No.22 全共闘世代の挑戦
奄美の日本復帰(1953年)からしばらく後、私は名瀬小学校に通い始めた。空襲、大火の傷痕癒えず、町はバラック小屋が大半だったが、暮らしは活気に満ち、近隣や他の島から職を求める転入者であふれかえった。
近所に徳之島からやってきた同級生M君がいた。彼の祖父母宅は精肉屋だった。ある日、遊びに誘いに行くと、恨めし気な顔で「遊びたいんば、豚に餌やらんばいかんちょ」。日に一度、餌当番が彼の役目だった。私は大いに同情し、一日彼に続いた。天秤桶に水気の多い残飯を汲んで、山裾の急坂を駆け上がった。途中、臭い、その汁がはねて閉口したが、労働は一往復で片付いた。
山の中腹にワンセ(豚小屋)があった。餌をやり終え、二人並んで眼下の名瀬の街を眺めた。M君はぼそり、「豚なんか、おらんばいいのにやぁ」。私は友の悲しみに言葉がつまった。
東京オリンピックが去ると、高度成長のひずみが表面化した。公害問題がクローズアップされ、物価高騰、農村過疎と都市過密が深刻になった。「ひずみ」に効果的に対応できない政治への苛立ちが増幅した。
ベトナム戦争、成田基地など社会運動が高揚し、学生運動の激化と実力闘争への傾斜が著しくなった。そうした学園民主化の熱気は地方にも波及し、高校にまで飛び火した。
「島ブタの否定は奄美の歴史文化の否定である」。新聞連載の基俊太郎の一言に鋭く反応したのは大島高校生・広田哲宏である。その政治意識は時代気分を多分に反映したものでもあったろう。
広田はこの時、「島には自然や風土に根ざした家畜、作物がある。それを否定して島の発展があるだろうか」と考え、「奄美が奄美らしくあるための象徴として、島ブタを意識し始めた」という。
なんという早熟さだろう。私は彼と同年だが、あの頃身に染まった島の後進性、田舎臭さを嫌悪、それらを蹴飛ばし「都会人」に脱皮することだげを夢見ていた。
広田は名瀬のネオン街・屋仁川の一角の雑貨商の倅として育ち、大島高校から東京に出て、働きながら東洋大に学んだ。政治に関心を寄せ、全共闘にのめりこむ。一方で俊太郎が放った寸鉄を温め続け、後に妻となる伊豆・神津島の女性に「島ブタ復元」の夢を語り続ける。その夢の実現に、共に働いて蓄えた三百万円を懐中に手に手を取って帰郷した。
昭和四十七年、まだ若者たちの東京志向が続く時代の南帰行である。
「奄美の在来種を見直そうー島ブタ飼育軌道に」「消えた島ブタをもう一度。原種づくりに情熱」。帰島から五年、昭和五十年代前半の新聞スクラップをめくると、広田の獅子奮迅ぶりが伝わってくる。二十八歳と若い広田が養豚を中心に果樹、野菜栽培を組み合わせた、「くばの葉農場」の構想を語り、すでに島ブタが五十頭まで増えた成果を、得々と語っている。
だが順風満帆に見えた夢は十二年後、挫折する。戻し交配によって四分の一まで島ブタの元の血に復元、百五十頭まで達しての頓挫だった。断念したのは悪臭公害を問題視され、餌の残飯集めに苦労し、価格面でも白ブタの二割安という厳しい環境の結果である。腰を痛めたことで夢への挑戦は潰えた。
最近、広田に会って養豚断念の当時の心境を再確認してみた。一時代が過ぎたせいか、「変わり者が生きていけない島の狭さ故だ」と醒めた表現だった。
情熱はいつしか色褪せる。社会を取り巻く、政治意識への変化も頓挫の理由の一つだったかもしれない。
基俊太郎の地元紙連載は、開発一辺倒の島のありように波紋を投げた。とりわけ島豚の復活の訴えに鋭く反応したのは、全共闘世代の広田哲宏だった。自ら養豚に乗り出したが挫折。病に倒れ早逝した。
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