#11 古民家暗中模索中 ルーツ編その1
DAY25 5月25日 選別する
要るもの、要らないものにふりわけること。
私はこれが不得意だ。
特に人が使っていたものには、なにか宿っている気がして
捨てる
という判断ができない。
しかし、それではものは膠着状態になってしまう。
要らないものという判断基準を持っている他者を伴わなければ、無理だということがわかってきた。
今回は母に登場してもらうことにする。
ばあちゃんが日本画をずっと描いていたのと、父が自分の事務所に絵を飾ることを趣味にしていたため、とにかく大量の絵がこの家にはあった。
部屋、廊下、押し入れにまで入れてあった。
それらを一旦全部納屋に移して置いた。
それらをとにかくなんとかしてほしい、とお願いしたのだ。
母は私と同じで、実は物が捨てられない。
もらった花束の包み紙を何年も置いておくとか、わたしが着なくなったパジャマとか父が着てたTシャツとか気持ちいいと家着にしたりするのだ。
しかし、この家がこのままではいけないという使命感や、ばあちゃんの描く絵が好きだったり、絵の造形が深いため、選別する人に任命した。
いつもお掃除を手伝ってくれるおばさんにも頼んだ。このおばさんは物を捨てるエキスパートで、「これは家庭ゴミに捨てられる、第3水曜日に出して!これは、紐でまとめて〜へ持っていけばいい!」などゴミをどう捨てるかということにめちゃくちゃ詳しく、かつすぐ捨てたがる。こういう人が一人いると、頼もしいのだ。
さて、集合は家に13時。
遅めだが、母は途中でお腹が空くと集中が切れてやりたくなくなるので、昼食をとって夕方までの時間でできることにした。
母には納屋に行ってもらい、大量の絵の前に座ってもらう。
壊れている額も壊れてる物も含めて山のようにある。
捨てると決めたものは、次の日にあおぎしへ持っていくことにした。
あおぎしに前回捨てに行ったときに、額はたくさん持ってきても大丈夫と確認済み。
私は前日、のりちゃんとワークマン女子に行った際、実は小さな斧を購入していた。
これで、薪割りの精度をもう少し上げたいと思ったのだ。
それを使う時がもうやってきた!
木の箱や、要らない額の木の部分などをこれで解体して焚き付け用にすることにしよう!
最初の1、2時間は薪割りに夢中になった。
思った以上に斧が使えたのだった。
自分が薪をくべることを想像すると、好みの長さがわかったし
竹なら竹ばっかり、火付け用の木、もう少し太いもの、と分けておいた方が効率良くできるとわかってきたので、買ってきたばかりの斧をふりまわし、
薪の選別、加工に夢中だった。
その間におばさんは捨てる座布団や布団を紐で縛り、大量のウイスキーのガラス瓶を箱に詰め、とあおぎし用の準備に余念なく、わたしの車の前に不要な物がどんどん運ばれていった。
しばらくして母の様子を見に行くと、大量の絵の中で、
ばあちゃんの絵とそれ以外というふうにセクションを分けていた。
写真パネルも案外あった。じいちゃんの何かのセレモニーの時の写真、父が誰かと撮ったもの、残してあっても困るのでこれらはもう処分することになった。
次にばあちゃん以外の人が描いた絵。これらもプロの人、素人の人、ばあちゃんの絵の師匠、絵の友達、場合によっては叔母さんが学生の頃に描いたものまであった。
最終的には、母の好み、私の好みで後で選り分けることにしようとなった。
さて、ばあちゃんの絵だ。これはもう、色紙も加えると100点以上あり。
色紙でシミがいっぱいあるものなどはもう捨てましょうとなったけれど、他はなかなか力作揃いだ。
さてさて、他にも面白い物があった
そして、私の名前「ゆり」の由来になった絵
私が生まれた頃にばあちゃんが絵を習い始めていて、初めて描いた力作。じいちゃんがそれを見て「ゆりにしようと」言ったらしい。
なんと、わたしが男だったら「中(ちゅう)」という名前に決めていたというじいちゃん。母はひそかに女の子でよかった、と胸を撫で下ろしたらしい。
もし、「ちゅう」という名前だったら人生はまた大きく変わっていただろう。
他にも私の姉や妹の姿を描いた絵もいっぱい出てきた。
わたしが覚えているばあちゃんはあまり笑わない人だった。
母方のばあちゃんは、ニコニコしている印象だったが、こちらのばあちゃんはとにかく厳格な人だった。孫だろうが、他人だろうが、彼女にとってよくない、と思うことをする人には怒った。じいちゃんが亡くなってから同居をはじめた母にも。まあ、今考えてみれば、母とは嫁、姑の関係なのだから当たり前かもしれない。
テレビも歌番組やお笑いなど大嫌いだった。
わたしが小さい頃、百恵ちゃんの「あなたに女の子のいちばんたいせつな〜ものをあげるわ〜」と歌ったら
「女の子がなんて歌を歌うのか!」と怒られた記憶がある。
そんな厳格な人がこうして絵筆を持って何枚も何枚も描き続けていたモチベーションはどこにあったのだろう。
母はばあちゃんが描く絵は力強く、のびやかで大好きだという。
母のプロデュースでばあちゃんの絵の風呂敷も何枚も制作された。
ばあちゃんは90過ぎて、認知症になってから、本当によく笑うようになった。テレビの歌番組を見ながら手を叩いて歌ったりもしていた。そして、肌もどんどん艶やかになり、髪も白髪から黒くなったのだ。
これには驚いた。
自分が誰である、どんな人生を歩んできたかというアイデンティティーをすっかり忘れると、厳格だったばあちゃんは、かろやかに、おだやかになったのだ。
声も変わった。
前は低く、鋭く相手を刺すような声を出していたのに、認知症になってからは
高くて軽くて、ころころした声になった。
人の記憶ってこんなにも人格や身体に影響を与えるものなのか。
これはすごく大事なことを教えてくれている気がする。
わたしの記憶は、わたしであることでわたしを制限したり縛っていたりしないか。
わたしは忘れて軽やかに生きているか。
ばあちゃんは99歳で生涯を終えた。
あと一週間で100歳になるというところだった。
亡くなった日は終戦記念日だった。