ポストモダン時代における他者について、キルケゴール『死に至る病』の読書会を中心にした雑感。
○久しぶりに読んでみて
この本を初めて読んだのは高2のころ。難しい本はどうしてもディティールを理解するのが大変で、概要を把握せずに満足して読み終えてしまった感じがある。当時は、小難しい日本語の枡田啓三郎の訳[1]だったが、今回は、新しく出た鈴木祐丞のわかりやすい日本語訳[2]を読んだ。詳しい解説もあるし、レジュメを書きながら読むことで、重要な内容だけを取り出して、彼の主張をうまく抽出できたと思う。また、読書会で複数人の視点があるおかげで、批判的に捉えられた。このような機会が持てて、とても感謝している。ここでは、「他者」について考えたい。
◯絶望への処方箋
難しいことについて考えるときは、結論が出ないことも多く、釈然としないままモヤモヤを抱えて終わることがほとんどである。何か現象やシステムを解明する人がいたとしても、基本的には誰も方針を示してはくれない。時代に合わせた人それぞれのやり方がある。けれど、この本では一定の方針を導き出すことが可能だと思っている。『死に至る病』の結論、絶望が根こそぎにされた状態の公式から考察された、精神性と自己を有するための我々的な指針を現代の日本社会に生きる人向けに自分なりに整理すると以下のようになる。日本の文化には絶対的な他者がいない以上は、こう立ち振る舞うのが、適切だと思われる。
その①(他者と必然性にフォーカスする)
他者からの規定に自覚的であること。「自己を措定した力に透明に基礎を置く」こととして、我々を規定する他者性を自覚する。社会や所属する共同体の構造を明らかにし、さらに広い他者性を獲得すべく動く。必然性を明確にする。
その②(自己と可能性にフォーカスする)
「自己が、自己自身に関係する」ために、自己と他者を規定し直すこと。関係そのものではなく、積極的第三者として働きかける。「絶望して自己自身から抜け出そうとする」のではなく、あるべき自己、つまり、こうなりたい、こうあるべきだと考える自己を持ち、目指す。その過程で、状況内存在であることを意識する。社会や所属するコミュニティのシステムに批判的な視点を持ち、変えるように動く。可能性を目指す。
その③(他者と自己の関係性にフォーカスする)
「自己が、自己自身であろうとする」ために、他者を通して現状の自己自身を肯定すること。そのような他者を獲得するために捻くれた逆規定をしてはいけない。少なくとも、あるべき自己と乖離した自己自身を否定しない。必然性(=現状の自己自身)と可能性(=なりたい自己、なるべき自己)を弁証法的に統合する。
○人間は自己であり精神であるという人間論
『死に至る病』の結論は、キリスト教に対する独自の解釈から導き出されたものなのか、キルケゴールがキリスト教にその人間観を導入して再解釈し直したのか。卵が先か鶏が先か的なお話で、その両方であることは間違いなさそう。彼の絶望論はどうしても一神教的な前提から逃れられないのは事実であるけれど、近代的な哲学の基礎に裏付けられていることも間違いない。ベルリン大学で後期シェリングの講義を聴講しているなど、哲学の勉強もしていたようだし。思弁的教義学として、ヘーゲルから影響を受けた宗教の解釈を散々批判しているけれども、そのヘーゲルの人間観の根本は時代の流れとして、当然の前提としてキルケゴールも持っていたのではないかと想像できる。
○近代の哲学の前提
専門外なので詳しいことはわからないのだけど、[3]には、
ヘーゲルの人間理解は、マルクス主義から実存主義を経由して構造主義に至るまでヨーロッパ思想に一貫して伏流しています」とか指摘されているし、「「自分のありのままにある」に満足することではなく、「命がけの跳躍」を試みて、「自分がそうありたいと願うものになること」である。煎じつめれば、ヘーゲルの人間学とはそういうものでした。
とか、
「ヘーゲルのいう「自己意識」とは、要するに、いったん自分のポジションから離れて、そのポジションを振り返るということです。自分自身のフレームワークから逃れ出て、想像的にしつらえた俯瞰的な視座から、地上の自分や自分の周辺の事態を一望することです。人間は「他者の視線」になって「自己」を振り返ることができますが、動物は「私の視点」から出ることがないので、ついに「自己」を対象的に直観することができないのです。」」
というようなことが書いてあるし、[4]には、
「動物には精神がないから、単なる機械である」と定義したのはデカルトだ。さらに彼は「人間には精神があるから単なる機械ではない」と人間と動物の区別をその精神の有無に寄るものとした。」
とか、ってあるので、きっと近代的自我という前提からキリスト教を捉えているのだと思う。
○それでも人間は本質的に動物なのでは?
