カリィ・シミングトン インタビュー
このドラマーのプレイを初めて見たのは、2009年のカーシヴ来日公演だった。前任のマット・コンプトン(ex.エンジンダウン)も強力なドラマーだったので、交代のニュースを聞いた当初は少し不安に感じたことを覚えている。しかし、生で体感したカリィ・シミングトンのプレイは、タイプは違えど、これまた素晴らしいものだった。その後2013年にオッカーヴィル・リヴァーが日本に来た時、誰がドラマーか知らないままライヴを見始めたのだが、演奏開始前の慣らし叩き一発で「あ、カリィだ」と気づいてしまった。それほど彼のプレイは深く印象に残るものだった。
その他にも彼は、グレッグ・デュリの関連バンドであるアフガン・ウィグス/トワイライト・シンガーズ/ガター・ツインズをはじめ、ビーチ・スラングやシェアウォーターなどでプレイしてきており、近年ではジム・ワードが再始動させたスパルタに参加。奔放にブッ叩きながらも軸がブレない演奏は、それら様々なバンドで力を発揮してきた。
彼のような優れたミュージシャンが、パンデミックの影響などもあって音楽の現場から距離を置くことになってしまっているのは、あまりにも惜しすぎる。災厄が過ぎ去った後、そのダイナミックなドラミングが再び聴ける状況が戻ってくることを祈っている。
バンドに参加するには、その人たちのことを好きじゃなくちゃダメだ。ともにツアーを過ごす中で、仲良くならきゃいけないからね。でも、僕はほとんどの人と仲良くなれるから、その点が問題になったことはないよ。
---あなたはテキサス州オースティンの出身だそうですが、育ってきた音楽環境や、当時よく聴いていたアーティストなどを教えてください。
「僕はとても普通の子供だったと思う。スポーツが好きで、学校は嫌いだった(笑)。そして、音楽はいつも大好きだったんだ。オースティンはライヴ・ミュージックがどこにでもあふれている、育つのには素晴らしい環境だった。音楽が街の文化の大部分を占めていたんだ。僕の母親もミュージシャンで、幼い頃から彼女の演奏を家の周りで聞いていたよ。それが最初の影響だったね。いつも音楽が身近にあったから、ミュージシャンになりたいと思うのはごく自然な流れだったと思う。みんながやっているのを見て、ああいうふうに演奏したくなったんだ。見ていてとても楽しそうだったしね。
それから、だいたい10歳くらいの頃に自分自身の音楽の好みができてきたのかな。兄の影響がとても大きかった。彼はとにかくカッコよかったよ。僕自身は、ニルヴァーナ、スマッシング・パンプキンズ、グランジ全般が大好きだった。オースティンには107.7 KNACKという素晴らしいラジオ局があって、90年代初期から中期の素晴らしい音楽に釘付けになったんだ。そして、ドラムを少しやるようになってからはパンク・ロックにハマった。できるだけ早く、大きな音で叩くのが大好きだったからね。ノー・ユース・フォー・ア・ネームが特にお気に入りで、他にはNOFX、ラグワゴン、ヴァンダルズとか」
---どんなふうに音楽を始めたのですか? また、メインの楽器としてドラムを選んだ理由を教えてください。
「いつも周りにギターが置いてあって、キーボードも家にはあった。それをよくいじっていたのを覚えてる。母と兄がギターを弾くから最初はギターに惹かれたけれど、あまりしっくりこなかった。そのうちダンボールや鍋やフライパンを叩き始めたら、それが僕に語りかけてくるような気がして。母がドラムレッスンをしてくれて、もう夢中になったよ。でも、まったく才能はなかった。本当にひどかったから。ただ、ドラムへの挑戦は競争心が強い自分をいい意味で引き出してくれたんだと思う。自分では絶対に勝てないし、習得できるものではないと思ったから、とにかく頑張りたいという気持ちになったんだ。それに、子供の頃の僕は大人しくて……今もそうだけど、あまり社交的な性格ではなかったから、ドラムは僕に言葉やはけ口を与えてくれた。誰とも喋る必要なく、何時間だって練習できることは、自分にとって天国みたいだったんだ」
---あなたのドラムキットは大きなシンバルが印象的ですが、機材にはどんなこだわりがありますか?
