ビル・リーフリン(キング・クリムゾン/R.E.M./スワンズ/ミニストリーetc...)インタビュー
2018年の末に来日し、大々的なジャパン・ツアーを行なったキング・クリムゾン。その際に、当初の参加時はトリプル・ドラムの一員を担い、いったん離脱した後にはバンド史上初の専任キーボード奏者として再加入したビル・リーフリンにインタビューすることができた。これまで様々なバンドで叩いてきた優秀なドラマーであるビルには、いつか話を聞きたいと考えていた。読んでもらえれば分かる通り、ここではクリムゾンの話はほとんどしていない。あまり時間がなかったので、R.E.M.やフィルシー・フレンズの話も全然できなかった。それでも、かなり貴重な話を聞けたのではないかと思っている。
その後の歩みを追えば自ずと予想できたことではあるけれど、「インダストリアル・ロック」の重要な当事者でありつつ、本人は一貫してクールな距離感で接していたみたいですね。
翻訳:片岡さと美
ジュールゲンセンは、ドラッグ漬けの狂人になってしまって、それで「もう、これ以上いっしょにはやれない」と思ったんだ。
---あなたはシアトルの出身ですが、どういった音楽環境で育ったのですか?
「何を話すかは、どこまで遡るかにもよるかな(笑)」
---たとえば音楽との最初の出会いは、どういった状況でだったんでしょう? ご両親を通してとか?
「そうだな、小さい頃からいつも音楽は聴いてたし、てことは、家でよくかかっていた音楽を聴いてたことになるね。実際、うちにはいろんなレコードがたくさんあって、いろんな音楽がかかってた。子供向けの音楽だけじゃなく、例えばアメリカのミュージカルのレコードも結構あって、だから結構あの手の音楽には詳しいんだ。『マイ・フェア・レディ』とか『キャメロット』とか『サウンド・オブ・ミュージック』とか、ブロードウェー・ミュージカルのサントラが全部揃ってたよ。あと、母親はオペレッタが好きで、僕もよく聴いてたっけ。特に大好きってわけではなかったけど、常に流れてたから。ただ、やっぱり一番の大きな出会いはビートルズだね。僕の世代の多くがそうだと思うけど――あ、デヴィッド(・シングルトン)は例外だ(笑)。彼がビートルズと出会ったのは大人になってからなんだって。でも僕は、同世代の多くと同じようにビートルズを聴いて育ったんだ」
---ドラマーになろうと思ったのはどういうきっかけからだったんですか?
「まったくの偶然なんだ。最初に習った楽器はピアノだった。子供の頃、母親から『ピアノのレッスンを受けてみたくない?』と言われて、なんとなく『うん、いいよ』ってね。ピアノに興味があったわけじゃなく、やる気もゼロだったけど、まあ楽しくレッスンに通ってはいたよ。それから、ギターを弾くようになったんだけど、近所で友達がやってたバンドは、生憎どの楽器も担当がもう決まってて、唯一ドラマーだけが見つかってなかったんだよね。で、『ドラムやってみないか?』と誘われて、試しにやってみることにしたんだ。その時点ではそれほど興味も湧いてなかったけど、それがドラムとの出会いさ。バンドをやってた友達に頼まれて、たまたまドラムを叩くようになったってわけ。その後、やっぱりギタリストになりたくてドラム・セットを処分したんだよね。なのに、また別のバンドにドラマー枠で誘われて、そこからが本格的なスタートになった。15歳の時だったよ。そういう感じで、《他にやる覚悟のある人間がいなかった》というのが、僕がドラマーになった理由(笑)」
---初期のバンド活動について聞かせてください。ポール・バーカーとはどのようにして知り合ったんですか?
「ポール・バーカーはローランド・バーカーの兄弟で、ローランドは僕が79年から84年まで在籍していたブラックアウツというバンドのメンバーだった。で、ポールはベースをやってて、当時はドイツに住んでたんだけど、ブラックアウツのベーシストが脱退した時、ローランドが『シアトルに来てバンドに参加しないか』と声をかけたんだよ。で、ポールは1981年にブラックアウツに正式加入し、そこで僕とも知り合って、以来あいつとはずっと友達だ。ブラックアウツで数年いっしょにプレイして、その後は知っての通り、ミニストリーでもいっしょにやった。実際、ブラックアウツからギタリストを引いたのが当時のミニストリーのラインナップだったんだ。つまり、僕とポールとローランド、それにジュールゲンセンの4人だよ。その後ローランドが脱けたけど、ポールと僕はそのままバンドにとどまって、さらに僕が脱けた後も、ポールはしばらくとどまった、と(笑)」
---あなたは90年代、そのミニストリーを中心に、たくさんのバンドでインダストリアル・サウンドの担い手になっていくわけですが……
「まあ、自分たちの歴史上の位置付けっていうのは、自分じゃよくわからないんだけど」
---非常に重要な存在であったことは疑いの余地がないと思います。そもそも、ああいう方向性のサウンドにはどんなふうにして引き寄せられていったんですか?
