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好きなバンドの曲が聞けなくなった話。

彼らのことについて書こうと思う。書きたいと思ってから軽く2ヶ月が過ぎた。このままフェードアウトしてもよかったけれどどこかおさまりが悪い。私なりにひとつの結論を出そう、と思いパソコンに向かっている。

この記事は私が推しバンドの曲を聞けなくなったことについて書いてます。記事を読んで誰のことかわかるようにはしないけど、彼らのファンで察する人は閲覧注意。ネガティブな言葉が並ぶと思う。

好き、に違和感を覚えたのはいつからだったか、と聞かれればコロナ禍でのシングルリリースのときだった気がする。「はじめまして」の意となるタイトルの新曲が発表されたとき。

当時はたくさん聞いた。でもそれはこの曲が好きで聞いていたというよりは最新の彼らの音楽を聞く唯一の手段だったから。ライブもできなかった当時、彼らとリスナーをつなぐものだったから何回も、何回も聞いていた。

私にとっては深く刺さるものではないけどきっとほかの人が聞いたら響く良い曲なんだろうな、と少し距離を取っていたように今では思う。サウンド的にも今までにないテイストだったし新鮮味はあった。

でもどこか当事者意識がないような、ふわふわしたスタンスで聞いていた。それでも好きな歌詞とかフレーズとかをSNSでぽつぽつつぶやくくらいはしてた気がする。


明確に避けたりつぶやかなくなってしまったのは新しいアルバムがリリースされた頃。無理やりきれいな言葉で感想を紡ごうとしてる自分がいることに気がついた。

今までどんな風に曲を聞いてたのか、好きを発信していたのか、わからなくなった。アルバムの曲すべてが響かなかったわけでもないけど、ポジティブな感想を覆うように曲に反発してしまうパワーが大きかった。

MVもあるリード曲は特に素直に聞き入れられなかった。「人間賛歌」を謳いラストサビの合唱パートなどから壮大なイメージを思い浮かべるこの曲が私は苦手だ。

「自分を見つめ過ぎず、ありのままの自分を愛す」ことがテーマとなっているけど、思えば前作のアルバムの「小さな偉大なる一歩」の意が込められた曲からそのテーマは一貫している。同時に私はこの曲も未だに好きになりきれていない。

自分を愛するって何をしたらいいのかわからない。ありのままの自分を好きになれない。この曲を聞けば聞くほど、歌詞を読めば読むほどわからなかった。

それとどうしても受け入れられなかった歌詞があった。生きていくほどに汚れていく自分、という表現に違和感を覚えた。大人になるにつれ子どもの頃にあった純粋な気持ちや行動力がなくなっていくことの比喩だと思う。

成長して大人になれば他人の目を気にしたり比較したりして、昔できたことができなくなったりすることもある。もっと自由に、やりたいことをできる自分になりたい。けどなれていない。

なりたい自分になれないもどかしさを抱える中、「汚れた」という表現、簡単に言えば少し不快だった。無垢な子どもの頃の気持ちを真っ白とするのならきっと私の気持ちの色は靄のような薄暗い灰色になっているだろう。

それでもこれまで悩みながら苦しみながらも生きてきた。好きになれない自分で生きるのはしんどいけどもっと幸せになりたい。いつか自分を愛せるような自分になりたいと思ってる。

だからこれまでの生き方が「汚れて」るなんて思いたくなかった。辛いこと、うまくいかないこと、これまでの人生の経験から怖気づいてできないことがたくさんある。

それが真っ白な状態から濁った暗い色になるということなら私の苦悩を否定した、そんな風に捉えてしまう。悩み苦しんで今の私がいる、それがありのままの自分なのに。

しんどいな、こんな自分は嫌だなって思うことはあっても死にたいと思うことはない。昨年のツアーでボーカルがMCで言った「死ぬなよ」の一言はあまりも刺さらなかったことを思い出す。

