあるからである。我々はそのとき「生の中におさまりきらず、そのため存在のうちに止まり続けようという要求を断ち切って果てしなく死んでいく」か、「終わりのない彷徨の外異性に身をさらす」しかない。小説の中では「愛するという感情はどこから訪れるのか」という問いに対して、「すべてから…死の接近から…」と女が答えている。ここに「死の病いの二重性(あるときは阻害された愛を指しているかのようであり、あるときは愛するという純粋運動を指しているかに見える)が立ち戻ってくる」のだとブランショは考察する。その両者が呼び寄せるのは「開かれた両足」の間の目眩く虚無が暴き出す深淵である。
ここは少し難しいので個人的な解釈になってしまうが次のようにまとめることができるかもしれない。①阻害された愛の運動→「愛するという感情を抱くほど不条理な要求を超えた要求を抱いてしまう。そしてそれ以上ないくらいに接近し一体化したとしても満たされない虚無と、現前しながらも常に消え去っていく相手の生々しさ、この猛威が自己を解体してしまうという意味で死んでしまう」②純粋な愛の運動→理解という作用が要請する同質性により自己が変容する。
次のトピック「トリスタンとイゾルデ」や「決死の跳躍」で古代ギリシアの逸話などを引用して愛と死の接近について考察する。
○トリスタンとイゾルデ
主人公の男には最終的な断罪が待ち受けている。若い女がある日、忽然と消えてしまった。しかし、「それがあまりに慎ましく完璧であるために、彼女の不在はその不在そのものを抹消してしまう」ような消え方をする。だから、彼女を探し求めても無駄であり、再びどこかに見出すことも不可能になってしまう。そして男は探すことをすぐ諦めてしまう。「あなたにとって起こりうる唯一の仕方でこの愛を生きることができたのだ、愛が訪れる以前にすでにそれを失うという仕方で」と引用されるように、「ひとが持っていたものを失うことによってではなく、決して持たなかったものを失うことによって実現される愛の成就」の物語であるといえる。これはデュラス特有の経験ではなく一般的なものであるといえる。
ここでブランショはトリスタンとイゾルデの物語を引用しているが、元ネタを知らないが故にまるでピンとこない…。レヴィナスを意識した上で「自己が他者を認知し他者のうちにおのれを認知するということに満足するのではなく、自己が他者によって疑問に付されていると感じ、限定され得ず枯れることなくおのれを超えて溢れ出る責任によってしか、それに答えることができない」のでなければ倫理の可能性はあり得ないとブランショは述べている。「他人に対するこの責任あるいはこの責務は、法に発するものではなく、むしろ逆にそこからこそ、いかなる合法性の形態にも還元し得ないものとして法は生まれる」のである。
さらに無駄に捕捉しておくと、トリスタンとイゾルデは中世の宮廷詩人が語っていた物語だそう。ワーグナーもこれをテーマに楽曲を制作している。話が複雑すぎて全部把握するつもりもないのだけど雰囲気だけでも。要するに愛が死を呼び寄せるということなのだと思われる。早稲田大学交響楽団のHPからの引用。「死によって2人の恋愛が初めて成就したことを意味します。ワーグナーは生前、マティルデへの手紙で次のような言葉を残しています。”憧れるものを一度手に入れたとしても、それは再び新たな憧れを呼び起こす“ ”愛の憧憬や欲求がとどまるところを知らず、死によってしか解決しない“これこそがワーグナーにとっての「愛」であり、この楽劇全体のコンセプトでもあります。そしてそれが最も明確に投影された箇所がこの「愛の死」といえるでしょう。不協和音から始まった二人の愛の旅路は、死をもって完結したのです。」
○決死の飛躍
ここでは情熱と倫理の関係について考察している。「私は他人に対しては自由ではないが、私を私自身から連れ出し、ついには私を私自身から閉め出そうとする要請を私はいつでも自由に拒むことができる」のであるにも関わらず、「情熱は宿命的に、自分の意に反してでもあるかのように、私たちに他者に対する責任を負わせ」、「他者は私たちの到達しうる可能性の範囲外にあるように思われるが故に一層私たちを惹きつける」のである。
決死の跳躍という言葉はキルケゴールが審美的実存から倫理的、宗教的な実存に至るために必要としたものである。イゾルデに対してトリスタンがとった行動がこの言葉を想起させるからタイトルにしたそう。
ここでまた元ネタの分からない物語が出てくる。プラトン『饗宴』のうちファイドロスの演説、ソクラテスとディオティマと問答から引用している。そこで出てくるのが「死期の近づいた夫の身替わりに立つものがあれば彼は死を免れるという運命の女神の言葉で王妃が身代わりとして死んだが、その純粋な愛ゆえに地上に再び戻される」という逸話である。ディオティマ「あらゆる愛の目的は不死である」という結論を導き、プラトンは「彼女の犠牲は徳の思い出が不朽に残ることを信じればの行為だった」と断じる。ブランショは「愛し合う者どうしだけが他人のために死ぬことを受け入れるのだ」という言葉を引用している。
