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ディアントニ・パークス(ザ・マーズ・ヴォルタ/ボスニアン・レインボーズ/ウィー・アー・ダーク・エンジェルズetc...)インタビュー

ディアントニ・パークスの存在を初めて強烈に印象付けられたのは、ジョン・セオドアが脱退してしまった直後のマーズ・ヴォルタ来日公演で、ピンチヒッターを務めてみせた姿を目撃した時だった。当初マーズ・ヴォルタには一時的な参加にとどまったが、ほどなくしてオマー・ロドリゲス・ロペスにとって非常に重要な関連ミュージシャンとなっていき、最終的には活動停止前のマーズ・ヴォルタに参加することになる(その辺りの経緯については以下のインタビューで詳しく語ってくれた)。プレイヤーとしての技量はもちろんのこと、アーティストとしての精神的な有り様や、なによりルックスがカッコよくて、個人的には現在の音楽シーンでいちばん好きなドラマーのひとりだ。
これは、2016年にジョン・ケイル(ex.ヴェルヴェット・アンダーグラウンド)が来日した際、バックメンバーとして同行したディアントニに行なったインタビュー。

通訳:染谷和美  翻訳:片岡さと美


--今回の来日では、1日2回のショウを3日連続でやったうえに、深夜には自分自身のライヴも敢行することになっていたりして(※諸事情により中止されてしまった)、なかなか大変なスケジュールですね。

ディアントニ「まあ、プリンスの精神で頑張ったというか(笑)、とにかく休むことを知らない世界に生きているからね。オマー(・ロドリゲス・ロペス)もそうだけど、俺たちって仕事の手を休めることがないんだ。健康とやる気がある限り、言い訳は許されないのさ。ひたすら音楽を生み出してシェアし続けるのみ」

--今回はジョン・ケイルとの来日になりましたが、彼とはどういうふうに知り合い、いっしょにやるようになったのか教えてもらえますか?

ディアントニ「ジョンとは、2000年代頭の頃からの付き合いになるね。最初は、彼のマネジャーがいきなり電話をかけてきたんだ(笑)。当時ジョンはニューヨーク、俺は遠く離れたLAにいたんだけど、電話口の向こうでマネジャーがプロジェクトの話をはじめたのを聞きながら、こっちはもう《ジョン・ケイルだって?》ってパニック状態(笑)。まさか冗談だろ?ってね。でも、その電話が持つ重みや価値は十分に理解していたよ。それからジョンとも電話で直接話をして、《俺に賭けてみたい》って言ってもらったんだ。この出会いは俺にとって、魂レベルと言っていいくらいの凄い転機になった。ちょうどその頃、現状を打破するには何かラディカルな変化が必要だって、自分でも意識してたんだよね。そんなタイミングでジョンと出会って、それからずっとともに仕事してきた。俺がコンポーザーとしてもパフォーマーとしても自信をつけていくうえで、最も大きな影響を与えてくれたのがジョンだと言っていいと思う。アーティストとして全方向的なヴィジョンを手に入れる手助けをしてくれたんだ」

--ジョンはどうやってあなたを見出したんでしょう?

ディアントニ「確かミシェル・ンデゲオチェロが推薦してくれたんだと思う。彼女は俺が心から尊敬してるアーティストのひとりで、大の親友でもあるんだ」

--ミシェルとの出会いのほうが先だったんですね。

ディアントニ「うん。まずミシェルと仕事をして、その後ジョンと出会ったんだ」

--では、彼女と仕事をすることになったきっかけは?

ディアントニ「昔ニューヨークでKUDUっていうバンドをやってた時から、ミシェルはサポートしてくれてたんだよ。当時KUDUのことを知ってる人間なんかほとんどいなくてね――オマー、ミシェル、それにモービーとか、一握りの連中にしか知られていなかった。ミシェルは、KUDUをツアーのオープニング・アクトに抜擢してくれて、初めて出会ったのもそこでだよ」

--それ以前に、音楽産業というかポピュラー・ミュージックの分野において、自分のプレイを提供した機会というのはあったんですか?