時勢も考慮しての発言だったと思うけど、その言葉を聞いて涙ぐむ観客を横目に私は今までのMCで一番響かないことに軽く衝撃を覚えていた。その頃から少しずつ、少しずつ彼らから離れていった。


過去の話を少ししたい。私が彼らのことを好きだった頃の話だ。私は彼らの作品の中で3枚目のアルバムが特に好きだ。それは彼らを知った曲が収録されているのもあるしそのタイミングでは最新作だったから。

就職活動で苦しくて辛かった時期、このアルバムを何回も聞いた。泣いてばっかりの日々に寄り添ってくれた。行き詰まったどうしようもない気持ちを発散してくれた。明日も生きよう、頑張ってみようって思わせてくれた。

だから私にとってはこのアルバムが最高で、正直4枚目、5枚目のアルバムを聞いても私のベストは更新されなかった。思い入れが強すぎたのもあるけど、もしそれを超える作品が出たらどうなるだろうという期待もしていた。

ある意味私はこの作品に固執していた。ツイッターのアカウント名にアルバムタイトルまで入れてたのもそれが理由だ。もしそれを超える作品が出たら成長、変化の意を込めて消すもりだった。

でもその日が来ることがないまま私はこの文章を書いている。過去の作品の時の方がよかったから離れるなんて定番の理由だ。好きになった頃はそんなこと思うなんて考えもしなかった。


空想、幻想という意味を持つアルバムタイトルは彼らがアルバムで創った一つの“国”、もしくは“街”でもあった。そこには様々な理想や願いが込められている。

今はまだ苦しくてもいつか乗り越えられる日がくる、こんな自分になりたい、という当時もがいていた私にとってこのアルバムのテーマは一筋の光のように希望だった。

けれど4枚目のアルバムでくるっと反対に舵を切って方向を変えてきた。理想を掲げることによってその枠からはみ出るときの生きづらさが出てくるからだ。

だからまずはありのままの自分を愛す、認めるという着想から出来たアルバムはこれまでの彼らが作ったとは考えられないくらい歌詞の面でむき出しの感情をさらけ出していた。

3枚目までのアルバムで理想を追い求める彼らの音楽が完結し、4枚目のアルバムから新章がスタートする、そんな内容のインタビュー記事を読んで、軽く絶望した。

確実に変化した彼らとまだ“理想の国”に居続けている私。ああ、もうあの頃の音楽は聞けないかもしれないという寂しさ、成長した彼らを純粋に喜べない複雑さ、そして何より変われない自分に対する焦燥感、などいろんな感情が巡った。

置いていかないでほしい、という身勝手な気持ちが沸いた。アーティストの変化を望まないのは残酷なことだと思いながらも心の底では今の彼らを肯定していなかったんだと気づいた。

それでも尚彼らの音楽を聞き、ライブに通っていたのは彼らの音楽で確かに救われていたからだ。また違った側面から音楽で私の生活に寄り添ってくれるかもしれない、そう思った。


ここまでつらつら書いてきて、今もまったく曲を聞けない状況になって思うこと。今は彼らへの「好き」を冬眠させておきたい。いつか“春”が来ればあったまった好きな気持ちを伝えたい。

彼らのことを嫌いになりきれていない自分がいる。被害者ぶるつもりはないけれど私だってこれまで好きだった彼らの音楽が聞けなくなったのはショックだったし好きな気持ちは本当だった分、今の状況が辛い。

彼らへの「好き」を素直に発信しているのを見かけると、そう思えない自分と比較してしまってうらやましいし、何より誰かを推して何らかの形で発信しているだけで素敵だ。

それと、私はまだ彼らにすがっていたい理由が一つある。一昨年のツアーで聞いた名前もない新曲を今でも待ち焦がれている。もうだいぶ記憶が薄れてしまっているけれど、あのとき零れた涙は確かに心揺さぶられた証拠だ。

今はしばらく距離を置きます。好きな気持ちが戻ってくるのかわからないけど。彼らが音を鳴らし続ける限り、いつか聞ける日が来るといいな。