ここらへんの内容は「愛することを本当の意味で知っている者だけが他者のために死を選べるような決死の跳躍を行うことができる。愛という情熱はいつでも倫理を超える可能性を持っている」と一言でまとめても良いのではないかと思う。
「死よりもなお強い愛、その愛は死を抹消するのではなく、死が表象している限界を踏み越えて進み、そのことによって他人の援護に関して死を無力なものとしてしまう」のは「生に栄光のない超越生を与え、生を無期限に他者に奉仕させるため」であるのはブランショが戦争で死にかけた経験も踏まえてのことではないかと想像できる。
しかし、依然として「情熱の抗い難い運動は破壊にまで突き進む」のが本性であることが間違いない。そして、愛するとはただひとりの他者を唯一無二の者として見つめ、他の全ての影を薄くしてしまうようなものである。だからこそ、尺度を超えたものが愛の唯一の尺度なのである。ここで、「恋人を殺す瀬戸際に立ってみたい。彼をあなたの、あなただけのものにしておきたい、彼を奪い取りたい、あらゆる法やあやゆる道徳の支配に逆らってでも彼を盗み取りたい、そんな羨みにも似た欲望をあなたは知らないでしょう…。」とデュラスを引用している。ここでまた、古代ギリシアの逸話やサラ・コフマンを引用しており、さっぱり分からないが、そこで述べたかったことはきっと次の①と②ようなことだと思われる。①情熱という運動は恋人たちを不可能な要請に応えて相互に死の霧散状態へと身をさらさせるということ。②「エクリチュールに死が刻まれるときその死の漂流物である作品は営み/作品を成すことの予めの断念にほかならず、無為の言葉が響き渡る空間を指し示すだけ」なのだということ。ブランショにおいては共同体の消滅と共に引き継がれる言語活動という視点がある。
○伝統的共同体と選択的共同体
バタイユの「恋人たちの共同体」を引き合いにしている。たぶん『魔法使いの弟子』のどこかにある章のタイトルだと思われる。夫婦として社会的に認められている夫婦のような恋人たちの共同体は結局のところ、呪わしい過剰を隠したその秘密を放棄させてしまうか、いずれにせよ社会の一部をなすものとして捉えられる。ここで更にバタイユの「マダム・エドワルダ」についても言及されている。
○社会の破壊、アパシー
恋人たちの共同体は「彼らが偶然によって結ばれているか、狂気の愛によってあるいは死への情熱によって結ばれているかに関わらず、社会の破壊をその本質としている」し、「大災厄の可能性が作り出される」のである。「デュラスのシナリオはそのような水準で考慮されなければならない」とブランショは述べている。
2人の登場人物は誰とも分かち合うことのできない特異性への希望を表象している。それぞれの無関心の中に死とともに閉じ込められている。アパシー、無感動、感情の不出来、無能力は人間関係を阻害するだけでなく犯罪へと導いていくが、物語の中ではそういう風にはなっていない。
夜を買って買われた男女は、それぞれの夜を単位としつつも無限定な期間のあいだ、あらかじめの失敗ともいえるような、常に成就しないことによって成就する結合の嘘を生きるため、ひとつに結ばれようと試みる。このシナリオの設定はむしろ、通常の恋人どうしの喜劇で隠蔽されることから保護しているのだという旨をブランショは指摘している。こんな有様なのに共同体を形成しているのか?という問いに対して、「一人(男)によって組織され他の一人(女)によって同意された牢獄の共同体、そこで賭けられているものは他でもない愛することの試みである」がしかし、「彼らの知らぬ間に彼らを活気づけ彼らをひたすら虚しく触れ合うという行為に晒すだけのこの無以外に、ついに目的を持たない試みなのである」と断言している。そして、「2人の人間が、他にいかなる存在理由を持たず、ただお互いにおのれをことごとく欠けることなく絶対的に晒し合うこの空間の中に、そうだ、どうして求めずにいることができようか。見出さずにいられようか。否定的共同体、共同体を持たない人々の共同体を。」とまとめている。
○絶対的に女性的なもの
彼女は彼を死の病いから解き放さず手厳しい解釈と指摘をするだけである。そして、彼に対して保護されながらも彼に一片の余地なく世界をくまなく占め尽くしている。彼女は彼女を特徴づける一切のものを超えて絶対的に女性的である。彼が彼女に死を与えるとしても、それは誰かの代替物なのではなく、生きている女そのものなのだということを意味している。彼はまるで愛が愛するという意志から生まれるかのような素朴さのままに、行きずりの女性の中で、彼女たちが表象してる未知のもの、「彼女たちの究極的な現実」に突き当たっている。この女性の持つ真理は誰も受け取ることができない。