ディアントニ「そうだな……シャーデーと仕事したことはあるけど、どっちかっていうとポップ・シーンは避けるようにしてきたからね(笑)。自分にとってポップは、マイケル・ジャクソンとプリンスどまりっていうか、俺に言わせれば80年代以降ポップはヒドくなる一方だから、まったく興味の対象外なんだ。ポップのシナリオっていうのは、俺にはどうもね……。ポップ・シンガーから色々とオファーされたことは何度もあるけど、とにかく興味を持てなかった。俺が求めてるのはもっとディープな音楽だし、だからそう、たまにやったことはあるけど、自分の中では記憶にも残ってないんだよ(笑)」

--(笑)。

ディアントニ「ただしポップ・アーティストに関しては、亡くなった人を含めて、過去の偉大な人たちとは一緒にやってみたいと感じていて、それでWe Are Dark Angelsっていうプロジェクトを立ち上げて、ブロンディとかアニー・レノックス、それにマイケル・ジャクソンといった、過去の色んな時代のビッグ・アーティストの有名な曲のリミックスをやってるんだ。俺としてはポピュラー・ミュージックとはそういう形で関わりたいと思ってる。最新のソロ・プロジェクトもそういう内容で、プリンスが亡くなったりデヴィッド・ボウイが亡くなったりする中で、プリンスやボウイのリミックスを『Wally』っていうレコードにまとめたんだ。『パープル・レイン』でプリンスが表現した抽象概念に捧げたアルバムになってる」

--先日ツイートされていた作品ですね。

ディアントニ「うん。そのWe Are Dark Angelesは、俺にとって非常にスペシャルなプロジェクトなんだ。ポール・シュレイダーの映画『ドッグ・イート・ドッグ』にも、この名前で参加してる。クレジット・ロールでは"音楽:We Are Dark Angeles"って紹介されてるはずだよ。俺の会社の名前でもあるし、KUDUのメンバーだったニッキ・キャスパーと2人でやってるプロジェクトで、あいつとは今も緊密に仕事してるんだ」

--では、さらに遡った昔の話も聞かせてください。2歳の頃からドラムを叩いていたそうですが、どういう音楽環境で育ったのか教えてもらえますか?

ディアントニ「バッハみたいな音楽一家の出ではなくて、親戚に1人だけ、世間でも名の知られてるドラマーがいる程度だよ。君は知らないかもしれないけど、ハミルトン・ボハノンっていうドラマーで、ハウス・ミュージックの始まりにも関わった人なんだ。モータウンのアーティスト、スティーヴィー・ワンダーやダイアナ・ロスなんかと仕事する一方で、色々と革新的なドラミングを編み出した人でもあるんだけど。だからそう、音楽をやってる縁者は彼だけだし、どうやって2歳でドラムを叩くようになったかは正直、自分でもわかんないね(笑)。ただ、家の中で俺が机や椅子を素手でパカパカ叩くのを見た祖母が、キッチンから鍋やフライパンを持ってきて目の前に並べてくれたのはよく覚えてるよ――《ほら、これを叩きなさい》ってね(笑)。両親は毎日外に働きに出てて、俺はいつも家の中で婆ちゃんと留守番してたんだ。だから婆ちゃんが、この子は何か持ってるよ!って言っても、親のほうは最初どうかな?って感じで……要するに俺を見出してくれたのは婆ちゃんなんだよ(笑)」

--それで自然にドラマーになった、と。

ディアントニ「ああ、なるべくしてなったって感じだね。すぐに楽譜の読み方を覚えて、ルーディメンツも習得したんだけど、ドラムセットの前に座るようになったのは本当に自然な流れだった。あと、素晴らしい恩師のことにも触れとかないとな――ドクター・ダグ・ムーアっていう先生で、パーカッションの教師ってだけじゃなくマルチ・インストゥルメンタリストでもあって、音楽理論や和声学にも精通してる人でね。4歳とかまだそのくらいの頃に、ルーディメンツや楽譜の読み方はもちろん、ありとあらゆることをムーア先生に教わったんだ。彼は普段、子どもを生徒にとらない人で、母さんが電話で問い合わせた時も最初は断られたんだけど、親に連れられて会いに行ったら生徒にしてくれたのさ。俺に賭けてくれたんだよ」

--10代の頃はどんな音楽を演奏していたんですか?