「ありがとう。C&Cドラムスとイスタンブール・シンバルズにエンドース契約をしてもらっていて、とてもラッキーだ。彼らは優れた会社だよ。どちらも演奏した音を明確にできて、より良く鳴らしてくれる。でも一方で、《隅っこに置いてある、くたびれたドラムセットを良い音で鳴らせないなら、そのプレイヤーはあまり良くない》という考えも持っている。だから、良いドラムセットやシンバルは好きだし、良い機材の方が良い演奏ができるとは思うものの、ギアにあまりこだわらないという点では少し違うかもしれない。多くのドラマーは、自分のギアやセットアップについて話すのが大好きみたいだけど、僕はそうじゃないからね」
---日々のドラム練習はどのように行なっていますか?
「8歳から34歳まで、不可能な日以外は基本的に毎日2〜3時間くらい練習していたよ。でも正直に言うと、今は1年以上、ドラムスティックを握っていないんだ。おそらくこのあとの質問にも関わってくるから、その理由はその時に話すとして……。
練習するときは、いつも決まった流れにしていて、まず30分は基礎的な練習をする。次に、興味のあるシンコペーションやニュー・ブリードの教本から取り入れて30分くらい叩く。それから、ボブ・モーゼズの教則をやるんだ。これは2小節のメロディにアクセントを付けて、そのリフをできる限り長くやり続けるというもの。あと、練習中にはずっとメトロノームをつけてる。これはとても重要なことだ。そしてようやく音源や、もしセッションやツアーの準備があれば、それをやるっていう感じだね。練習は大好きだけど、常に実際の演奏を考えて練習してるよ。初歩的なことをしている時でもね。調整や計算的な練習ではなくて、常に音楽的に考えながら練習するようにもしている。練習の意図を見失ったりすると、グルーヴを生み出すのが苦痛になるからさ」
---好きなアーティストとして、マイルス・デイヴィス、ニール・ヤング、ジェームス・ブラウン、フガジ、ザ・フーをあげていましたね。ジャズ、SSW、ソウル、パンク、クラシック・ロックなど様々なジャンルにわたっていますが、あなたにとってコアな音楽は何でしょうか?
「どのジャンルもよく聴くよ。僕はいつだってどんな音楽も取り入れることを大事にしてきた。でも、自分のドラミングはロックンロールがいちばん合っていると思うから、そこがコアってことになるのかな」
---特に影響を受けたドラマーは?
「僕の好きなドラマーは、ジム・ケルトナー、エルヴィン・ジョーンズ、トニー・ウイリアムス、キース・ムーン、ジョン・ボーナム、ジェイ・ベルローズ、ブライアン・ブレイド、ロニー・ヴァヌッチ・ジュニア、そしてデイヴ・グロールだね」
---プロのミュージシャンとしてのキャリアのスタートがどんなものだったかについて教えてください。
「いつプロのキャリアになったか?というのは難しいなあ。16歳の頃には街のあちこちで叩いていたし。でも、働くという意味ですごく忙しくなったのは19か20歳の頃。たしか10バンドくらい参加していたと思う。でもツアーには出てなくて、地元でプレイしていただけだった。関わってた音楽は、インディ・ロック、カントリー、ブルース、シンガーソングライターと多岐にわたっていたよ。何でもできることが大事だと思っていたし、それなりに上手く叩けることも必要だったからね。その頃はほとんど毎晩、時には1日に2〜3公演で叩くときもあった。素晴らしかったな。僕は忙しいのが好きだし、頭の中に常時100曲くらい入れておくのも好きだったからさ。そんなに上手い方じゃなかったのに、チャンスをくれたミュージシャンたちには感謝しかない。おかげで短期間で様々なことがこなせるドラマーになれた。練習するのは良いことだし必要だけれど、自分が何者か自信を持って叩けるようになる前に、たくさんのショウで演奏することも必要なことだね。21歳でニューヨークに引っ越して、そこでビショップ・アレンというバンドに参加することになった。それが色んな意味で僕にとって最初のバンドだ。ツアーもいっぱいしたし、ヨーロッパにツアーで行ったのもこのときが初めてだった。それが多分キャリアのスタートだったんじゃないかな」
---パーマネントなバンドを結成するよりも、様々なプロジェクトでセッション・ミュージシャンとして演奏する方が自分の性に合っていると、キャリア初期から判断していたのですか?
