「ゴミうんち展」で試行と思考に圧倒される
2024/12/16、東京は赤坂のミッドタウン内にある21_21 DESIGN SIGHTにて開催中の「ゴミうんち展」に行ってきた。
「ゴミ」や「うんち」と呼ばれいらない/みたくないと言われるものたちにも、堆肥だったり化石燃料だったり、私たちの生活を支える価値が十分にある。そういった循環する価値にいろんな方向から目を向けて、みて取れるようにして考えてみようや。という展示会だった、と思う。
その日、私は前日・前々日にあった所用をなんとか乗り越えるべく北海道からやってきて、どうにかこうにかし、気力を使い果たしていた。せっかく来て時間があるんだからなんか東京でしかみられないものを見て帰りたいよな〜と考えていた。
ただ月曜なので大体の美術館も上野の動物園も休館日。モネ見て帰りたかったなぁ…。こういう時に助かるのが21_21 DESIGN SIGHT。いつだって(要出典)デザイン系の展示会を開いていて、遠方デザイン学生としては本当に助かる。と同時に、こういう時に東京とはなんと羨ましいところなんだろうかとつくづく思う。文化資本だったりデザイン教育へのアクセスが本当に良い。まずデザインの視点で社会を問い直す展示が常時(要出典)あるということが羨ましい。都内在住だったら年パスすら欲しい(ない)。
前回来たのは2019年のマル秘展なので、なかなか行けないことをカメラロールにわからされて悔しい。マル秘展も3時間以上いたなぁ。ふらっと行ってみて、長時間見て圧倒される場所だ。そういう場所を自分で作れ、という話かもしれないが、そこはまぁ。はい…
展示内容に話を戻すね。
同展示で体感時間の7割、そこに釘付けにされていたほど圧倒された作品があった。吉田信勝氏(正しくは吉の一画目が短い?)の「Observing Looping Doodling」である。
先ほど、現代でいらないものとされている「ゴミうんち」も循環して地球上の生物の営みを創っている、と書いたが、吉田氏の展示は「その循環を意図的に生み出せるか?」という旨だ。
デザイナー・採集者・プリンターである吉田氏は、近隣の山に入って様々なもの/ことを拾い上げてみて、植物やきのこを持ち帰る。それらからインクを作って刷る。そこで発生するヤレ(印刷ゴミ)を培地にしてきのこを育て、吉田氏が食す。そしてきのこが培地にしたものをまたインクにする。この循環の過程で経験したことを省察したフィールドノート、関わったものやこと、それらのつながりが情緒的に結びつけられていた展示だった。
私が感激したのは、吉田氏の生業の一つである印刷と、人類学的実践を結びつけ、展示をつくるまでの苦悩が鮮やかに見て取れることだ。
私は普段、昨今の共創を求められる現代社会で、共同的な営みが生まれるまでに必ずある「どうこの人たちと関わったら良いんだろう?」という戸惑いをデザインの知でどうにか乗り越えるためのワークショップ研究を行っている(ここまで書くと普通に身バレ必須なのだけど、私は何者かという属人的な情報を除いて語るのは苦しみのもとなので仕方ない。深く追求しないでください)。
こういうことをやっていると、まぁとにかく苦しい。みんな今まで生きてきた社会で生きてきた常識を持っている中それらをすり合わせて向き合うのだから、分かり合えなさや受け入れられなさはもちろんある。だけど何より、明確なゴールや正解がない。それすら自分たちで設定して良いのだ。
だからとにかく行ってみて・触ってみて・話してみて・描いてみて・やってみて、それらを振り返ってこうだったのかな、と考えるしかない。「やって・みて・わかる」しかない。なので、普段からこのプロセスに慣れている身ですらこれどうなるんだろう?ほんとに上手く行くのかな?という焦りがあるのよ。
なのだけど、往々にしてその苦しみは展示やプレゼン資料なんかに載せられず、可視化されない。
綺麗に整えられた出発地点と問い、最終成果物がポンと目の前に現れる。というのをやってしまいがちだ。デザインの親的立ち位置においての芸術という分野は、長らく「語る」ということを批評家に任せていたように思える(過言かも)。
しかし、デザインという分野が社会のあり方を問いなおすところまで広がった昨今では、そういった枠外の人々とも交わり語りあうようになってきたわけだから、何が苦しいのか、どう乗り越えようとしているのか、なんかを語ることとその道具の準備が必要だと、私は思う。
私の敬愛する須永剛司氏は著書『デザインの知恵 情報デザインから社会のかたちづくりへ』で、表現することの意味を以下のように語っている。
表現する、ということは様々な語り、それを描いた/創った意図、表現した人の経験や心象なんかを、目に見えて触れる「ここにあるもの」として、関わりを持とうとしている人たちの真ん中に置くことができる。そこから対話が始まる。
私/あなたは誰?ということ、なぜやるの?という実践の動機を、そこから見える経験を語ろうとする表現であるのなら、そこには愛着も苦悩も達成感もごちゃ混ぜになり表れているはずなのだ。
吉田氏の展示はそれらが全て見て取れる状態で、そこにあった。
使った道具、拾ったもの、作ったものと過程。さらにはフィールドノート。作品制作の過程だけではなく、カゴを持った状態で山を登ることの難しさや、インクづくりのためのビーカーを洗う小さな蛇口、その近くでカエルが飛び出し猫が鳴いている風景の記述まで全てがそこにあった。
なんならきのこが上手く育たないことに対する「間に合うのか…?」みたいな不安を書いたノートすらあった。デザイン学生としてとっても共感する。
「詳らか」とはこういうことか、と思った。
吉田氏の展示方法の中でも、私が「なるほどこうすれば良いのか!」と思ったのは上図に見える矢印だ。
このモノとモノ、または文章をつなぐ黒い線は展示台に直接書き込まれている。一部の線は長く伸び、展示台の反対側まで伸びて物事を結びつける。私はこれを夢中になって追った。確認しては戻り、また別の矢印を追いかけた。手書きというのが特に良い。
私は顔をギリギリまで近づけてノートを読んだ。視界を邪魔する髪の毛を結びたいが髪ゴムがないので、着けていたマスクを外して無理やりまとめる。
あんまりに長時間そこにいてぐるぐる、うろうろとしていたものだから、同行者が一通り展示を見終わってしまった。本当にごめん、でも全部見たいんだよ。
学部在学中、誰だったか失念してしまったが「展示をするなら、ただ大きいだけのものと、物量のあるモノを綺麗に並べるだけのことはするな」と言われたのを思い出す。どういう展示が悪い、という話は、あまりに経験がないのでできないし、今回言いたいことでもないので触れない。
が、とにかく「Observing Looping Doodling」を見ている最中の私は「私が見たかったのはこういう展示なんだよ!」と同行者に言いたくなったことを覚えている。その場でかろうじて言えたのは「デザインってのはさ、分析と統合の間にあってさ、あの、なんていうか、苦しみが絶対あるんだけど、楽しいこともあって、うーん、あの、情けというか 人間って絶対に100%分かり合えることはないんだけど(私はそう思っている)、そこを乗り越えて、生活に根付いて、存在を認めようとする人類愛というか…」みたいな、ランダム生成した?ってぐらい支離滅裂なことしか言えなかったのが悔しくて、このnoteを書きました。
「ゴミうんち展」の会期は2025/02/16までと、まだまだ開催中のようですので、行けるよ〜って方は是非とも行ってみてください。
一般1,400円、大学生800円、高校生500円、中学生以下無料!
すごすぎる。あと5回行きたい。行けない。私の分まで舐め回してきてほしい。
「ゴミうんち展」開催概要
引用させていただいた書籍