共同体と他者の死
今更ながらなのだけど「共同体と他者の死」の関係性がなんとなく分かってきた気がするのでメモ程度に…。
まず、共同体は持続して成立し続けるものではないという前提がある。ほんの一瞬だけ…。でも、どこまでも深かったはずの交流の末に、もう一生これから接点を持てなくなってしまったあの人との、かつてあったはずの共同体…。不在になった共同体に対する反復…。
自分の死は自分自身の所有になり得るのだろうか。同じ死という現象であるにも関わらず、去る者と惜しむ者の間で経験する内容が決定的に異なる。そのような意味で、死は同じ現象に対する経験の差異を際立たせる決定的な最期である。決して交わることがないのだということだけを究極なまでに際立たせる経験である。そして、自分の死は誰かにとっての個別の経験でもある。しかし、同じ現象を共有しているという繋がりだけは強くそこにあるわけである。
物理的な死でも、ケンカ別れという意味での死であっても、疎遠になるという結末だったとしても、共同体にとっては運命づけられた死であるのだろう…。共同体が浮かび上がってくると同時に、いずれ死にゆく人間という存在どうしの、別れが確約された状況も埋め込まれていく。逆説的ではあるが、その別れの絶対的な存在感によって、共同体の輪郭は更に明確になっていく。その意味で死に基礎付けられていると言える。別れが存在しなければそもそも出会いも交流もあり得ないのである。