待ち焦がれていた景色
先日、Aimerさんの10周年記念ライブに行ってきた。開催場所はさいたまスーパーアリーナ。広島県に住んでる身としては関東への移動をめちゃくちゃ迷いながらも最終的には行くと決めた。
リスクを取ってまで行く理由があるのか、この情勢のなかライブに行くことって不謹慎で私のわがままなのか、考えても考えても答えがわからなくって苦しかった。
自分自身、そして同居してる家族を守るために行かないという選択は間違ってないけど、それは行けたはずなのに、という後悔になって誰かのせいになるのも嫌だった。
公演ギリギリまで悩みに悩んだ結果、やっぱり諦めきれなかった。不安を抱えながら久しぶりの遠征の準備をし始めてからは緊張が止まなかった。
8月に掲載してもらった文章。元はこのnoteに載せていたものを一旦非公開にして加筆修正して投稿した。今年2月に書いたものだったけどそれから彼女のライブに対する気持ちは変わらなかったから、自分の気持ちを再確認するためにも投稿してよかったと思う。
(「音楽文」は来年3月でサービス終了とのことで、掲載が終わったら改めてnoteに移植する予定。音楽文さん、お世話になりました。)
文章を読み返しながら、行くか行かないかで悩みながら、私にとってのライブって「居場所」なんだなって気づかされた。言い換えればコミュニティでもある。
どちらかと言えば一人でライブに行くことが多かったし、現地で誰かと楽しさを共有するわけでもない。それを居場所だといえるのは、ライブという空間は私対アーティスト、という一対一の絶対的な関係で成り立ってるから。
優しく心に降りそそぐ言葉が明日も生きようって思わせてくれた。激しく叫んでいるような苦しみがリンクして気持ちを分かち合えたように思えた。何よりステージで歌と言葉を紡ぐ美しい姿にいつも心打たれ、奮い立たせてくれた。
あの空間ではアーティストが届けるすべてのものがその場にいる観客だけに向けられたものだ。その日限りの特別さは数時間しか得られない刹那的なものだからこそ生のライブはいっそう意味をもつ。
欲しい言葉を投げかけてくれる、見放さずにたたそばにいてくれる、生きててよかったと思える、そんな居場所を私は求めてた。情けなく思うけど、私が私であるためにたくさんのものを与えてくれるライブという場所が必要だった。
それを確信したのが今回の一年半以上ぶりの彼女のライブだった。
「歌うことを選んでくれてありがとう。歌い続けてくれてありがとう。」
ライブを終えた直後も、今この瞬間もこの想いに尽きる。