活字を読んで音を聴く
恩田陸『蜜蜂と遠雷(上)(下)』幻冬舎文庫(2019年)
恩田陸は天才だと思う。ホラーの分野では『六番目の小夜子』を、ラブストーリーの分野では『ライオンハート』を上梓し、多様な分野で唯一無二の魅力を発揮している。いろいろな分野に挑戦する偉大な書き手は他にもいるが、その分野で書き続けている作家に比べると見劣りする。だからこそ、恩田陸はすごいのだ。
本作品は、ピアノコンクールに集う音楽家たちを描いている。スポットライトが当てられるのは、4人のコンテスタントだ。自宅にピアノがない少年・風間塵。かつて天才少女としてデビューしながら突然の母の死以来、弾けなくなった栄伝亜夜。楽器店勤務のサラリーマン・高島明石。完璧な技術と音楽性を有する優勝候補マサル・カルロス・レヴィ・アナトール。
この4人の実力が拮抗しているのかと思いきや、天才たちとの歴然とした差を感じている者もいる。だからこそ、作品がリアルで奥行が出ているように思う。そのコンテスタントは、こう述懐する(上巻249頁)。
音楽界には、古くから神童というカテゴリーがある。確かに彼らは幼くして常人の見えないものを見て、いきなり音楽というものの秘密にアクセスできるのだろう。
だが、彼らには常人の見ているものが見えない。遥か遠くに仰ぎ見る音楽に対する神格化された憧れ、燦然と輝く頂をめざしゼロメートルの裾野から音楽を志す喜び、さまざまな苦しみや挫折を乗り越えて一歩ずつ音楽に近づいていく喜びを知らない。
そういう意味では、天才に対する凡人の屈折した優越感というのも存在するのだ。
また、音楽家の曲に対する見方(聴き方)も興味深い(下巻446-447頁)。
ラフマニノフの二番は、初演の時から熱狂的な支持を受けたという。
現代のように、流行歌などない時代なのだ。いや、今でこそ「クラシック」と呼ばれているけれど、当時は最先端の、最新の「ポップス」だった。大多数の人がライブでしか音楽を聴くことのなかった時代。初めてこの曲を聴いた人たち—そして、その評判を聞いて自分も聴きたいとコンサートの切符を手に入れた人たちは、生の演奏を聴いて、どれほど感動し、どれほど興奮したことだろう。
そう考えると、初演に居合わせた人の幸運と幸福が妬ましくなる。初めて演奏されるこの曲を生で聴いたら、それこそ、感動と興奮のあまり、どうにかなってしまいそうだ。
そんな熱狂はもうないのだろうか?
抜粋して紹介したい箇所は他にも山ほどある。このように、音楽家たちの精神世界が鮮やかに描き出されているため、一見退屈しそうなコンクール小説は、とびきり刺激的な内容になっている。思いもしない世界へと連れ出してくれる『蜜蜂と遠雷』は、小説の面白さを凝縮した素晴らしい作品である。