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私たちは才能に殺される

久しぶりだけどカキカキ

・本当は恐ろしい才能

久々に文章書いてみるけど、いきなり飛ばしで書いてみましょう。

さて、ここ数年色々なクリエイティブな活動に身を置いてて、そこで色んな状況を見てきました。

人には「才能」というものがあり、その才能に良くも悪くも左右されているんですが、その才能というものが本当に諸刃の剣である…というのは、何かをした事がある人は痛感しているのかな?と思います。

この才能というのは悲しいかな、人を生かす事が稀であるんじゃないかな?という結論が導き出されそうなのです・・・

なぜそういう結論に至ったのか?というのを少し解説してみましょう。

・才能は基本的に生きない生かせない

まず基本的には才能は生きないし生かせないと考えていいと思います。理由はいくつかあって、ひとつは才能が飛びぬけてある人が居たとしても、それを有効活用できないと意味がないです。

サッカーの才能があったとしても、サッカーをやる機会がないと意味がないですよね?そしてそのサッカーの才能を活用できたとしても、サッカーが面白い!と思えなければ続かないです。

さらにさらに、サッカーが面白いと思ってかつサッカーの才能があったとしても「本気で取り組んでみないとダメ」なんですよね。

人は弱いわけですから、なまじ才能があったとしても才能が枯渇する瞬間を酷く恐れるわけです。周囲の期待や自分の限界を知りたくないという恐怖から辞めてしまう事も多いです。

故に才能があふれてるタイプというのは所謂努力をしない傾向にあり、また才能があふれてるがゆえに簡単に手放してしまう…という事があります。いとも簡単に物事や結果に結びつく人…つまり才能を持っている人ほど、何かしらの言い訳を作りだして即諦めていきます。

つまりこの才能というのは基本的に生かすのが圧倒的に難しいし、そもそも才能を生かせるケースのほうが稀なんです。才能が欲しいなぁと簡単に冗談交じりに言う人も多いですが、才能あっても問題ないですが、ある一定以上才能を所持してしまうと途端に難しくなります。

・才能から生まれる惨劇

そしてこの才能の裏側で生まれるもう一つの悲劇が、才能に殺されてしまうケースです。

才能ある人がサっとやってみた事を見てしまった才能がない人がどうなってしまうのか?簡単です、絶望して諦めてしまうんですよね。

マンガなどでもよく見られるシーンではあると思いますが、才能ないとされている人が圧倒的な才能ある人を見てしまい、絶望して打ちひしがれてしまう…みたいな感じですね。

どれだけ頑張っても才能ある人に一瞬で追い抜かれてしまう…そんな事は現実もでよくある事です。数字という結果を見て絶望することもよくあります。

・重要なのは才能に殺されないこと

これらの結果を踏まえるなら、才能というのはあってもなくても、その才能というものに自他問わず殺されるケースが圧倒的に多い…そんな気がしています。

自分もそうなのですが、今まで諦めていった色んな活動に関して、才能があったのか無かったのか…はともかく、いずれにせよ自分には向いていなかった…という感じで諦めるという形で終わりを迎えてます。

逆に人から「〇〇の才能あるんじゃない?」とか言われても、基本的には断るような返答をしていたと思います。「いや、そんなことないよ」っていう具合で。

しかし、これも結局自分自身が測りに掛けられる事に恐怖した本能的な回避なのかもしれませんね。周囲から期待されて裏切る事にならないように無意識に自衛してたのかもしれません。本当に才能があったのかもしれませんが、結局自分の才能に自分が殺されてしまった感覚があります。

我々が欲する才能というのは圧倒的に優れたなにか?という風に想像しがちなんですが、才能として発芽するのは「ほどよく才能がある」もしくは「ほどよく才能がない」のどちらかなのかなと感じています。

その人によって丁度良い才能の場所こそが、つまり他人に期待されることもなく自らの才能に溺れることもない…つまり才能に殺されない位置なのかもしれません。

だからこそ、人は才能が無くてもいいのかもしれません。才能があっても持て余すことが大半で、その持て余した部分で誰かの未来を削り取りかねないという事です。

自分の今やってて続いてる事の大半は恐らく「あまり才能が無かった」と言っていいと思います。だからこそ誰にも見つかる事もなく、自ら手放すこともなく丁寧に育めている…という事に他ならない気がしてます。

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