「んー、それが結構複雑でね。ブラックアウツが解散した後、この先どうしようかと悩んでたんだけど、ポールのほうはシカゴに飛んでアルと一緒に仕事を始めてて、僕にもシカゴに来いと誘ってくれた。アルとは僕も面識があったし。それで、シカゴに行ってふたりと一緒にプレーするようになったものの、正直、音楽的にはさほど面白いとは思えなかったんだ。ただ、インダストリアル・シーンが持っていたパワーや音楽の激しさが気に入ったのと、あと、仕事のチャンスやクリエイティヴなことをやれる場所が山ほどあるのが嬉しくてね。当時のアルもまさにエネルギーの塊というか、本当にパワフルで、クリエイティヴで、面白くて、カリスマ性があって。彼の周りでは常にいろんなことが起きてたし、シーン全体の空気もそんな感じだったんだ。僕らだけじゃなく、いろんなミュージシャンに一緒にやろうって声をかけてたよ。そういう意味でエキサイティングだったのであって、ある意味、音楽的な部分は僕には一番どうでもよかったんだ。ただシーンにすごく活力があって、激しくパワフルなところが気に入ってた――そういうシーンで格好よさげなことがやれる、ってことがね。自分たちが新しいサウンドを創り出そうとしていたのは確かだと思う。新しいサウンドの領域を切り開こうとしてたんだ。そこは僕も面白いと思ったし、実際、ミニストリーの音楽シーンへの貢献ってことでいうと、音楽のスタイルよりむしろサウンド面での貢献のほうが大きかったんじゃないかな。音楽的にはめちゃくちゃシンプルなことをやってたから、僕らもどんなサウンドを出すかに全エネルギーを注いでたよ――あの激しい強烈なサウンドをどうやって創り出すか、どうサウンドをアレンジするかってことにね。おかげでどのレコードも作るのにめちゃくちゃ苦労した――何ヶ月もかけて作ったんだ。もう何年も聴いてないけど」
---そうなんですね。
「今聴いたらどう思うだろう? 気に入るかもしれないし、気に入らないかもしれない……なんとも言えないな」
---この夏(2018年)に出た、ポールのプロジェクト=Lead into Goldの新作にも参加していましたよね。
「あ、あのプロジェクトでは僕は実際にはプレーしてないんだ。今回Lead into Goldの新作を作るってことで、僕にも何かで参加してほしいみたいなことは言われたんだけど、スケジュールが合わなかった。iTunesにもダウンロードしたけどまだ聴いてないんだよね(笑)」
---あらら。
「君は聴いたの? どうだった? 大丈夫だった?」
---今のミニストリーにはないものがあると思いました。
「それっていいことなの?」
---正直に言うと、今のミニストリーと足してみたら、ちょうどいいのかな、と(笑)。
「なるほどね。今のミニストリー、っていうかジュールゲンセンは、ギター・メタル系に行ってしまって、僕にはちょっとつまんないんだよね。一方のポールは昔からコンセプチュアリズム志向で、変なことを試したがるのはいつもポールだった。すごいスロー・テンポな音楽が延々と続くだけで途中なんにも起こらない、とか」
---(笑)。
「アハハハハ!」
---アル以外にも、あなたはキャリアを通して、マイケル・ジラという強烈なキャラクターの持ち主と一緒にやったり、今ではロバート・フリップというこれまた強烈な人物と活動をともにしているわけですが、そういう人たちとは、どううまくつきあってきたのでしょう。
「うまくやるコツってこと? そうだな、確かにキャリアの大半を、強烈なカリスマ性を持った人々と一緒にやってきたかもしれない――ジュールゲンセンもそうだし、ロバートも、スワンズのマイケル・ジラもそう。でも、どうしてなのかは自分でもよくわからないな。独自の視点をしっかり持ったミュージシャンと仕事するのが好きなのは確かだけどね。その視点こそが作品を面白くしてくれるわけだし……。とにかく、自分の視点が相手の視点と合致すると、折り合いもつけやすくなるし仕事も前に進めやすくなるってことだと思う。実際そういうケースが多かったしね。逆に自分が賛同できない強い考え方の持ち主と仕事するとなると、また話が違ってくるし、そういう連中とは結局いっしょにやらずに終わるんじゃないかな。僕自身、仕事をともにする相手を選ぶことができる、恵まれた立場にいるのも事実さ。音楽で生計を立ててはいるけれども、常に仕事してなきゃならない類のプロのミュージシャンとはちょっと違うんだ。ただ仕事をするためだけに仕事を受けたりはしない――ほとんどの場合ね。仕事がやりたければするし、したくなきゃしない、そういう立ち位置で仕事している。どうせやるなら自分に変化を与えてくれる音楽、自分にとって意味のある音楽に取り組みたいから。マイケル・ジラと仕事するのが好きなのも、スワンズの音楽が好きだからだし、実際マイケル本人のことも大好きなんだ。めちゃくちゃ付き合いづらいやつだって定評も聞くけど(笑)、僕にはすごく付き合いやすい相手だし、とてもウマが合う。僕にとっては超仕事しやすい相手なわけ。ロバートもそうで、めちゃくちゃ仕事しやすい相手なんだ。ものすごく単刀直入で、ホント仕事しやすいよ。彼と仕事できるのは僕にとって大きな喜びさ。いっしょにたくさんレコードを作ってきたし、いつも本当に楽しみにしてるんだ」
