オーストラリアの母に、ミモザを送る
スマホをスクロールして、電話帳から"Mum"を選ぶ。
"Happy International Woman's day to my Australian mum!(国際女性の日、おめでとう。私のオーストラリアのママ!)"
ぽんっと1枚、ミモザの写真を送る。地球の裏側のオーストラリアに住む大切な母、ミシェルへ。
・・・
ミシェルとの出会いは、14年前、高校1年生の夏休みにさかのぼる。学校のプログラムで参加したオーストラリアでの2週間のホームステイで、お世話になったホストファミリーのママだった。2人の子どもを育てるワーママの彼女は、忙しい中でも人生をとっても愛している人だった。
手入れされたブラウンヘアーをブローし、オレンジや赤といった明るい色の服を着こなす。鼻歌を歌いながら家中をピカピカに磨きあげ、いい香りの洗剤でシーツを洗う。スーパーに行けば、3年前からの親友か!?っていうテンションでレジ打ちの人と親しげにおしゃべりし、「今日は悪いことしちゃおっか!」と言って帰り際に甘いドーナツを買ってかえる。
そんな明るくておちゃめな彼女を、私は一瞬で好きになった。当時、私の英語レベルは推定3歳だったけれど、かきあつめた単語とジェスチャーを駆使し、ミシェルにくっついてまわった。一緒に料理をしたり、洗濯物をたたむのを手伝ったり、寝る前にパジャマでおしゃべりをしていると、心がだんだん近づく気がして。それが、とてつもなく嬉しかった。
帰国が近づいてきたある夜、テレビで一発ギャグをするコメディアンを見て、ミシェルはゲラゲラ笑っていた。私はふと、いまだ!!!と思った。そしてCMに入った瞬間、テレビの前に躍り出て即興で完コピしたギャグを披露したのだ。
"Oh my goodness! You are hilarious(あなた、おもしろいわ〜)"
................. ウケた!!!
ミシェルはお腹を抱えて笑っていた。そして目の端にたまった涙を人差し指でぬぐって
"We love having you. We don't want you to go back! (あなたに帰ってほしくないわ〜)"
と私を抱きよせた。
ふんわりと洗剤のいい香りがするミシェルの胸にくるまれながら「あぁ、人生には、目も髪の色もちがう人たちとこんなふうに通じ合える奇跡の瞬間があるんだなぁ」と心が震えた。そして、「もっと英語を勉強して、もっとこの人たちとわかりあえるようにしよう」と決意を固めたのだった。
・・・
半年後、私はまたオーストラリアの地を踏んでいた。今度は1年の滞在。現地の学校に通い、もっとミシェルたちと話せるようになるために英語力を磨く予定だった。
オーストラリアは本来、留学プログラムがとても充実している国なのだけど、私の場合、本当にいろんな不運が重なってしまった(その話はまた今度ゆっくり・・・)。そして気がつけば、地方都市から車で8時間ほど走った砂漠地帯で暮らしていた。
その場所の夏の平均気温は42度で、焼け焦げそうな暑さだった。とにかくカラッカラに乾いている場所なので、ハエが水分を求めて、人の目や鼻や口を狙ってやってくる。その頃の写真を見返すと、私の顔にはやたらとホクロが増えていた。(んで、ズームしてみると、しっかりハエ!)
