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いまさらですが
佐々木典士さんの「ぼくたちに、もうモノは必要ない。」を読んで、物を捨て始めました。
ADHDだからかなんなんだか、片付けは出来ないタイプです。
物を大量に買ったり集めたりはしないけど、あるものの管理が出来ないので、家のあっちゃこっちゃにものが散らばっています。
小さい時からこうなので、定期的にやる気を出して片付けにチャレンジするけれど、継続されない。しばらくたつとまたごっちゃごっちゃ。
でも今回は、この本に、物が声を発しているみたいなことが書いてあって、ADHDと「物」の相性の悪さに気づかされるところがありました。
確かに私は「物」と本当に相性が悪い。
傘はもって一週間。お高い傘ならなくさないかもと思ってもやっぱり一瞬でなくした。
服も買えば買うほどなぜか着られる服がなくなる。
小学生の時、ランドセルを忘れて登校し、靴を忘れて下校した。(上履きのまま帰宅)
きりがないけど、基本「物」は私にとって、失くすか、壊すか、ぐちゃぐちゃになるか。
あと片付けチャレンジのように、定期的にやる気が出て、どうしようもないこの生活を改善するぞ!ってなるときがあって、資格のテキストとか、美容アイテムとか、丁寧な暮らしグッズとか、もろもろもろもろ、「物」で解決を試みちゃう。そしてやっぱり失くすか、壊すか、ぐちゃぐちゃになるか。
捨て始めたら、確かに「物」が声を発しているのがよくわかりました。
特に大きい声は「やらなくちゃ」でした。
・(資格のテキスト)勉強しなくちゃ
・(フキン)漂白して乾かさなくちゃ
・(シャツ)アイロンしなくちゃ
・(便利な調理グッズ)時短で栄養もある料理を作らなくちゃ
・(なぜか買ってしまうノート)なにか書かなくちゃ(なにか有意義なことを(ふんわり))
もともとなにもなくても頭のなかが騒がしいのに、「物」の声がプラスされたら、うるさいよね。それはもうすごく。
生活力?的なもののレベルが今日も息してるの?すごいじゃん!くらいなのに、大量の「やらなくちゃ」を自分に命じる鬼コーチ(自分)。
というわけで、少しずつ捨ててます。家の中に響き渡っていた声もそれにあわせて小さくなってきています。まだ先は長いですが。
でも、捨てていくなかで思ったのは、家にある「声の大きな物」の、その声は、いつかの私の「変わりたい」「善くなりたい」という願いで、「助けてほしい」という叫びで。
だから、祈るように希望を込めて「物」を買って、自分がポンコツで「物」としての使命は全うさせてあげられなかったけど、捨ててしまうことになったその「物」は、それを買った藁にもすがりたくて、どうしようもなかったいつかの私を、その一瞬だったかもしれないけれど、確かに助けてくれたのだということは、覚えておきたいと思っているのです。