学生の幼さと教育

最近の学生や若い人は幼いって言われがちだけど、なぜなのか少しだけ整理してみた方が良いような気はした。幼いと表現したくなる主観に対する、若干の客観的な社会的な考察はあっても良いかもしれない。たとえ、それってあなたの感想ですよねって言われても。どのような意味合いで幼いと感じるのかにもよるし、そう思っている側の問題も大きく影響しているし、定点観測が難しいからなんとも言えないけど、とりあえずパッと出てくる範囲で。


ここ数年を短期的に見るとコロナ禍の影響が大きいように思える。特に優秀な部類とされる高校以外は影響を受けていそうな気がする。コロナ禍で定期テストなどが中止されるなどして、留年も退学も大きく減ったところもあるのではないだろうか。学校を辞めさせられるハードルが上がったかもしれない。努力をしなくても最終的には周囲が何とかしてくれるという意識を持つ生徒が存在することで全体が良くない雰囲気になっているのも、自分の進路がかかっていることでも真剣に取り組めない様子なのも想像できる。


ここ十年数年で進学志向が高まり、専門学校という選択肢の幅が広がって来ているというのもあるかもしれない。これまでは働くか勉強するかの2択しかなかったが、専門学校は大学ほど厳しくもなく、自分の好きなことだけが学べ、代償を払うことなくモラトリアムを得ることができる。元来、高校生の時点で強く将来の希望を持っていることの方が稀ではあるが、選びうる先延ばし作戦が多いし、何が良いか指針を強く示せない大人も勧めてしまうところがある。


またN高校のような広域通信制高校の隆盛が著しい。1学級150人という話題があるほど生徒が急増しているし学校側も需要に応じて無限に受け入れている。VRを全面に打ち出した楽しそうな授業は、何のスキルをも身につけることなく自分自身が何でもできるような全能感を持ってしまいがちと言えないだろうか。


全体の底上げという意味では公教育の役割は重要であるが、その一方で私立高校授業料が無償化されたことも見逃せない。お金のない家庭でも無理して一発逆転を狙うという意識がないだろうか。よって公立高校は全体として低迷し需要がなくなっている気がする。この頃では教育というお金儲けのために大人が勘違いを植え付けているような気さえして来ている。


政治に教育が振り回された結果、自分自身の努力で世界を変化させられる可能性があるという感覚を持てていないというのも挙げられるのではないだろうか。そのような意味で自らの行動が及ぼす影響について疎くなりがちかもしれない。目先の利益からは最も遠いところにあり、結果として真っ先に削られていくのが教育である。善悪の判断も含め子供たちは常に大人の意向と建前に規定され続ける。消費者として権利を持った立場であるという意識が強まっているという問題もある。自分のいる環境を自らの手で作り上げていく自治の意識がなくなり、社会システムを変革することに対する無力感と、それに相反するようなサービス提供者に対する消費者意識が高まっている気がする。本当に他人をよく責めるような傾向は感じる。自分自身が頑張らなかった結果を引き受けなくて、周囲がサポートしてくれないからだと騒ぎ立てる。学校に対する保護者の立場が強くなっているのでその影響もあるかもしれない。



子供は大人のズルさには敏感だったりもする。「それっぽさ」が重要視されるようになって来ていることの悪影響はないだろうか。実態はどうでも良く実績を残すことしか評価の対象になり得ないことは学校教育でも同じである。学校の特色、地域協働など新しいことの内実はどうなっているのだろう。教育効果は測定できているのだろうか?SGDsで環境に対する取り組みが注目されていたり、実はそこまでエコとまではいえない電気自動車が持て囃される社会の状況を見ると色々と納得してしまう。テレビで見る政治家の適当なやり過ごしや言い訳をどう感じているのだろうか。教育行政の幹部は自分の昇任と成果のため、実際の効果に関わらずそれっぽい新しい取り組みをする。各学校はこぞって目障りと体裁だけの良い宣伝だけをするようになる。


悪いことばかりではない。暗記や作業中心ではなく、考えさせる教育が根付くことはそう遠くないと思われる。新学習指導要領では「主体的・対話的で深い学び」や「アクティブラーニング」が掲げられている。ただし、かなりの問題含みであることは否めない。この間、経験重視と学力重視の問題が話題になっていた。経験を金で買うという議論はさておき、メタ認知能力は家庭環境に依存するということはかなり事実ではないだろうかと思う。暗記中心の詰め込み教育は自分自身の努力でカバー可能であったが、人としての根本的な能力というのは努力で解決することが難しくなるかもしれない。コンテンツベースではなくコンピテンシーをベースにせよと言われているが、本田由紀がハイパー・メリトクラシーという単語で指摘しているような、そんなことを危惧している。良くも悪くもメンバーシップであった雇用も能力だけが評価軸となって仕舞えば取りこぼされる人が出てくる。受け皿の喪失である。


新学習指導要領の理念は素晴らしいが、それを実践する体力がいまの学校現場には存在しない。つまるところあと10年後あたりには個々の教員の指導力不足せいにされるのがオチだと思われる。誰もが否定しようのないこの内容の教育を実施するだけの体力が、現在の日本に存在しない。40人学級の状態で可能だろうか。教員不足なのに、そんなことができるわけがないと誰しもが分かっている。見栄えのためだけに、それっぽさが演出できれば成功ということなのだろうか。何を評価すべきなのか、どう数値化して評価するのかが曖昧なままの中途半端な放任主義は、「何でもあり」な無法地帯しか生まれないだろうと思われる。かといって、数値化できない能力を無理やり数値化することでしかないのでそこに大きな矛盾がある。お金と人も投下しない、システムを大きく変えることもしないのに教育の理念など判断しようがないのは当たり前のことじゃないだろうか。理念と実践はセットである必要がある。それで初めて否定されるべきものである。良いことだけ言っていても結果が出るわけがない。


給与は上がらないこの30年間の経済の停滞にともなって子供を育てるのに必要なコストが上昇していることは誰しもが感じている。みな難しさの中にいる。本当の意味での持続可能な社会とは何なのだろうか。幼いと評する側が混乱している。そのことも忘れてはいけない。「あれもこれも」と無駄に動き回っているのは大人の方なのだから巻き込んではいけない。大事なことはたくさんあるが、その中から選択していかなければならない。諦念ではなく、あり得るのが「根拠に基づかない妄想か、あるいは現状に対するやり場の間違えた憎しみ」という両極端などちらかの態度しかない。それを強要してしまう状況を取り除くために、できることはまだあるだろうと思うけど。

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