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THE BATMANを観ました

 『THE BATMAN』を観てきました。以下はその感想です。(ネタバレあります)

「恐怖」を武器にするバットマンの表現

 まず映画の最初に、バットマンという存在が本作のゴッサムシティにおいてどういう存在なのかが端的に描写されるんですけど、もうそのシーンが良いんですよ。
 舞台はバットマンが夜警活動を始めて2年経ったころなんですけど、最初にチンピラ達が暗闇を怖がる演出が入るんですよね。そこに怖い存在がいるかもしれないという、暗闇そのものに対する怖さ。それが今作のバットマンが故意に演出している「恐怖」であるわけです。
 この「恐怖を武器にしている」という表現、これまでのシリーズではあまり強調されてこなかったなと思いました。
 例えば、『バットマン vs スーパーマン』でバットマンが登場するのは、暗い廃屋の天井に張り付いているこのシーン。

『バットマン vs スーパーマン』における登場シーン

 バットマンを見つけた警察官は恐慌に陥って銃を乱射してしまうのですが、バットマンは壁を這いながら天井へ消えていきます。この時の動きがネズミや虫の類を連想させて気持ち悪いんですよ。背筋がゾワゾワとするような、生理的な嫌悪感に根差した恐怖の表現があった。
 残念ながら、このシーン以降、バットマンに生理的嫌悪感を感じさせる立ち回りはありませんでした。ですから、この「生理的嫌悪感に根差した恐怖」は意図した演出ではなかったのでしょう。しかし、私はこのバットマンの表現を見たとき「新しい…! これはバットマンの恐怖の表現としてアリだな…!」と思って新鮮に感じました。
 バットマンは「恐怖」を意識的に武器として使っているヴィジランテなので、結果的に恐れられているというだけでは、バットマンというコンセプトに対する解釈が甘いと私は思うわけです。バットマンは、出会った相手に対し、ことさらに恐怖を刺激する存在でなければならないのです。(オタク特有の早口)

 さて、本作でのバットマンの「恐怖」の演出に話を戻します。
 本作での登場シーンでは、バットマンは暗闇からゆっくりと浮かび上がるように現れます。

『THE BATMAN』における登場シーン

 この「暗闇そのものが迫ってくる」ような登場の仕方が、「バットマンが使う」恐怖の演出としてすごく解釈一致でした。
 なるほど、恐怖を相手に与えるのが目的なら、できるだけ不意打ちはしないですよね! 相手に恐怖が染み込むまでの時間が必要ですもんね!
 このあたり、『ダークナイト』シリーズのバットマンは相手から動揺を引き出す手段の一つ程度に恐怖を位置付けていましたが、本作のように「恐怖を与える」ことそのものを目的にするならこういう表現になるよな、と大変感心しました。

怒りに突き動かされる狂犬としてのバットマン

 映画最初の登場シーンで、バットマンはオヤジ狩りをしているチンピラに囲まれます。このとき、バットマンは突っかかってきたチンピラを一方的に7,8発殴り、意識を失って倒れたところをさらに2発殴りつけます。無力化するだけにしては、明らかに過剰な暴力の発露。このシーンで私は「バ、バットマンだー!」とめちゃくちゃテンション上がりました。
 だって、バットマンはダークヒーローじゃないんスよ。夜な夜な暴れまわる狂犬なんスよ。
 ブルース・ウェインは、幼少期のトラウマによる社会恐怖を、それを上回る凶暴な怒りで塗り潰している分裂的な精神異常者なんですよ。その分裂的な内面を「バットマン」というペルソナで包んで、かろうじて対話が出来そうな雰囲気を出しているだけなんですよ。

『僕のヒーローアカデミア』のトゥワイスを連想しません?