ディアントニ「ジャズだよ。俺にとって10代は、まさにジャズの世界への入門期で、すごく重要な時期だった。あとは、好きなレコードに合わせて叩いたりもしていたよ。クラフトワークのレコードとか、エレクトロニック・ミュージックはよくプレイしてたな。ほかにはプリンスとか、TOTOとかだね。面白いドラム・パートとメロディックな要素を持った音楽が好きだったんだ」

--なるほど。

ディアントニ「それに、シンセサイザーとも子供の頃からの付き合いでね。当時からシークエンシングに興味があって、自分で構成した音をループさせてみて、そいつと自分の叩くドラムを重ねてみながらひとつの世界を創り出すプロセスにハマってたんだ。で、その世界の発展形が今やってるTechnoselfだ。俺ひとりで、キーボードを弾きながら同時に左手ではドラムを叩くという形に辿り着いたわけ。9歳の頃から始まって10代~大学生の頃までずっと追い求めてたプロセスの結実が、このTechnoselfなんだ」

--ボスニアン・レインボーズの来日公演(※その時点ではオマー・ロドリゲス・ロペス・グループ名義だった)を観た時、キーボードをドラムキットに組み込んでいるので驚いたのですが、あのアイディアを導入したのはいつぐらいだったんでしょう?
 
ディアントニ「プロとして取り入れたのはボスニアン・レインボーズが初めてだよ。ああいう構成で初めて世界をツアーしたんだ。あれってセットアップが大変で、ホント苦労したよ(苦笑)。でも苦労した甲斐があり、めちゃくちゃ面白い形が出来上がって、その後のTechnoselfのレコードへと繋がっていったというわけなんだ。あのツアーで作り上げたものを新たなプラットフォームとして、やっていく自信がついたんだよ」

--ボスニアン・レインボーズの名前が出たので、ここであらためてオマー・ロドリゲス・ロペスとの出会いについても聞かせてください。

ディアントニ「確か俺のことを、ええと、ネットか何かで知ったんじゃなかったかな(笑)」

--(笑)。

ディアントニ「マーズ・ヴォルタの誰かがネットで俺のことを見つけて《誰だこいつ?》ってなったらしくて、それで連絡してきたんだ。それが始まりだよ。ただ当時、俺はKUDUをやってて、そっちに強い思い入れがあったから、自分の仕事を放棄したくなかったんだ。そんなわけで、最初はマーズ・ヴォルタからオファーを受けて数週間いっしょにやったんだけど……日本にもその時に来たんだよね」

--はい。

ディアントニ「でも、まだその頃はKUDUをやってて……当時はジョン・ケイルともやってたから、そのままマーズ・ヴォルタにとどまってやり続ける気にはなれなかったんだ。知っての通り、そのずっと後に参加することになったんだけどね。その時は、オマーとの友情/互いへの敬意のために戻ったんだよ」

--じゃあ、「ドラマーが抜けたから代わりに叩いてほしい」っていうのが、最初にコンタクトがあった理由なんですね。

ディアントニ「イエス。その通りだよ。その頃あいつらはドラマーのことでトラブってた(笑)。新しいドラマーを探してるって言ってきたんだよ。でも、バンドの誰かの穴を埋めるっていうのは個人的にはあまり好きじゃないんだよね(笑)。マーズ・ヴォルタってだけじゃなくて、どのバンドのドラマーとも比べられたくない。だから……代役っていうのは俺の趣味じゃないんだ。ドラマーとして自分なりの考えを持ってやってるし、主張したいこともたくさんあるからね。もちろん、他の連中とプレイして得るものもたくさんあるけど、究極的には俺のボスは俺自身で、自分だけのためにアートをやってるから」

--僕もあの時の日本公演を観てますが、あれが初めての来日だったんですか?

ディアントニ「えーっと、多分そうなんじゃないかなあ。実はさっきもそのことを考えてたんだけど、んー、いや、初めてじゃなかったかも。ミシェルと来たのが最初じゃなかったっけ」

--ジョン・ケイルとは今回が初めてですよね。

ディアントニ「ジョンとはこれが初めてだよ。日本にはオマー・ロドリゲス・ロペス・グループにマーズ・ヴォルタに、ジョン・ケイル、ミシェル・ンデゲオチェロ……あと多分、マーク・リボーとも来たことがあると思う」

--そのほかに、ボスニアン・レインボーズと……

ディアントニ「イエス、ボスニアン・レインボーズ」

--ヴァットウ・ニグロでも演ってますよね。

ディアントニ「そうそう、ヴァットウ・ニグロもそうだった。でも、やっぱりマーズ・ヴォルタと来たのが初めてかもな。ちなみにあれって何年だっけ?(笑)」

--2006年かと。もう10年前ですね。

ディアントニ「10年か、そうだね。ひょっとしたら何か抜かしてるかもしれないけど、多分その時が最初だと思う」

--いずれにしても、日本に来たうちの6回はオマーと一緒だったことになるわけですかね。

ディアントニ「そんなに? もうちょっと少ない気もするけど、多分そうなのかもね」

--マーズ・ヴォルタで来て、ボスニアン・レインボーズ、オマー・ロドリゲス・ロペス・グループで2回、ヴァットウ・ニグロ……そして、マーズ・ヴォルタでもう1回来てるから、これでもう6回ですね。

