伊尾木川再訪 その1
2019年11月24日
娘の山村留学先、木頭北川のお祭りに参加して帰りは自転車で高知方面へ。
と言うと国道の四ツ足トンネルを越えるのが普通だけど、今回は千本谷林道から安芸市東川方面へ。
天気を読みながら、どこから帰るか考えていたのだけど午後まで持ちそうだったから、去年の春に自転車で越えた峠を反対側から。
ずっと再訪したかったのだけど、なかなか機会がなく、偶然時間が取れたのはその時以来自転車で四国に来たこのタイミングだった。
北川からでも県境まで標高差550mあって結構ハードなのだけど、朝一の元気なうちに峠越えしてしまえば後は下るだけ。標高500mの北川からスタートできるのは一番楽なのかもしれない。
国道から外れるといきなりダート。
だけど割合整地されている方だ。
スピードは出せないけど5キロほど走ればまた舗装路に。
ロードバイクに付けられる中でもタフなタイヤに履き替えてきたのが正解で、ダートでも落石や木の枝踏んでしまってもパンクは無し。
前回は計6回パンクして大変だったから何事もなく進めるありがたさを感じる。
北川からひーこら2時間かかって峠の駒背越トンネル抜けると高知県。
ここにきて衝撃の事実、まさかの通行止看板。
全面通行止、期限無しだと。
この道が下流までの唯一の道路で迂回路がないばかりか、途中から別の峠へ抜ける林道も通行止めだから、中流域の現場まで行って通れなかったらこの峠まで引き返すしかない。
戻るなら今のうちだけど、うーん、まいっか、崖崩れの復旧工事現場ならチャリ1台通れる隙間はあるだろう。
徳島県側の林道入口に規制情報がなかったので突っ込んできてしまったが、高知県側の情報収集もしておけばよかった。
ここでスマホでちゃちゃっとネット検索、何でしないの?って思われるかもしれないけど、この峠から見渡せるはるか下流の40キロくらいまでわずか3世帯しか現住していないこの流域全体携帯の電波は飛んでいない。
「人の住んでいる場所なら電波は届く筈」という思い込みで前回失敗していたので地図データだけはダウンロードしてきたのだけど、やはり僻地では何が起こるかわからない。
それより気になるのは道路が通行止ならこの先にあるわずか3世帯の最奥集落の人たちはどうしているのだろう?
これを機に離村してしまっているなんてこともあり得るかと心配になる。
もしここの住人がいなくなってしまったらこの川の中流域から源流までは無住の土地ということになる。
わずか3世帯でも暮らす人がいると知っているから、この広い流域にまたがる全体が「生活の場」という認識になっているのだけど、その前提がもし崩れてしまったらこの世界を見る目が根底から変わってしまう。
この標高差を駆け下りて良いものかどうか内心不安ながら一気に500m下って標高650mの最奥集落。
不安に思いながら集落に入ったけど、養魚場に立つ男性が見えた。
よかった。
そしてこの家の方には前回来た時に会えていなかったので話を聞く。
まず、全面通行止は解除されて今は時間制限はあるけれど通れるらしい。
多分峠の看板を片付け忘れていたのだろう。
今年の8月に崖崩れで1ヶ月以上通行止だったらしい。
徳島側に抜けられるので完全に孤立する訳ではないけど大幅な遠回りなので大変だったそう。
去年の西日本豪雨の後はもっと長期間通れなかったらしいから、この雨の多い山村に暮らすことの苦労を思い知る。
この最奥の集落は広い山中に小集落が点在する形で、中でも一番上流部にあるこの養魚場集落に2世帯3人、1km下の集落に1人。
そのあとは下流30kmの簡易郵便局のある集落まで、他の集落は全戸離村してしまって無住の土地となってしまったらしい。
昭和55年までこの集落にも学校があったけど廃校になり、中流の小中学校までこのご主人がスクールバスを運転していたらしい。
廃校になったと言ってもそのは時点で40人くらい子どもがいたそうだから今とは感覚が違う。
小中学校が廃校になるのとこの最奥集落から子どもがいなくなるのとどちらが早かったのかは聞き忘れたけど、スクールバスが稼働していたのも20年くらい前までの話らしい。
その後どんどん人は減り、前年とうとう下流の入河内にあった小学校もなくなって、この流域、昭和30年まで独立した行政区域だった旧東川村から学校がなくなってしまった。
学校がなくなって集落が寂れていくのは他でも目にしているけれど、それにしてもこの地域はそれが速すぎるように見える。
