No.10 勤皇志士とブタめし
幕末、京都には国運を託された勤皇、佐幕の志士、あるいは将軍からならず者までが雪崩れ込み、日々政治闘争を繰り広げていた。
その京で志士たちは何を食べていたか。すでに「豚一様」の行状は触れたが、塩ブタにのめり込んだのは将軍だけではなかった。
「この時期、新選組の隊士たちも豚肉を大いに食べていて、西本願寺の屯所内で豚を飼っていたという記録まで残っている」(仲村清司 『沖縄うまいもん図艦』)。
もちろん「本場」を自負する薩摩武士たちはもっと食べていたろう。
坂本龍馬の必死の説得で「薩長同盟」が成立、倒幕へと大きく踏み出す慶応二年(一八六六年)、その政治工作に西郷吉之助らと京都入りしていた薩摩藩士の一人に家老・桂久武がいた。
その日々刻々は 『上京日記』に詳しいが、龍馬が伏見で襲撃された約半月後の日記に「八ツ時分より豚飯いたさせ候」という記述があって、すでに多くの本に引用されている。
豚飯とはシマで「ぶたみし」と呼ぶ、主に北大島などで食されてきた炊き込みご飯である。三枚肉を塩抜きして細切りにしてコメと炊き込む。後は茶碗に取り分けてネギやノリをのせる。かつては正月前に塩づけにしていたブタが在庫薄になる田植え時期、取り出して「ぶたみし」にしたものだという。
久武はこの時期、「大島之住人 杜喜則」を帯同していて、薄味の京料理に飽き、杜喜則に命じて作らせ、同志たちと郷土の味を堪能したのだろうか。
久武が塩ブタに執着するようになったのは恐らくは奄美滞在経験からだろう。桜田門外の変が起きた万延元年(一八六一年)大島警護隊長として約三十人の武装兵とともに大和浜に駐屯、奄美近海に出没する外国船の警戒に当たっている。
久武は名門・日置島津の出で、日置領主・島津久風の五男だが、桂家に養子入り。長男の久徴は筆頭家老に登りつめるが、久光の公武合体論に反対し退けられ、久武が軽職の奄美赴任を強いられたのはその面当て、左遷人事と言われている。
だが有力門閥が藩風改革で次々葬られる時代の中で、その人柄から革新下級武士たちから絶大な支持を受けた。奄美滞在中には龍郷潜伏中の西郷吉之助と感激の再会。西郷が帰任後も愛加那親子に衣服を贈るなど世話を焼いた。
そして再び両者は激動の京で再会。おそらく激務の合間に旧交を温め、話は奄美の母子や塩ブタにまで及んだろう。西郷もまたブタ好きで、京の藩邸で「先生は豚骨と味噌汁を好まれ、骨をすすりて其の味を賞された」と書き留められている。島ブタの味は志士たちの舌先から脳裏まで深く染め込まれていた。
サムライとはまた哀れな観念論者ではないか。明治十年の旧正月、出陣の前夜に西郷が別れの挨拶に桂久武を訪ねてくる。挙兵に反対していた久武はただ黙すばかりだった。だが翌日、大雪の中を進軍する西郷の姿を見て全身が震え、家に駆け帰って「刀とワラジを出せ」と命じ、行く先も告げず飛び出した。その年の秋、最後の砦の城山で銃弾を浴び戦死する。
ようやく武士の時代が終わった。
藩元・鹿児島と奄美とは塩豚の私的交易ルートも。「猿渡文書」は幕末、沖永良部代官所検査役・猿渡定右衛門が与論島の島娘との間に出来た子宝いらい、本家との交流が生まれ、しきりに塩豚が進呈されたことが記録されている。
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