---わかりました。ちなみに、クリムゾンと深い縁が結べたのは、トレイ・ガンがシアトルの人だったからで、R.E.M.に加入することになったのも、やっぱりピーター・バックがシアトルにいたからなんでしょうか。
「んー、そういうわけでもないんだ。ロバートとはもともとギター・クラフトで出会ったわけだし。それから、他のミュージシャンのプロジェクトでいっしょに仕事して、その後『The Repercussions of Angelic Behavior』っていうアルバムを一緒に作ることになった。で、僕はその時ちょうど別のアルバムも作ってて、ロバートにも参加してくれないかと頼んでみたんだ。ちょうどトレイも近くにいたから声をかけて、もうひとつのアルバムのレコーディングをやりながら、『Angelic』を確か3日で仕上げたんだよ。実はピーターの方も、最初に出会ったのはシアトルじゃなくてロサンゼルスだった。クリス・ノヴォゼリッチのバンドのセッションに招待されて、ピーターはマンドリン、僕はピアノで参加したんだけど、その時点では特に交流もなく、話もしなかったんだ。あいつ、僕のことを危ない奴だと警戒してたんじゃないかな(笑)」
---(笑)。
「その後、シアトルでMinus 5と共演した時、ようやくきちんと顔合わせができたんだよ。その時の面白いエピソードがあって――親しくなる前の話だけど、ふたりともたまたま昼の12時にリハーサルを入れてたんだ。あまりロックンロールっぽくない時間帯だけどね。で、リハーサル・ルームの前で鉢合わせしたわけ。しかも、ふたりとも10分前に到着してて、そこでお互い顔を見合わせながら、同じことを考えてたんだ――こいつとなら一緒にやれる、って」
---危険どころか、真面目な奴だと(笑)。
「お互い予定の時間より早く来て、準備を整えるのを見てね。で、それ以来ずっといっしょに活動してきたわけ。確か2000年だったかな……2001年だったかもしれない」
---90年代のシアトルというと、やはりグランジだと思うんですが、あなた自身はそういったシーンと関わりはなかったんでしょうか?
「それはないなあ。あの頃ちょうど僕はシアトルにはいなかったしね。90年代の初頭は、ずっとシカゴでミニストリーとしてやってたから。でもサウンドガーデンの連中とは付き合いがあったし、クリス・コーネルと会った時のこともよく覚えてる。クリスは最初サウンドガーデンでドラムをやってて、実際に彼がドラムを叩いてる姿を見たこともあるよ(笑)。すごくシャイで、少年みたいなやつだったな。ニルヴァーナの連中とはほとんど付き合いがなかったけど、パール・ジャムのメンバーはよく知ってた。いっしょにツアーしたこともあったからね。他にも知り合いは何人かいたが、名前までは覚えてない。そんなわけで、当時の仕事はほとんどシカゴが拠点だったし、やってたバンドもいわゆるエクスペリメンタル系のバンドで、グランジとは無関係だったね。自分としては、あの手の音楽は7年前にやりきった気がしてて、グランジ・ブームが到来した頃には他のジャンルに移ってたんだ」
---なるほど。ところで、1999年に『Birth of a Giant』という個人名義のアルバムも出していたりして、ソロ・キャリアもあるわけですが、今後はソロ・アーティストとしてもどんどん作品を作っていこう、といった考えはないのでしょうか。
「《ソロとしてのキャリアがある》なんて言うと、そのことをすごく気楽にとらえてるみたいに聞こえちゃうから(笑)、《ソロ名義で出した作品がある》程度にしておきたいんだけど」
---(笑)。
「3枚あって、全部同じ時期に作ったんだよね。で、正直に言うと、考えてはいるよ――書きためた曲がたくさんあって、レコーディングしようかと思ってるところなんだ。ただ、どんなレコードにしたいっていうヴィジョンが結構はっきりしてて、かなり形にするのが難しそうなんだよ。テクニカル面とコンセプト面がうまく連携しないと作れない感じで、要するに今はそっちに費やす時間がなくてさ。でも、そうだね、考えてはいる。実際すごくいい曲ができたと自負してるんだ(笑)。レコード作りは楽しいしね。ここ7年ほどは、シアトルのローカル・バンドのプロデュースも結構やってて、みんな20代、30代の若手ばかりですごく楽しい。もちろん大変な作業ではあるけど、この時代に『音楽命』なんて思ってるロクデナシたちと仕事できるわけだから(笑)。音楽に夢中で超やる気満々の新しい世代が、ちゃんと育ってきてるんだ。そういう連中と仕事するのは最高に楽しいよ」
---じゃあ、そういう話が出たところで、今注目しているバンドやアーティスト、曲やレコードなんかがあったら教えてもらえますか?
