お祈り…ってだれに届くの

子どもはキリスト教の幼稚園に行っていたので、毎日イエス様へのお祈りの時間があった。
保護者会に行ってもそのお祈りの時間があり、私はキリスト教とは無縁の教育を受けてきたので、新鮮だった。

子どもがその幼稚園に入るための面接や願書提出の際、キリスト教の教えのもと保育を行うことを念頭に、この幼稚園を選んだ理由を求められる。
我が家はキリスト教へのこだわりがあるわけではなかった。先生たちの雰囲気や保育の方針などに共感するところが多かったので、その幼稚園を選んだわけだが、神様の教えの意味に心を寄せる一文を添えることで、入園の合格がもらえるのではないかと察した。
日頃から宗教的な信仰があるわけではないが、私なりに神様というものがいたならば、その存在に対する偽りのない素直な思いで、それでいて、意味を持ってその存在の尊さを感じていることを伝えるための言葉を考えた。

「幼児期に、目には見えないが大切な存在があるということを信じる力、それを養うことに意味があると思っています。貴園では、その教えを保育の中で丁寧に実践しており、とても共感しております。」たしかそのようなことを書いた。

この言葉がよかったのかどうかは知らないが、有り難くその園に通うことになった。
そして、結果、毎日イエス様へのお祈りをすることになったのだが、わが子はその時間、居心地が悪かったようで教室を飛び出し、走り回っていた。毎日。ずっと。

先生たちは困り果てて、本当に最後まで試行錯誤してくれた。
私もどうしたものかと、とても悩ましかった。いくら導こうとしても、いつでも枠からはみ出ていった。
「それでいいよ!教えられたことをそのまま信じることが、全てではない。皆と同じでないことは、人類に新しい視点を気づかせることになるのではないか。誰がなんと言おうと、ママだけは、あなたが素晴らしい人であると信じてる。」と心の底では思っていた。
でも表向きは、どうしたら、皆んなと同じように行動できるんだろう…と真剣に考えてはいたし、なんせ本人が苦痛を感じているのだから、どうにかしてやりたいな、とも考えたが、
本人の思うままに好き放題させることは、今度は私が苦痛であった。

お陰で、たくさん悩んで考えて、試行錯誤して、育児に疲れ果てる日々だが、それでも、とにかく子どもは可愛くて、毎日抱きしめる幸せもあった。

ふと、子どもが産まれて日に抱いた気持ちを思い出すことがある。
「大人の言うとおりに、生きなくていい。あなたの思ったように生きていいんだよ。」って。

なんで産まれたばかりの子どもを抱いて、そんなことを自然と思ったのか。

育てるほどに、言う通りにしてくれたら楽なのに、逆をいくわが子に毎回疲弊してしまうのだけど、
いつも、最初にあんな風に思ったのは確かだし、仕方ない。こちらの思いとは逆をいくわが子をいつも見守るしかない。

そして、毎日見守るしかできないわが子に対して唯一願うのは、わが子が健康で元気でいること。
毎日お陰様で、かなり薄着でもわが子は健康で元気だ。

年始…初詣に出かける。
私はわざわざ寒い中、長い行列に並んで、お詣りする意味なんてあるのか?その人によってその年初めてお詣りしたら、それが初詣でなのだから空いた頃来ればよい、と夫にぶつぶつ文句を言うが夫のこだわりには付き合っておいた方が相手も機嫌が良いので、仕方なく付き合う。

そして夫は祈るのが好きなので、神社でのお祈りも長い。何をそんなに祈っているのか知らないが、祈った後は、安心している。

見えないものを信じる力。

私はなんで見えないものを信じる力が必要だと、願書を書きながら思ったのだろう。

目に見えるものが、全てではない、と子どもに伝えたかったのだろうか。

祈るという行為。そんなに信仰心のない私はどんな時祈ってるのだろう。
もうすべてやるべき事はやりつくしたが、それでもまだ足りない、もっと心を尽くしたい時や、
私も何か手を差し伸べたくても私にはなす術がない時に、自然に祈る。
自分にできる事を探して、行動して、そのあとにやっと「祈る」がくる。

つまり、
自分の力ではどうにもならない時、自分の力を超えた存在が見守っていていてくれるのなら、どうかお支えください、ということなのだ。

祈りは届くときと、届かないときといろいろ。

それでも人は、自分の力の限界を知りつつも、祈ることで自分を支えている。

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