ディアントニ「確かに」

--そのことからも、あなたにとってオマーは非常に大事な創作パートナーになりつつあるんだな、と実感するのですが。

ディアントニ「ああ、その通りだよ」

--彼と自分の間で、アーティストとして共通するところはなんだと思いますか?

ディアントニ「んー、仕事観かな。2人とも仕事が早いんだ。どんどん仕事を片付けて、遊ぶ時間を確保するんだよ(笑)。だーっとプレイして《ああ、なるほど、いいね。これでいい》、《よし、じゃあ出かけようぜ》ってね」

--(笑)ボスニアン・レインボーズは、なかなかセカンドが出ないんですけれども、あのバンドでの仕事はどうですか?

ディアントニ「実はセカンド・アルバムの曲は何年も前に完成してるんだ」

--テリ(・ジェンダー・ベンダー)からも、そう聞いてます。

ディアントニ「いつものように、あっという間に作ったよ。ボスニアン・レインボーズの半分を占めるニッキと俺は、We Are Dark Angelesも掛け持ちしてて、人気ドラマ『トゥルー・ディテクティヴ』でT・ボーン・バーネットと一緒に仕事したり……ウディ・ハレルソンやマシュー・マコノヒーが出てたファースト・シーズンと、あとセカンド・シーズンにも参加してるんだ。さっきも話したように、最近ではポール・シュレイダーの映画でも仕事したしね。そしてオマーはオマーで、アット・ザ・ドライヴ・インやアンテマスクと、またセドリック(・ビクスラー・ザヴァラ)と組んで音楽を作り始めて……それぞれが色んなプロジェクトに同時に携わってるから、どんどんリリースが延びてしまったんだ。でも今やっと、ラテン・アメリカ系のすごい大物プロデューサーに作品を託して、あとはファイナル・ミックスが完成するのを待つのみなんだよ。来年にはそのアルバムで南米をツアーしたいと思ってる(※結局2017年にボスニアン・レインボーズは活動しなかった)。実はセカンドでは全編エスパニョールで歌ってるんだ」

--スペイン語ですか。

ディアントニ「ああ、すごくいい感じだよ」

--それは楽しみです!

ディアントニ「最高にイカしたポップ・レコードで、俺自身いちばん気に入ってる作品のひとつなんだ。オマーのギターが、なんて言うか、ザ・スミス風でね」

--へえ~っ。

ディアントニ「デヴィッド・ボウイ風でもあって、とにかくすごくイカしてるわけ。俺好みのスタイルなんだ」

--ちなみに、その大物ラテン・アメリカ系プロデューサーの名前を教えてもらえますか?

ディアントニ「ラファエル・アルカウテ(Rafael Arcaute)っていうプロデューサーで、カイエ・トゥレッセ(Calle 13)っていうプエルトリコの人気バンドもやったりしてるんだ」

--昔からオマーはたくさんアルバムを出していましたが、これから出すという12枚(※最終的には23タイトルがリリースされた)は、最初の2作を聴く限り、以前のソロ作品とはかなり違ってきているような気がしています。あなたはどう思いますか?

ディアントニ「俺もまったく同感だよ。過去のオマーの作品のほとんどは、全編あいつ一色だった。あいつのアイディアの結晶で、マーズ・ヴォルタにしろ何にしろ、すべてオマーそのものだったわけ(笑)。でも今のあいつは俺とコラボレートしてるから、それが音楽にも表れてる。『Sworn Virgins』も、Technoselfとオマーが合体したレコードで、そこが今までと違うところなんだよ」

--あなた自身も、このところ『Wally』に『Technoself』と立て続けにアルバムをリリースして、この後も確か『Deanthoven』という作品が出るそうですが。

