SS/桜とコーンスープ
色の落ち始めたソメイヨシノを見上げて、俺はため息をついた。
今日も営業先で怒鳴られた。約束の時間より五分早いという理由で。激高した取引先の部長は、おそらく普段のストレスを、こうやって営業マン相手に発散しているのだろうと思う。しかし、分かってはいるがやってられない。
昼下がりの公園のベンチに座って、コーンスープ缶のプルタブを開ける。一口飲んではため息。ああ、でも旨い。缶の内側に最後までコーンが残り、舌で取り出そうとしてみっともない姿を晒す。
「出てこい、憎たらしいやつめ」
取引先の部長から受けたストレスを、コーン相手に発散する俺。 ああ情けない。
カチッ、ジー……
背後から聞き慣れない機械音がした。俺はコーンスープ缶の飲み口に舌を突っ込んだまま振り返る。
「ぶはっ」
その間抜けな姿を見て吹き出したのは、モデルのようにすらりとした黒髪の少年だった。どこかの高校らしいエンブレム入りのネクタイが、桜の花びらと一緒にふわりと揺れる。手元にはカメラらしき正方形の機械。
(もしかして、今の姿撮られた?)
恥ずかしくなって舌を飲み口から引き抜いた瞬間、ぴりっと痛みが走った。
「っ、イテぇ……!」
飲み口の端で舌先を切ったようだ。
「あ……大丈夫ですか」
少年が申し訳なさそうに近寄ってくる。
「舌は大丈夫。でも今の姿撮られてたら大丈夫じゃない、おじさん恥ずかしくて死んじゃう……」
俺は口を押さえながら、少年のカメラを指さした。近くでみると驚くほど整った顔の少年だった。背は俺より少し高いくらい。おそらく一回りほど年下だろうが、スペックはダブルスコアの敗北感。
少年は、すみません、とカードのようなものを俺に差し出した。名刺? いや、違う。写真だ。ベンチに腰掛けるサラリーマン――つまり俺――が、桜を見上げている後ろ姿が写されていた。
「これ、ポラロイドか。珍しいな」
「はい……後ろ姿に、思わずシャッター押しちゃって。勝手にすみませんでした」
おそらく前から見ると、コーンスープの飲み口にみっともない顔で舌を差し込んでいるのだが、後ろ姿では桜を見上げながら何かを飲んでいるようにしか見えない。ほっとした俺は片手をあげた。
「いや、いいよ。後ろ姿なら」
「声をかけるべきでした。人を撮ることがほとんどないので慣れてなくて」
「ん? 普段は何撮ってんの」
腰掛けていた位置を端にずらし、少年に座るよう促しながら尋ねた。
「空を」
「へえ、そんな小さいのに空も綺麗にとれるんだ」
「はい」
少年はうれしそうにワイシャツの胸ポケットから五枚ほどを取り出し、見せてくれた。
桜を透かした茜空、街明かりがぼんやりと浮かぶ夜空、優しく広がる鰯雲――。
「すごいな……スマホじゃないんだ、いまどきの子は。逆にアナログが新鮮なのかな」
「いえ、俺だけだと思います。一枚しかないから、複製できないから好きなんです。ポラロイド」
そう言いながら写真をしまうと、俺の後ろ姿を写したポラロイドをぐいと押しつけてきた。
「これあげます」
え、と声が出た。
「でもこれ、ポラロイドだから一枚しかないんだろ?」
「俺、空しか撮らないから」
じゃあなんで俺を撮ったんだ、と尋ねる。
「後ろあたまが、可愛かったから」
強い風が、桜の花びらと一緒に少年の黒髪を巻き上げる。目を細めたその顔が、心なしか桜色に染まっているように見えるのは気のせいだろうか。
「お、おじさんに向かって可愛いなんて言うもんじゃないぞ」
気恥ずかしくて視線をそらす。
「可愛いです。よくここでスープ缶飲んで、コーンがとれずにモダモダしてますよね」
「もうやだ、何この子! いつから見てたの!」
俺は両手で顔を覆って、わぁっとわめいた。二時間ほど前に怒鳴られた記憶は、いつの間にか薄れていた。