 ですから、最初の登場シーンで、バットマンが「消化できない怒りが体内で暴れ回っており、犯罪者に八つ当たりして何とか正気を保っている異常者」として表現されているの、私のバットマンに対する解釈と一致していて最高でしたね。

一級の脅威となったリドラー

 予告編の時点で、本作の敵は「リドラー」であると分かっていたわけですが、私はもうワクワクしっぱなしでした。

ゲーム『アーカム・シティ』におけるリドラー

 リドラーといえば、リドルやパズルを解かせて知恵比べを強要してくるヴィランです。過去の映画作品やコミック、ゲーム等で登場する中では、なかなか一級の脅威として描かれることはなかったように思います。
 というのも、リドルというやや子供っぽい要素を緊迫した物語に組み込むのが難しいのもそうですが、何より、リドラーの設定では大掛かりなテロリズムを計画する動機付けが弱いんですよね。そんなリドラーを、本作ではどうやって一級の脅威として描くのだろうと期待していました。
 いざ映画を見てみると、本作における「リドラー」というキャラクターの造形は本当に素晴らしかった。貧弱なオタク、メガネ、異常なこだわりを持つ背景、高い知性を持ちながらなぜ犯罪に執着するのか、なぜリドルを残すのか… これらの「リドラー」にまつわるキーワードを、矛盾なく説得力のある形で統合できていました。
 元々の設定にはない「復讐」という要素をリドラーに組み込んだことで、リドラーが大掛かりなテロリズムを計画する動機に説得力が生まれたのも良い工夫だったと思います。同じく「復讐」が動機になっているバットマンとの対比も際立っていました。過去にない、一級の脅威としてのリドラーの存在感が表現できていて最高でしたね。
 ヴィランが主役並みに彫り込まれている作品が昨今の流行ですが、本作も素晴らしい解像度での描写でした。

「復讐」を克服する物語

 総じて満足な鑑賞体験だったのですが、強いて言えば、結末は違う方向性にしてほしかったなと思いました。
 バットマンは、リドラーとの戦いを経て「復讐」に囚われることの無為さを悟るのですが、本作の最後のシーンでは、バットマンが日の光の元でレスキューに携わる姿が描かれています。
 つまるところ、本作はバットマンが「復讐」を克服する物語となったわけですが、そうなると「ブルース・ウェインはなぜバットマンになる必要があるのか」という問いが薄まってしまい、バットマンという存在の説得力が薄れてしまうように感じました。
 ここまでバットマンが癒やされてしまうと、その後の物語が想像できないというか。日の光のもとでレスキューに励むバットマンは、バットマンである必要がないというか。
 ブルース・ウェインは、バットマンにならなければならない切実な理由があったからバットマンになったのであって、それが失われたらただのコスプレお兄さんになってしまうように思うのですよね。
 せっかく作品の序盤でバットマンの分裂的で凶暴な部分が強調されたので、その「凶暴なのにクレバーな狂犬」の路線で他のヴィランとも殴り合ってほしかったなと。
 例えば、私だったら最後の部分をこういう風に描くかな…

(リドラーが囚われていた「復讐」に対する反抗としての市民ホールから市長たちを救出する場面までは同じ)
 朝になり、日の光のもと、ホールの屋上で新市長が「ゴッサムシティへの信頼を取り戻さなければならない」と演説を始める。
 新市長の演説の音声と並行して、夜間のバットマンの夜警活動を対比して映す。
 新市長の演説の音声の後、ブルースは「俺はリドラーのようにはならない」と自分に言い聞かせるように独白する。
 そして、最初の登場シーンと同じように、バットマンが市民を囲むチンピラたちと対峙する。
 しかし、今回は最初とは違い、チンピラたちはバットマンを見るなり恐慌に陥り、逃げ出そうとする。
 バットマンはチンピラ達を追おうとするが、突き飛ばされた市民が高所から落下してしまう。
 そこで、バットマンは咄嗟にチンピラを追うのを諦め、市民を落下から救出する。
 バットマンは逃げるチンピラ達を睨みつけるが、救出した市民から「ありがとう。君は命の恩人だ、バットマン」と感謝を伝えられる。
 バットマンが市民からの感謝の言葉に戸惑い、黙ったまま市民を見つめていると、市民の目線が夜空に向かった。
 バットマンが市民の目線に従って夜空を見上げると、空にはバットシグナルが浮かんでいた。
 バットマンは市民に向き直り、「俺は行く」と声をかける。
(2秒の間の後、エンドロール)

 こんな感じで、少しずつ「復讐」以外のモチベーションも芽生えてきた… みたいな感じで次に繋いでほしかったな、と。
 今回の終わり方だとバットマンが癒やされすぎてしまったような印象で、そこだけが解釈違いでした。
 他は大満足の鑑賞体験でした。ぜひ映画館で観てください。

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