キルケゴールは、人間は神を尺度とし、それを目標としろと説く。ニーチェも超人を目指すべきだという結論にたどり着いた。でも、彼らの思想から1世紀以上も経っている我々からすれば、人間が高められるべきというのは理想で、実は少しばかりの自己意識と精神を持ち合わせた動物でしかないというのが本質だと思ってしまう。精神と自己という規定をあまりにも重んじていたのではないかというのが率直な自分の感想である。我々の生きる現代は、ポストモダンと呼ばれているし、一番新しい哲学がポスト構造主義と名付けられてから大分久しいけれど、精神を持ち合わせた人間なんてどこを見渡してもいない気がしてならない。東浩紀が『動物化するポストモダン』[5]と言い始めたのがちょうど20年前、いまもその批判性は失われていないと思う。実際に読書会の4人の参加者のうち、3人が自由意志は存在しないと答えていた。言語の枠組みや社会の構造やシステムによって人間は規定されており、人間には独立した何かが持てないと認識しているということである。
○「絶望を絶望と知らずにいる絶望」や「自己を持っていることについての絶望的な無知」をどう捉えるか?
人間は精神として高められるべきだという前提に立たなければ、要するに、一般的な日本人的な感性からすれば、とても絶望している状態とはいえないはず。ここが、『死に至る病』の最大の疑問点である。自分が絶望している、と認識していないのだから、それは幸せなことだ、むしろ羨ましいとさえ思ってしまう。
この種の絶望に対する評価は、その人がどういう社会であって欲しいと考えるか、によって大きく分かれるところだと思う。動物化された人間ばかりの社会でも良いよ、そういう人でも生きていけるシステムが理想だよと考えるのであれば、仕方ないの一言で済まされるだろう。けど、自己を持った人間が作る社会が健全であり、それを目指すべきだという立場に立つのであれば、この絶望は最悪の状態だということになる。まあでも、少なくとも自らの実存について意識をしていないというのは、決して良い状態とは思えないわけだけども。
○動物化しても生きれるシステムだったら良いか?
