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Usen MUsen

世界がこんな状況になってから気がつけば1年以上、リモートワークやリモート飲み会といった直接”その場に行ったり会ったりしなくても、成立することが広がっている。

しかし、その一方で“直接”ということへの渇望も高まっていて、“直接”会うことの大切さを私自身も改めて感じている。

思い出してみれば、ほんの少し前までは映画館のチケットだって窓口に行かなければ買えなかったし、ライブのチケットはチケットぴあの窓口で買っていた(そういえばチケットぴあの店舗運営が終了した)。本だって本屋に行かなければ買って読めなかった。

それが段々と非直接、つまり“間接”が広がるにつれて変わっていった。別にこの広がりを否定するつもりはない。私もその恩恵にあずかっていて、便利だと思う。

しかし、それと同時に何か大事なものを失っているのではとも思う。

このモヤモヤ、言語化はなかなか難しくもあるが、この“直接”“間接”いうのを少し視点をずらして見てみると、“有線“無線”なんじゃないかと、ふと考えた。

昔はテレビのチャンネルを変えるためには、“無線”のリモコンがなかったのでテレビに付いているスイッチを回さなければならなかったし、家の電話もコード(“有線”)があったので電話機のところでしか話せなかった(その後コードレスホンが出てきたわけだが)。

ゲームボーイだってケーブル(“有線”)で繋がなければ対戦できなかったし、スーパーファミコンのコントローラーもケーブル(“有線”)で本体と繋がっていた。マウスやキーボードも同じく“有線”だった。

最近のプレイステーションのコントローラーは“無線”で本体と繋がっているので、マリオで谷を越えようとしてコントローラー自体も動かしてしまって、それによりケーブルが本体を引っ張ってしまい、本体がひっくり返るというハプニングは起こらなくなったが、何かを失った気がしている。

ちょっと不便だけどそれがスパイスになる…これは映画の中にもあって、今回観た映画の中の設定がまさにそれだった。

と、前置きが大分長くなってしまったが、その映画は「マトリックス」だ。

ストーリーは、私たちが今見えている世界は仮想現実で、実は現実世界では人間は機械に支配されている。その中で残った人間たちが機械に抗っていて、主人公のネオ(キアヌリーブス)がその救世主となれるか、というものだ。

主人公たちは現実世界仮想現実を行ったり来たりするわけだが、「現実世界→仮想現実」の時はイスに座ってプラグをつければ行ける。“直接”ケーブル(“有線”)を繋ぐ。

しかし、「仮想現実→現実世界」の時はそう簡単ではない。仮想現実にいる主人公たちは携帯電話で現実世界にいるオペレーターと話せるが、それだけでは戻れない。オペレーターが鳴らした固定電話を取らなければ戻れないのだ。これがこの映画を面白くしている要素の一つであり、少し不便だけどスパイスというやつだ。

もしこれが携帯電話で話すだけで戻れたなら、面白さはきっと半減していただろう。

話を私たちの世界に戻すが、これからますます世の中は便利になっていくだろう。しかしそれと共に大切な何かを失っていく、それも失っていっていることに気づかずに…そんな気がしている。

そんな時に私たちに何かを気づかせてくれるもの、その一つは映画だろう。

色々な“直接”が難しい日々が続いているが、映画との関係は“有線”のままいたいものだ。

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