OLだった私、harapecolab野尻知美が未経験でもケータリング屋をはじめようと決意するまで。
ハラペコラボ 代表
野尻 知美が何故にケータリングを始めたのかを書いてみようと思います。
最初はクリエイティブではなかった。
美術大学でデザインや建築のことを学んだものの、学校の仲間たちがウェブデザイナーや設計事務所所員、映像作家、プロダクトデザイナー、グラフィックデザイナーなどにそれぞれなっていく中で、記憶するに私だけがクリエイティブな仕事には就きませんでした。20代後半まで 不動産賃貸の営業では直接来店のお客様へ、お部屋の紹介を。そこではお店の立ち上げから経験し、営業マンたちの中では営業成績は良かったと思います。しかし、半年後に閉店。不動産の世界は楽しかったので、次は不動産売買の営業で、毎日ひたすら電話をし、投資用マンションの所有者に売り希望の方を探し、1000件に1人は売りに出してもよいよ。3000件に一人は契約にまでたどり着くということを実感しました。
所有せずともノックさえすれば不動産売買が成立することを知った。
所有者の方も、大半は売るつもりがないのによくわからない不動産屋と名乗る者から急な電話が来ると怒られたり、罵声を浴びることもあり、いかに心が折れずに日々を過ごすのかという精神的にはキツい仕事ではありました。
私は当時から売らない営業を心掛け、資産を現金化しておきたいタイミングの方にのみ、お手伝いしたい。と言い続けました。そうすると、無理に売らなくてよいのか、という安心感から、まずは販売に出してみようというお客様が現れたりして、結局思う値段で売れたりすることもあるので、契約が成立する。という流れが生まれました。私自身が不動産を全く所有もせずに、電話一つで見知らぬ人の不動産売買の手助けをしていることに、営業というものの面白さを感じたのもこの時でした。
外資系企業でのビジネス入門
その後、不動産屋時代に出会った社長に誘われて、アメリカ資本の日本法人の製薬原体メーカーの秘書として転職し、英語教室に通わせていただきながら、外資系企業でのOL生活が始まりました。
最初は秘書として、社長の周りの手配のアレコレをしたのは半年ほどで、食品添加物の分野で西日本エリアを回ることになりました。秘書としてプレゼンの場についていき、数回目からは一人で行くようになりました。秘書仲間は不思議そうに見ていたと思います。なぜ秘書がプレゼンに?!私自身は月の3分の1以上は東海関西エリアの会社を回り、商材を紹介して行脚することが楽しくて仕方がなかったです。そうこうしているうちに引き上げてくれた上司が退任することに。彼に雇われたようなものだった私も同じタイミングで会社を去る指示が出ました。外資系とは何てドライなんだ!「you are fire.」でいきなり終わりで、でも働いている方もタフで、サクッと次の行き先を決めていき、またキャリアアップしていくのも当たり前のような感じでした。
社内で異例の異動、殺虫剤業界へ
隣の農薬や殺虫剤の部門を司る同じく日本法人社長に、食品添加物の部門でプレゼンテーションなどで回っていたのを見ていたよ。よかったらこちらの部門で同じように働かないか?と言ってもらえました。その会社は社内で3人それぞれ事業部に社長がいるような状態だったのですが、全く違う分野のため、社内での事業部間の転職は異例だったのですが、農薬殺虫剤事業部へ異動することになりました。
薬に関する資料を自分で作り、自分で地方のホテルなどの会議室を予約し、自分でプレゼンテーションを行い、その後、取引先の方々を自分で予約し接待する。ご希望あらばゴルフのお供をしたり。全て一連の事を自分でする能力をここで叩き込まれました。ビジネス書を読み、先輩方にもビジネスのいろはを教えていただきました。ビジネスとしての教養や文章の書き方、知っているようで知らないことばかりをひとつひとつ学んで実践していきました。
加えて学生時代に習ったグラフィックソフトや、製作のスキルなども活かし、販促アイテムを様々製作し、お客様が気持ちよく買う、使うにはと考えて創り、伝える日々でした。
薬の中でも殺虫剤の分野だったので、殺虫成分の効果を調べるために、離島へ出向いたり、会社の地位ある方をお連れして、ゴルフやお食事などのご案内、ジャングル(小笠原父島、母島山中)へ行くこともありました。
多分一風変わった女子だった。
社内の秘書仲間には、港区青山の一等地にあったオフィスから、わざわざ出張で害虫駆除会社の方々と南方の離島などに行く私を理解不能な目で見られることもありました。私にとっては人生なかなか出来る経験ではない!という気持ちで、すべての事に瞬間瞬間を全力投球できる人間が将来面白くなっていくと信じていたので、一般的なきれいな中でのみ働きたいという価値観の方の白い目は結構厳しいものがありましたが、、、自分自身の抱える仕事については充実して非常に感謝の日々でした。
プライベートでクリエイティブなことを始めた。
その外資系会社の頃、プライベートを学生時代の仲間と面白く過ごすために、ハラペコ会という毎月1回コンセプトのあるホームパーティーを主催し始めました。最初10人程度で始まったその会は、1日のために音楽担当、空間演出担当、料理担当、装花担当、と役割分担を振り分けていき、全力で楽しむというものでした。
当時20代半ばの私たちは、クリエイティブな仕事に就いた仲間たちも、自分がやりたいデザインというよりは割と食うためにやっていることも多く、くすぶっていた部分をここで発散しようという目的でした。
私自身も、外資系でどんなに働いても、デザインの道につながるとは思えず、今後を考えるともやもやすることもありました。いつかクリエイティブっていったいいつよ?といった思いでもありました。
仮面とライブとお菓子の家
特製のボックスにおやつタワーを作り食す。
楽隊とともに、パテから作るハンバーガーとともに、多摩川でのピクニック
あえて高尾山山頂でたこ焼き。。
最初10人ぐらいだった集まりも、だんだん大所帯になり、30人ぐらいはいつも集まるようになっていった。ARTな人たちだけでなく、SEやリア充(死語でしたらすいません)を求めた人たちがどんどん渦のように集まっていきました。その記録をずっとブログで書いていく事を同時に続けていきました。
結婚を機に東京から福岡へ移住、ケータリング屋を決意する
1年が経ったころ結婚を機に福岡へ行くことを決意しました。その時点でOLで飲食経験も無い私は、ARTなケータリング屋を福岡で始めよう!と、足りないスキルはこれから一つずつ補えば良いし、仲間を作り助け合うことも出来るのかな?とか小さな事から始めれば良いか!などと、前向きというか楽天的に考えていました。
その決意にいたる要素としては、これだけ楽しい会を一緒に共有したい人いるはず!という憶測と、世の中様々なパーティーに参加したが、ものすごく感動するものは殆ど無かったです。当時仕事で良く福岡へ行っていたリサーチでは2009年あたりでは少なくとも福岡ではケータリングという言葉もなかったし、ましてやARTに特化したお弁当屋もなかったので、隙間産業的に行けるかな?と思っていた思いもありました。したたかに、クレバーな頭脳でゲームを攻略していく。という感覚がどうも苦手だったので、やるなら敵がいない事をしていきたいというのははっきり思っていました。そんな思いで2009年の夏、福岡へ移住したのでした。