人間は精神として高められるべきだという前提に立つべきか、自分には断言できない。少なくとも自分自身はそうでありたいと思っているけれど、それはあくまでも自分個人のお話だ。東浩紀は、[4]で、
「ポストモダン社会になり、消費者はさまざまな記号の波を軽やかに渡っていくことになりましたが、実際にそこに拡がったのは、消費のなかで与えられるファストフード化された消費財を動物みたいに食べることになる、という現実でした。ポストモダン化された社会で行き着く先の人間像は『動物化』というわけです。動物化に対抗すべきか、それとも人間は動物なのだから柔軟に管理すべきか、人間性を巡る議論はこの2つの道に分かれています。現代社会において『人間であるためにはどうすればよいか』を改めて考えるべきだと思いますね」
と答えている。どうやらポストモダン社会においては、未だ誰も指針を示してくれていないみたいだ。そりゃそうだ、大きな物語が失われた現代において、統一見解や思想の潮流なんて存在し得ない。
○一神教的な神とは
『死に至る病』のサブタイトルが「教化と覚醒のためのキリスト教的、心理学的論述」となっているだけあって、神という存在の想定が人間に及ぼす心理的な影響についてよく知ることができた。
人間は具体的に他者との関わりの中に身を投じることによって初めて、自分の存在を認識できる訳だけれども、一神教的では、その他者として神を持ち合わせている。彼らにとっては、あくまでも現実の他者は相対的な他者で、神こそが絶対的な他者であったと解釈して良いと思う。神を信仰する根拠は人間の認識の限界である。他者に対する観念も自己も実はどこまでも内的に捉えるしかないとされている。キルケゴール的な罪の定義はシンプルでスッキリしている。罪は意識によって生じるもので、どこまでも内的に規定されている。外的な規範における罪は結論として導かれるものでしかない。キリスト教は神によって可能性を信じることができ、必然性を受け入れることができる。その精神性は一神教の強みである。
あと、聖書への興味が湧いてきている。キルケゴールの解釈で挑めば、すんなり理解できるんじゃないかと思う。
ヨハネ福音書のラザロ復活の場面でイエスが放った言葉がこの『死に至る病』のタイトルの由来だ。彼は、アダムとイブが、神から禁じられた実を食べ、罪を犯し、自由と不安を人類が手にしたと解釈している。この自由を、どこまでも弁証法的に逆説的に捉え、必然性と可能性の統一であると考えている。
余談だけれど、バクーニンの『神と国家』[6]を読んだとき、思想の根本はキルケゴールと一緒なのに向いている方向が逆で面白いと思ったことがある。バクーニンは当然ながら唯物論者で革命のアジテータなので、神の存在を猛烈に否定している。彼はアダムとイブは動物の状態から人類を初めて解放し自由を得たとして肯定している。バクーニンは自由は不可分だと主張し、完全なる自由を目指した。サタンを世界の解放者、国家に対する反逆を神に対する闘争の延長線上に位置付けた。この対比が、なかなかに面白い。自由に対する考え方の違いである。
○神の不在と「終わりなき日常」
宮台真司が提示した「終わりなき日常」という概念は、もうかれこれ25年前のもの。1995年はちょうど、自分の生まれた年である。麻原が逮捕されたのは自分が生まれる数日前だそうだ。オウム真理教が話題になっていたあの頃だ。彼はサリン事件が連合赤軍事件と同じではないとしている。それについては同意する。
かつて学生運動は若者の実存を支えてきたと言える。終わらない日常を終わらせる可能性が現実的に存在していた。「自己批判」も「総括」も自らと、社会のシステムを大きく変革させようとするための方法だった。この時代には、目指すべき自己、あるいは抜け出すべき自己が明確に存在していた。彼らには資本主義という敵がいたし、我々を規定づける他者が目のまに突きつけられていた。その上での行動が連合赤軍事件である。しかし、オウム真理教事件はどうだろう。そもそも、若者に自己が存在しなかったのではないかと自分は見ている。ハルマゲドンという救済に向かって、自己の認識を捏造せざる得なかったのだろうと思っている。自己を措定する他者を欲して、虚構へコミットする。我々を規定づける他者もいなければ、あるべき自己、目指すべき社会のモデルが存在しない。学生運動も廃れ、大きな物語も消滅した。そんな自由の時代がもたらした不安と、何者かになりたいという欲求。その責任から逃れた結末がサリン事件である。