「I Was A Kingっていうノルウェーのポップ・バンドと仕事をしたことがあって……2014年の彼らのアルバム『Isle of Yours』にドラムで参加したんだ。確かその前にも『You Love It Here』っていうレコードを出してるよ。僕が携わったKingと名のつくバンドはこれで2つ目になるわけだけど(笑)、もう聴いた途端、その音楽にハマってしまってね。作曲を主に担当してるメンバーがふたりいて、昨日そのうちのひとりのソロ・レコードを聞いてたんだ。名前はアンナ・リサ・フリョケダル(Anne Lise Frøkedal)――めちゃくちゃノルウェーっぽい名前だろ。そのアンナ・リサが出したソロ・レコードを昨日ちょうど聴いて、彼女の声とソングライティングに惚れ直したところ。最近はそんな感じかな……そういや、『ホワイト・アルバム』がリミックスされて再リリースされたことは、世間の人たちも知ってるよね?」
---ええ。
「それももちろん聴いてるし、あと、こないだ広島に行った時は、列車の中でショパンを聴いていた――あとドビュッシーとか、ピアノ音楽をね。実は普段はあんまり音楽を聞かないから、敢えて聴くように自分に言い聞かせている。聴いたら『へえ、これいいじゃん』ってやっぱり思うし、嬉しくなるしね」
---(笑)。
「でも、つい忘れちゃうんだよな」
---ちなみに、あなたはマルチ・プレーヤーなので、プロジェクトによって違う役割を担っているわけですが、その都度意識の切り替えが必要だったりしますか?
「いや、そういうのは全然なくて、なんて言うか……。告白すると、ドラムも2年ほど叩いてないんだ。他にやることがありすぎて、っていうのが一番の理由なんだけど、叩くことがあるとしたら、それは練習しなきゃならない時ってことになるかな。今はバンドでドラムを叩いてないから、普段は練習もしてないし、他に練習しなきゃならないことがたくさんあるからね。ともかく、プロジェクトをまたいで色々やるのは僕には難しいことじゃないし、意識を切り替えたりも必要ない。どの作品にも、昔ながらの音楽第一主義で取り組んでる。もちろん『ここはドラマー頭で考えてほしい』って言われれば、すぐにドラマー・モードに入ってドラマーとしてやるべきことを考えるけど、ほとんどの場合はそういう精神的・心理的な切り替えっていうのは意識してないよ」
---わかりました。ところで、もう25年くらい前の話ですが、ミニストリーが来日した時、ポールにインタビューしたことがありまして……
「そうなの? 親切にしてくれた?」
---とてもナイス・ガイでした(笑)。で、ミニストリーがドラマー2名体制でやっていた時のことについて質問したら「あのやり方では、ビルのような素晴らしいドラマーに、人間クリック・ガイドのような役割を負わせてしまって申し訳ないと思ってた」というような発言をしていたんです。実際やっていた身としては、どう感じていたんでしょう? ちょっと嫌だったりしたんでしょうか?
「そんなことはないよ。ジュールゲンセンの相手をするのは大変だったけど」
---(笑)。
「ドラッグ漬けの狂人になってしまったからね。それで『もう、これ以上いっしょにはやれない』と思ったんだ。でもツイン・ドラムに関しては別に問題なかったよ。面白い試みだと思ったし、気にはならなかった。だからポールが何を言いたかったのかもよくわからないんだけど、今度本人に訊いてみるか」
---四半世紀も前のことですけどね(笑)。
「とにかく、僕自身は特に気まずいとも思ってなかったし、疎外感もなかったよ。ひょっとしたらポールは、何か別の出来事を指して、そんなふうに言ってたのかもしれないね」