「いい質問だね。正直に言って、特にそうだと決めてたわけでもなかった。僕はただ、いつも演奏ができて、もし誰かが僕に興味を持ってショウに呼んでくれて、そこにいられたら幸せなんだ。さっきも話した通り、若い頃は多くのバンドで叩いていて、歳を重ねてより本格的なバンドとやるようになってからは、ツアーをしたり、レコードを作ったり、そうした流れが終わるとまた誰かのツアーに呼ばれ、そのツアーが終わるとまた次の電話がくる……という状態だった。稼いでいれば、もっといろんなことを断ったり、ひとつのバンドで良かったのかもしれないけど、実際、家賃を払うのが精一杯だったし、ずっとひとつのバンドに落ち着いたままというのも嫌だったんだ」
---私があなたのプレイを初めて聴いたレコードは、ガター・ツインズの『Saturnalia』でした。この作品に参加することになった経緯は? 他にもアラン・ヨハネス、ペトラ・ヘイデン、マーク・ラネガンなど多くのミュージシャンが参加していますが、スタジオでは誰かと一緒に作業をしたりしましたか?
「あれは楽しい時間だったね。友人のジェフ・クラインが、彼らに僕を紹介してくれたんだ。ジェフは素晴らしいソングライターで、ガター・ツインズやトワイライト・シンガーズでキーボードを担当している。何か前任のドラマーに事情があって(『いかにして私は数多くのライヴができるようになったか』っていう、ありがちな話だね:笑)、ちょうどビショップ・アレンのツアーも終わったところだったから、ジェフが僕に声をかけてくれた。僕は当時ブルックリンに住んでたから、ロサンゼルスまで飛んでセッションをして、それがうまくハマったんで、ツアーにも行かないかって誘ってもらえたんだ。ペトラには少しだけ、アランには1度か2度ロサンゼルスで会った程度だけど、どちらも凄く才能があるミュージシャンだよね」
---グレッグ・デュリとは、今でも時々連絡を取り合ったりしているのですか? トワイライト・シンガーズやアフガン・ウィッグスに参加した経験からは何を得ましたか?
「長い間ずっとグレッグとは話していない。それはそれで、このままでいいんだけど……。グレッグは間違いなく僕にたくさんのことを教えてくれたよ。僕が22歳のときにグレッグとラネガンのバンドに参加して、それは火の中に飛び込むようなものだった。グレッグはドラマーに対してかなり厳しい面を持っていて、僕にとってもそれは良いことだったね。彼は、いかにその曲を誇張せずに演奏するか、かつハードに叩くかを教え込んでくれた。あの頃、僕はキース・ムーンのように叩いていたんだけど、加えてグレッグからジョン・ボーナムのように叩く術も学んだ。アフガン・ウィッグスは興味深い経験で、参加できたことは非常に光栄だった。ただ、ツアーの直前に、リハーサルでひどい怪我をしてしまって、それが何年も後に響くようなものでね。バンドにいても、ずっと演奏できないような気がして、抜けることにしたんだ。唯一の後悔だよ。自分のできるレベルで、もう少しそのとき演奏できたら良かったんだけど、仕方ないね」
---カーシヴに参加して、アルバム『アイ・アム・ジェミニ』を作ったことは、どんな経験でしたか? 彼らとは、また機会があればやってみたいと思いますか?
「僕が関わった作品の中でも、特に気に入っているレコードだ。僕たちはとにかく懸命に、練習も準備もやった。作っている最中に何か特別なインスピレーションがあったかは覚えてないけれど、ひたすら面白いパートにしようと努めたし、可能な限り曲を称賛するようにしていたよ。もちろん彼らとはまたレコードを作りたいね。大好きなバンドだ」
---そして近年ではスパルタに参加していますが、2018年のツアーで印象に残っているエピソードなどあれば教えてください。
「ずっと最高だったね。彼らはめちゃくちゃ良いやつらで、気楽に接することができるんだ。メンバーはアメリカ各地から集まってきて、ツアーに繰り出すんだけど、2018年にはいくつか素晴らしいショウができた。個人的には、トルバドゥールでやったショウが気に入ってる。会場自体が好きだし、ライヴもうまくいった。チャカ・カーンが飛び入りでステージに上ってきて、ジャム・セッションをしたいと言ってきてね。でも彼女は、僕たちが"彼女の言うジャム・セッション"のやり方を知らないインディ・ロック人間たちの集まりだという事実を見落としていた(笑)。それでも彼女は何かを歌っていて、僕のモニターではその声がほとんど聞こえなかったから何もわからなかったけど、とにかくクールで良かったよ」
---それから、アンド・ユー・ウィル・ノウ・アス・バイ・ザ・トレイル・オブ・デッドの新作『X: The Godless Void And Other Stories』にも参加していますね。このアルバムではジェイミー・ミラーも叩いてますし、コンラッド・キーリーとジェイソン・リースもドラマーであるはずなのに、さらにあなたにも「ドラムを叩いてくれ」と頼んできた狙いについてはどう感じていますか?
