自己紹介します 精神科医になった頃
医学部を受けるまでのことを書いたので、精神科医となってからのことから現在までについて少しづつ、自己紹介させていただきます。
よろしかったら読んでいただけるとうれしいです。
医師になった頃のこと
卒業した直後に結婚しました。そしてその予定でしたが、学生運動盛んなころで卒業が遅れてしまい、出産や子育てが先になりました。
その後、家庭を持ったあとに、卒業して医師になりました。
医師になったのは、青森県弘前市です。
私は当時でも変わり者の医師でした。普通は大学の医局に入り、教授の下働きをしながら博士号などをとるのですが。
そういうことに全く意味を見出せず、市井の民間精神病院からスタートしました。
勤務先も教授が決めるのが普通です。いいえ、とは言えない世界です。私は、自分の働く場所を人が決めるなんて信じれないと思い、自分で探しました。
子供を預け、自転車を借りて弘前市内の精神病院を回ったんです。
院長とか事務長に面接すると、良いことしか言わないと思い、ケースワーカーなどと会わせてもらいました。
今でも「患者さんのヘンな家族が面会に来た」とその病院で伝説になっているらしいです。
下に位置する方たちがイキイキと働いている病院で働きたいと思い、そのひとつに決めました。
私の判断は正解でした。
そこに7年いましたが、精神科医としての原点をそこで学びました。
上司がふたり、そして同期に入局した医師が4人いたことが幸いして、学びながらも同期で切磋琢磨して、それぞれが自分流の治療論を模索したり確立していきました。
当時の私の考えです。
①生活に根差していること。
②患者さんの気持ちに寄り添うこと
このふたつを徹底的に追及しました。
どんな家族がいて、どこに住んで、どんな家で、どんな食事してて・・・・・などなど生活を聞いていきます。
患者さんの気持ちに寄り添うことが一番難しかったです。
当時は統合失調症の方が8割を占めた時代です。
それも長い闘病生活の中で、心がすさんでいった方たちをお相手にするので、その心に寄り添っていくことは至難の業でした。
自分の診察を録音して、東京の尊敬する医師に聞いてもらって指導を受けました。
外来の患者さんが多い時代ではなかったです。
何十年も、精神病院の閉鎖病棟にうずくまって暮らしていた方たちがお相手です。
でもあきらめませんでした。
「退院したい」「家で暮らしたい」そんなご希望があるかぎり、あらゆる方法を駆使してそれを助けていくのが精神科医の仕事だと思っていました。
今まら思えば、その後勤務したどんな病院よりも進歩的な病院でした。
そこでスタートを切れたことは私にとって一番のしあわせだったと思っています。
4人の同期のうち、ひとりは若いうちに自殺されました。
ひとりは埼玉で手広くクリニックをやっています。
ひとりは震災後の福島県相馬市内の外来でがんばっています。
今でも一番の仲間です。
その後、いくつもの有名な大きな病院に勤めましたが、一番古い時代の、この病院より進歩している病院はなかったです。
それは、コーメディカルのたくさんの職種がすでにチームを組んで、誰が上でも下でもなく治療チームを作っていたこと。
インフォームド コンセプトなどという言葉が出てきた20年も前から、私は患者さんに治療方法を説明し、患者さんや家族に納得のいくよう選んでもらっていました。
セカンド オピニオンなどという言葉が出てきた20年も前から、あたり前にして「別に医師に診てもらいたい」という希望のある方にはこころよく、紹介状を書いていました。
「いつでも戻ってきていいよ」という言葉と共に。
医師になりたくてなった私でなかったから。
高収入が目的で医師になったわけでなかった私だったから。
ごく一般の家庭で質素に地味に育てられてきた私だったから。
やけに正義感があって、ものさし振りかざして男の子を追いかけまわしていた私だったから。
そんな私だったから、患者さん第一主義で、私自身が私の頭で考え、仲間と共に、いろんな師匠を持ちながら作ってきた治療論だったと思います。
父に勧められて入った医学部でしたが、実は父は医師嫌いでした。
医師なんて威張っているばかりで嫌いや。
医者になるんだったら、優しい医者になれと言われました。
ごく普通の優しい医者になれと言いました。
父に言われなくても、そんな風に育っていたんじゃないかなと思います。
読んでいただいてありがとうございます。
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