○○改革に関する仕事の愚痴と「市場型スターリニズム」
最近、なんのために仕事をしているのか分からなくなってきてしまった。システム効率の悪さを吸収するための要員でしかないのだと思わされるような仕事ばかりやらされている。だとすればなおさら本当は残業代という稼働時間に対する対価を支払わなければならないはずなのだが…。愚痴でしかないのだけど実は自分には残業代が出ない。普通の企業なら労基法違反なのだけど…。趣味でやっている業務として扱われるのであれば、自分は一切の手を抜くのだけど、それをすると本職をさぼっていると周囲から指摘されてしまうので困る。
さて今回、自分を悩ませている大きな要因は○○改革というプロジェクトについてだ。
いくら理念は正しいとはいえ、そして上の指令だとはいえ、上手くいくはずもない改革に加担しているということに負担を感じながら仕事しているこの頃というわけ。施策の方向は一見すると悪くなさげなのだけど実現する手段を全く用意せず丸投げかつ金も出さなければ時間も与えないという状況になっている。どう考えてもおかしい。このままでは失敗するとまでは言わないけどろくな事にならないぽいことは分かる。その責任を現場が負わなくてはいけないのだから悲しい。責められるのは自分たちであるという結論までもが見え透いている。矢面に立つのは我々なのだから。
まず何より考えなくてはいけない前提は、改革に失敗はあり得ないということだろう。どんな地獄がそこにあったとしても、下から持って来られた報告書を見たトップは喜ぶに違いない。明確に失敗していてとしてもそう扱うことがなく、成功だと言い張れば、言い出しっぺが出世する。内実などは全く関係がなく、新しいっぽく見える何かを始めたということが出世にとって大事なのだそうだ。見かけの上で何かしている感を出しながらも金も時間も提供しない人手不足のクソみたいな環境で働かされ、自分の業務に手が回らず終電帰りをするも残業代は一切出さない趣味の仕事である認定をするシステムがまかり通っている。改革をするならまずそこだと思うのだけど…。
ひとつ話をひっくり返すような結論を言うならば、お金があれば、適切な配分が行われれば実は全ての問題を解決することができる。誰しもが分かっているけど、出来ない。そう考えたときの世界観の行先は言うまでもない。それ以上は言及を避けたい。職務を放棄しているのは誰だ?それはもう明確だ。誰も失敗を認めない。敗北が前提なのだから成功するなんてあり得なくて、それっぽく見せることだけに尽力している。実態が失敗の代物だとしても失敗だって誰も認めないからね。
話し合いをしたという体を取りながら「組織的な対応」で責任の所在を曖昧にしつつ、上から降ってきた方針以外は暗に認めないで会議の流れを誘導している。そのために奪われた労力と時間って全て管理職の責任逃れのため。そのために自分は終電帰りになってるんだからうんざり。結論や落とし所を隠し持っているくせに自分自身が押し付けたことにしたくないので、忖度を強制して続ける、気に入らない結論が出そうだったら昨日とは一転して違うことを言ってみたり翻弄し続ける。そして疲れたところでチェックメイト。都合が悪くなると「そもそも論として〜〜だから違うと思うんだよなあ。」とか、「言ってる意味が自分には正直理解できないんだけど」っていうとぼけたこと言ってくるのが本当にカチンとくるよね。完全に理解して発言しているだろ。
「市場型スターリニズム」はマーク・フィッシャーが『資本主義リアリズム』の中で用いた造語である。イギリスの地方自治体で事業の優先順位が逆転しているような事態を指摘し、そう呼んでいた。ん?よくよく考えてみたらこれじゃないかと思った。「形あるものみな広報へと消えゆく」とサブタイトルを銘打った章のタイトルでもある。「スターリンがとある運河を作らせた理由が実用的な意味でなく見栄のためだった」ということに由来している。改革は市場が望んでいることであり必須であるとされているけれども…。たぶん最も気をつけなければならないのが「理念の都合の良い解釈」なのだと思う。まさに思想がイズムに変わる瞬間だと思う。権力を持っている人に都合の良い振る舞いを許す状況を作り上げる、そのために援用される理念は思想の怠慢だし、道具でしかない理念は退廃だといえる。ほとんどの場合、人は無意識的に行動を促される。若者に頑張ってほしいだなんて無責任な言葉は聞きたくない。自分の保身のために次の世代に対して無力感を植え付けている人間が、発して良い言葉ではない。大きな制約を受けながらも、次の環境を作るのは自分たちだということを忘れて見過ごしたくない。