「彼らは地元オースティンの仲間でもあり、僕自身ずっと彼らのファンだったから、何度もそのライヴを見てきた。向こうが僕のプレイを見たのは、スパルタがオースティンでやったライヴでだと思う。ジェイミーがバッド・レリジョンのツアーでバンドを抜けている間にレコーディングが予定されていて、そこで彼らから来ないかと声をかけられたんだ。結局1日で数曲レコーディングしてしまったんだけど、実り多くて、本当に楽しかったよ。彼らも素晴らしい人々だから、会えて楽しかったし、レコードに参加できて光栄だった」
---他にもこれまでに、オッカーヴィル・リヴァー、シェアウォーター、ビーチ・スラングといったバンドでプレイしてきましたが、ドラマーとして一緒に仕事をするバンドやアーティスト、プロジェクトを選ぶ基準は何かありますか?
「唯一の基準は、バンドの音楽と雰囲気が好きであることだね。1日や2日くらいのセッションなら、そこがあまり好みじゃなくてもできるけど、フルタイムで関わるプロジェクトで何もインスパイアされないようなところには参加できない。加えて、その人々自身のことも好きじゃなくちゃダメだ。ここはとても大事なんだ。ツアーで大半の時間をともに過ごす中で、その人たちと仲良くならきゃいけないから。でも、僕はほとんどの人と仲良くなれるから、その点が問題になったことはないよ。多分、僕はラッキーなんだ」
---今後いっしょに演ってみたいバンドやアーティストは誰かいますか?
「正直、あまり考えたことないかなあ……若い頃にはもちろんあったよ。特定のアーティストやバンドに声をかけてほしかったし、オーディションとかも受けようとしてた。歳を重ねて、だいぶ落ち着いてきたのかな。わからないけど、僕にとっては静観していた方が、より良い演奏ができていた気がする。成り行き任せなんだ」
---パンデミックが終息するまでは不透明な部分も大きいかと思いますが、今後の活動予定についてどのように考えているか教えてください。
「当面の予定は今のところないんだ。2019年はずっとツアー活動から離れていて、2020年にはスパルタでツアーの準備をしていたところだった。でも、ご承知の通りロックダウンのせいで実現できなくて。こんなこと言うのも妙だけれど、僕はドラムや音楽のことをしばらく考えたりしていなかったんだ。もしかしたら音楽活動に戻るかもしれないけれど、正直、戻らないかもしれない。ここ数年来ずっと突き詰めたいと思っていた他のことに取り組んでいて、性格的にも何かやろうと思ったら、全力でやらないと気が済まないんで、現時点ではそれに集中している。ドラムを叩くことはずっと大好きでやってきたから辞めるつもりはないけど、今は前に進もうと取り組むことがポジティヴに感じられるんだ」
---いつか日本で、スパルタや他のプロジェクトであなたが演奏している姿を見たいと思っています。日本の思い出、来日中に印象に残っていることを教えてください。
「日本は大好きだよ! 素晴らしい場所だ。僕は2回しか行ったことないけど、日本では人々のことが最も印象に残っている。いい人たちが大勢いる国だ。みんなフレンドリーだし、あちこち歩き回った時、標識も話してる言葉もわからないから、よく迷っていたんだけど、みんな何とかして僕を助けようとしてくれた。あと、文化の違いにも衝撃を受けたよ。ヨーロッパには20回以上行っていて、アメリカと違うところもあるけど、やっぱりどことなく似ている雰囲気もある。でも、日本は本当に新しくて、まったく違った。自分が場違いな感じもして、それが良かったんだ。また日本に行くことができて、会えたらいいね」