ディアントニ「イエス、これもWe Are Dark Angelesのコンセプトを土台にして作ったアルバムで、過去の偉大な音楽家とのコラボレーション、つまり俺とルードヴィッヒ・ヴァン・ベートーヴェンが一緒に作ってる設定なんだ。Technoselfのメソッドに俺の大好きなベートーヴェンの作品から抜粋を持ってきて作ったんだけど、今まで経験したことのないプロセスだった。今週の金曜日にカセットとデジタルで全世界でリリースされる。アートワークを見せてあげるよ……顔は俺なんだけどベートーヴェン、っていう(笑)」

--(笑)。

ディアントニ「クラシックなんだけど新しい、そんなアルバムにしたかったんだ。そういう音楽に今いちばん燃えるんだよね。あと、みんなにショックを与えることによって、考えてもらいたかったっていうのもある。ベートーヴェンはミュージシャンにとって極めて重要な存在だからね。ベートーヴェン以前の音楽家は、みんな基本的に"小作人"だったけど、彼が音楽家を"アーティスト"のレヴェルにまで引き上げたんだ。ベートーヴェン以降に音楽に携わってる俺たちはみんな彼に感謝すべきで、だから俺も敬意を表したかった。ありがとうと言いたかったんだ(笑)」

--他に好きなクラシック音楽家は?

ディアントニ「ああ。実際これはシリーズ第1弾で、他にも俺+マーラー、俺+ドヴォルザークっていうのもあって、もう全部できあがってる。あとはリリースするのみだよ」

--ほお~。

ディアントニ「実際、俺のレコードはどれも全部完成してて、あとはふさわしい発表の場所とタイミングだけなんだよね(笑)。もうここ何年も、レコードを作りはするけど、うーん……って感じで棚上げにしてきたんだ。書いて書いて書いて、安全な場所にしまって、ってね。音楽をシェアするっていう発想が俺には無くて。それが《あー、いや、でも、やっぱリリースすべきだよな》って思うようになったのは、ジョン・ケイルやオマーの存在が大きいよ。だからこれからは、俺のレコードをもっとたくさん見かけることになるはずさ――レーベル経由、セルフリリース、バンドキャンプ配信と、いろんな形でどんどん出してくつもりだから」

--いわゆる音楽業界の面倒臭い手続きがどんどん無くなって、インターネット等で自力で発信できる様々な仕組みが整ってきましたが、あなたにとっても待ち望んでいた状況になりつつあるという感じなんでしょうか。

ディアントニ「そうだね。今の時代、アーティストは多作でなきゃやってけないと思うんだ。限定コンテンツっていう形を誰もが望んでる時代だから。で、俺自身はそのおかげで、手元にあった大量のマテリアルを色んな国や人を相手にリリースできるようになった。現状をフル活用して、リスナー別に違う作品を出すことだってできるようになったんだよ。曲を書いていた当時はレーベル経由でしかリリースする術がなく、しかも所有権もレーベル側にあって、それが俺は気に入らなくてね。今じゃすっかり状況が変わったし、さらにこの先はすべてヴァーチャル・リアリティ化していって、たとえばTechnoselfのストリーミングで俺の作品を8時間ぶっ通しで観る、なんてことも可能になるはずさ。音楽がエンドレスにアクセスできる時代になったってことなんだ。ひとつの作品、ひとつのアルバム単位じゃなく、すべてが休みなく同時発生し続けてるというのが今の状況なんだよ」

--では最後の質問です。今後どういったことをやっていきたいか、どういった計画があるのかという部分も含めて、もう少し長期的な活動ヴィジョンを聞かせてもらえますか?

ディアントニ「俺としては、今やってることをやって、明日やることはその時の流れに任せるって感じで、先のことはあんまり考えてないんだ。今日やりたいことは全部今日中にやるようにしてるんだよね。明日になったら飽きてしまって、もうこれ以上音楽はリリースしたくない、ってなってるかもしれないから(笑)。だから今日全部やってしまいたいんだよ」

--(笑)。

ディアントニ「多作なのもそのせいなんだ。やりたいと思ってる間にやってしまいたい。明日には他のことがやりたくなってるかもしれないからね」

--わかりました。今日はどうもありがとうございました。

ディアントニ「あ、ひとつ訊いてもいいかな。『Technoself』の制作プロセスはわかってもらえたかと思うんだけど、日本のアーティストについても、独占リミックス・アルバムを俺が作って日本だけで出す、みたいな機会が作れたらなあ、なんて考えていて、とりあえず心に留めておいてもらえると嬉しいな。現役でも、亡くなった人たちでも、どっちも歓迎だ。多ければ多いほどありがたいから、よろしく頼むよ」



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