『終わりなき日常を生きろ』[7]の、その批判性と問題意識は失われないものの、彼の出した処方箋は、今となっては本人が失敗だったと否定している。実は、「終わりなき日常」がなんであるかについては、はっきりとした定義を与えてくれていないが、ざっくり、「自分が何をしたら良いのかも明確でなく、社会が変わっていく見込みもなく、このまま一生、下らない日常が続いていくだろうという感覚」のことだと言って良いと思う。
「終わらない日常」の中を、欠落を抱えたまま生きていかなければならないとき、そういう自分を「全体として」肯定できるチャンスは、宗教と性にしかないー『サブカルチャー神話解体』で私もかつてそのように分析したことがある。70年代以降、今にいたるまで、性と愛の分離というプロセスが、不可逆的に進行し続けている。性が、コミュニケーションの全体性から切り離されるにつれて、新しい宗教に惹かれる若者たちの数は増えていく。
ただ、日本人には神がいないし、異性にモテなければ、恋愛という処方箋が使えない。これらは「全面的包括要求」に答えてくれる他者である。
「宗教が怖いなら、熱烈に恋愛しろ」という処方箋は——西部邁の処方箋でもあるが(略)——絶望的である。私たちの伝統において自明でない「熱烈な恋愛」のためにこそ、私たちの社会においてはありそうにないコミュニケーションスキルが必要になってくるからだ。さらに、近代的な社会システムでは、宗教と性とが、異なる機能的な要求を課せられているという事情もある。
として、性と愛の分離から、恋愛が処方箋として使用できる人が限られていると分析している。また、対談で、
近代以降の若者っていうのは、本来あるべき自分の姿と現実の姿とのギャップに悩むものだし、ギャップを埋めることが課題となる。最初のうちは課題達成を阻む敵は「外」にあった。社会が悪い、資本家が悪い、って言えた。でも、会社に乗って、いい服を着ているのに、女にモテない、ってなことになると、資本家が課題達成を阻んでいるとは言えない(笑)。社会の中の誰かが悪いんじゃないとすると、解釈は二つしかありえない。自分が悪いか、世界全体が悪いか、どちらしか無くなる。
と答えている。また、
たいてい大人になっていく過程で、そこそこの自分と、そこそこの世界に、耐えていけるようになるんだけどね。だから問題は、そういうふうになるのを阻んだ各種の装置でしょ。そういう装置を、観念であれモノであれ制度であれ、徹底的に破壊し尽くすことが、僕の目的なの。
とも述べている。神なきところで共同体が消失した社会ではシステムが複雑になるほど、何が良きことなのかわからなくなってくる。彼は、90年代の女子高生や援交少女にその解を見出した。「まったり革命」である。「全面的包括要求」そのものを放棄するやり方。都市の中で匿名化し、記号化し、断片化した存在を、肯定している。彼らの生き方が特段、システムの維持に貢献するわけでないから問題がない。
「永久に輝きを失った世界」の中で、「将来にわたって輝くことのありえない自分」を抱えながら、そこそこ腐らずに「まったりと」生きていくこと。そんなふうに生きられる知恵を見つけること。
らしい。その処方箋って悪くはないけど、少なくとも自分には無理だ、って思ったのが正直な感想だった。刹那的に生きることができる、そんなんなら、そもそもこんなに悩んでないんだけどなあ。これは時代的なものかもしれない。もう少しだけ早く生まれていたら、そのように生きられたかもしれないし、そのまま信じられたのかもしれない。消費社会や情報化社会と言われる、この時代の状況は実存という観点から見たとき、ますます困難になってきているのではないかと思う。
今の若者は、ただ、どこまでも、フィクションの世界を行き渡ろうとしているように見える。虚構の世界の中にしか自己が存在しえないのかもしれない。アニメとかゲームの世界に浸ったりとか。あるいはSNSとか記号的なコミュニケーションの中を上手に渡り歩いている。SNSでは、人間が記号として、発した言葉がコンテンツとして消費されていく様子をよく見ることができる。マッチングアプリでは記号だけを通じたやりとりがなされている。ある意味、「まったり」生きている。だけれど、そのようなフィクションにも記号的なコミュニケーションにも自分は乗っかれないのだ。いや、羨ましいと思う一方で、心のどこかで拒否しているのだと思う。入れ替え不可能な自己と他者はどこにいってしまったのだろう。
