待ち合わせ
「5分前行動をしましょう!今日からこの時計より5分早く行動するように。」
小学校の時、担任の先生が突然言い出した。
たしか授業の間の休憩時間は10分。子どもにとって5分は随分と貴重な時間だったはず。
それでも、真面目な子どもたちは先生の指示に従い、お互いに声を掛け合いながら早めに席に着く。そんなふうにして、私のクラスメイトたちは時間に関して、学校にいる間は管理され鍛えられた。
家でも、母は早め早めが好きな人で、家中の時計はいつも10分進んでいた。
そんな環境で育ったので、学生時代は時間に遅れるということは基本的になかった。
社会に出て働き出すと、その習慣は活かされる…はずだったが、私生活を管理されることがなくなると、私は割とギリギリセーフで間に合うようなタイプになってしまったが、必要であれば、前倒しで行動し、余裕をもって行動する方が安心するのは身に染みて認知していたので、その前倒し行動は実践することもできた。
夫と出会い、待ち合わせし、お出かけするときも、私は楽しみに準備を進め、時間より前に待ち合わせ場所に行くことが多かった。
しかし、よく「あれ?なかなか来ないな~大丈夫かな~」と待たされることになった。でもなぜか私はそんな時、時計を見て、何分遅れているかを確認することはなかった。
連絡や着信はないかを、確認することはあっても、あえて「時間」を確認する意識がなかった。
今思うと不思議だか、"○分遅れ"だとか言って相手を攻める気が全くなく、きっと仕事が推しているのだろうと、呑気に考えているタイプだった。
こんな風に呑気に考えられたのは、こういう時くらいで、普通の待ち合わせは時計を何度も見てしまうので、今思うと当時は変なマジックにかかっていたんだと分かる。
そして、そのまま、1年ほどのお付き合いで結婚することになった。
その後は生活を共にする中で、「今日は○時に家を出よう!」「今日はどこどこで○時に落ち合おう」と待ち合わせることは日常茶飯事だったが、その度に、待たされる。10分15分の遅刻ではない。
30分…。1時間。どんどん慣れてくると2時間…のときもある。
さすがにこのズレは相当なストレスになった。
結婚し、相手といる時間が無限になったから、油断しているのか?
何度もその度に「本当にごめんね!○○するから許して!」と、可愛いキャラではないのに、可愛く謝ろうとする。
私はしばらくプリプリ怒っているが、怒るのも疲れるので、諦める。
そんなこんなは、結婚して、何年も経ったがあまり変わらず…、気づけばこちらが、それを想定して、行動するようになっている。
待ち合わせ時間を早く伝える。事の重要性をしっかり伝え、遅刻は許されない状況だと伝える。待たされても時間の無駄にならないように、本を持ち歩いたり、やる事リストを整理しておく、など。
それでも時間通りにいくことの方が稀で、その度に、それを受け入れる。
私はなんて寛容な人なんだ。と、思う反面、
私はこの人にうまく丸め込まれた人生を送ることになってしまった!と嘆く気持ちもある。
冗談混じりだが、本気で、はっきりと、よくその気持ちを夫に伝えるが、夫は私が面白い事でも言ったかのように笑って、くだらない冗談を言って返してくる。けんかはいても無駄だと言わんばかりに。
わが子も基本的に幼稚園も学校も遅刻していく。
幼稚園は登園渋りで、1時間〜2時間遅れ。たまにはお休みも。
小学校は、1時間目からの授業は遅れてはならないと思っているのか、それには間に合うようにと基本はがんばるが、決められた登校時間はいつも無視。気分がどうしてもいつも以上に低い時や、イレギュラーな行事などがあるとソワソワして、1時間目も遅刻することも。
私は、一生懸命に、母として時間は守ろうと育ててきたし、毎日手を尽くしている。はず。
でも、相手は小さな子どもであっても強い意志のある人は、なかなかこちらの思うようには動かせない。
私はひたすら、遅刻の連絡係と、丁重に謝る係に徹するしかないのだ。
地球時間に適用するのって、そんなに難しいことなのだろうか…。
いろいろと考えを巡らせて、今は、
学校に行ってるだけえらい!心も身体も元気でいるのだから、それでよい!私がキリキリと怒っているより、私と子どものニコニコ楽しい時間が多い方がよい!
人生は正しさよりも、どのように楽しく思えるかを優先してよい!と自己評価を変えた。
今日もこれでいいのだ。と思える方が、時間厳守を強いるよりも、まだ幸せなのだと、自分に言い聞かせる。
人を待たせるのは相手に対してとても失礼な行為だと感じるし、世の中の常識からズレることは、ストレスで幸せではないと感じることもあるが。
うまく生きるには、対局する考えをそれぞれ受け入れることが必要なのだと、この家族と生きていて気づかされた。