彼女は他の男としか関係を持たない男の閉域を病いとして名指そうとしている。男と共に閉じこもることを受け入れたのは彼がその病いに冒されていることを彼女が感じ取ったからである。このような死に至る病に彼女が与える解答は「彼は生きなかったために死に死ぬ、彼は死ぬがその死に対するいかなる生もない(従って彼は死なない、あるいは彼の死は彼が決して知ることのないある欠如を彼から奪い取るだけである)」ということに尽きる。
彼には欲望なき欲望がある。それは知ることの欲望であり彼女をありのままに見ようとする試みになって現れる。彼は決して彼女を見ていないと感じているが、彼の涙を誘う以上は外見上無感動であっても、「自分でも知らない快楽を得た」のである。そして「その無感動は彼の孤独を暴き出す」ことになる。たとえ「彼には自分がそれに到達する権能もないままに到達しているこの新しい肉体が、彼の孤独を和らげてくれるものなのかあるいは逆に彼を独りにしてしまうものなのかわからない」のであったとしても。以前までは他者との関係において自分が孤独であることに気が付いていなかったのだが、「彼の個室」が彼女に住まわれることによって空虚のようになっていることを意識し始める。そして、彼女が消えてしまえば楽になれると悟るが、実際に彼女が姿を消すと、突然の不在の新たな孤独により、彼女にまた会いたいという欲望を抱くようになる。ただ、彼は他人にその話を笑い話として語る過ちを犯してしまう。それも仕方のないことであり、それは「共同体は例えそれが存在したとしても崩壊するときには何ひとつありはしなかったのだという印象しか残さない」からである。
○明かしえぬ共同体
しかしこの女は何者なのだろうか。「彼女の究極的な現実性」は彼女自身の消滅の差し迫った瞬間、彼の欲望ひとつで存在をやめてしまうような状況の中で強烈に立ち現れる。子供を産むことのできる体で身を晒すことの絶対性である。「彼らが共に過ごすいく晩かの間、彼女は共同体に属しており、共同体から生まれでる。そして彼女の脆弱さと近付き難さ、彼女の眩さによって、共有しようのないものの外異性が、永遠にとりあえずのものであり常に人気を失っているこの共同体の基盤となっているのだ」と述べているように、彼女も共同体に属することで女性的なものを全身に纏うことになる。この物語には世俗的で純粋で乱暴な断言と単純な説教に組み込めない種類の断言がある。しかし、最後の夜の「それはなされた」という言葉のように彼女がその体を差し出すとき聖なるものが宿っている。
この消滅について「彼女をとどめておくことができず、共同体はそれが始まったときと同じように偶然のなすままに終わりを告げた」とか「彼女は自分の仕事を果たした、訪れる前に失われてしまった愛の記憶を残すことで、彼女は彼が思っている以上に彼を変えたのだ」とか「それは明かしえないことなのだ、彼は自らの意志によって死と一体化し、彼女にもまた、彼女が待ち望み彼がそれまで与えることのできなかった死を与え、そうして彼はおのれの地上の定めを全うしたのだ。それが現実の死であるか想像上の死であるかは問題ではない。死は共同体の運命に書き込まれた常に不確かな終末を、一種はぐらかすかのようにして永遠に確立するのである。」とか色々と解釈することはできる。
そして最後に次のような言葉で締めくくられている。「明かしえぬ共同体、これははたして、この共同体がそれ自体を明らかにすることはないということを意味しているのか、それともこの共同体には、その実態を明らかにするいかなる告白もありえないということを意味しているのだろうか—少なくとも、ここでこれまで共同体のあり方が語られるたびに、把握されるのはただ、欠如によってそれを存在させるものばかりだと感じられるからには。それならば口を閉ざすべきだったということなのか。その逆説的な特徴ばかりを力説することよりも、かつて一度も生きられたことのない一つの過去を同時代のものとする体験として、むしろ共同体を生きるべきなのだろうか。あまりに名高く繰り返し語られてきたヴィトゲンシュタインの「語りえぬものについては沈黙しなければならない」という教えは、言表した彼自身が自分に沈黙を課すことができなかった以上、決定的に口を閉ざすためにこそ語る必要があるのだということを指示していると受け止めるべきだろう。しかし、いかなる言葉で語るのか?それはこの小著が他の書物に委ねる問いの一つである。だがそれは、他の書物がそれに答えるためというよりは、それがこの問いを担い、それを引き継ぐためである。そうすればやがて人は、その問いがまた一つの逃れえぬ政治的意味を持つことを見出すだろうし、その問いは私たちが現在という時から関心を失うことを許さないということを悟るであろう。現在、それは未知の自由の空間をひらきながら、私たちが営みと呼ぶものと無為と呼ぶものとの間の、常に脅かされ常に期待されている新たな関係についての責任を私たちに担わせるものである。」