○『現代の批判』と革命後、大きな物語の不在
キルケゴール『現代の批判』[1]で、革命後の時代は、分別、反省、情熱のない時代、広告の時代、すぐ無感動に落ち着く時代であると論じている。この革命後の時代という分析ははまさしくポストモダン社会のことを予感させていると思う。消費社会論では、1970年という転機が指摘されている。学生運動が過激化し、消滅し、フォーディズムが大量生産を可能にし、マルクスからポストモダンへ転回していった。思想史上はそうなっていないが、時代の流れは、そうなっている。まさに革命後の時代である。
リオタールの主張する、「大きな物語の終焉」はキルケゴールを現代風に再解釈した際の、他者の不在と位置づけることができると思う。革命運動は当然ながら、大きな物語の共有がなければ存在しえない。仮にいま、大きな物語があるとすれば、日本社会が没落していくという感覚だけであると思う。世界に対する解釈は全てが小さな物語として、アイロニーとして脱臼させられる。それを分かっているから、みんな動物化していく。特に若者はあえて何色にも染まらない。ただ、断片化、記号化して、どこまでも透明な存在に、浮遊していく。イデオロギーには決して染まらない。
ここにきて、東浩紀の提示した「データベース消費」という言葉が、ますます現実味を帯びているように感じる。人工知能はビッグデータから統計的な処理をして、最適解を提示してくれるし、マッチングアプリは、条件を入れて検索するだけで相手を探してくれる。最終的には人間が選択する責任を負うのだろうが、データベースと人工知能は、その責任をきっと、軽くしてくれるツールとして役に立つだろう。
誰の人生にだって、どこの集団にだって何某かの物語性がなければ連続性を担保できない。けれど、いまそんなものは流行らない。若者は記号を記号と知りながら器用に弄んでいるのではないかと思う。賢いから騙されることはない。ただ、時代に脱力させられている気がする。
自分の経験上、学生運動(革命運動)が完全に消滅したのは2010年代の前半だと見ている。政治党派(セクト)に影響を受けない純粋な学生運動が学内から完全に排除されたのは、その時期だった。政治運動に関わる学生の志向するものが学生特有の課題、学内問題から、街頭運動へと変化する。SEALDsの登場は、「学生運動」の代わりに「学生がする政治運動」に置き換えられてしまった状況を顕著に表している。ここで、学生自身の意識から、学生運動の原風景が失われたと自分は分析している。歴史性(=連続性)と自らの暴力性を全く無視している点については批判したいところだ。
○ポストモダン社会における現実の他者との関わり方
自己の実存は他者との関係性においてしか成立しない。主体と自己認識を得るためにはどうしても避けられないのが他者である。ただ現実の他者といっても、「見知った他者」と「見知らぬ他者」の2種類に分けられると考える。まず、「見知った他者」については、どう関わるべきだろうか。消費社会が進むにつれて、人間の入れ替え不可性、に着目しないわけにはいかない。その人の人格に固有のものを見出す、というのは幻想であるかもしれないが、主観的には真実であったっていいわけだと考えている。
村上春樹の『パン屋再襲撃』[8]という短編小説が好きなのだけど、そこでは、現代社会においての他者との関係がテーマになっている。それを参考にして、自分が考えた他者との関わり方の方針は次の通り。
① 共犯者になること
共同作業を通じたコミュニケーションでは生ぬるい。意図的に作られた機会ではなく、どこまでも規範を越えようとする、行為でなければならない。何かの一線を超えて、対峙することが重要である。共犯者は他者の外へ、自己そのものではないが、他者の外へと追い出され、自己の隣へと誘い込む。短時間で他者性を獲得できる。
② 自己開示をする
