タダシさんとの思い出 2022年8月
タイトル画像 8月23日病室にて
カテーテルを入れて栄養がとれるようになったけどここから3日間音信不通。ダウンしてたもよう。
8月3日 病院から電話。倦怠感あり。トイレ以外寝ている。下痢の回数が多く夜も眠れてない。内視鏡検査をして腸炎かGVHDかわかればステロイド等薬を決めていくとのこと。
大人用のオムツを持参していたけど、レンタルだと定額で枚数制限が無いので下痢が頻回のためレンタルの方が良いと看護師さんに提案されて契約をする。
駅そばの乾麺の食いたい。明日から液体食。午後ティストレート欲しい。病院からOKもらってる。などなどしんどい中でも現況を知らせてくれる。
下痢の回数が減り色も悪くないので腹は痛いけど、進展は見えてきたから頑張れそうとタダシさんからのLine
子どもの誕生日に一緒にいれず悔しい。寂しい。とLine。元氣になって退院したら毎日ご飯一緒に食べれるよと送る。
8月18日 「正直こんなに長い入院になると思ってなかった」とLINE
肝臓の件はもう開き直ったよと、ばあちゃん(タダシさん母)と私のLINEグループでは書いてるけど、スマホの日記には「肝臓が悪いと言われてからのショックからなかなか抜けれない」と書いている。おそらくばあちゃんに心配かけないように取り繕っていたのだろう。
入ってた保険の保険金請求できる入院日数がMAXとなり、貯金をきりくずしながらの闘病生活となったこと(これはタダシさんには最期まで言わず)と、実際ワンオペ農業となったらアクティブレストよりまず寝たい休みたいとなってバイクに乗れなくなったこと。所有欲のためのバイクじゃない。乗らないバイクが埃かぶっていくのを見るのはバイクがかわいそうで相棒バイクと別れることにした。タダシさんが命の不安を感じていた時、私はタダシさんの病気のことはもちろんだがこれからの経済的な不安も感じていた。これは今初めて明かす。誰にも話してなかったこと。
8月21日 今日はいつもより元気だった気がするとLINE
8月22日 骨髄移植をした病院への転院、治療の話があると。
部屋が個室に替わる。
8月23日 転院して別の治療をしていくのかな。良くなるといいねとばあちゃんと話をして病院へ向かう。先生からのお話は想像していたことと真逆のことだった。現状GVHDの下痢が続いていて肝臓の機能が低下、腎臓も普通の人の3分の1の力。右の肺炎。点と点がなんとかつながっている状態で良くなる可能性は低い。万一の心づもりをしていただきたい。
もう長くはないという余命宣告だった。治療の選択肢として骨髄移植をした病院ではここではできない治療がもう一つできるけれど、下痢の回数が減るといった程度になる。延命治療もできる体力が残っていないということ。転院したとして向こうの病院で管に繋がれていたらそこから移動はできないし会うこともできなくなること。
泣きながら話を聞いた後ちゃんと涙を拭いて、今度はタダシさんの病室で先生からもう一度話を聞いて2人で話し合う。県外の病院へ行ってしまうよりは、家から通える距離の慣れ親しんだ病院の方が良い、とこのままここで治療を続けることに決める。
「家に帰りたい」「こんなに早く死ぬと思ってなかった」「もっとマキといたかった。」タダシさんから出てくる言葉になにか言葉を発すると泣き崩れてしまいそうで、うなずくしかできなかった。
「もっとがんばれって思っとうやろ、マキは」悲しそうな顔で見つめられた。生きてて欲しい。まだ死んでほしくない。でももう身体は限界で頑張れるレベルじゃない。わかってる。私は首を横にふるしかできなかった。もうがんばらなくていいよ。現実に打ちのめされて帰宅してからおばあちゃんに病院での話をしながら泣いた。もう私も家族もどうすることもできない。
腰が痛いからさすりに来て欲しいとのことで、交代で病院へ行くようにする。そして病院からも、肝機能が低下すると意識障害が出て会話も困難になるから今できるだけ家族の方に来てもらってくださいと言われ、子供たち4人を日替わりで連れて行く。
骨髄移植をしてこういったことになってしまったけど、ドナーの子が自責の念を持たないようにフォローをお願いしますと言われたのも子どもに伝える。以前骨髄移植をした病院でタダシさん入院日に3人で説明を受けた後、ドナーの子と私が帰ろうとしていた時、私達を追ってエレベーターで1階まで降りて来られた先生が、「ご本人さんの前でお話できなかったのですが」と前置きされ、遺伝子異常のあるタイプの病気ゆえ骨髄移植が完治ではなく再発の可能性もあることをお知りおきくださいと話されていた。だからドナーの子も、やれることはやったし結果はしょうがないときちんと事実を受け入れてくれていた。私にとってそれはすごくありがたかった。
骨髄移植が完治ではないケースがあることもこのnoteを読む方に知ってもらいたい。完治して元氣に社会復帰される方もいる。希望を持つためにそういった例をだして励ましてくれる方もいる。でもできれば病状は人それぞれで
今病気と頑張ってるその人だけへの「大丈夫だよ。よく頑張ってるよ」というメッセージを送って欲しい。人との比較が患者さん本人や家族にプレッシャーになることもあると。ちょっとでも心の隅で覚えておいて欲しい。
「よう頑張ってるよ。」と長男が声をかけてくれたり、双子の次男三男が交代で腰をさすってくれた。長女は変わり果てたお父さんの姿に涙が止まらず近況を話して頑張ってることを伝えた。
主治医の先生と別の血液内科の先生から病状説明。これ以上頑張ることはできないところまできているから頑張れと言わないでと。こども達言うてしまったな・・・。あぁ。
8月30日 もう薬も飲めない。治療もしなくていい。家に帰りたい。
タダシさんの要望を叶えるべく病院スタッフさんが迅速に動いてくださる。
8月31日 何度か退院日が変更になり、誕生日を家で迎えられるようにと9月1日に退院できることになった。寝たきりなのでオムツ交換のやり方を看護師さんに教えてもらう。必要なもののリストをもらって帰路たくさん買った。今思えば頭ではもう長くはないとわかっているのに、気持ちの上では認めたくなかったんやろな。介護用のオムツも交換用のパジャマもたくさん買った。これからみんなで介護していくんやと思ってた。
数日前に「誰に会いたい?」と訊いた時タダシさんはなんの迷いもなく「岡本(学生時代からの友達)」と言っていたので退院日に家に会いに来てもらえないか連絡。ずっと直接会ってお礼が言いたいって言うてたからね。良かったね。来てくれるよ。
明日は一緒に家に帰ろう。