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No.15 斜陽と芸術への昇華

何という小説のドラマ化だったか。戦場に向かう輸送船が魚雷で沈没、生き残った三人の兵士が、とある島に漂着する。

だがうち一人は波打ち際で果て、主人公も餓死寸前。「しっかりしろ。鯨の肉だ」。もう一人の仲間がどこからか手に入れた、肉にかぶりつき、辛うじて生き延びた。

そして戦後。帰国した主人公はあの鯨肉が忘れられない。久々に戦友を鯨肉屋に誘って再会。だが出された味に愕然とする。そしてすべてを了解する。あれは鯨肉ではなく死んだ仲間の肉だったのだ。

「味覚」というものは感覚に刻まれた記憶ではないか、と私は考える。過ぎ去った日々は甘美になりやすい。記憶が風化によってまろみを帯びがちなのも通例である。

かつての島豚の味が忘れられぬ、と古老たちは言う。果たして飽食時代に過去をそっくり再現できたとして、やはり島ブタは絶品だろうか。私にはどうも自信がない。

時代の前におぼろなのは記憶だけでない。人の世もまたおぼろである。

幕末〜明治期に奄美の特権層を代表した基家にも時代の波が押し寄せ、祖・俊良が築いた大地主の地位は急速に沈下、嫡男・後夫の帰省でも挽回は成らなかった。

俊夫が大学時代、あるいはバンカー時代、島に帰ってからも折につけ描いていた絵。その老成した画風をながめていると、どこかもの哀しさを感じてしまうのはどうした訳だろう。芸術を志向する者が一種内に秘めがちな退廃だろうか、あるいは斜陽の一族の冷めた眼ざし故か。

暇をみては絵筆を手放さなかった俊夫だが昭和五年、急逝。長男・俊太郎が父を失ったのは数え七歳の時で、輿に乗って悲しみの列の先頭を進んだ。

俊太郎は大島中学を卒業後、旧東京商大予科などを受験するも矢敗。東京にとどまり翌年、実家に無断でこんどは旧東京美術学校の彫刻科の門を叩いている。それはあるいは父の中に眠り、自らの中に疼いていた美の求道者たらんとする願望の氷解だったかもしれない。

だが時代はそうした脆弱さを否定、美校に進んでもほとんど通学することなく学徒動員へ。昭和十九年、入隊。旅順で海軍予備学生教育を受け、佐世保の防備隊入り。

「沖縄が戦場になっていたころ、私は佐世保から離れた山村に、陸戦隊の小隊長として飛ぶ飛行機のない予科練生をかかえて待機していた」( 『島を見直す』)。

そして敗戦。短い戦場体験ながら、神国日本の敗北は俊太郎を含め多くの若者に挫折、喪失感をもたらしたに違いない。

ほどなくして美校の研究室に海軍の復員服の俊太郎の姿があった。

俊太郎が戦争に向き合っていた時期、美校で一つの「事件」があった。若者がことごとく戦地に赴き構内が静まり返るのを待ちはかっていたように主任教授、助教授の人事が文部省に断行された。後に「東京美術学校改組」と呼ばれる鳴動である。

それは明治末から、黒田清輝ら文帝系の古参教授陣が一手に握ってきた美術界主流を、横山大観が中心になり在野の後任に総入れ替え、国家がアカデミズムにメスを入れるという変革だった。

基が復学したころ、美校の体制はすでに一新されていて彫刻科は木彫教室が平櫛田中、塑造は石井鶴三教授ー笹村草家人助教授で独自の教室を立ち上げていた。

上野の一角、美術系大学の最高学府・東京芸術大学の正門。基俊太郎は彫刻家をめざしその門を叩いたが、学徒動員で中断。戦後再びその道を極めるべく石井教室の一員になった。

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