自己開示は記号的なコミュニケーションを逸脱するための契機である。自己にとって他者の本質は受け入れがたい。丸ごと包摂することも不可能だ。しかし、その他者が固有に持っている、その一部を共有することは可能ではないか。勇気を持ってまずは自己開示をするべきである。それを拒否する他者は、誰にとってでも、記号でしかなかったのだと納得して次に進むしかない。
③ 非言語コミュニケーション
他者と同じ時を共有することで、何をせずとも阿吽の呼吸が生まれる。そこに非言語コミュニケーションが発生する。言葉にせずとも自然と生活の中に自然と受け入れられた他者性である。
④ 共同で生活を過ごすこと
家族のような関係性である。仮に仲が良くなかったとしても、家族のように血縁関係がある場合など。普段は鬱陶しいと感じていても、いざとなった時に、助けてくれる関係性を大事にすべきである。
⑤ 失われた他者が人格を形成する
現実の他者は、いつしか自分の前から消え去るものである。目の前からいなくなった他者が自己を形成していると意識することが重要である。たとえ、顔が思い出せなくなっても、その他者性はどこかに生き続けるだろう。
⑥ 日記をつける、記録に残す、言語化する
経験を振り返り、他者との関わりの中で、どう自分が変化したかを振り返ること。記録に残すことそのものではなく、記録に書くにあたって言語化することが大切だ。
⑦ 他者の死角に思いを馳せる
自己と他者は本質的に別物であり、どれだけ相手を理解していると思っていようが、表に現れてこない他者の死角というものが存在する。もちろん、自己の中にも無意識としての死角が存在している。
では、「見知らぬ他者」はどう捉えたらよいだろうか。 「見知らぬ他者」が日常に侵入してきて「見知った他者」へと変わるそのとき、無視できないその存在に対して責任を負うべきだと感じたとき、人は行動するし、社会運動に携わろうとする。詳しいことはまるで知らないのだけど、レヴィナスは「自己は他者への責任によって根拠づけられる」みたいなことを言っていたらしい。全くその通りだと思う。だから、他者の認識は政治や社会運動に携わるきっかけでもありながら、自己の輪郭を再構築する運動の契機にもなると個人的に思っている。「愛の反対は無知である。」という言葉が好きなのだけど、裏を返せば、自己の中に他者性を取り込むこと、外部の他者に責任を負うことであるのだと思われる。
○もう、正直うんざりしている
さて、残念だ。もう2020年。自分はもう少しで25歳。とにかく疲弊したっていうのが本音。「神もマルクスもジョン・レノンも、みんな死んだ。」わけだし、バクーニンのように破壊と創造を志向するのもドンキーホテっぽくて馬鹿らしい。学生運動は消滅した。どこにも所属したくない。労働にコミットしたくない。恋人などというものはできそうにない。なんなら、友達もいない。人間関係を形成するのが困難だ。記号消費的なコミュニケーションには飽きたし虚しさを感じるし、これまで散々傷ついてきた。じゃあ、一体、他者はどこだ?どこにあるんだ!これがポストモダンの苦しみか。これだけたくさん悩んでも考えても、どうすれば良いのか、分からない。頼む、誰か助けてやー。と言った感じだ。絶望への処方箋その①〜③の方針じゃ、それだけじゃ、何をしていいか分からないじゃん。困ったなあ。参った。もう何もする気が起きない。ギエェェェ。とりあえず頑張って仕事に勤しむかな。ライフワークとして、見えざる他者や日常の範囲を拡張していく。これが自分の存在を明らかにするための唯一の手段なのかもしれない。まあ、辛いけど、ぼちぼちやってきますよ。もう、大人ですからね。はあ、疲れた。
○参考文献
[1] (訳)枡田啓三郎、キルケゴール、『死に至る病 現代の批判』、中公クラシックス
[2] (訳)鈴木裕丞、セーレン・キェルケゴール、『死に至る病』、講談社学術文庫
[3] WIRED東浩紀、『動物化するポストモダン』 刊行から18年後の現在地を語る
“https://wired.jp/series/away-from-animals-and-machines/chapter11-1/”
[4] 内田樹、『寝ながら学べる構造主義』、文春新書
[5] 東浩紀、『動物化するポストモダン オタクから見た日本社会』、講談社現代新書
[6] 勝田吉太郎、『人類の知的遺産49 バクーニン』、講談社
[7] 宮台真司、『終わりなき日常を生きろ オウム完全克服マニュアル』、筑摩書房
[8] 村上春樹、『パン屋再襲撃』、文春文庫