限界集落という言葉はもう当たり前のように聞くようになったけど、本当の限界が来た姿を見せられているのだと思う。
商店や病院のある海沿いの街からのアクセスが大変なこの地域で高齢世帯が残り数軒になって、それでも残るのはかなり厳しいと想像できる。
この集落はお話聞いた養魚場の方がご夫婦60代前後で、お仕事はもう養魚場以外引退してしまったそうだけどまだまだ元気に動ける年齢なのが大きいのかもしれない。
隣で一人暮しする80代のおばあさんは下流の安芸市から息子さんがたまに来てくれていると聞いたけれど、集落内に比較的若い人がいる安心感もあるのだろうかと想像する。
隣のおばあさんには去年来た時に話を聞いて、今回はいらっしゃらなかったけど、庭を綺麗に手入れされていてまだまだ元気に過ごされていることが知れる。
もう一人少し下ったところにある家に住んでいる方は70歳くらいの男性1人で、この方は猟師さんだそう。
多くの犬に吠えたてられて驚いたのだが、猟犬だということ。
他に市街地の方に住んでいてたまに来る人もいるそうだが、年々来るペースも落ちてきているとのことだった。
話を聞いていた養魚場のすぐ横の斜面にも柚子の実がたわわに成っていたが、ここは街に下りた人の所有らしく、柚子の収穫シーズンに入って1か月近く経ってもまだ来られていないことがわかる。
野暮だとは思いながら「よそからここに住んでみたいと訪れる人はいないのですか?」と聞いてみた。
「ははは、来るはずがない。とにかく仕事が無いから」
そんな質問されること自体思っても見なかったという反応だった。
「けれどここの暮らしはいい。面倒な付き合いもないから気楽に暮らせる。ここにおったらインフルエンザとかまず心配ない」と笑う。
確かに、田舎でよく言う「人付き合いの煩わしさ」など言うような規模でなくなってしまっている。
とにかく「人が集まって暮らす場所」に起こりうる悩みや面倒ごとと切り離されているのだ。
その代わりに「不便な環境」があると、外の目では思ってしまうが、ずっとここに住む身にそもそも便利や不便という区別が無いのかもしれない。
永くこの地に暮らす中で不便や便利を意識させれる場面は多々立ち現れて来たのだろうけど、それらを通り越してゆくうちに諸々ひっくるめてのここでの暮らしが出来上がっているのだろう。
「ずっと暮らしてきた場所が一番」という言葉は過疎の集落で話を聞くとよく耳にするのだが、もしかして自分はその意味をごくごく表面的に捉えていたのかもと思わされる。
ぼんやりとした愛着、あるいは知らない土地に移ることへの抵抗感、そんな一言二言で表現しきれるものではないだろう。
人生のほとんどを一つの土地で過ごしてきた人たちの、その地への幾重にも絡みついた思いは、たまたま訪れた旅の人間との立ち話程度では見えてくるものでない。
ご主人の「ここの暮らしはいい」と大らかに笑う顔と、この集落の現在置かれた環境のギャップに戸惑いを覚えながらも、その笑顔に至るまでの積み重ねをかみしめるように想像する。
少し驚いたのはこの最奥の集落でお祭りを今も行っているということ。
息子さんも含めた一家族でやっているようなものだそうで、お供えの料理をつくって神事を行うのだという。
前日に木頭北川の集落総出の秋祭りを見てきたばかりだ。
人口減高齢化で以前と同じ形でできない部分も出てきながらも、集落で100人を超える北川では何とか祭りを維持できている。
けれどよそでは祭りをやめてしまったり他の集落と合同でという形になった話も聞いていた。
高齢者ばかりになった集落で祭りをはじめとした年中行事が形を失うことは致し方ないこととも思っていた。
それがこの3世帯のみとなった集落で行われているとは。
むらの形が大きく変わっても受け継がれてきたものを守ろうとする姿勢に大きな敬意を抱いてしまう。
中流域の無住となった集落でも、「直接は聞かんけど、幟が立っとるの見たから、戻ってきてやりよるんやろな」と、祭りだけは継続されている様子とのこと。
旧村域人口が1000人を割り込むくらい人が減った木頭でも未だ5集落で祭りが行われていると聞いて驚いたが、代々受け継がれてきたものを大切にしたいという思いの強さには感銘を受ける。
ここの祭りは翌週らしい。
一瞬来ようかと思ったけど、まあさすがにいきなりなので、来年?もし何かできることあればお手伝いでもできればなあ。
ずっと話を聞きたいくらいだったが、突然の訪問で余り長い時間頂くのも申し訳ない。
また来ますという前に良かったらまた来なさいと言われたのが嬉しかった。