ALFEE考 バスの中から
人間ドックに向かうバスの中で、ALFEEを聴く。
2019年6月29日発売、Battle Starship ALFEE。
Come on ALFEE を見始めてから、久々にALFEE 熱が高まってきて、まずは手近なところでラジオを聞くようになった。はじまりの詩、碧空の記憶、進化論B、いつかの未来等、離れていた期間の曲を聴き、しばらくは某動画サイトで摘み食い。それを半年くらい続けるうちに、じわじわと夢中だった頃の感覚が戻ってきた。やっぱり音源が欲しい、とこのアルバムと一作前の三位一体を購入。
隙間時間を使って細切れで聴いていたのだけれど、今回バス移動、徒歩移動の時間が長かったので、じっくり通しで聴けた。そういえば、アルバムは本来こうやって聴くものだったと思い出す。日に何ターンも聴いていた、学生の頃が懐かしい。
高見沢さん、変わったなあ。
配信やラジオでの様子を見て感じてはいたけれど、改めて思う。
自分がALFEEから離れていた10年の間に、彼は次の段階に進んでいたんだ、と思った。
この「段階」を一言で表すのはなかなか難しい。
集大成、総まとめ、という言葉だとまるでこれで終わり、これ以上のものはない、という雰囲気だ。その可能性もあるのかもしれないけれど、少なくとも今の私はそうは思っていない。いつだって、常に最高のものを生み出し進化し続ける3人だから。その未来を打ち消すような表現はしたくない。
ではどの言葉が適当か。
さして多くない私の語彙の中では、円熟、が一番近いか。月並みではあるが。
とろりとして奥深い。どこか懐かしい。
暑い夏の日の、夕方に差し掛かる時間の日差しに照らされた、凪いだ金色の海のような。潮のにおい、生ぬるい風、遠い子どもたちの歓声。
まろみを帯びた、彼の世界。全てを肯定し受け入れようとするものの見方。
これまで出会った人たちとの関わり、そこで生み出された喜びや怒り、悲しみ。夢を追う、愛が満ちる充足感。その裏にある虚無感、さらにその先にある人が生きることへの慈しみ。そして別れ、あるいはその予感。
人生を彩ってきたものたち全てが溶け合って、今の彼を作っている。
そしてそのことを、誰よりも彼自身がよくわかっている。
還暦を過ぎ、60代も折り返し。
人は、こうやって生きていくのか。
アルバムに収められた、彼が作った曲から、そんなことを考える。
もちろん、私が見ている彼の姿はメディアというフィルターを通したもの。その上でさらに私自身のフィルターを通したもの。
私に見えている彼の姿は、私自身の理想、モデルにしようとする生き様なんだろう。
ALFEEとともに青春を過ごし蓄えた、人生を乗り越える力をもって社会に出た。踠きぶつかりながら日々を過ごす中で、人を愛し、共に歩む決意をした。
子を生み、守るべき小さな存在に全てを捧げて走り続けた。
私が私でいるために、仕事も諦めきれなかった。社会の中に確固たる居場所が欲しかった。
もう、私のキャパシティはまるで破裂寸前の風船のような状態で、ALFEEが入る余裕は無くなった。たまにテレビで新曲を聴いても、入ってこない。響いてこない。
気づいたら10年以上が過ぎていた。
子どもたちは大きくなり、自分たちの世界を持ち始めた。
仕事のブランクも、埋まりつつあった。加えて働き方改革。メンタルヘルスのために自分の時間を充実させろというならば、と軽い気持ちで配信を見始めた。
そして話は冒頭に戻る。
思えば、そろそろ私も新たな段階に進もうとしていたのかもしれない。そのために、ALFEEに戻ってきたのかもしれない。
生きよう、精一杯悔いのないように。
彼の年齢に追いついたその時、同じように自分の人生の全てを受け入れて笑っていたいから。
その頃にはきっと、ALFEEはもういない。
震えるほど怖い。足元がすうすうする。狼狽える自分が今はいる。
でも、いないというその事実も、自分の中に混ぜ合わせて溶け合わせて、私で在りたい。
金色に輝く、スロウでメロウな凪いだ海のように。
20210226 Battle Starship ALFEE
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