私を受け入れてくれたのは、単身赴任中の女性だった。小さな町病院の責任者として赴任したばかりの彼女は、いつもピリピリしていた。「朝はギリギリまで寝ていたいから、足音で起こさないでね」というので、私は泥棒のようにそろりと身支度を整え、朝ごはんを食べずに学校へむかった。
学校はほぼ廃校で、生徒はほんの数名。数少ない在学生にアプローチするものの、私の英語力がひどかったこともあり、友達と呼べるような人は1人もできなかった。家でも学校でも、孤独。 あゝこどく。
学校の帰り道、よくだれもいない小道でミスチルの『くるみ』を聞きながら泣いた。涙にハエがわんさかよってくる。すると「この町では、だれひとりとして私のことを求めてない。求めてくれるのは、ハエくらいだ〜〜〜」と切なくなり、さらに泣けた(そして、ますますハエに愛された)
・・・
田舎町で暮らして3ヶ月が過ぎたころ、ミシェルから元気にやっている? とメールが届いた。
私は素直な気持ちを、メールの返信に綴った。
"I am very sad every day(毎日、すごく悲しい気持ちなの)"
すると1週間後、ミシェルから長いメールが届いた。「正直、あなたがいる場所は留学生が行くようなところじゃないと思っていたの。ただ運が悪かっただけ。だれも悪くないわ。今すぐうちにいらっしゃい。学校も、あなたのベッドも、すべて手配したから」と書かれていた。
私は急いで荷物をまとめた。「そんな勝手な真似をする子は前代未聞だ。移動するなら、今後いっさい面倒は見ない!」と言うエージェントをふりきり、ミシェルが住む街へとむかう夜行バスに乗り込んだ。藁にもすがる思いだった。
10時間の長旅の途中、トイレ休憩で停車したガソリンスタンドで、ふと空を見上げると、日本で見たことのないレベルの美しい星空が広がっていた。「どうか、これからの生活がよくなりますように」と幾千ものダイアモンドに拝む。すると、すぅーっと1つ、流れ星が真っ暗な空をかけていった。
次の朝、バスターミナルに着くと見慣れた顔があった。ミシェルたちだ。
「よく来たわね〜」とハグされた。なつかしいやさしい洗剤の香りが鼻をくすぐり、安堵感に全身の力が抜けそうになる。と、同時に、図々しくきてしまってよかったんだろうか? という疑念がこみあげ、私はひどく不安になった。Thank youとSorryを何度も繰り返す私に、ミシェルは太陽級の笑顔で言った。
"No worries! Everything is gonna be alright (すべて、大丈夫だから)"
その言葉どおり、そこからの留学生活は上昇気流だった。ミシェルたちと暮らす毎日はにぎやかで、孤独を感じているヒマなどない。新しい学校は生徒数が多く、気の合う仲間に出会うことができた。ぺしゃんとしぼんでいた自己肯定感が、ふたたび呼吸をしはじめる。英語力も次第に伸び、私はオーストラリアという地で生きることを楽しむようになっていた。
留学生活のおわりが見えてきた頃、私は17歳の誕生日を迎えた。ミシェルがパーティーを企画してくれ、親戚や学校の友達を呼んでくれた。集まってくれた人たちの顔をかわるがわる見ながら、「オーストラリアではハエにしか愛されないのかもしれないと自信を失っていたけど、今はこんなにたくさんの大切な人ができたんだなぁ」と思うと、ぐっと込み上げるものがあった。
"You are not sad anymore, right? (もう悲しいなんてことはないでしょう?"
ミシェルが私の肩を抱いて、聞く。
"I am very happy now, thanks to you.(あなたのおかげで、今はとても幸せです)"
私はぎゅっとミシェルをハグした。
・・・
あれから14年の時が流れ、私は30歳になった。当時のミシェルたちの年齢に近づけば近づくほど、彼らへの感謝の気持ちは深まるばかりだ。たった2週間のつながりしかなかった日本人の私を、なんの見返りも求めず受け入れを決めることは、だれもができることじゃない。自分たちの生活にありあまる時間とお金があるわけではないのに、もう1人子どもを受け入れるというのはどれほどの覚悟がいることだったのだろう。
伝えてもつたえきれないから「母の日」とか「ミモザの日」とか「思い出の曲がラジオで流れていてあの頃を思い出した」とか、ちょうどいい理由を見つけては、感謝を述べる。いつもは年に1回くらいは会いにいくけれど、それが叶わない今年は、デジタルに頼ろう。
そんなことを考えていると、ミシェルから電話がかかってきた。
”Thanks for the lovey message, I was actually just thinking of you! (素敵なメッセージをありがとう。実は、ちょうど今日あなたのことを思っていたのよ!)"
電話のむこうに聞こえる、明るい声。「聞いて、そういえばさ・・・」とさっそく家族のゴシップネタをアップデートしてくれている。
「この人と出会えたこと、家族になれたこと、本当にありがとう」
静かに感謝の祈りを捧げると、ミモザがぱぁっと一斉に花を開くみたいな明るさが心にともる。私はそのイエローを大切に愛ながら、ミシェルの冗談に耳を傾け、一緒にケラケラと笑った。
All photo credit: Pixabay