ブランショ 『明かしえぬ共同体』 抜き書きノート その④(小林康夫<死の病い>をめぐって)
以下、デュラス『死の病い』を訳した小林康夫の「<死の病い>をめぐって」より。我々はテクストの外周を歩き回るのみであり、内部に踏み入れることができない。「夜を買われたあの若い女があなた(=男)にとってそうであったように、テクストもまたこの徹底した、ほとんど絶対的な<自らを与えること>そのもののうちで、まさにそれ故に、我々から限りなく遠ざ」ってしまう。女とテキストは「余すところなく自らを与えながら、その贈与は決して我々には所有することを可能にはしない」し、むしろ「徹底的に<無防備>」であり「絶対的な所有を挑発し所有を命じさえする」にも関わらず…。「読まれるためにだけ」にそこにあるわけではなく、「テクストは読むこと以上の何かを命じるこの命令」があり、それは「テクストの呼びかけに応じることにほかならない」。そして「この贈与は所有しようとする主体そのものを崩壊させずにはいられない」し「<あなた>はいかなる固有名詞によって置き換えられる」ことはない。
見る者の眼差しが<決して越えられない>、<見ること>が不可能な距離を生じさせてしまうことに対して、訳者はモネの絵画「オランピア」の視線に例えて説明をしている。テクストを読み解き分析するとき、同時にその命令に従うことはできない。そして、<作者>と語り手は独立して考えられる。もし交換のコミュニケーションによるものなのであれば<文学>であることをやめてしまったメッセージに過ぎなくなってしまうからである。「テクストを語るものはテクストの言葉を通じてテクストそのものにおいて絶えず非現前化」している。
二人称の「あなた」と三人称の「彼女」を繋ぐのが語り手である。それなくしては関係性を打ち立てることができない。テクストに対して彼女はすでに与えられているが、あなたは未だ現前していない存在である。その<すでに>と<いまだに>によって直接的な関係の不可能性を結びつけられている。「自分は負けたとあなたは言う。何に対して、何において負けたのかはわからないとあなたは言う。」「あなたは諦める」とあるように、テクストの命令に従うことで、テキストの要求に応じること、初めて贈与を受け取ることになるが、それはテキストを理解することを諦めることによってなのである。ここで読み手が敗北したり失敗したりするのは、そもそも得るようなものも所有したり理解したりするべきものが何もないからである。
この物語で女は全てを悟り理解しているような態度でいるが、訳者は「限りなく他者に対して自らを贈与し、そしてそれ故に<みずから>を持つことなく、そしてそれ故に完璧な自己同一性を保っているように見える」からで「他者によっていっぱいに所有されることにおいてしか存在してない」からであるとしている。そして、「<無防備>な同一性は、侵し難いが故に絶えず侵犯を、破壊を、暴力を呼び起こさずにわいられない」のである。一方で、男にはそのような同一性が欠けている。「あなたという違いの中に、あなたの死の中に再び自分を見出すため」に眠ることができず涙し続ける。
訳者は「もし<無限に他者であるもの>への関係を愛と呼ぶことにすれば、(中略)愛とはまず何よりも不可能な関係性なのではないか」、「互いにいかなる直接的な関係も可能ではないものが、しかしその関係の不可能性において出会い、その無関係を唯一の関係とすることではないだろうか」と指摘している。
死も愛も関係の不可能性そのものである。「時間・空間と言うあらゆる関係の関係を除けば共有すべきものは何もなく、交換すべき何ものもない。だがそれにもかかわらず、あなたは、そして我々は、この共有することの不可能性そのものを、関係の不可能性そのものを生きることができる。すなわちあなたは死を生きることができる」ことになる。
物語の後半では「全き現前と思われた彼女の肉体もまた、自らはそうとは知らず、既に死を分泌し」ていることが男に自覚される。それは「現前の只中で、果てしなく、底なく、引きこもり、遠ざかり、隔たっていく不可能の関係性」であり、男が「最後に見なければならない」黒い夜だった。「彼女が見るように命じるのは、まさしく見るべきいかなる現前もないその黒い夜であり、見ることの不可能性そのものであり、全てを飲み込む底なしの非現前である。決して見られ得ないからこそ、見ることを命じ続ける不可能の命令そのものである。」「いずれにせよ、彼女は語りうるべき出来事となり、テクストは物語となって語り始める。」のである。