それから数日に一度、その少年と顔を合わせるようになった。少年はたまに俺に対抗するようにコンソメスープ缶を持参して、俺の座るベンチに腰掛けた。
「コーンスープ派の俺の前でコンソメを飲むとはいい度胸だ」
「これなら残ったコーンにイライラしなくていいですよ」
それは言わないで、と思い出し羞恥プレイにもだえる。
お互い名前も知らないのに、互いの身の上話をした。むしろ知らなかったからこそ何でも言えたのかもしれない。
少年はわりと不真面目らしく、ふらりと学校をサボっては空を撮りに行っているらしい。
「スマホで撮ってみたんですけど、なんだか違う絵になって」
「ポラロイドだと再現性が高いってことか?」
「瞬きしたらシャッターが下りないかなって思ってたことがあって、その感覚にすごく似てたから」
「うーん、わからん」
通りすがりの女性たちが、ちらちらとこちらを見ている。高校生とリーマンという組み合わせが珍しいのもあるのだろうが、おそらくこの少年の容姿のせいだ。近くで見れば見るほど整っている。思ったことがそのまま口から出る。
「その見た目なら、自分が被写体になることは考えなかったのか?」
「……え?」
「え、じゃないよ。自覚していないのか、端正な顔とモデルばりのスタイル。学校でイケメンつけ麺とか言って騒がれてんじゃないの」
少し古いネタを織り込んだことで、首をかしげる少年だったが、しばらく考えてこう漏らした。
「俺こんな性格だし、学校で浮いてますから。スマホも煩わしくて解約したし」
「解約したの! 何で」
「メッセージアプリのIDをクラスの子たちに教えたら、壊れたみたいで通知鳴ってばかりで。気味悪いし面倒でしょ」
それは女の子からの好意が殺到しているのでは、と喉まで出かかったが悔しくて飲み込んだ。
「お兄さんはなんでいつもここでコーンスープを?」
「……儀式みたいなものだよ、がんばるぞっていう」
俺はなんとなくごまかしてしまった。八つ当たりされる営業の悲哀を語って、社会に出ることに幻滅されては困ると思ったからだ。
「その割には最近おいしそうに飲んでないなと思って」
「……お前、いつから俺のこと知ってたの?」
少年はくすくすと笑って、胸元からまたポラロイドを一枚差し出した。満開の桜を見上げる、サラリーマンの後ろ姿。
「この間の俺じゃん。あれ、でもこれ俺が貰ったよな」
「あげましたよ、今年のはね」
まさか。
俺は手から空になったコーンスープの缶を取り落とす。少年はそれを拾ってゴミ箱に投げ入れ、こんなことを聞いてきた。
「そういえば、この間切ったところ、大丈夫でした?」
コーンを取ろうと、缶の飲み口に舌を突っ込んで切った、あの恥ずかしい傷のことだ。
「だ、大丈夫だよ。口の中は治りが早いし」
「でも血がついてますよ、ここ」
少年が自分の唇を指さしながら教えてくれる。
「まじ? おかしいな痛みはないけど」
見てあげましょうか、と言うので口を開けて、んべ、と少し舌を出す。
突然、目の前が真っ暗になった。少年の手が俺の両目を覆ったようだ。
「おい――んっ……」
半開きの口が柔らかいものに包まれ、舌先に湿った何かが這っていく。コンソメの味。
覆っていた手が離れると、焦点が合わないほどの距離に、少年の長いまつげがあった。
ゆっくりと唇を離しながら、少年は微笑んだ。高校生とは思えないほど手慣れた仕草だ。
「こんなにチョロいと、来年の桜の季節には結婚しちゃってるかも、俺たち」
自身たっぷりに微笑む。
学校で浮いてる? イケメンの自覚がない? 誰がだよ!
俺はしてやられたのが悔しくて、少年の唇をつまんでやった。
「お前がコンソメ派である限り、俺は落ちないからな!」
少年はくすくすと笑って「じゃ、今日からコーンスープ派」と言った。
(20200405 滝沢晴)
(イラスト・佐藤敏さま)