特別編:「我が名はハードコアチョコレート」
今回は、ハードコアチョコレートnote特別編ということで、デザイナーMUNEが「ハードコアチョコレート」を設立するまでを語っていただきました。
Tシャツに目覚めた中学生時代、オシャレに目覚めた高校生時代。映画や音楽からインスピレーションを受けるきっかけとなった「核」の部分を語っていただきました。
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ーTシャツに目覚めた中学生時代
最近は色々な所でコアチョコについての取材を受けているけど、ブランドの設立や動機、どうやってここまで来たかなど、よく考えたら毎回同じことを答えているような気がするんだよね。
もちろん、それはコアチョコの歴史で重要な事なので優先的にそこを答えるようにしてるんだけど元々は手刷りで自作してやってたのがスタートなんだよね。
雑誌の「BURST」で「Tシャツくん」っていう機械を使ったプリントのやり方が書いてあって。
俺、中学2年くらいから変わったTシャツを集めるのが好きだったんだよね。最初は地元・曳舟の「YOU」とかそういう名前の若者向けの洋服屋で買ってたんだよね。それこそプリントよりも配色だとか、形だとか。
シンプルにそんなので決めてたんだよね。
一つ上の姉貴が、オシャレに目覚めてきて渋谷だ原宿だって友人と行くようになってたんだ。そんで「大中」とか「オクトパスアーミー」とかで色々小物だとか洋服を買ってくるようになって。そんで弟の俺にお土産とか買ってくるんだよね。Tシャツとか。他にもお下がりをもらったり、そんな感じでオシャレに目覚めていった。
そんで俺も渋谷とか行くようになって、そういう店に入るんだよね。姉貴の影響で。
地元に帰ってきて「オクトパスアーミー」のTシャツとか着てると凄いオシャレに見えるんだよ(笑)。
ー映画やプロレスモチーフのTシャツに夢中だった高校生時代
そっからかな。高校一年の頃にモックって奴と仲が良くって。彼はオシャレと音楽に敏感な少年だったんだよ。そんで彼とバンドを組んだり原宿のホコ天とか通うようになるんだよね。当然、原宿だから竹下通りには必ず寄って。サングラスやチョーカー、指輪とか一個ずつ揃えていったな。
「ダブルデッカー」とか「BLACK」とかベタな所からスタートして、ラバーソールはジュンスカの影響で絶対に「丸玉商店」だとか。
そんで竹下通りの出口のとこに大きめの古着屋があって、Tシャツが凄い枚数売ってるのよ。色別でラックに掛けてあって、グワーッと360℃囲まれるくらいいっぱいあった。一日で全部見るのは不可能なくらい。だから黒Tシャツを重点的に攻めていったな。そこで古着ってもんにハマったよね。
「CHICAGO」はもちろんの事、明治通りと表参道の交差点の所にも古着屋があったよね。あそこもよく行ったな。そんな感じで高校時代は月に3、4回は原宿に通ってた。
当時、曳舟から原宿は結構遠く感じてね。東武亀戸線っていうローカルな電車でJR亀戸駅まで出て。そっから総武線に乗り換えて代々木で山手線とか。京成線が都営浅草線と直通だから浅草橋までいってJRに乗り換えるって方法もあったな。とにかくちょっと面倒くさかった。でも何か中学時代とは違う大人の遊びをやってるみたいで楽しかったんだよ。
古着はプロレスものや映画中心で。これがなかなか探しても無いんだよ。
それでも根性でNWAやAWA、WWFのオフィシャルを探し求めたよ。
探せばAWA時代のロード・ウォリアーズのトリムTシャツとかあるんだよ。映画は「スター・ウォーズ」とか「E.T」とかそういうメジャーなものしか無いんだよね。だから「スター・トレック」とか「フラッシュ・ゴードン」とか見つけた時は大騒ぎだったよ。
あと、映画Tシャツは「ダブルデッカー」にいっぱいあったな。ホラー映画のキャラクター中心で「13日の金曜日」や「ヘルレイザー」「チャイルドプレイ」。「エルヴァイラ」なんかもあったな。
不満は古着じゃなくて新品って事かな。
プリントが綺麗すぎて全然渋くないんだよ。そんなこだわりもあったな。
穴場はお茶の水の地下にあった「ダブルデッカー」で、あそこはすいてて選びやすかったな。
そうそう、渋谷にも一件あって、宇田川町のビルの一階に掘っ建て小屋みたいなレコード屋があって、そこにブートの映画Tシャツが売ってたなあ。「タクシードライバー」だとか「ディアハンター」、「ゴッドファーザー」だとか。あ、全部デ・ニーロだな。
そういうTシャツ探しみたいなのは25歳くらいまで、それこそ自作で作れるってわかるまで続けてたんじゃないかな。
まあそこがコアチョコとしてのルーツだったよね。
ハードコアチョコレート公式サイト
http://core-choco.com
「ハードコアチョコレート」のルーツを辿る、第一回。
第二回更新もお楽しみに!